goo blog サービス終了のお知らせ 

12月21日で喜寿になりました。

まだまだ、元気で働いています。朝練は毎朝5時から、約40分歩きます。

カラス物語

2006-01-25 09:59:35 | Weblog
カラス物語
                 
十二月三日、四日、奥湯河原に出かけ青巒荘に一泊した。程よい湯加減の温泉にゆったりとつかり、六時から宴会となった。一泊三万円というだけあって、料理は品数も豊富で美味しかった。その後、全員がソファーと椅子のある次の間に移って雑談になった。
S君がカラスを飼った話をし始めた。小鳥とかインコといった鳥類を飼う話は聞いたことがあるが、カラスを飼ったというのは、初めて聴く話だったので、大変興味を持った。
S君の話によれば、このカラスを捕獲したのは近くの公園だった。彼は小鳥を飼うようにしばらくは籠に入れて飼っていたらしい。
そして、カラスについて、次のように語った。
『漆黒の濡れ羽色をしたカラスの魅力は、光沢を帯びて美しく、じっとカラスの目を見ていると、澄んで深みがある。』というのだった。
 私などとはカラスに対する考え方が根本から違っていることだった。カラスは何処でも見かける鳥だが、早朝のウォーキングの時、私がゴミをあさっているカラスを追い払おうと、シィ、シィと掛け声をかけても、カラスは図太くて、ピョン、ピョン、と数十センチほど飛びのくと小首をかしげて通り過ぎるのを見送った後、再びゴミ袋に挑戦しているのである。
だから憎たらしいと思う以外、光沢を帯びて美しく、魅力的な鳥と感じたことは無い。
 S君はこのカラスを一年半くらい飼っていて、クロという名で呼んでいたそうです。そして更に次のように話した。
『本当は嘴の曲がったハシブトカラスを飼いたかったのだけど、捕まえたのがハシボソカラスだった。ハシブトカラスは都会カラスといって、新宿あたりでゴミ漁りをしている種類で、物覚えが良くて、賢いんです。ハシボソカラスは田舎カラスといって、農耕地などの開けた環境に住むカラスで、物覚えはあまり良くないんです。籠から出してやると、部屋中を飛び回ったりして遊んでいたんですが、ある日窓を開けたら、外に飛び出して逃げてしまいました。』
 『でも、時々家に遊びに来るんですよ。ガー、ガーとちょっと変わった声で鳴くので、直ぐに分かるんです。一年半飼われていた家が懐かしいのでしょうかね。』と。

 【参考資料】道具を作り餌を釣るカラスの「知能」、英研究者が発見
(朝日新聞 二〇〇二年八月九日)
カラスが針金の先をかぎのように曲げて道具を作り、筒の中にある餌を釣り上げることを英オックスフォード大の研究グループが発見し、九日づけの米科学誌サイエンスに発表する。 このカラスは、グループが飼っているメスのニューカレドニアカラス。針金を道具にして餌をとる姿を目撃したことから、実験を試みた。 その結果、長さ十㎝ほどの針金をくちばしにくわえ、脚などで先を曲げてかぎ形道具を作り、筒の中から餌の入った容器をうまく釣り上げた。十回試して九回成功した。 ニューカレドニアカラスは、野生でも餌をとるために道具を作ることが知られている。だが、自然界にないものまでも巧みに加工したのを確認したのは初めてという。


東山魁夷記念館を見学

2005-12-27 13:53:03 | Weblog
東山魁夷画伯記念館を見学
 12月14日、先月オープンしたばかりの「東山魁夷画伯記念館」を見学に出かけた。
先に記念館を訪ねた次男の話では、交通の不便な場所にあるということだったので、あらかじめインターネットで、地図を検索して印刷したものを持参して、本八幡からタクシーを拾い、現地に向かった。オープンして間もないので、運転手も東山魁夷記念館といっただけでは、分からなかった。地図を示すことで、場所の確認が出来て走り出した。
 タクシーは、木下街道を中山競馬場の方へ向かって走った。本八幡から約15分ほどで到着した。観覧料800円を払って展示場へ向かった。
 1階展示室は、画伯が愛用した筆や絵の具ななどの画材、スケッチュブックなどの身の回りの品々を約100余点展示してあり、画伯の人柄、人物像、そしてその人生の一端に触れることが出来た。1階を一通り見終わって、2階の展示室に向かった。エレベーターがあったのでこれに乗っていった。
 この展示室には「冬の旅」シリーズなどの日本画、スケッチ、リトグラフなどの作品40点あまりが展示されており、画伯の芸術の世界に浸る空間となっていた。展示品をゆっくり観賞してから、カフェレストランに行き、コーヒーを注文した。陽射しもあったので、室内より外の方が気持ち良さそうだったので、コーヒーは屋外のテーブルに運んでもらった。
 レストラン横には、ビデオの映写室があり、画伯の人となりを纏めたビデオを見て、ミュージアムショップで、絵葉書などを買い求めて記念館を後にした。


