グローバルファンタジストの好奇心

また見つかった!
何が?
永遠が、海と溶け合う太陽が!
(アルチュール・ランボー「地獄の季節」より)

ワインセミナー体験談 Part1

2006-05-31 16:58:14 | グルメ
ワインセミナーなど珍しくもないだろうが、なかなかその機会もなかった。最近、そのひとつ、南青山のとあるサロンで開催中の「ワインで巡るイタリアの旅」に出席することになったので、ワインなどズブの素人だが、ちょっとレポートしてみたい。
西麻布のワインバー「ヴィーノ デッラ パーチェ」の支配人兼ソムリエの内藤和雄氏によるイタリアワインのセミナーである。第一回はピエモンテ地方、第二回はトスカナ地方を特集していた。ワインの魅力はなんといっても、色と香りのデリカシーに尽きるのだと実感した。
まず、第一回のピエモンテ地方のワイン特集:
ここは冬季オリンピックで沸いたトリノを中心にしたワインの産地。
まずGavi "Etichetta Oro" '04 Morgassi Superiore をテイスティング。緑がかったレモンイエロー、りんご、洋ナシなど甘みのないフルーツのニュアンスだが、グラスを回すとメロンシャーベットのような香りも感じられる。フレッシュで溌剌とした酸味がありドライな味わい。生牡蠣などの貝類がよく合いそうだ。
次に、Barbera D'Alba '03 Silvio Grasso 濃いルビー色でリムは紫の反射。ベリーが主体だがスパイスもあり、鉄のニュアンスも感じられる。まろやかできめ細やかな味わいなので仔羊のローストや鶏肉のトマト煮などのお供に。内藤先生は独創的な発想を好まれる自由人なので、「ギョウザなんか良いですよ」と場の雰囲気をほぐしてくれた!
いよいよBarolo '99 Aurelio Settimo ガーネット色でリムはオレンジ、透明感に感嘆。土や森の下草、なめし皮のアロマの中にクローブなどスパイスのニュアンス。素晴らしいボリューム感と深い味わい。今飲むのであればイベリコ豚のローストにバルサミコと蜂蜜風味のソース添えなど相性がよさそうだ。熟成させるならもっとクラシックなソースの牛肉のお料理と素晴らしいマリアージュが期待できそう。
最後にデザートワインMoscato D'Asti "Su Reimond" '03 Cascina Palazzoマスカットのワインは明るいイエロー、熟れた洋梨に若いユーカリやヨモギのニュアンス。蜂蜜のような甘さは、アーモンドゼリーやシャーベットにバジリコなどを加えたデザートに供したい。。。。。
以上そこはかとなく夢の広がるひとときでした。

ワインブームはアジアへ広がるか

2006-05-31 15:28:46 | グルメ
日本では、高度成長時代のライフスタイルのターニングポイントを契機に起こった第1次ワインブーム(1972年頃~)に始まり、低価格ワインや輸入ワインブーム、ボージョレ・ヌーボーブームを経て、本格的なワインへの関心と情報の拡大による第5次ワインブーム(1994年~)の後、ワインを巡る動きはますます多様化している。1996年の社団法人日本ソムリエ協会によるワインエキスパート呼称資格認定試験の導入は、レストランでワインをサービスするソムリエ資格、ワインの輸入・販売にかかわるワインアドバイザー資格とは別に、一般のワイン好きの消費者が受けられる呼称資格試験として好事家のワイン熱を煽る結果となったようだ。ワインにうるさいオジサンが増え、最近は若い女性がグラスを片手にウンチクを傾ける図も珍しくなくなった。健康ブームとリンクして、ポリフェノール入りのワインへの傾倒は当分続きそうである。
以前はワインといえばフランスだったが、だんだんイタリア、スペイン、カリフォルニア、チリ、アルゼンチン、オーストラリアなど、様々な国のワインが紹介されて選択肢が大きく広がっている。また、週刊モーニング連載のコミック「神の雫」で、大衆化が進んだ。レストランやワインバーでワインを語る人口が増え、ワインセミナーも日常化している。
アジア、特に中国では最近の経済成長に伴う富裕層の成長を受け、ワイン需要が急激に伸びているそうだ。日本に続いて中国が、あるいはアジアの国々がワインの有力な消費国となり、ワイン市場のグローバリゼーションが広がっていくかどうか楽しみである。

