バッサリ斬り棄て、進撃のマダム!へ

大人になり過ぎて気付くことがある。老いを恐れず、今迄積み上げて来た自分から更に素敵マダムを目指すためのエクスポート。

嘘のような本当の話の恋話(コイバナ)はキツかった

2022-08-25 16:39:00 | 日記

私は、18歳の冬に初めて恋をした。

アルバイト先の先輩に一目惚れだった。告白することはできず、ただ毎日、勝手に彼を想っては胸が苦しく、落ち着かず、もう人生でこんなに人を恋しく思う事は2度とないだろうと思い、結局2年ほどの片想いの末、彼に彼女ができたと知って私の恋は消えた。

そしてそれ以降、本当に30年以上、他人(ひと)に対して愛するという感情が湧いてくることはなかった。

私を好んでくれた人の中から、良いと思う方を選ぶという感じでお付き合いが始まり、一緒にいるうちに情が湧くというような感じであった。結婚時も、幾度かお断りしたが、押し切られた様な形で結婚してしまったというのが正直なところだった。

また、離婚後に8年間のお付き合いをした方ともやはり出会った当初から愛というような感情が持てず、それを素直に御伝えしたところ、「きっと一緒にいれば愛が芽生える」という彼の言葉に促されて交際を重ねたが、彼と再婚したいと思うことはなく、身内のような同士のような想いを築けはしたが、それ以上に想いが育つことは無かった。そして、彼が自分のことを「愛している」と言ってくれる別の女性と人生をやり直したいとなり、お別れした。

 

そのような訳で、他人(ひと)を愛する事が出来ない私は、もはや一種の病気を抱えているのかもしれないと思い始めていた頃、ある彼に出会った。

初めてその彼と会話をした時、彼の話す姿を眺めていると、ふと穏やかな気持ちになり、

「私は、この人と過去世で出会っている」と自然に思えて、懐かしい何とも言えない不思議な気持ちに包まれた。

次に、なぜか彼がどんなご両親に育てられたのかが気になり、彼のご両親の質問ばかりをしたことを覚えている。

こんなスタートから彼と私は、瞬く間に付き合い始め、彼は20年ほど前に事故で奥さんを亡くしたとの事で、2人でこれからの人生を共に歩けたら幸せだと言った。

彼に出会ってからの私は、常に彼の事を考えるようになり、今後の人生を彼と共に寄り添って生きていきたいと自然に考える様になった。待ち合わせでも彼の姿が小さく見えただけで胸が高鳴ったし、手を繋ぐだけでとても熱い気持ちを感じた。娘にも直ぐに紹介し、娘も「あんなに優しく笑う人がいるんだね」と言い、私の交際を喜んでくれた。

 

しかし、お付き合いが進むと、全く理解しがたい事にぶち当たることがどんどん増えていった。

彼の発言には一貫性がなく、しばしば矛盾する。共に生きていきたい、人生のラストダンスを始めよう、ベターハーフとしてと、言うものの付き合いを発展させる事はしない。また時には瞬間的に別人のような態度を見せる事があり、「え??」と疑うような言葉をわざと私に聞こえるような声でつぶやく事が頻繁だった。

彼は仕事柄、三段論法で結果を導き出すようなことが多く、記憶することもたいへん大事であるはずなのに、矛盾した事を平気で言う。言った事を覚えていないのか?忘れたふりをして、意図して以前話したことと違うことを言っているのか?彼の本心は全く掴めなかった。


例えば、彼の意向で二人で暮らす為の物件を探しに出かけた翌週には、そんなことまるでなかったように「二人で暮らすなんて、今は考えていない」と、言ってくる。そしてまた、しばらくすると「長年の一人暮らしは、正直、淋しかったし、できるならば犬も飼いたかったのに、それができないでいる。だから、早く一緒に暮らそう」と言う。でもまた、その数日後には、「今まで一人で暮らしてきて淋しいなんて思ったことなんてない。逆に気儘でやりたい事ができて、欲しいものを手に入れることが出来て、今のままで十分幸せだ」と、あえて言ったりする。

