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12月21日で喜寿になりました。

まだまだ、元気で働いています。朝練は毎朝5時から、約40分歩きます。

長崎慕情22 長崎県立瓊浦中学校・出陣歌・元気振興歌

2005-10-01 15:07:32 | Weblog
出 陣 歌

1 ああ東の空高く
日毎に冱ゆる暁の
星の黙示にぬかずきて
磨くや寒し剣太刀

2 風蕭々と易水の
流れは寒し月高し
三軍動き旗かえり
馬はいななき人勇む

3 鎮西の覇を争いて
  雲と起これる群雄も
  天地にどよむ若武者の
  いくさに草と伏しにけり

4 昭和○○年秋深く
又中原に鹿を追う
風塵暗く天を覆う
戦わんかな秋至る
戦わんかな秋至る

 元気振興歌

1 頑張れ頑張れ頑張れ健男児
  瓊浦の健児よ
  中原の鹿を射止めよや
躍りて狂う力もて
あげて屠れよや鹿の群れを
討つて旌旗を
崎陽に立つるはこの時ぞ

2 頑張れ頑張れ頑張れ健男児
  瓊浦の健児よ
  中原の鹿を射止めよや
英雄の気持ちで立ち
あげて屠れよや鹿の群れを
討つて旌旗を
崎陽に立つるはこの時ぞ

 


利尻礼文の旅(8)利尻島から稚内空港、そして羽田へ

2005-10-01 10:04:55 | Weblog
(8)利尻島から稚内空港、そして羽田へ
十七年八月三十一日(水)晴れ
今日の起床も五時だった。敏治は五時から開店しているという喫茶店に写真を見に出かけていった。温泉は六時からなので、少し早めに一階に下りて行き、入浴した。やはり朝湯は気持ちが良い。朝食は二階大広間で和食バイキングだった。
八時、ホテルの一階ロビーに集合して、鴛泊港まで歩いて行った。ものの三分もかからない距離である。港に着くとフィルイーズ宗谷が、入港するところだった。乗客の下船が終わると、直ぐに稚内行きの客が乗船をはじめた。私たちは舳に近い二等客室に入った。
稚内港までの航海は一時間四十分である。客室はほぼ満室という状態になった。
フェリーが出港して、十分ほどして船尾にあるデッキに行ってみた。風は余り無く、来たときのように寒さは感じなかあった。
 利尻島がだんだん遠ざかり、利尻富士がくっきりと見えた。船室では缶ビールを開けて飲む人たちもいれば、体を横にして休む人もいた。皆が思い思いの姿勢で、退屈な船旅の時間を過ごしていた。
  今日の航海は、それほど波もなくそのためフェリーの揺れも小さくて助かった。
  稚内港には、十時二十分に到着した。
港近くの海鮮市場に案内され、クラブツーリズムのサービスで一人に付き毛蟹が一匹宛て宅急便込みで配られた。
 この店でその他のお土産を買い求め、宅急便で送る手配をして、稚内空港へと向かった。
稚内空港に到着すると、しばらく休憩した後、全日空五七二便に搭乗し、十二時十五分に離陸して、十四時三十分、羽田に無事到着した。
 ※ こうして利尻礼文の旅は終了した。


仙法志御崎公園から沓形岬へ

2005-09-29 16:29:08 | Weblog
(7)仙法志御崎公園から沓形岬へ
次の見学地は仙法志御崎公園だった。奇岩怪石が点在する利尻島最南端の岬が仙法志御崎海岸である。ここは公園にもなっており、磯沿いに遊歩道が設けられていて、二頭のアザラシが囲いの中に飼育されていた。隆起する奇岩に打ち寄せる波が砕け散っていた。
  円形をした利尻島をほぼ半周して、次の観光地、沓形岬に着いた。坂道を登った所に「沓形岬」の標識が建っていた。
また、船の形をした岩の上に、時雨音羽が作詞した「出船の港」という歌碑が建っていた。

        ドンとドンとドンと 波のり越えて
        一挺(ちょう)二挺三挺 八挺艪(ろ)で飛ばしゃ
       サッとあがった 鯨(くじら)の汐(しお)の 
汐のあちらで 朝日はおどる