ユダの福音書を追え 原題「The Lost Gospel」

2006-05-30 13:39:54 | 本と雑誌
裏切り者の代名詞ユダ。これに反論する文書が出た。ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」が話題になっている折も折、さらにキリスト教の教義に一石を投じる著書「ユダの福音書を追え」(日経ナショナルジオグラフィック社刊 ハーバート・クロス二―著 原題The Lost Gospel)である。
ユダはこれまで多くのキリスト教正典や歴史書によって「ナザレのイエスを裏切って金貨30枚で売り渡し、その後自責の念にかられてエルサレムの郊外アケルダマで首をつって自殺した」ということになっていた。しかし、この定説に異論を唱える古代書物の存在の証拠が発見された。「ユダの福音書」である。それによると、ユダはイエスから高い信頼を得ていた使徒の一人であり、イエス自身が肉体の束縛からのがれるたユダに「裏切り」を命じたというのだ。
1970年代後半、エジプトの砂漠でのナイル河の岸辺近くで、地元の農民がある洞穴を見つけた。初期キリスト教時代、こうした洞穴は死者を埋葬する場所としてよく利用されたため、農民たちは古代の金や宝石など売れるものを探しに中に入った。財宝の変わりに見つかったのは、おびただしい人骨と崩れかけた石灰岩の箱で、中から革張りの謎めいた書物が出てきた。それは古代エジプトのパピルス紙でできていた。「ユダの福音書」を含むコプト語の写本であった。
この古代の文書は長い間古物商の間で世界中を転々とし、20年以上経った2000年、スイスの古美術商のフリーだ・ヌスバーガー=チャコスがアメリカのエール大学に鑑定を依頼し、放射性炭素年代測定によって、本物と鑑定されたのだった。それによると、95%の確率で、革の装丁と写本の断片は、紀元220~340年の間のものだということである。
ユダの福音書とは、紀元150年ごろ、キリスト教グノーシス派によって書かれた新約聖書外典―新約聖書に正典として含まれていないが残存する福音書や使徒言行録、黙示録など―のひとつ。作者は分かっていない。伝承された物語をグノーシス主義の観点からイエスの神性について著述している。原書は当時のローマ帝国における文化と教化の共通語であったギリシャ語でかかれた。150年ごろと推定される。その後紀元200年ごろまでの間に、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4書が正典福音書として認められるようになった。180年ごろ、リヨン司教のエイレナイオスがグノーシス派の教えを批判し、「ユダの福音書」を偽りの歴史と非難した。しかしグノーシス派の信者は教えを継承して280年から300年代に、コプト語で写本を作った。それが20世紀末の大発見「ユダの福音書」なのである。
初期キリスト教グノーシス派は、後のキリスト教と異なり女性が重要な役割を担い、神性を認められていた。特にマグダラのマリアである。今日もてはやされている「ダ・ヴィンチ・コード」で話題になっているシオン修道会と同じく、グノーシス派でも、救世主イエスの「連れ」はマグダラのマリアであり、彼女をどの弟子よりも愛ししばしば接吻した、また、復活したイエスを最初に見たのはマグダラのマリアであったと、多くのグノーシス派の文書が記述している。しかしその後、キリスト教世界を合意された文献に従って機能するひとつの統一体にしようとするエイレナイオス司教によって、グノーシス派は異端とされた。その文書は弾圧され特に「ユダの福音書」は偽りの書物とされ歴史から葬られてしまった。
2000年にこの写本が本物であると確認されて以降、スイスのジュネーブ大学のカッセッル教授らによって保存状態の悪い古代文書のコプト語の解読が進められ2004年ほぼ完了した。「ユダの福音書」がキリスト教に投げかける問題は、ユダの裏切りの意味という問題だけでなく、父としての神とイエスの関係、つまり、イエスが父と同時に存在する父の一部なのか、あるいは地上に生れ落ちた神の子なのか、という根本的な問題、さらには、マグダラのマリアの存在の意味の問題がある。混沌とした初期キリスト教が正統という名のもとに統一された現代のキリスト教カトリックへ到る間に切り捨てられ、弾圧され、歴史のもくずと消えた数々の教義のうちのひとつが、今、我々に投げかける問いかけは何なのか。所詮宗教、信じるも信じないも個人の自由だが、世界の歴史と人間の心の謎だけは深まっていくような気がする。