またどうして?と、思うくらいに怒るような態度をとられることもあった。

彼は、私の家にはやって来るものの彼の家に私を招いてくれることはない。自分の部屋の写真だけを常にメールと共に送ってくる。

キッチン、リビング、トイレ、玄関、バルコニー、仕事部屋の写真を、更には部屋の間取り図も見せたりする。

でも、部屋に呼んでくれることはなく、熱で寝込んでいると連絡が来た時も、「何か買って行こうか」と提案しても、不要だと断られた。

彼の部屋に招かれないそのことについて私が話題にすれば、彼は肩をいからせて、胸を張り出し、威嚇するような見たことないような怖い顔つきで

「完璧な部屋をまだ作れていないからそんな状態の部屋に君を招くのは絶対に嫌だ。親や兄弟や男友達が来るのは今更だからどうでもいいのだけど、君だけは、家に入れるなんて絶対に嫌だ。」と怒った調子で言い、似た様な事が数回はあった。

他にも料理も家事も得意だという彼は、仕事が大抵リモートなので、毎日、オフィスに出勤をする勤務形態の私に「一緒に暮らしたら、毎日、お弁当を作ってあげたい」と言ってくれるのだが、少しすると、聞こえるほどの大きな声で、独り言のように「でも、毎日、お金は払ってもらわないとね。1000円かな、1500円かな」と、独り言の様な言い回しで呟く。これについても似たようなことが常にあり、付き合って半年もすると、会うたびにだんだんと疲れるというか、エネルギーを奪われるような感じを受けるようになった。周りからも、凄い疲れているように見えると言われることも増えていった。


そして付き合い始めて1年以上経った頃だろうか、彼と会った帰りのある日、なぜか急に自殺したい気持ちに襲われた。

その頃の私に死にたいと思うほどの理由は特になかった。最近疲れ気味という感じがあっただけなのに、なぜか、娘も社会人でそれなりの年齢になったし、私を以前ほど必要としないだろうし、もう、私は今まで十分頑張ってきたのだから、一層、死んで楽になるのがいいのでは?と浮かぶのだ。

その一方で、私は身内に自死した者があったため、その時の哀しみや残された者の辛さを知っており、自死に対しては必要以上に嫌悪感があり、絶対の否定論者である。だから、この私がそんな発想をするなんておかしいと冷静に思えもした。

その時、駅のホームに立つ私の中には、確実に、そのおかしいだろうと冷静に強く疑問に思う私と、もう、楽になってもいいよねと言う、別人格の私が、はっきりと混在していた。列車が来るというアナウンスがあった時に、急に娘の顔が大きく浮かんできて、「ママ、ダメ!今を生きて」という娘の声が聞こえ、楽になってもいいよねと問いかけていた私が消えた。本当に今まで体験したことない不思議な一瞬だったが、それなりの時間があったように感じられたほどでもあった。

そしてその直後、なぜだか彼の死別した奥さんのことが思い浮かび、彼女は自殺だったのかと悟った。うつ病で自殺したような感じが伝わって来た。

 

この出来事について、彼に伝えてもスルーされ、相変わらず、私が理解できない彼の様子は変わることは無く、そのうち彼からは、オブジェなのか?人なのか?わからないモノが白い布に覆われて、それに手足のない黒い塊の人のようなものが蛇の様に絡まっている映像が浮かんでくるようになった。


そして遂に、新年を迎えた正月の3日に、また矛盾したことをメールで送信してきた彼に対し、私は自身が限界であること、これ以上のお付き合いは無理なのではないかといった主旨のメールを返し、奥さんの死因についても言及した。彼からは、メールで病気を苦にして奥さんが自殺で亡くなった事を聞かされ、電話で彼女から解放された自分になって会いに行くから、月末に会って話したいと言われて承諾したが、約束は実現しなかった。

彼が言うには、約束の前々日に記憶障害と酷い動悸が生じて病院で検査を受け、睡眠導入剤を処方され眠っていたとのことで、結果的にすっぽかされたのだ。

しかし、もう、私は彼が話してくれた奥さんの死因に関する話も病院の話にもいくつか疑問に思う節があり、話を信じる信じないというよりも、もう考えたくない気持ちになっていた。

もう彼から強く伝わってくるのは、彼は恐らく憑依されていて、本人もそれを受け入れていると言う事。奥さんは彼への愛と怒りを持ったまま亡くなってしまっているという事だ。