 沓形岬を後にして、今夜の宿泊先である「利尻富士観光ホテ」に向かってバスは走った。ホテルに到着したのは、午後六時を過ぎた頃であった。このホテルの大浴場は温泉なので、直ぐに温泉につかるため一階の大浴場に向かった。
 やはり温泉は、体の疲れをほぐしてくれる。十分に足腰を伸ばして、一日の疲れを癒した。
※17:09:29⇒YAHOO、         楽天 ビッグロブ,GOO 

利尻礼文えの旅(6)利尻島へ

2005-09-28 16:03:43 | Weblog
(6)利尻島へ
 香深港からフェリーに乗船し、一時十五分利尻島に向けて、岸壁を離れた。乗船時間は約四十分である。しかし、今日は波が高く、港を離れるとフェリーはかなり揺れてきた。乗船時間が短かったのでよかった。
 フェリーは、午後二時、鴛泊港に到着した。待機していた宗谷交通のバスに乗車し、最初に向かったのが、姫沼で、周囲は原生林に囲まれ周囲一㌔ほどの小さな沼だった。添乗員の案内で、遊歩道をぐるりと一回りした。
 次の見学は、オタドマリ沼で、ここは日本最北限の赤エゾマツ原生林に囲まれた湖で、秀峰利尻富士を背景にして明るく広々とした風景の美しい場所ということだったが、上空は雲に覆われて、利尻山を眺望することはできなかった。沼の縁に睡蓮が咲いていたのでデジカメに納めた。売店、貸しボート、そして散策路が設けられていた。


利尻礼文の旅(5)澄海岬からスコトン岬へ

2005-09-24 08:09:30 | Weblog
(5)澄海岬からスコトン岬へ
この桃岩を後にして、今度は澄海岬に向かった。礼文島は車の通行ができる道路は、島の西側にしかないので島を周回することはできない。従ってのこの道を北上するように西上泊に向かって行った。

西上泊の小さい漁港を通りすぎて、石段を登っていくと澄海岬の頂上に到達する。頂上から見下ろす入江は海底を手ですくいとれるような透明度で、その青みを帯びた海水の美しさは礼文の海の代表格でもある。西上泊港を後にして、海沿いの道を更に北上し、ゴロタ岬を通過し、スコトン岬にやってきた。
 スコトン岬は礼文島最北端の地で、正面には無人のトド島が浮かび、晴れた日には遠くサハリンを望むことができるそうだが、今日は霞んでいて、サハリンを眺望することはできなかった。
 スコトン岬がこの島の北端なので、来た道を戻ることになった。途中、山の斜面に木の柵が立てられていたが、これがレブンアツモリソウの群生する場所である。五月下旬から六月下旬にかけては、訪れる人々の目を楽しませてくれる白い美しい花である。
 更に南下していくと、海岸寄りの崖の上に日食観測記念碑が建っていた。昭和二十三年五月九日、当時新しい日本の歴史的大事業として、日米共同の科学者千五百名がこの地に集まり、日食を観測し、広く世界の歴史にも記述された場所で、以来天体科学の記念の地として碑が建てられた場所である。
 十二時二十分、出発した三井観光ホテルそばのレストランで昼食となった。
昼のメニューは、うに丼である。ご飯の上に新鮮なうにがたっぷりと盛られ、とても美味しかった。


利尻礼文の旅(4)礼文島観光(桃岩展望台)

2005-09-23 14:20:50 | Weblog
(4)礼文島観光(桃岩展望台)
十七年八月三十日(火)曇 三井観光ホテル
今朝起きたのは五時、窓を開けて外気を入れると、さすがに肌寒く感じた。敏治は、もう起きていて、ホテルの外に散歩に行ったらしい。
敏治が朝の散歩から戻ってきたので、二人で一階の大浴場に行く。浴場は広く気持ちがいい。すでに入浴の先客が二人いた。どっぷりと首まで湯につかって、体を温めた。
 風呂から上がって、部屋に戻って外を眺めると、海は波立っていた。風もあるようだ。
岸壁には、小型の漁船が係留されていた。
 朝食は、昨夜夕食の会場となった二階のレストラン「北航路」である。すでに朝食を食べている人もいた。バイキング料理なので、自分の好みのものを皿に盛って、席に着いた。
 バイキング料理は、何処も同じようなものだ。食事の後、牛乳とコーヒーを飲んで部屋に戻った。
 集合は八時なので、あわてることも無い。ゆっくり荷物の整理をして、フロントに下りていった。昨夜のビールの会計処理は敏治任せなので、世話が無い。
 最初の見学場所は、ホテルから近い桃岩展望台である。かなり勾配の険しい山道を登って、展望台に到着した。 ここまで来るには相当きつい坂道だった。
 桃岩は、礼文島の南の端に位置している。
桃岩付近にある花畑は天然記念物に指定され、アイヌの伝説の古戦場でもあった場所で、景観にすぐれていた。
 お花畑からの利尻富士の眺望は、素晴らしく美しいそうだが、残念ながら、空が曇っていて見ることができなかった。