見る人への問いかけとしての現代美術

2006-05-29 12:04:10 | 美術
某自治体知事が、「現代美術はくずだ」と発言して以来、ずっと考えていた。現代美術とは何か。
確かに、ガラクタを並べていると言われれば、現象的にはそのような見方をする人がいても不思議ではないかも知れない。だが、本質的に芸術というものは人間の実生活に役に立つものではない精神活動であるという点から言って、あらゆるアートはガラクタであり、興味のない人にとっては無に等しい。現代美術もまた然りである。人間の生活に役立つ芸術の部分は、「工芸」といったり、「デザイン」と呼ばれる。
現代美術が近代美術やそれ以前の美術と最も違う点は、日常のありとあらゆる場面がアートになりうること、また、今を生きる人間が主眼であり、神や伝説や美しく脚色された現実は直接的に対象にならないという点ではないだろうか。そのため、日常のありふれた物事が突如視点を変えて突きつけられる。それは見る者の存在のスタンスを問うものになる。言い換えれば、見る者の存在が問われているのだ。
すなわち、現代美術がおしなべてガラクタに見えると公言する人物は、自分の観念が無に帰していないかどうか、よく胸に手を当てて考えるべきである。

雨降りの思考

2006-05-26 17:28:30 | 独り言
雨がしとしと降れば、思い出はしとしとにじむ・・・
しょうがない雨の日はしょうがない・・・
そんな昔の歌のフレーズが脳裏から離れないお天気。不調です。考えがまとまらない。
ずっと現代美術の意味について考えていました。焦点が定まらない中で、ひとつ、ヒントが生まれました。
「天上のシェリー 西野達展」(於メゾンエルメスフォーラム 6/2~8/31) 
視点を変えること・・・発想を転換すること・・・いつも見ている風景を違えて見せる魔法・・・
また来週考えます。週末は考え事には不向きな環境にあるので。
ではよい週末を!

人間の条件

2006-05-24 16:09:05 | ニュース
東京都現代美術館で「カルティエ現代美術財団コレクション展」(4/22~7/2)が開かれている。このオープニングセレモニーで日仏関係に多少なりとも影響を及ぼす懸念を否定できない事件が起きたことを、どれだけの日本国民が知っているだろうか。フランスでは、有力紙Le Figaro紙やLibération紙が『日本で開催されている“カルティエ現代美術財団コレクション展”のオープニングパーティで、4月20日、石原慎太郎東京都知事が「現代美術はくずのようなものだ」「日本の美術は西洋のものより優れている」と発言した』と4月21日(金曜)に書き立てたから、フランス人の多くは知っているはずだ。二国間関係にかかわるこのような問題については、国民は知る権利がある。また、知っておくべきだ。特に、主催者のひとつ、日本経済新聞が知らなかったわけが無い。口をつぐんでいるのは卑怯だと思う。陰でこっそり悪口を言ったのではない、カルティエ財団の責任者やパリの同美術館館長でキュレーターのエルベ・シャンデス氏らの面前で、東京都現代美術館側の主催者挨拶として言い放ったのである。しかも、同都知事は、去年10月の「フランス語は計算もできない非理論的言語で国際的言語になリ得ない」との暴言でいまだに関係者から訴訟を受けて係争中の身である。
北朝鮮との関係は言うに及ばず、日米、日中、日韓、日露・・・ありとあらゆる国の関係は、今微妙な時期にある。人と人との関係と同様に国際関係も、永年の信頼関係が、または温かい友情が、たったひとつの事件、たった一言の言葉であっという間にひびが入ってしまう事は、誰もが経験していることである。「オリンピックを誘致しようとしているときに・・・」などと打算的なジョークはさておき、人間は言っていい事と悪い事がある。政治的立場にいる人間の資質の最低条件ではないだろうか。