「旧芝離宮恩師庭園と増上寺・花見散策

2005-12-27 07:41:04 | Weblog
    「旧芝離宮恩師庭園と増上寺・花見散策」

 前日のテレビでは、晴れて最高気温がニ十度になる、との予報だったので、これはおあつらえ向きの花見日和になるだろうと予想した。
 そこで、都営地下鉄の「櫻めぐり」という広告に出ていた、「浜離宮恩賜庭園」と「増上寺」の櫻見物に出かけることにした。
 その日もいつもどうりの日課で、五時からの朝練が一日の始まりだった。前日までの三日間は低温が続いたせいか、外にでたら霧で周りがぼんやりかすんで見えた。
 空が明るくなっても、霧は晴れるどころか、ますます濃くなっていった。家に帰りつく頃は、あたり一面に濃霧が立ち込め、十メートル先も見えないほどになった。そんな朝霧のなかで、鶯が「ホケキョー・ホーホケキョー」と四・五度も鳴いた。
 今年、鶯の鳴き声を聞くのは四回目で、例年にない出来事であった。
朝食を済ませ、新聞を読んだり、雑用を片付けていたら、九時頃になった。家内も、洗濯を終わって出かける準備も整ったらしく、水筒を部屋に持ってきたので、それをリュックに詰めこみ出かけることにした。
 本八幡駅で一日乗車券を買った。都営の地下鉄・バスは何回乗り降りしても
七百円の一枚のキップで用が足りるから、便利であり、かつ経済的である。
 馬喰横山で都営浅草線に乗り換え、大門駅で下車した。道路に面した出口を上がると、右手遠くに増上寺の正門が見えたので、「浜離宮恩賜庭園」は左手斜め前方と見当をつけ歩き始めた。
 街角を左・右・左・右とジグザグに進んでいつたら、JRの浜松町駅に突き当たった。
 目的地は駅の向こう側なので、迂回するよりは駅構内の歩道橋を渡って向こう側に行くほうが近道と考えて、歩道橋を渡った。
 ところが、庭園は高い鉄柵に囲まれていて、入り口が分からない。近くで水撒きをしていた人に道順を尋ねると、入り口は庭園をほぼ一周した西口とのこと、ようやく正門を見つけ入園した。
 入り口で貰ったパンフレットをみると「旧芝離宮恩賜庭園」とあった。「浜離宮」の名称が変わったのかな、と思ったがどうも庭園の広さが「浜離宮」より
狭いことに気づき、地図を見ると「浜離宮」は道を隔てた北側にあることが分かった。
 庭園には、櫻も数本植えられているし、人も殆ど居ない静けさが何よりであった。パンフレットには次のように書かれていた。
 「都心のビル群を周りにひかえ、今に残る大名庭園としては、最も古いものの一つで,江戸庭園の典型である回遊式築山泉水庭園、昔は東京湾の波打ち際でしたが、江戸時代の明暦の頃埋め立てられ、延宝六年(一六七八)時の老中大久保忠朝が四代将軍家綱から下屋敷として賜り、約八年ぐらいの歳月で作庭され、「楽寿園」と命名した。
 庭園はその後数氏を経て、有栖川宮家のものとなり、明治八年に宮内庁が買い上げて、翌九年に芝離宮となりました。大正十三年昭和天皇のご成婚記念として、東京市に下賜され「旧芝離宮恩賜庭園」として公開されました。」
 庭園を散策するには、庭園の中心にある、約九千平方メートルの広い泉水を
周遊することになる。昔は海水を引き入れた潮入りの池だったが、現在は淡水の池となっている。西湖の堤(中国杭州にある西湖の堤を模した石造りの堤)が、池の中央に横たわり、二分している。また池には大小三っの浮島が点在している。入り口近くに藤棚があり、藤の木の樹齢は約二百年といわれる。
 五月の初旬には、紫色の大きな花房がさがり、芳香を放つそうである。
池の縁にあるベンチに腰掛け、持参した弁当を広げて、早めの昼食にした。
 庭園にいる間に、入園してきた人は僅か十数人で、静かで景観に富む庭園でのんびりと時間を過ごした。
 外に出て二十メートルも歩けば、浜松町駅である。都会の喧騒の中に踏み出した、という感じである。
 バス停があったので、芝公園までバスで行くことにした。「東京タワー」行き
のバスが来たので乗車した。
 御成門駅で降り、増上寺まで歩くつもりだったが、東京タワー行きなので終点まで乗ることにした。
 展望台に上がる切符売り場には大勢の人が並んでいた。東京タワーには二度ばかり来た記憶がある。一度はタワー完成の一・二年後だから昭和三十五年頃、二度目は長崎からの客を案内して来たように思う。これも昭和四十年頃だから
遥かに遠い昔のことである。
 東京タワーは今日の予定コース外であったが、せっかく三十数年ぶりに来たのだからと、展望台まで上がってみることにした。
 展望台は東京名所の一つだけあって、大勢の人波で混雑していた。ぐるりと一回りして、下りエレベータで降りた。
 増上寺までは、歩いてものの五分とかからない。本堂脇の入り口から入った。
沢山の人垣が出来ている中を見ると、満開の桜の下で、子供達の「和太鼓」演奏が行われていた。
 小学生から中学生くらいの男女十数人が揃いのはっぴにねじまきをきりりとしめて、堂に入った太鼓の連打をしていた。
 「和太鼓」演奏が終わると、大きな拍手が沸き起こった。
増上寺は花見客のため、本堂正面の広場に仮設の板敷きをこしらえており、その上で、三々五々弁当を広げたり、酒を酌み交わして、沢山の人々が昼間の宴会を楽しんでいた。
 本堂にお参りして、正門をくぐって満開の桜に包まれた増上寺を後にした。
帰路は、御成門駅から都営三田線で神保町まで行き、新宿線に乗り換えて帰宅の途に着いた。
 今日は一日乗車券を有効に使っての花見見物となった。「浜離宮庭園」と「芝