私は、人生2度目の恋と呼べる日々にピリオドを打った。

大人になったつもりでいた私ではあったが、これについては、自分でも思う以上の心の深手を負ってしまって、半年以上経過するも正直、未だに立ち直れてはいない。

恐らく私は、もう他人(ひと)を愛さないだろう。

恐らく私は、そんなことを知る為にこの世に生まれてきたのではない気がしている。

 

・・・・・と、公言しておきながら、来年位に笑顔で 

どなたかと縁あって「再婚しましたぁ~」 

なんて言えたら、

『お前!言っている事とやっていることが違うじゃない?』と、周りに言われても、

この痛手の意味があったと云う事にできるのかもしれない。笑笑





母子家庭解散にあたり、アレやコレ

2022-08-22 17:29:00 | 日記

娘との18年間の母子家庭解散の前夜は嵐の夜だった。

最後の二人での晩餐であったが、娘の引越し準備がそれなりにハードだった上に外は雨風が強く、とても買い物へ出る気にはなれず、いつもの通り、家にある物で支度することにした。いつもは二人でキッチンに立ち、花嫁修業と称し、料理や片付けを娘に教えながら食事を作るのだが、今夜は娘の入浴中に、好きそうなものを、低脂肪高カロリーなものをと、私一人で準備してあげたかった。

ストックのシャンパンを抜き、少し良いワインも開栓したお陰で、それなりに良い具合の晩餐として洒落こむことに成功したように思う。





これまた、いつもの休日の夕食時間の通りに、お互いの近々の仕事、友人間で起きた事を話題にして食事をし、撮り溜めたTV番組のうち「マツコの世界」を観ながら、ワインを飲んでいた。いつもと違ったのは、娘がやたらと二人での暮らしの昔話をしたがり、同じく母子家庭で育つ友人らからは、「貴女の心情を思うと辛い!」と言われているとまで言ってきたこと。

正直、私は、淋しさよりも嬉しさが大きく、実に幸せな気分だったので、気に留めないフリをした。

もともと、あまり過去を振り向かないタイプでもある。過去の悪い出来事は、そのタイミングと環境とその時の考え方が起こしたことで、その時と今とは違う条件下にあっただけの事と捉え、振り返ることにあまり意味がないと思ってしまう。また、良い事も同様で、その時だったからで、今同じことをしても同様の感激や幸せに繋がると考えない。そのため、敢えてこのタイミングで娘と二人の昔話にふける気持ちにはなれなかった。

 

もともと、私達母娘は、かなりタイプが違う。私は、若い頃には、早く親から離れたくて、一人暮らしにも海外留学にも憧れていたものだが、娘は英国へホームステイに出すも海外暮らしが肌に合わないと言い、特に海外でテレビから流れるニュースの英語の音を聞くと気分が悪くなるとまで言う。英語スキルならわざわざ海外へ行かなくても在留外国人との触れ合いで十分、ブラッシュアップできる!とも言い張る。また、一人暮らしよりも親との同居の方がコスパは良く、精神的な安定を維持する事ができ、仕事での良いパフォーマンスに繋がると考えている様で、結局、私が予定していたよりも約5年も長く母子家庭生活が続いたのだった。

 

よって、今回の彼女の巣立ちについても、ふと、私達双方には受留め方に大きな相違があるのかも?との思いがちらつきもしたが、恐らく時間が解決するだろうと、そこにはフォーカスしない事にした。

私達の一つの時代はこれで終わり、今後、恐らく一緒に暮らすことはないのだろうと思う。

今後は、お互いの生活スタイルは確実に変化していき、各自の都合良いスタイルが確立されていくわけで、同居するなんて思いは浮かばないだろう。

娘は恐らく、私を一人にして出ていく事が忍びないと思っている様だったが、それは、実に無用なのだ。率直に言って、今年初めにお付き合いしていた男性とお別れし、娘に心配をかけたのは事実ではあったが、振り回されることのない憧れの一人暮らしにワクワクしていたし、娘が出て行った後の片づけと新レイアウトを考えることで、頭がいっぱいでもあったのだ。

なんとか、食事中にそれを伝えたつもりであったが、翌日、娘は、大きな涙を次から次へとぽろぽろ流しながら、私に見送られて彼の待つ新居へと越して行った。越してからも、チャットや写真が送られてくる毎日がしばらく続き、とりあえず、スタンプを返す位に留めた。