映画ダ・ヴィンチ・コード 見ましたが・・・

2006-05-23 14:17:56 | 映画
映画ダ・ヴィンチ・コード、ついに封切り、ということで、行ってきました!
カンヌ映画祭でブーイングも出たという前評判だったので、あまり期待しないで行きましたが・・・やはり、個人的にあんまり。
まず脚本が、あまりに原作どおりでつまらない。芸が無いという一言に尽きる。
次にキャスティング、トム・ハンクスのロン毛もさることながら、太り気味なのが×。ハーバード教授ってああいうタイプなのかと疑問、知性のひらめきはどこに??ソフィー役の女優さん(名前忘れました、失礼)は可愛すぎて私の趣味ではありません。原作では黒いパンツにベージュのセーターを知的に着こなしたフランス女性ということで、ソフィスティケートされた大人っぽいキャリアウーマンだったはずが、センチメンタルな女の子という雰囲気になった。
原作のラストは、ラングドン教授とソフィの間に愛が芽生えるとのことなのですが、それは、このキャスティングのせいかカットされておりました。ま、原作のこのお手軽なエンディングも陳腐であんまり評価は高くなかったので、それはそれでよろしいのでしょうけれど、原作のストーリーの中では、男女の愛情はイエスの時代から大切なものであり、それによって男女がお互いに尊重する世界が構築されるという主張があるとすると、ひとつの要素が欠如したことになる。
原作を読んでいないと意味が分かりにくいという説もあり、原作を読むと、「マンマじゃん」ということになり・・・映画化は難しいですね。ともあれ、内幕、特にシオン修道会はスポンサーになっているのかどうか、知りたいところではあります。

マリ・クレール 愛の議論

2006-05-23 13:41:54 | 本と雑誌
5月20日に女性月刊誌「マリ・クレール」誌編集長、生駒芳子氏の講演会が都内で行われた。同誌は、05年度は年間を通して「赤ちゃんと子供の命を守ろう」という骨子の「ホワイト・キャンペーン」を繰り広げた。今年は「Loveキャンペーン」を展開中。瀬戸内寂聴氏や宮沢りえ氏の対談を始め、各界有名人のインタビューやトークショーで、愛についての議論を進めている。生駒氏が「愛」をテーマに選んだきっかけは幾つかあるが、その一つは韓流ブームだという。「日本女性は愛と優しさに飢えている」と直感したそうだ。感情のストレートな表現を良しとしない日本独特の風土が、特に男女の愛情問題を社会の片隅に追いやっているようなら、ヒューマニズムの観点からみて問題である。
新宿紀伊国屋ホールでの作家石田衣良氏と角田光代氏のトークショーの際、生駒氏の発言は出席者に感銘を与えたそうだ。「フランスでもイタリアでも、みな死ぬまで恋をしたいといいますね。仕事を早めに切り上げて、家に帰ってからまたおしゃれをして街に出て行く。そこからが本当の自分の時間で、生きる楽しみなのです。そういう暮らしが当たり前になっているのは素敵ですね。」
仕事が生活の中心で、遅くまで残業をこなし、家に帰れば食事もそこそこに眠るだけの生活が大多数の日本のサラリーマンの姿で、そのような夫を支え、家事と育児と子供の教育と家庭経済のすべてをとりしきるために専業主婦となって家庭を守る女性が多く、それでいて夫婦の会話すらほとんど無い私生活の実情の中では、少子化問題という笑えない現実はおろか、働く人間の明日への活力もイマジネーションも枯渇していく。人はパンのみにて生きるものにあらず、なのである。
女性誌のヒューマニズム宣言の行方を注目したい。