浜名湖花博紀行

2005-12-27 07:38:28 | Weblog
            浜名湖花博紀行

 九月十六日から一泊二日の予定で浜名湖花博観光に出掛けた。
「クラブツーリズム」のパック旅行で、乗り物が往復バスというのではなく、途中まで新幹線を利用するというので、バスオンリーよりも楽だろうと思い、このパック旅行に申し込んだわけである。集合場所と時間は、東京駅・九時ということだった。途中なにが起こるかわからないので、家を時二十分とかなり早めに出発した。
東京駅には八時十五分に着いた。東北新幹線が東京駅まで延長されたせいか、通路が四通八達していて、案内標識を頼りに歩かないと、目的地にたどり着くことが難しくなっている。
改札口を出ると、先ず集合場所を確認してから、座る場所を探したが、適当なところがなく、コーヒーショップの脇に数脚の椅子とテーブルが置かれていたので、そこに腰を下ろしてコーヒーを注文した。それから小用を済ましておくのも準備の一つと思い、トイレを探したが、一階部分には見当たらないので、多分地下にあるだろうと見当を付け階段を下りていった。
これもすぐには見当たらず、フロアを清掃していたおじさんに聞いて、やっと探し当て用を済ますことができた。
集合時間の九時には八割かた集まって、十分には全員集合し、添乗員の先導で団体改札口から入ってホームに上がった。
車内清掃が終わると、新幹線に乗り込んだ。周りに空席があったが、品川で三名、新横浜で十二名乗車することになっているとのことだった。
「こだま」は定刻の九時二十三分に発車した。列車は各駅停車なので、品川、新横浜、小田原、熱海と停車して、十時二十五分三島に到着した。
駅前には大鉄観光バスが二台駐車していた。私たちは一号車の後部座席に座った。バスは直ぐに発車し、今日の最初の観光場所・「源兵衛川散策」へと向かった。
【源兵衛川散策】
三島はもともと富士山の湧水で水に恵まれた土地柄のはずだが、人口や工場の増加などで、三島も街を流れる川は、生活廃水で汚染されたのだが、昔の綺麗な川を取り戻そうと住民が協力して、川の清掃などに取り組み今日の源兵衛川に生まれ変わった、ということである。「源兵衛川を愛する会」からの引用を先に記しておこう。
 『この会は、「水の都三島」を代表する美しい水辺環境を持つ源兵衛川周辺の住民のみなさんが中心となり市民各層から組織され親水公園化の整備が進む源兵衛川の定期的な河川清掃と美しい水辺環境を保全保護を目的としています。
 今では、東レの500t/h冷却水放流の恩恵により、川には、ホタルが舞い戻り、カワセミ、ハヤ、メダカ、カワニナ、ミシマバイカモ、水中昆虫、水生植物がよみがえり、市民のこころの洗濯場、憩いの場、愛のささやきの場となって親しまれております。
  これからも 市民、行政、企業のパートナーシップにより、未来のこども達のためにも、いつまでも末永く愛されつづける水辺環境をみんなでまもり続け、「右手にごみ袋、左手に缶ビール」の合い言葉で楽しく汗をかきましょう。
【会の活動内容】                           
1,月に一回程度の河川清掃、親水公園施設の維持、管理をしています。
2,動植物の蘇生と保護に努め、自然観察会を開催しています。
3,ほたるの棲める自然環境づくりをしています。
4,「三島梅花藻」の生育環境を護り、増やそうと努力しています。
5,水とホタルのフェステイバルのお祭りに協力しています。
6,花の散歩道を護っています。
7,源兵衛川の親水公園化を國県への働きかけと計画を立て、協力をします。
8,三島の郊外、新興団地のみなさんとも共に水に思いのある方汗を流しましょう。
9,グラウンドワーク三島、三島ゆうすい会の活動に積極的に参加し、協力をします。』
 次は由比宿で昼食をとることになった。「さくらえび館」というドライブインに停車した。ここの昼食は変わっていた。茶碗蒸し椀ほどの器三種類にさくらえび、しらす、いわしけのずりぶしをご飯の上に載せたもので、ほどよい味付けがしてあり、おいしかつた。  一時間弱の休憩が組まれていたので、旧東海道の由比の宿を観光することにした。「さくらえび館」脇の石段を下りていくと、そこは旧東海道の由比の宿だった。右手に「由比本陣公園」というのがあって、ここには東海道五十三次で有名な広重の浮世絵を展示してある「広重美術館」があり、重厚な門構えと塀をめぐらしてあった。見学したい気持ちはやまやまであったが、時間的に余裕がないので諦めることにした。その「広重美術館」の真向かいに「正雪紺屋」という店があり、これが由比正雪の生家だという。そこから「おもしろ宿場館」というところまで、ほぼ三十メートルばかり黒塗りの塀が続いていたが、これは昔の宿場の飛脚便の溜まり場、いうなれば昔の郵便局跡と言うことだった。「おもしろ宿場館」の入り口には、弥次さん喜多さんの人形が並んでいた。その場所で写真を撮った。この館内は見ないで、その前の「和紙と錦織の館」という店に入った。和紙も見事な絵柄のものなどが陳列してあった。奥の方に進んでいくと、なぜか竹下夢二の絵葉書が飾ってあったので、夢二のゆかりの地かなと思い、絵葉書五枚ほどを手にして、カウンターで尋ねると、夢二のゆかりの地ではないという返事だった。由比宿の散策を終わってバスに乗り込むと直ぐに発車した。海沿いの国道を南西に向かって走ると、清水港が左手に見えてきた。
国内はもちろん多くの外国船も出入りする港である。その左前方に見える松林がこれから行く「三保の松原」なのである。三十分ほどして三保の松原駐車場に到着した。砂丘に松林が植えられ、道とてないところを下っていくと、羽衣の松が杭で囲われた中にあった。乗客の大部分が海辺まで降りていったが、富士山はかすんでいて見えないようなので戻ってきたので、私たちも羽衣の松から引き返した。                  