そのうち、新生活に集中し、私のことなど忘れるだろう。それが親子なのだと思う。

 

私は、新生活を楽しんでいる。

今までも自由に生活していたものの、やはり常に頭の片隅で娘の事があり、美容を気にする年頃なので食事内容を工夫し、スーパーで娘の好きなものを見つければ購入してしまう。洗濯もなんだかんだとやってあげてしまう始末で、この度、それらから一気に解放され、部屋は汚れないし、洗濯機をまわす回数は減り、時間にゆとりでき、生活がかなりシンプルになり、家事が楽になった。精神的にも、一つの大きな課題をクリアした満足感があり、根拠はないが、今の私は強運というか、運気に勢いがあるような気分で、この勢いのまま、ひとり旅に出かけてみようか? 新たな事に挑戦してみようか?と、いう思いがふつふつと、わき上がってくる勢いだ。が、現在、友人からは「気を緩めることなかれ」との戒めを受け、先ずは、慎重且つ丁寧に新生活を開始させている。

 




ラストイベントは、新たなスタートライン‼︎

2022-08-13 08:50:00 | 日記

母娘で暮らしてきた我が家は、毎年夏に舞台鑑賞するというのを定例にしてきた。例年、ミュージカルを観る事が多く、今年は、ブロードウェイミュージカルの金字塔的な傑作と言われ、既に初演より50年近く経つという「コーラスライン」の来日公演を楽しむことにした。長年演じ続けられる世界的に有名な定番ミュージカルだが、離婚した夫が常に、この作品を如何に好きかを結婚生活中に語り続けたため、なんとなく避ける傾向にあったのか、私達は未だ観ていなかった。

祝福と共に母子家庭解消の今年、既に私達母娘の歴史や記憶には、離婚した夫の影もかけらもなく、何の執着もない今、避ける理由はない。反って我が家の最後の定例イベントに相応しい作品になることだろう。

期待通り、殆どの役者が身長は高く、手足も長いその身体で繰り出す大きなジャンプや身軽なステップは圧巻だった。また、各ソロのダンスも、軸がぶれないというか基点を抑え、全身を使って舞うその安定感と美しさは見事としか言いようがない。

但し、ストーリーが、オーディションを受けるダンサー個々のここに至る迄のバックグラウンドを歌にのせて語り、ダンスで表現していくというものなのだが、そのベースが「人種差別、貧困、LGBT,家庭不和、いじめ」で、正直、そのお題はうんざりというか、内容が少し感覚的に時代遅れの様な感じがした。また、演出家とオーディションを受けに来ていた女性が以前、恋人同士だったという恋愛ストーリーも並行して進むのだが、それも現代の感覚では共感はなく、そうでなくてもこれって必要な設定?なのかと疑問に思った。その上、作品とは関係ないが、3列先に座る仲睦まじい老夫婦が、恐らくお互い年齢なりに耳が遠いようで、上演中に幾度も二人でコソコソ話をしているつもりだろうが、普通の会話よりも若干大きめな声が聞き漏れてきて、それも気になってしまっていた。

と、いう具合で舞台は進み、ラストに近付いた場面では、ダンサー達に「もし、踊れなくなったら、君はどうするのか?」という疑問が投げかけられた。最終的に彼らは「好きな事をやって来たのだから、悔いはなし」と結論を出し、全員で「What I Did for Love(愛した日々に悔いはない)」を歌い上げるのだが、それが私の心に沁みて、動かした。


コーラスライン開演前に、私は娘と暑さ凌ぎで喫茶店にいた。娘は、勤め先の同期に同じく母子家庭で育った男性がいて、よく話をするのだと切り出した。その彼が昨年、結婚をし、実家を出たとのことだが、毎月1度以上は実家に帰る日を設けていると知り、自分もそうするからと言う。

とりあえず、「ふーん」とだけ返したが、私は全くそんなこと望んでおらず、まして私の為というならば、それは間違っているし、不要である。しかし、娘は私を気遣っている様子でその気持ちは無碍に出来ず、うまく本音を伝える言い方が見つからなかった。