 バスは途中までで、それから先は徒歩で昇ることになる。登山道の両脇には、秋の高山植物が咲いていて、それをデジカメに収めながら、息を切らして登っていった。桃岩展望台からは三六〇度、どの方向も眺望が開けていて素晴らしかったが、海を隔ててそそり立つ、利尻富士の景観は見ることができなかった。
桃岩展望台は南端に位置していて、蟹の爪形をした島の付け根部分にある。


利尻礼文の旅(3)礼文島へ

2005-09-19 09:10:55 | Weblog
(3)礼文島へ

 再び、急な坂を下って稚内港に向かった。岸壁には礼文島行きの東日本海フェリー・フィルイーズ宗谷が、すでに接岸していた。添乗員の誘導に従って乗船し、二等客室に腰を下ろした。
三時十分、船底からエンジンが聞こえ、振動が伝わってきた。フェリーはゆっくりと岸壁を離れ、船首を防波堤の方に向けて動き始めた。
  しばらくしてデッキに出てみることにした。船は白い波の航跡を残して、沖へと進路をとった。礼文島までの航海時間は、一時間五十分の予定である。途中、後部デッキに行って、椅子に腰掛けたが、冷たい潮風に吹き付けられ、体全体が冷え切ってしまった。途中、船上から利尻富士が見えた。
フェリは予定通り、香深港に接岸した。宿泊先の三井観光ホテルまで僅かな距離らしいが、待機していたバスに乗ってホテルに着いた。五時二十分だった。
夕食は六時三十分からということなので、まずは一風呂浴びようということで、タオルをぶら下げて、敏治と一階の大浴場に出かけた。
礼文島は火山島ではないので、温泉は無い。しかし、大浴場は、温泉宿なみの風呂で、潮風で冷え切った体を温めて、気分爽快となり、部屋に戻った。夕食は二階の「北航路」というレストランだった。海鮮料理が並んだ膳を前に、ビールを飲みながら、
新鮮な海の幸を堪能した。

利尻礼文の旅(2)稚内公園

2005-09-11 11:32:00 | Weblog
利尻・礼文の旅 17:08:29~31
(2)稚内公園
時間に余裕があったのか、予定外の観光コースとして稚内公園が組み込まれた。別名「氷雪の丘公園」と呼ばれているところだ。
公園内には様々なモニュメントが建ち並んでいた。晴れた日には宗谷海峡やサハリンの島影を見渡す事ができるそうだが、今日の天気ではサハリンを眺望することは無理だった。
*氷雪の門
稚内公園のモニュメントの中で代表的なのが氷雪の門である。樺太で亡くなった人々の慰霊と、異国になってしまった樺太への望郷の念を込めて昭和38年(1963年)に全国から寄せられた暖かい支援によって建立された。雪と氷の中でたくましく生き抜いた人々を象徴する2.4mのブロンズ像、サハリンに真向かう高さ8mの望郷の門、そして大理石の霊石の三位一体で構成されていた。晴れた日には、ブロンズ像の肩越しに遠くサハリンの島影を望むことが出来るという。
*九人の乙女の碑
 終戦直後の昭和二十年(1945年)八月二十日、ソ連軍による樺太真岡侵攻の最中、勤務する真岡郵便局の交換台を最後まで守り、自らの命を絶った九人の若き女性交換手を慰霊する為に、昭和三十八年に建立された慰霊碑である。碑には亡くなった九人の名前と、彼女達の最後の言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・・・」の文が刻まれていた。
*開基百年記念塔・北方記念館
 稚内市の開基百年と市政施行三十年を記念して建てられ、北方記念館を 基部に地上八十メートルの記念塔から成っている。北方記念館には郷土資料 や樺太関係の貴重な資料が展示されている。頂上には四方がガラス 張りの展望台が有り、南には広大なサロベツ原野、東にはオホーツク海、 西には利尻島、礼文島、北にはサハリンの島影を見渡す三六〇度の大パノ ラマはまさに圧巻である。