現役高校生に科学技術の最先端教育を

2006-05-19 14:15:39 | 教育
「格差」という言葉が昨今のキーワードになっている。地域格差、賃金格差から、負け組・勝ち組などという言葉まで登場し、社会の中のあらゆる格差の是非が問われているようだ。仕事の量と質によって適正な報酬を、という意見と、実力を発揮する機会の均等がなければ報酬格差は不公平だという意見。格差の是正か悪平等の是正か。様々な意見が飛び交う中、教育の差別化・特化を目指す動きが出てきた。
日本の教育水準は世界の中で低下しつつあるという。その根拠は諸説あって判断は難しいが、近頃の子供たちを見ていると、読書量が昔より減っていて、言語力に欠ける子が多いという議論は成り立つと思う。テレビやゲームなど安易で受動的な娯楽が増え、自分の頭で考えることが減ったのだ。少子化によって将来の労働力の量が低下する中、頭脳集団の質まで低下して行くとなれば日本の国力の弱化は避けられまい。
国土が狭く、資源の乏しい日本の国が発展し我々国民の生活が豊かになるためには、頭脳労働によるものづくりしかありえない。科学技術を製品にして売る、または優れたデザイン、芸術を売ることである。デザイン・芸術には才能が必要だが、理論に基づく技術なら、努力によって創造することができる。
優秀な人材を育成するために、大学と企業が連携する産学協同という試みがあるが、さらに年齢を下げて、高校生の理系離れをくいとめる教育サービスが始まった。大学と現役高校生対象塾の連携である。東京と神奈川を拠点に展開する早稲田塾が、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスと東京工業大学との共同で生命科学、ロボット光学、IT技術の研究に現役高校生を参加させるプロジェクトを立ち上げた。「スーパーサイエンスプログラム」「スーパーロボティクスプログラム」「スーパーITプログラム」である。
塾が大学教授に特別授業を依頼するのは珍しくないが、このプロジェクトの画期的な事は、塾生意外にも門戸を開放して一般公募による試験選抜をすることと、受講料が無料であること、大学での学問領域を先取りする基礎講義を大学キャンパスや研究施設で開講することだ。いうなればエリート高校生へのプレエデュケーション。日本の未来が見えてくるだろうか、注目に値する。

