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みどりを求めて!

野や山、森が発する自然のエネルギーを全身に受け
二度と来ない今日が、素晴らしい一日であるように!

飛騨から北アルプスの山へ

2014-06-16 15:40:32 | その他

 

飛騨高山から新穂高へ    

昔の町のとうり 土産ものの店 地酒や飛騨地方の漬物など多くの店が軒を連ねる、上三之町にて

宮川に架かる赤橋  川には鯉が沢山泳いでいます  冬になればこの鯉達を暖かい場所へトラックで移動する

 様子がテレビでよく見られます。

飛騨の里

 ハサ小(稲架け)小屋

  山沿いの白川郷北部は日照時間が短く、また秋から冬の移り変わりが早い地域です。そのため

 秋に刈り取った稲や稗は屋根のハサ小屋にかけて、乾燥しました。

 壁のない下の部分に ハサ をわたして収穫物を乾燥し、上の壁で囲まれた部分は作業場や物置として

 使用しました。  こうした小屋も白川らしく、屋根は合掌造りの民家と同じ造りになっています

          

  

  高山から新穂高に行き 新穂高ロープウエイに乗る 西穂高口駅 (2156m)

 

  傘ヶ岳を眞近に (2897、5m)

 

  北アルプスの山々

 

 西穂高岳 

1泊2日の家族旅行でした。

        大阪へ   

 

 

 

 

 

 


高野街道  最終の章

2014-06-08 21:34:29 | その他

堺から高野山に向かってのウオーキング、 信仰心があっての街道歩きではないので

昔の人のような心境にはなっていないだろう   [前の続き学文路駅からの出発です]

  駅を下りると 下から老夫人が上がってきました。  ここにはエスカレータが無いのです。

  私も急な下りで気をつけなければと 手すりをシッカリ持ちました。 これも修業でしょうか

  道標があった 最初から道は登りになっている  山は登るものだから・・・

 石堂丸物語の  苅菅堂

 石堂丸とは聞いたことがある様な

  石堂丸の父は世の無常を感じ妻子を捨て 高野山に入って出家する。

  後、石堂丸は母とともに父を訪ねて流浪し、高野山にたどりついたが 女人禁制のため 母は

  麓にとどまり、石堂丸のみ父に会う。 しかし父は我が子と知りつつ名のらず帰す。

  待ちこがれた母は病死し、故郷にあった姉も亡くなり、そこで石堂丸は高野山に再び

  登って出家する と云う筋。  この物語は平家物語や謡曲につくられた。

ネコちゃん 道中気をつけて! と言って見送ってくれました。 

道路は街道という感じでなく舗装したきれいな所が多くありました。

 

 高野山女人堂まで

 

土地の人が言っていました

この祠は京都の祇園から持ってきた 頭が賢くなる 有り難い神様だからお参りして行きなさい。

私は深く深く、お願いしたのは言うまでもありません。

 

 

 千石橋 下の川は足を入れたいような清流でした。

 きつい坂道が 延々とつづきます 

 

    

本陣 中屋旅館

 案内板から

江戸時代に栄えた東高野海道、河根の宿の本陣で 身分のある人たちの 宿泊休憩所となり 

今に残る乳門と上段の間は その頃の遺構としては貴重な存在である。

 本当の登り坂は、これからですね  

  この時代 筆とすずり 何処に行くのも持っていたのですね  弘法太師が村人に水を汲んできて欲しいと

頼むと 下の谷までいかなければ 水が無いと云う事だったので、   弘法太師が持っていた杖を地面に突くと

水が湧き出たところです。   

 

しばらく (1時間以上)歩くと   日本最後の 「高野の仇討ち」 という場所がありました

案内板がありましたので簡単に要訳してみます。

明治4年(1887)2がつ30日に起こった

播州赤穂で藩の執政、森主税、参政、村上真輔が 自称勤王派の足軽、西川邦治ら13人に暗殺された。

この年、坂下門外の、老中安藤正信襲撃 寺田屋騒動、将軍家茂と皇女和宮の婚儀など、崩れ行く幕藩体制をめぐって

国中の動揺が続いた。

2万石の小藩、赤穂の森家が時代の波に揺さぶられるのも当然、高野山道の死闘は 村上真輔の遺児が西川一味に復讐した

「仇討ち」であった  以下省略

 

   ここを過ぎ、また、てくてく歩きます

人の姿はあまり見かけません。空家が多いようです。  今の日本の現状でしょうか。

白藤小学校

学校の周囲はきれいに清掃され学校は開いているようにみれるのですが、  昼過ぎなのに子供の声は全然きこえない。 

 

中を覗くと懐かしい ○年○組という札が架かっている。  板のローカはきれいに磨かれている 、でも 

今この教室には、いつも子供の姿はいないのではないだろうか? 何人かいた子供も本校に統一されて・・・

 極楽橋  南海高野線の電車はここまで  あとはケーブルで高野山口駅へ

 

  極楽橋を渡って最後の登り 不動坂に入ります

  ここまでくれば高野山はもうすぐ!

 

  学文路駅を出発してから6時間余り、やっと高野山女人堂につきました

 

  余談

途中、神谷の集会所で腰の曲がったおばあちゃんが 下から急な坂を登ってきました

この辺りの事は詳しく、近道なども教えてくれたり持っていたお菓子を分けてくれたり・・・

話が好きでいろいろ話してくれましたが、普段は山の集落で話し相手も少ないのかもしれません。

 ただ、こちらの言うことは耳が悪くて聞こえないようでした。

 時間があれば話はいっぱい聞いてあげたかったのですが,こちらもまだ女人堂に向かう途中・・・

 さようなら  いつまでも お元気で!  (こちらの方が先かも)       

        今までのウオークでもその土地のおじいちゃん、おばあちゃん達と話をするの好きで、楽しみの一つです。 

                      これで全六回の高野街道をおわります。

                             これからも楽しく元気で過ごそう   

                                合掌