 秋も深まり空気が澄んだ晴天の日でないと、富士山の雄大な風景を展望することはできないのであろう。石段を下りた茶店で冷たいお茶をご馳走になり、バスに戻った。以前は「三保の松原」は観光地として、大勢の客が訪れたのだろうが、現在は人気がなくなったのか、観光バスは我々のツアー二台だけであった。駐車場周辺の数軒ある土産物店も開店していたのは一軒だけであった。バスは右手に久能山東照宮を眺めながら、静岡インターから東名高速道に入り、一路西へ向かって走行した。途中、牧の原SAでトイレ休憩した。あとは道路の混雑もなく、浜松西インターから高速道と別れ、雄踏町にと向かった。今夜の宿泊先の浜名湖ロイヤルホテルに到着したのは四時四十分だった。
宿泊する部屋は車内で添乗員から教えてもらっていたのでホテルに入ると直ぐにエレベータで九階の九五〇号室に向かった。窓から外を見下ろすと、釣堀があってその向こうに浜名湖が広がっていた。  荷を解くと一階の大浴場に下りていった。露天風呂も隣あわせになっていた。程よい湯加減で、バスの疲れを癒すため足腰を十分に伸ばし、ゆったりと湯に浸った。次に露天風呂に入り、ごつごつとした岩肌の感触もお湯の中では、かえって心地好かった。
夕食は二階のダイニングルーム四季でバイキング料理となっていた。午後五時半からなので、温泉から上がるとダイニングルームに向かった。浴衣掛け、スリッパでOKなので、湯上りには肩がこらずもってこいである。食事をしている客はまだまばらだったので、適当なテーブルを選んで座り、料理を運び、ウエイターに生ビールを注文して飲みながら食べた。
バイキング料理というのは、自分好みの食べ物を選んで食べられるという利点はあるが、あわただしく、騒々しい。団体旅行だから仕方のないことかも知れないが、温泉に入ってゆっくり寛いで夕食を摂るという雰囲気とはかけ離れたものだ。食事の後、一階の売店で土産物を一通り見て廻ってから、部屋に帰りしばらくテレビを見た。そして、八時過ぎにベットに入り、旅行第一日目の情景を回想しながら眠りに就いた。
十六年九月十七日(金)晴れ
 朝、目が覚めたのは四時半ごろだった。温泉の入浴時間は五時からになっていたので、ベッドの中でうとうとしながら過ごし、五時を合図に起き上がって、タオルをぶら下げて一階の大浴場にでかけた。入浴客はまだちらほらだろうと思っていたら、浴場のドアを開けると先客数名が湯に浸かっていた。
 二人ほどはもう上がる準備をしていたので、五時の会場前から入浴していたに違いない。
 なんと言っても朝風呂は気持ちが良い。昨夕と同様に露天風呂にも浸かって、長湯しない程度で湯船を離れ、CCレモンのカンジュースを買って部屋に戻り、ジュースを飲み干した。
 しばらくテレビを見て、二階のロイヤルホールに行き、朝食を摂ることにした。朝食も夕食と同様バイキングだったが、朝はパン食にした。当ホテルの宿泊客はほとんどが花博観光の人々なのだろう、
開門と同時に入場しようというので、朝食客の出足も早いようだ。
 パンを食べ終わってからコーヒーを飲んでから、一階の売店に立ち寄りお土産を買って部屋に戻った。
 出発時間は九時十五分となっていたので、九時には部屋を出てフロントに下りていった。すでにバスに乗車して出発する団体客もあった。ホテルの前で写真を撮り、我々のツアー客専用のバス二台が玄関前に到着したので、バスに乗り込んだ。今日は前から二列目の席順になっていた。
 ホテルから花博会場までは僅かな距離で、十分ほどで到着した。会場前の広場は大型バスが数百台は駐車できるのではないだろうかと思えるほど広かった。先着していたバスはまだ少なく数台だったので、入り口近くに駐車した。
 バスを降りると黄色地に⑬という数字が書かれた旗を持った若者の先導で記念写真の撮影場所に案内され、先ずは記念写真を撮った。 
 観光バスで来た団体客は、どれも同じようなことをしていた。
撮影が終わると、そこからは自由行動となり、入場口に向かった。
 花博会場は実に広大で、東京ドーム十二個分の広さがあると聞いていたので、とても歩いては廻れないと考えていた。そこで入り口付近から奥にみて廻るのではなく、一番奥から入り口へと帰ってくるコースを選択した。
 会場を電気自動車(フローラムーバー)が運行されていると聞いていたので、それに乗って「花の美術館(モネの庭)」に行くことにして、フローラムーバーの乗車場所に直行した。それは入り口右手の一番奥にあった。
 すでに数十人の行列ができていた。待ち時間は三十分と表示されていた。これも仕方ないかとあきらめ、順番が来るのを待った。
 ニ両連結のフローラムーバーには四十人ほどが乗れるようだった。
四台目が来てようやく乗車できた。
 ムーバーは時速十五キロから二十キロのスピードで運転していた。
運転といっても、運転席に腰掛けている女性は、発進と停車時にレバーを操作するだけで、あとはコンピュータによる自動制御による運行である。信号を伝えるのは、道路の中央に埋め込まれた電線様のケーブルらしい。
 途中、降車駅が二箇所あったが、下車する人は皆無で、全員が終点の花の美術館まで乗車した。約三十分の乗車だった。その間ビデオを回し続けたので、沿道の花々が撮影されたと思う。
花の美術館でもフローラムーバーの乗り場同様、行列ができていたので入館を諦め、「モネの庭」を散策することにした。
ここはモネの絵に描かれた「睡蓮」に模して設計された池と睡蓮と周囲の花と草木が見事に調和した周回路になっていた。
大勢の人がカメラを睡蓮の咲く池を撮影していたので、ゆっくりとした足取りで、おおよそ三十分をかけて一周した。
モネの庭から正面入り口に向かって歩く道路沿いには、国際庭園があり、トルコ、イタリア、オランダ、イギリス、ハンガリー、ドイツといった世界各国のモデル庭園が展示されていたのだが、それをゆっくり見て廻る元気はげなかったので、再びフローラムーバーに乗って、入り口付近まで戻ることにした。このフローラムーバーは、七台で運行されているということで、帰路も三台のムーバーとすれ違った。それぞれに可愛い愛称が付けられていた。
入り口付近に予約していた弁当を受け取る場所があるので、そこで弁当を貰い、屋根つきの休憩所で弁当をあけて昼食を摂った。
食事の後、近くにあった「しずおかふるさと館」とJAとぴあ浜松館」を見学し、花の大通りをぶらついた後、花博会場を後にした。
バスは下車した位置に駐車していたので乗り込み、全員が集まるのを待った。