*南極観測樺太犬記念碑・樺太犬供養塔
 三十二年(1957年)日本が初めて南極観測に参加する にあたって、極地での物資輸送を目的に、二十頭の犬ぞり隊が編成された。この犬ぞり隊は稚内周辺から集められた樺太犬であった。犬ぞり隊は稚内公園で厳しい訓練を受け南極大陸に派遣された。
しかし昭和三十三年南極の悪天候を克服出来ず、樺太犬十五頭が現地にやむなく置き去りにされるという悲劇が起こった。その一年後再び越冬隊が南極を訪れた時、タロ、ジロの二頭が奇跡的に生き延びていたという感動的なニュースは、当時世界中に報じられた。南極観昭和測史上、最も大きな功績をたたえて制作されたのである。ジロをモデルとしたブロンズ像で、台座には南極で採取された真っ白な石が埋め込まれている。又、公園頂上には南極で亡くなった犬達の慰霊碑、樺太犬供養塔が建っている。この感動的な出来事は、やがて「南極物語」という映画にもなり、多くの人達に感動を与えた。映画のロケは稚内でも行なわれ、これをきっかけに開催されるようになった稚内犬ぞり大会は、今や名実ともに全国一の大会になっている。


利尻礼文の旅(1)稚内から宗谷岬へ

2005-09-10 08:30:50 | Weblog
利尻・礼文の旅 17:08:29~31
(1)稚内空港から宗谷岬へ
全日空571便、稚内空港行きは、定刻9時40分、羽田空港を離陸した。約1時間45分のフライトである。途中、若干の揺れはあったが、順調に飛行を続け、ほぼ定刻通りに稚内空港に着陸した。こじんまりした空港で、いかにも地方都市の空港という感じがした。空港待合室には、クラブツーリズムの現地添乗員が社旗を振って待っていた。
添乗員は全員の集合を確認して、待機していた宗谷交通のバスへと誘導した。バスが走り出して、窓外をみると、空港周辺にはほとんど建物がなく、広大な原野が広がっているだけだった。
北海道のはずれにやってきたという実感が湧いてきた。バスは国道238号線を北に向かって走り続けた。左は海、右は雑草の茂る丘陵という変り映えのしない風景の中を駆け抜けて行った。対向車もほとんど無い道路で、所々に家屋が建ち、小屋などが点在していた。空港を出発して4、50分も経っただろうか、宗谷岬に到着した。
ガイドは、車内で、ここでの美味しい食べ物の紹介などをしていた。バスは丘陵を下りて、海岸に近い駐車場に停車した。すぐに日本最北端の地の碑の前で、全員の記念写真撮影となった。
*日本最北端の地の碑
 碑は宗谷岬の先端、北緯 45度51分14秒にあり、文字通り日本最北端の地に建てられていた。三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているそうだ。塔の中央にあるNの文字は北を、台座の円形は平和と協調を表現しているという。毎日、日没から夜明けまでは幻想的なライトアップがなされているという。
*間宮林蔵の立像
偉大な探検家、日本人として只ひとり、世界地図に名前を残した偉業をたたえ建立した立像である。昭和五十五年(1980年)生誕200を記念して建立された。
*旧海軍望楼
ロシアとの国交が悪化した明治三十五年(1902年)国旗用の防備として作られた要塞である。日露戦争時には、宗谷沖でロシア軍艦「ノーウイック号」と日本海軍巡洋艦「対馬」「千歳」との戦いを見守った望楼で、宗谷海峡を一望する事が出来る。
 自由散策の後、バスに戻り、来た道を戻るように、稚内に向かって、走り出した。途中、道の右側に間宮林蔵渡樺出港の地というのがあった。
* 間宮林蔵渡樺出港の地
探検家、間宮林蔵が樺太に発った地をしるした碑である。碑の横には、死を覚悟し自ら稚内に持参したと伝えられる墓石が置かれていた。再びバスは稚内市内に戻り、港近くのレストランで、昼食となった。