そして、娘の言葉は引っかかったままだったのだが、そう私は、娘を育ててきた事に対し今、やり切ったような思いなのだ。娘を授かり感謝と幸せだった。私が自分の人生で誇れるのは娘を育ててきたことだけかもしれない。だから、胸を張って嫁に出すし、娘も私を常に大切に思い、一生懸命頑張り、二人でやってこられた。娘からは既に十分に宝物の様な素敵な時間を貰った。

だから、娘にはもう親など振り返らずに、どんどん勝手に幸せ求めて進んで欲しいのだ。

私は私で、人生のネクストステージを開幕させるべく準備に忙しい。

私達は、それぞれが自分のステージを開幕させる時を迎えたのだ。


出演ダンサーらが、金の衣装を身に付け、おなじみの「ONE」を一糸乱れずに踊るフィナーレ。

正しく「ここが、新たなスタートライン」というフレーズが、舞台だけでなく、我が母娘にも相応しいと思えた。








見なかった事にしておきます。。

2022-08-12 08:07:00 | 日記
ちょっとしたすき間時間のあった休日に散歩に出かけたのは早稲田大学演劇博物館。
浄瑠璃作者の「近松半二の企画展」を開催していると見かけて、ちょっと立ち寄ってみたくなったのだ。
人形浄瑠璃なのか文楽なのか?は定かに覚えていないが、高校生の時の課外授業で一度見たきりで、殆ど知識はないのだが、ふと父親のことを思い出し、出向いてみたくなった。
展示はやはり少々難しく、番付表や戯曲が展示されていても読める力は私には無かった。が、展示されていた人形や「かしら」と呼ばれる人形の頭の部分の仕掛けがたいへん優れていること等に感心した。人が演じるよりも感情を上手く表現できる工夫があるように思い、演目を見てみたいような気持にふと、なったが、正直、私にとって優先順位は低いと思われる。
私が子供の頃、父は、歌番組やバラエティ番組等をテレビで観ている私達に子供に向かって、大抵、「くだらない番組を見る事は時間の無駄だ」とか「もったいない生き方をしている」と言ってきた。
どうせTVを観るにしても、日本伝統だとか歴史だとか世界の情報番組や遺跡探訪番組だとか、何か知識を吸収できるものを見るべきで、折角、自由な時間を沢山持つことのできる人生の貴重な時を無駄にしているというのだ。学びたいと思っても、家族の為に必死に働き、自分の思うような時間が取れない世代になってしまった父の言う事は、正しい。
しかし、当時の私達にはそれが到底理解できず、お笑い番組や歌番組や流行りのドラマに明け暮れていた。
そこで父は、親の背中を見せるしかないと考えた様で、私達がリビングで見かける父は、世界紀行だとか歴史検証、クラッシック音楽、オペラ、美術解説等々ほぼNHKにチャンネルを合わせることが殆どで、正直、当時の私にとってはあまり面白そうに思える物はなく、父の意には沿えないと少し申し訳なく感じていた。
そんなある日、弟が凄い勢いで私の部屋へ入ってくるなり、ドアを閉めると爆笑し始めた。
「何?何?何があった??」 
弟曰く、「階下のリビングにいるおやじをそっと、気づかれずに見てこい」と、大笑いで言うのだ。
「え?だって、ついさっきまでリビングで一緒だったし、テレビで文楽の番組を観ているよね?」と言ったのだが、弟は、「とにかく行って見て来い」と指図する。そこで、言われた通り、足音を立てずにそっと階下へ降りてリビングで目にしたのは、
「志村けんのバカ殿様」の番組を観て大笑いする父で、そこへ、わざと大きな音を立てて弟が階段を下りてくるようにすると、チャンネルを文楽の番組にさっと変えて、冷静な表情に変わる父の姿だった。

時折、思い返す我が家の貴重な良い想い出である。

泣けるうちは幸い!