コロボックル

2005-12-12 13:48:49 | Weblog
このアマガエル、コロボックルが化けたのかな?

今朝、朝練に出掛けるため、玄関のドアを開けたら、広がる視界は一面霧の海でした。七階から見下ろす街灯は、まるで「ウミホタル」のように、ふんわりと浮かんでいました。
午前五時、いつものように外に出ると、夜明け前の眠った街は、人影も無く、道も、家も、街灯も、霧の海に沈んでいました。
朝練はいつものコースを一回りして、「大洲防災公園」に来て見ると、イベント広場を取り巻く終夜灯が、ぼんやりと浮き上がり、まるで幻想の世界に踏み込んだような感覚に陥りました。
ほとんど風は無く、風力発電機の羽が、霧の流れに揺れて音も無く、くるりと一回りして止まりました。
公園を取り囲む縁堤には、茶色と灰色の二種類の茸が、今朝もビッシリと生えていました。
もしも、この茸がもう少し丈が高かったら、コロボックルたちが、踊りながら出てくるのでは、と思えるほど、メルヘンチックで、ファンタスチックな情景を繰り広げていました。
コロボックルは、人から常に身を隠して生活しているそうですが、コロボックルが信頼できると判断し、トモダチになりたいと思った人の前ならば、姿を見せることがあるそうです。
分身「takuchan」ならば、世話好きで、おっちょこちょいで、お人よしだから、コロボックルもトモダチになってくれるかも、と幻想の世界をたどってみたりしました・・・・・・・・・・
しかし、人間に見つかる恐れがあるような場所では、アマガエル型の服を着てアマガエルに化けているそうですからね。
霧の海の向こうで、緑の葉っぱが揺れ動き、それを手にしたアマガエルかな?・・・・・・・・・・・・・・・