少女漫画と能の間に ―創作能「ガラスの仮面」―

2006-05-18 17:32:50 | 演劇・舞踊
中央にしつらえられた作り物(据え道具)は、梅ノ木に見立てて薄茶の布で囲った山のみ。その上にルビーのように光る梅の花が枝垂れている。舞台後ろは一面のスクリーンで、綾模様のモチーフが深いブルーの中に浮かび上がっていた。5月15、16日、ル・テアトル銀座の現代演劇用のシンプルな舞台で、新作能「ガラスの仮面」が演じられた。2月に国立能楽堂で初演されたものの再演だった。
静まった舞台に一人登場し、「ガラスの仮面」の物語を語るのは、月影千草役の宝塚歌劇団の邦なつき。その後、西の者と東の者による環境破壊を題材にした狂言が演じられ、仏師が登場していよいよ阿古夜(紅天女)との恋物語が演じられる。
1976年からなんと30年も連載している「ガラスの仮面」はまだ完結しておらず、劇中劇の「阿古夜(紅天女)と仏師の一真の物語」はまだ漫画の中では描かれていない。能のほうが原作より早くリリースした、というわけである。「ガラスの仮面」は登場人物も多く、シテとワキだけの能でどのように表現するのか不思議に思っていたが、演出によってさらりと処理されていた。要するに、導入部の月影千草の語りで「ガラスの仮面」のストーリーが、縦軸の能と地謡で「自然(神性)と人間の愛と掟」が、紡がれていくのだった。能には狂言がついているので、その部分を横軸として「地球と人間の共存」が付け加えられていた。ただ、私の個人的意見としては、環境問題を狂言にして良いものかどうか疑問だ。二人の狂言師が、洪水と津波に襲われた二つの国を代表して、とまどいながら協力して助け合うのだが、そのやりとりと動作が可笑しいからといって、笑っていいのかどうか、最近の津波災害が記憶に新しいだけに、会場の笑いもまばらだったような気がする。
そもそも、天女と仏師の不毛の恋と、地球環境問題にリンクしたヒューマニズムを掛け合わせることに意味があるのかどうか考えさせられた。人間愛と恋愛は、同じく愛が付いているけれども、別物ではないだろうか。恋愛は、理性と価値判断を凌駕する。愛すれば愛するほど人格の殻を破り相手と一体になろうともがいて求め合い、傷つけあうものだ。1+1=1を求める。それに対し、ヒューマニズムは、「貴方にないものが私のところにありますからあげますね、仲良く助け合いましょう」というもので、お互いを求め合うというものではないのだ。
ともあれ、梅若六郎の紅天女は完成された美しさを見せ、福王和幸の清々しい美男子ぶりはため息を誘った。ファンになってしまおう! 脚本は宝塚歌劇団特別顧問の植田紳爾、「ベルサイユのばら」を宝塚歌劇にした演出家である。これで謎は解けた。漫画と能の間には、宝塚があったのだ。なーるほどね、と納得の舞台だった。いろいろ勉強になりました。

演劇は抽象画に似ている???

2006-05-17 10:36:09 | 演劇・舞踊
昨日 新作能「ガラスの仮面」を ル・テアトル・銀座に見に行った。久々の観劇でまずまずの感激!?
あとでゆっくり感想を書くことにして、帰りの地下鉄で思ったこと。演劇の魅力は抽象画に似ている。
映画の写実的リアリティや、文学のデッサン的創造の世界に比較すると、限られた空間で限られた人数で表現される演劇は見る者の想像力で読み進めるという意味で、抽象画に似ている。これ、私の素人的感覚です。
今後みたい演劇としては、ダンス・ミュージカル「クラリモンド」。フランスの作家テオフィル・ゴーチェの18世紀ゴシック・ロマン『クラリモンド』を、ダンス・ミュージカル化したものです。あらすじは、絶世の美女吸血鬼に魅惑される純潔な神学生。昼は謹厳な司祭で、夜は妖女との愛欲におぼれる遊蕩児に変身する青年僧の奇妙な二重生活を描く、というもの。フランス語の原題は「吸血女の恋」なのだが、日本ではラフカディオ・ハーンの英訳から、芥川龍之介と久米正雄によって「クラリモンド」の題名で日本語に訳された。
ダンスの躍動する肉体美と精神と官能の葛藤はぴったりで、ミュージカルにするのは良い狙いかも知れない。宗教を体現する僧侶と、裏の世界を表現する悪魔は、今流行りのダ・ヴィンチ・コードにも底流にあるように、特に西洋では永遠のテーマなのだろう。
梅雨空のなか、精神も湿りがちだが、めげずに頑張らなくちゃ!

今年のマリンルックを着こなす

2006-05-16 12:29:00 | 日常生活
透明な日差しの中で映える白とブルー。この時期夏を連想するマリンルックが今シーズンのモードに再登場している。真夏に着るとさもさもという感じでイケテナイ。夏を待つ今だから素敵なのだ。春の始めのピンクは可愛いが、桜が咲く頃のピンクは暑苦しいのと同じ。季節は先取りが基本だ。だから足元をサンダルにするのは野暮ったい。紺のパンプスを素足に履いて、パリジェンヌを真似てみる。
マリンルックのスタンダードというと白とブルーの縞やトリコロールを連想するが、今年のモードのマリンは基本を凌駕してさらに工夫を凝らす。シルエットはあくまで柔らかく優雅に、質感も軽くソフィスティケートな面持ち。ゴールドや黒と組み合わせ、ゴージャスなイメージで着こなすのが今年流。大人のマリンを試してみよう。

