今年の1月2日にPS版がリリースされ、そこからワシの「鳴潮」プレイが始まった訳やが…
もう、そこから翔ぶ鳥を落とす勢いで、今や「はらがみさま」や「崩壊:スターレイル」のmiHoYo作品を隅に追いやる位のプレイ時間占有率を誇る「鳴潮」。
何故そこ迄ゲーム爺を虜にしたのか…?
改めて考えてみた。
先ずはエエ意味で完全無欠なオリジナリティー溢れる作品では「鳴潮」がなかった事。
miHoYoが日本の嘗てのJRPGやアニメーションを取り入れたゲーム(ゼルダの伝説)にリスペクトした様に、「鳴潮」もまた昨今のオープンワールドRPGやMMORPGのベースと成った「はらがみさま」へのリスペクトで…
基本的なシステム等に変なオリジナリティーや自己満なアレンジを加えへんと、随所に「はらがみさま」で云うトコの…
や、「崩壊:スターレイル」の要素を取り入れてる事を感じさせる作品にしたところ。
悪く云うてまえば「パクり」や「二番煎じ」とも云えなくはないねんけど…
そこへの粗悪さは「鳴潮」には感じれへんかったのが、ワシ個人的には好かったのかも知らん。
物真似でもやっぱり粗悪な物真似って嫌われるし、本家に失礼やん?
その感覚と似てる。
で、随所に「はらがみさま」や「崩壊:スターレイル」に置き換えて考えられる、取っ付き易さを兼ね備えながら、只のパクり、猿真似要素だけじゃない「鳴潮」らしさみたいなモンも在って…
そのバランス?が個人的には絶妙な具合で、日に日にプレイする度にのめり込んでった…
みたいな感じ?
「鳴潮」を初めてプレイした時のブログにも描いたが、本家から7ヶ月遅れてPS版がリリースされたにも関わらず…
その7ヶ月間、気には成ってたモノの「鳴潮」の予備知識を全く入れへんと、PS版リリースと同時にプレイを始めたワシ。
予備知識が全くない状態で始めたから最初は全く何が何なのか?とか、アイテムの名称と効果が判らんのと同じ様に、何しても「これは何?」っちゅう展開が続いてた。
今想えば、それが逆に善かったかも知らん。
少しずつ判って行く事の愉しさ、基本も判らんかったワシが徐々にやって行く内に成長して行く感じ?
これが実に愉しく癖に成る(笑)
「鳴潮」系のネタを扱うたYouTubeの動画がPS版リリース後に一気に増えたんやが…
その中でワシと同じ様に全く予備知識とか入れずに「鳴潮」をプレイし始め、試行錯誤を繰り返し、徐々に判って行くプレイヤーの成長みたいなんを感じる、「鳴潮」初心者動画みたいなんが在って…
それを観ただけで勝手に親近感湧いたり、共感してたワシ。
全く判らんかったモンが徐々に判って行く、それも自身でプレイしながら判る事で感じれる悦びってあるよな?
これが個人的に感じる「鳴潮」の中毒性の源。
携帯のアプリでの評価を観ても…
miHoYo作品の「はらがみさま」が4.2、「崩壊:スターレイル」が4.1、「ゼンレスゾーンゼロ」が同じく4.1に対して…



「鳴潮」は本家を凌ぐ4.6。

まぁ、リリースされてからの期間差もあるが、本家を超える評価を獲てる「鳴潮」。
中には「神ゲー」とのコメントが多く観られるが…
やっぱりそこは個人的にベースの「はらがみさま」在ってこその「鳴潮」やと想うから、この現在のオープンワールドRPG、MMORPGの基本形システムを創った「はらがみさま」こそワシは「神ゲー」やと想うし、そこの部分では適わんわな?
オモロいのは疑う余地はないし、否定する気も全くない「鳴潮」。
昨今、簡単に「神」を遣い過ぎてると想いません?
何処ぞのワシが嫌いなプロレスラーが云うてたけど、「奇跡ってそう何回も起きひんから奇跡なんや」っちゅう台詞やないけど…
世の中にそんなアチコチ頻繁に「神」と冠が付くモノが在ってエエモンやろか?と。
至る処に「神」が存在してたらあり難みも稀少価値さも失くなってもうて、言葉自体に値打ち失くなるやん?
人各々に「神ゲー」は在ってもエエとは想うが、人の数だけ「神ゲー」が在るのも如何なモンか…と。
安易に、安く「神」ワードを遣い過ぎやと想いませんか?
確かに「鳴潮」は来てるけど、「神ゲー」にするにはまだまだ速いと想う、ゲーム爺でした。