 霧はメルヘンチックな夢想をかきたててくれます。

( ㍻17年11月3日)





郭沫若記念館を訪ねる

2005-12-01 13:31:04 | Weblog
 郭沫若記念館を訪ねる

坂道を登っていくと「須和田公園」と板に書かれた標識が石垣に打ち付けられていた。郭沫若記念館はこの先なのか、と思いながら進んでいくと、右手の学校は、市立養護学校の表札、左手の金網の向こうは中学校の校庭のようだ。
 方向を間違えたのかな、と想いながら、そこから引き返していたら、老人が坂を上ってくるのに出会った。その老人に郭沫若記念館の所在を尋ねたが、知らないとの返事。
そこで公園の中に入り、小学生を引率して公園に来ていた三十年輩の女性教師に尋ねたが、やはり知らないという返事しかかえってこなかった。
 今度はやはり三十年輩の男性教師に尋ねたが、「カクマツジャク」って何ですか、と尋ね返される始末であった。
 公園を下りて、五十年輩の男性に尋ねたが、この人もやはり知らなと答えた。
なかば諦めかけて、もと来た道を引き返していたら、壮年の男性が坂を上ってきたので尋ねたら、
「ああ、直ぐそこです。ミラーの立っている左手にあります。」
と軽快に答えてくれた。
 市川の住人が、市川にゆかりの深い親日家「郭沫若」を知らないのかな、といささかがっかりもした。
 ようやく辿りついた郭沫若記念館は木造平屋建てで、百二十平方メートルの新築された建物で、門の入り口には小ぶりの案内板風の標識が立てられていた。手すりの付いたゆるやかなスロープを上ると玄関となっていた。
正面の窓越しに、料金を尋ねたら、「無料です」との返事だった。建物内には、郭氏の銅像、写真、当時使っていた茶碗、郭氏の著書、筆、などの日用品が展示されていた。
 建物は郭沫若が1928年中国から日本に亡命して十年間、須和田に住んでいた建物で、老朽化したままだったのを移築し復元したものである。
 郭沫若は文学者であり、医者であり、中国古代史の研究者であり、芸術にも造詣が深く、且つ又、政治家としても活躍した人物であつたから、日本の各界・各層に幅広い人脈、知己が多く、それらの人たちと交流した沢山の写真が、額入りで壁に展示してあった。
 また、和室の壁一面に淡いピンク色の和紙が飾られてあったが、それは須和田公園に建てられた郭沫若の詩碑の拓本だということだった。郭氏が学術使節団の団長として来日された時、須和田の人たちと旧交を温められた際の感動を詠んだ詩文ということだった。
郭沫若は九州大学医学部の卒業ということもあり、同じ大学の付属病院に勤務した私として、特に親しみを抱く人物の一人である。