20世紀の巨匠 ニキ・ド・サンファル回顧展

2006-05-15 15:11:44 | 美術
ニキ・ド・サンファル(Niki de Saint Phalle)というアーティストはパリのポンピドーセンターの前のド派手なインスタレーションで有名だ。 フランス人だがフランス人としては聞きなれない名前だし、作品もフランスっぽくないから、どこかの国から来た人かと勝手に思っていた。しかしれっきとした生粋の(?!)フランス人らしい。本名はCatherine Marie-Agnes Fal de Saint Phalleというなにやら由緒正しそうなお名前。女優をしていたらしく、なにも美術関連の教育は受けていないそうだ。25歳の頃、マドリッドを旅行してガウディの建築「理想宮殿」に出会い、神の啓示のごとく自分の製作の未来を予感し突如1957年に絵を描き始め、自分の彫刻公園の設計を決心するというから天才は違う。絵といっても、絵の具の袋を埋め込んだ石膏レリーフを本物のライフルで撃ち、絵の具を飛び散らせて仕上げるという手法の「射撃絵画」。しかし見ているとパワフルで、しかも一貫したスタイルを持ち、絵画でも彫刻でもオブジェでも、一目見れば彼女の作品とわかるアイデンティティを確立していた。2002年に亡くなって以降日本初の回顧展が東京八重洲の大丸ミュージアムで開かれている。すでにスタンダードとなった現代アートの巨匠の世界に浸って20世紀を思い出そうではないか。

漫画が創作能に 「紅天女 (くれないてんにょ) 」

2006-05-12 17:17:20 | 演劇・舞踊
今年1月に渡邊守章演出による「空中庭園」の創作能が公演されたのは記憶に新しい。ポール・クローデルによる創作能『薔薇の名-長谷寺の牡丹』である。今度は漫画「ガラスの仮面」が創作能「紅天女 (くれないてんにょ) 」として上演されることになった。新物好きの私としては見逃せない。少女漫画の大ベストセラー美内すずえ作『ガラスの仮面』の中で、至高の演劇・幻の名作として描かれている劇中劇を能に仕立て上げたものとのこと。演出・能本補綴:梅若六郎 出演:阿古夜・紅天女役の梅若六郎氏他
漫画で描かれた衣装を能衣装に映したという面や装束も幻想的で、早速16日に見に行くことにした。今から楽しみだ。

再び村山密さんの展覧会

2006-05-11 15:37:10 | 美術
パリ在住の画家 村山密(むらやましずか)さんの絵が好きだと、以前にも書いた。リトグラフも何枚か持っているほど。
パリのセーヌ川に面したアトリエ兼ご自宅にお邪魔したこともある。日本人にしては大柄な体躯、紳士的な仕草、穏やかな風貌・・・ファンというより熱愛者(!)に近い。その絵は人柄を映して優しく甘くせつない。ご自宅のベランダから描いた朝のセーヌ河の絵などは、霧を描くとこうなるのか、と思えるほどの柔らかさだ。良く見ると所々にピンクや赤の点描が隠されている。村山さんのピンクが好きだ。村山さんの描くパリが好きだ。村山さんの見る景色が好きだ。
その大好きな村山さんが、今年11月に米寿(88歳)を迎える。お歳になってしまった。パリではすでに名声の固まった村山さんだが、日本では余り展覧会をなさらないのが残念だった。それが今年、米寿記念の回顧展を日本で巡回するというのでずっと楽しみにしている。隈なくサーチしていたら、茨城県近代美術館のサイトで、今年12月2日から来年1月14日まで同美術館で村山密氏の回顧展が開かれるというのを発見した。
都内でも展覧会をやるはずだ。めげずにリサーチをつづけるつもりだ。村山密ファン大集合!