2022-08-11 08:04:00 | 日記
ふと、目に留めた星占いで「今週は、金運の神社にお参りに行くと良い」とあり、出先で次の予定まで時間があり、少し足を延ばしてみることにした。
私が訪れたのは早稲田にある穴八幡宮で、冬至から節分迄の間のみ頒布する「一陽来復」という金銀融通のお守りで有名である。セミの鳴き声が降る様に鳴り響く階段を上がると、コロナパンデミック以降、久しぶりに手水舎に水が流れているのを見つけた。安堵と嬉しさが湧いてくる。早速、手口を清め、他の参拝人もほぼ居ない中、ゆっくりとお参りした。こんな時間の潰し方も中々良いなと思う。
それでもまだ次の予定までは少し時間があり、折角なのでふと早稲田大学を散歩してみようかという気持ちになった。
実のところ私は、子供の頃から実によく勉強をし、勉強が大好きだったのだが、大学進学が叶わなかったのでキャンパスライフは知らない。若い頃は、それをコンプレックスに思う事が頻繁にあったが、40も半ばを過ぎると学歴よりどう生きてきたかを評価してくれる場面に遭遇する事が増えて、今では素直に仕方なかったと人生の思い出の一つとして扱える様になった。

私が、勉強に夢中になったのには理由がある。一つは、実母が、「女性が勉学に夢中になると、本来女性としてすべき家事や自分を着飾る事への関心が低下し、女性の魅力に欠ける人間になる」という偏見を持つ人だったことだ。私が勉強をしているとわざと家事を言いつけたり買い物を頼んできたり、しまいには腹を立てたりするところがあり、家庭訪問や面談時にも担任の先生に「うちの子は勉強ばかりして困る」と訴えるほどで、このように「勉強するな!」と真っ向から言われると反って勉強したくなってしまったのだ。また、幼い頃から両親の仲がたいへん悪い家庭で、その喧嘩を見るのが苦しくて、あまり家に居たくないというのもあった。特に、休みで父が家にいる日曜が一番嫌いだった。そこで母とは違い学びたいという意欲に対して大賛成だった父にお願いして、一週間のうちの5日間を塾に通えるようにしてもらったのだ。
特に日曜の塾は最高だった。朝の9時から16時くらいまでお弁当持ちで授業を受け、塾では友達もできるし、通うのに電車で片道1時間超を費やし、ほぼ家で過ごさなくて済む。また、母に家事やらの用事を言いつけられて、集中を切らすこともなく勉強できた。
よって、小学生のころから大学進学を目標にしていたし、できるものならその後、海外のビジネススクールに進みたいとさえ考えていたのだが、大学進学を目指す前に、父が事業に失敗して失踪した。家には、ある日予告もなく見知らぬ大人が数人ずかずかと上がり込んできて、家具やら電化製品の家財を値踏みし、差押えをしていった。高校の担任からは、授業料の未納を告げられ、通勤定期券も切れて自転車通学に変え、バイトも始めた。そんな数カ月後、作業服の様な出で立ちで「命の洗濯をしてきたよ~~」と呑気な言葉で突如帰宅した父と入れ替わりに母親が出て行った。
私や妹弟は、笑うことは勿論、涙を流すことも忘れた。大学進学なんて、世界の何処にも見当たらない言葉になった。
人は泣くにもパワーが必要なのだと知り、「悲しい」と口にできて、泣けるうちはまだまだ余裕があるのだと思う。もし私も泣けていたら、例えば、夜学の大学を選択するとか何かしら考えられたのかもしれない。
しかし、私や妹弟は、あれよあれよと反転してしまった想像もした事のなかった新しい日々を闘うことに必死で、その後数年、それぞれが笑い方も泣き方も忘れて表情を失った。時折、持てる力があれば、それは怒りになり、また力を失うという繰り返しだった。
でも、今思い返して浮かぶ言葉は、
人生ってすごい!
明けない夜はなく、止まない雨はなく、出口のないトンネルはないというのは真実で、私達は、それぞれ安心と思えた居場所や信じることのできるパートナーに出会えた時、自然と心から笑えるようになった事を身をもって知った。

妹が、結婚したい人がいると彼氏を連れて来た時、3人で食事しながら、お酒を飲んだ。満面の笑みで彼を紹介し、2人のなりそめを話していた妹は、笑顔だったのに何故かそのうち一人で勝手に怒り出し、最後は彼にもたれてシクシク泣き、彼に慰められると、そんな彼がやっぱり好きだと、言ってニコニコするいう酒癖の悪さを見せてくれた。
彼は、「酔っぱらうと笑って怒って最後は泣くんですよ。でも、そんな所も可愛くて」と言ってくれていた。

面倒な酔っぱらいの醜態であったのだが、私には、妹が眩しくて、可愛くて、何よりも兎に角、感情を思いっきり出す姿が嬉しく、ほっとした思い出として、今でもしっかり残っている。