越後湯沢・アルプの里

2005-11-28 17:56:56 | Weblog

       越後湯沢・アルプの里
                     
今日は六日町の駅まで越路荘の従業員に送ってもらうことになっていたので、八時五十分頃一階に下りていった。
駅まで行く客はもう一組いて、私たちと同年輩の老夫婦だった。
玄関に送迎用のワゴン車がきたので、車に乗り込んだ。同乗した老夫婦は、新潟方面から来たそうで、六日町温泉を目当てに来た湯治客だった。
車だと駅までものの五分ほどで到着したので、越後湯沢方面行きの上り電車に乗るには、十分余裕があった。
ホームまではエレベーターに乗った。JRはこのような田舎の駅でもエレベーターが設置されているので、老人にとっては有難い。
越後湯沢までの乗車時間は、約三十分。この地域は冬場のスキー場として有名だから、各駅停車の駅名も、「石打」とか聞きなれた駅が多かった。
JRの駅からロープウェイの駅まで。十分くらいと聞いていたので、タクシーに乗るまでもないと、たかをくくって歩き出したが、
日陰とて無いコンクリートの道を歩きだすと、途端に汗が噴出し、照りつける太陽の日差しに参った。
 途中道路わきに屋根つきの「足湯」の施設があったので、ここで一休みして、再び歩き出した。
 ロープウェイ駅の待合室には、大型の扇風機が廻っていたので、その前に腰掛て、汗の引くのを待った。
 ロープウェイは二十分間隔くらいで運転されており、山麓駅から山頂のパノラマステーションまで、約七分の所要時間だ。車両は百六十六人乗りと大型であり、車窓から上信越国立公園の山々を眺望することができた。
 ロープウェイが山頂駅に到着すると、シャトルバスが待っていて、
高山植物園入り口まで運んでくれた。
 植物園は、標高千百七十二㍍の大峰山の北斜面を利用して造られており、ロックガーデン、湿生園、ゴロネの原などの施設がある。
 高山植物園のメインは、なんと言っても大ロックガーデンで、上越新幹線大清水トンネルの掘削の際に出た岩石で造成されており、大小の岩石の中にヒマラヤの青いケシや悪魔の爪、コマクサなど二千五百メートル級の高山でしか見られない可憐な花々が植栽されていた。順路は湿生園あやめケ池からロックガーデンへの道をたどって、自生種八百種といわれる高山植物を見て歩いた。傾斜道ではあるが、舗装されているで、危険は無い。ロックガーデンの頂上から下へと降りて行き、ログハウスの前で一休みして、ソフトクリームを買って食べた。 
 陽射しも強く暑いので、休憩所で一休みして、シャトルバスがやってくるのを待った。
 家内が「旅とも」のツアーで来た中年の女性たちと話していた。話の様子から千葉市の人たちらしく、バスツアーとのことだった。
 待つほども無くシャトルバスが来たので、それに乗り込み、ロープウェイ山頂駅に戻った。
 もすこし涼しければ、ミニ・トレッキングコースを周遊すると、ブナの原生林を歩くことが出来ただろうが、この暑さではそんな気力も萎えてしまった。
 十一時二十分頃のロープウェイで山頂駅を出発し、魚沼連峰県立自然公園や上信越高原国立公園の谷川連峰を眺望しながら、七分間のロープウェイ乗車を楽しんだ。
 越後湯沢駅までの帰路はタクシーに乗った。そして駅ビルのレストランで信州そばを食べ、ローカル線の二時十五分発電車で、楽しかった越後湯沢・アルプの里を後にして、六日町に戻った。
                  (16:07:07)



鳩と老人

2005-11-28 17:51:07 | Weblog
【鳩と老人】

 数日間雨降りの日が続いた。公園通いの日課が中断されたのだが、すると奇妙に片足鳩シルバーのことが気になるのだった。そこで小雨の降る日、傘をさして公園に行ってみた。鳩たちは雨にぬれながらも相変わらず餌を探すのに余念がなかった。
 懸命に餌はあさるのだが、ほとんど収穫はないように見えた。
その徒労に等しい動作を繰り返すハトの群れの中に、片足鳩シルバーを目で探したが、彼の姿は発見できなかった。
 雨の日は、餌を漁る鳩の群れは少ない。鳩たちは雨を避けて多分樹木の葉の茂みか、建物の軒下などで雨宿りをすることが多い。
 だからシルバーもきっといずこかで、雨宿りでもしているのだろうと思ったものである。そして、雨が上がったある日、公園のベンチに腰掛けて鳩の群れを観察したがシルバーを見つけ出すことができなかった。
 私は心騒ぐ思いで、次の日も、また次のも、公園に出掛けてシルバーを探し続けた。
 そして、一ケ月が過ぎた。
こうなると私も、シルバーが消えうせたことを認めないわけにはいかなかった。シルバーが姿を消したことについて、私は次のように考えたのである。
シルバーは、きっと流れもの、放浪の旅をしている鳩ではなかったのだろうか、ということだった。
 シルバーは黒羽色の片足鳩なので、よその群れの中にいても、すぐに見つけ出せる。
 いつかどこかの鳩の集団の中で、あのシルバーを見かけることがあるかもしれない、と思いながら、攻撃的で片足で毅然と立っていた鳩のことが懐かしく思い出されるこのごろである。

 その老人と出会ったの一年も前なことであろうか。当院の患者さんであったから、病院の廊下でよく見かけた。
 今、その老人のことを仮に梶山と呼ぶことにしよう。しかし、私がその梶山老人と話を交わすようになったのはせいぜい半年ほど前のことである。
 診察が終わると公園に立ち寄って毎日のように鳩に餌を与えていた。餌は決まってパン屑であった。病院の地下にある食堂からサンドイッチに使ったパンの「ミミ」をもらい受け、ビニール袋いっぱいに詰め込んで公園にやってくるのであった。
 この梶山老人とは、公園でいろんな話をした。まだ五十そこそこの年齢でやったから、老人と呼ぶには酷であったかもしれない。しかし、彼は何年か前に交通事故に遭い、足を怪我して歩行も杖なしでは不可能な体であった。
 また、言語障害もあって、他人にはほとんど意味不明の言葉しか発せない状態の人であった。
 私も当初は彼の話すことを理解できなかったが、会話を重ねているうちに、呂律の回らない言葉の意味をその表情と手振りから、理解できるようになった。
 言語障害を伴った身体障害者だったから、彼は実際の年齢よりも十歳以上は老けて見えた。だから私はあえて梶山老人と呼ぶことにしたのである。
 通院の帰途、公園に立ち寄って鳩に餌を与えるのを日課にしたのも、そんな話を聞いてから、ようやく理解できたのである。
 彼にとって鳩に餌を与えて過ごす時間が、一日の生活の中でもっとも楽しく、大切な日課であったわけであろう。
 東京に珍しく雪が降った日、梶山老人鳩に餌を与えるため姿を見せなかった。そして次の日も、またその次の日も彼は公園に現れなかった。
 春先の雪は解けるのも早く、降雪の翌々日には、公園の雪もほとんど融けて樹木の植えられた場所だけに残雪があり、鳩たちは雪解け跡の地面で、餌もない砂を啄ばむ
だけであった。
 パン屑を与えてくれる梶山老人がやってこないので、鳩の群れは大変哀れであった。 中には砂を啄ばむ気力さえ失った鳩たちが、じっとうずくまるという光景さえ見られた。
 三日目になって、私もこれはきっと梶山老人の体に奇禍が生じたに違いない、と考えるようになった。
 翌日、私は地下食堂の人に彼について尋ねた。するとその返事は私の予想通りであった。
「あら、先生ご存じなかったんですか。三日前の夜、救急車で運ばれてきて、この病院に入院したんですよ」
 入院したのなら、そのうち見舞いに行ってやろう、と思って二日後、病室を尋ねたところ、「梶山さんは、わがままでね。ドクターの許可もないのに、勝手に退院してしまったんです」と、いう答えが返ってきた。
 それからまた二日後、病院の廊下で彼に出会った。
「入院していたんだってねえ」と、私が尋ねると、彼はうなずきながら、例の呂律の回らない言葉で、次のように答えるのだった。
「たいしたことはないのさ。点滴注射ばかりするから、いやになって自分で退院してしまったんだよ」と、答えて笑うのであった
 当然のことながら、ドクターの言うことはちゃんと守らないと病気が重くなるよ、という注意はしたのだが、「こんな体だから、長く生きたいとは思わないよねえ」と、答えて杖にすがりを出て行ったのである。
 しかし、梶山老人にとって、物言わない鳩たちは、唯一の友達であり、庇護、を与えたい動物だったのだなあ、としみじみ思ったのは、次のようないきさつに出会ったときであった。
 ある日、梶山老人が私を手招きして、千円札を出しながら、「パンを買ってきてほしい」というのであった。
 地下の食堂は休業しているし、近所のパン屋さんは休んでいるから鳩にやる餌がないから、というわけである。
 私は快く承諾して、自転車でセブンイレブンまでパンを買いに走った。
 そして、彼がさし出したお金も辞退した。彼は喜び勇んで、障害のある足を引きずるようにして、公園へと出かけていった。

 梶山老人は、片足鳩のことがとても好きだったらしい。やはりお互い障害を持つもの同士の信頼感を分かち合っていたのかもしれない。
 片足鳩シルバーがいなくなって数日後、私は片足鳩はいなくなったね、というと「あれは死んだよ」と、答えて青い空を見上げ目をしばたいた。
 私はその目に涙を見たような気がした。

 そして、その数週間後、この梶山老人も帰らぬ人となった。病名は心不全ということであった。


いちかわ市民まつり

2005-11-06 10:45:51 | Weblog
いちかわ市民まつり
 11月5日(土)、いちかわ市民まつりが、大洲防災公園で開催された。第30回記念祭ということだが、会場が防災公園になってからは、3回目である。どんなものかと、興味をそそられて、買い物がてらに会場に立ち寄ってみた。時間は10時頃だったから、開会まもなくだったが、ものすごい人並みでごった返していた。公園三方のの歩道には数百台の自転車で埋め尽くされていた。
 広場に並ぶテントの数・約150張に出店がぎっしりと詰まっていた。余りの多さに辟易して、写真に撮ると早々に退散した。

分身「takuchan」18回目の旅 ネパールの旅(7)

2005-10-16 08:41:45 | Weblog
16年11月27日

拓郎さん、ここは、凄い!

世界遺産にも指定される目玉寺に来ています。
この雰囲気、ただものではありません。

写真、撮ろうと思ったけど、ファインダー越しに仏塔に描かれた目がこちらをみているようで、どうしてもシャッターを切ることができません。

今日は、何か、無性に興奮しています。

           takuchanより


16年11月27日
拓郎さん

先ほどは目玉寺の写真送れな
くてすいません。
その代わり、といっては何で
すが、旧王宮ダルバールスク
エアで行われるインドラ・ジ
ャットラ祭の写真を見つけた 
のでお送りします。
 この祭は、釈迦族の血を引
く少女を生神(クマリ)とし
て祭るもので、旧王宮ダルバ
ールスクエアで行われます。

写真から伝わってくる熱気、ただものではありません。

           takuchanより