葵郁とぱぱとままの成長日記

Aoi&Makoto&Noriko Growth diary

学童

2011-04-27 08:52:44 | 6歳
佐賀より戻った翌日から学童がはじまりました。
お弁当と学習用のプリント持って一日過ごします。

AOIといえば、ずーと本を読んでいたそうです(笑)


佐賀での生活

2011-04-26 08:54:31 | 6歳
「朝やること」を決め、毎朝6時に起きて剣道へ。
ごはんを食べて、歯を磨いて、くもんとプリントすませてるといとこが来てくれる時間になり、その後遊びまくっていたそうです。
しかも、相手は小学生。あおいもとうとうDSのポケモンにはまってしまいました。
そんな生活を毎日続けていたようです。
おじーちゃん・おばーちゃんには本当に感謝です。
あおいは、「佐賀はいいよな~食べ物特に佐賀牛はおいしいよ。おばーちゃんはなんでも買ってくれるし!」と言っていました。どんだけ甘やかされてるんだ(笑)
周りの人もいろいろ心配してくれたり、遊んでくれたりで、あまり寂しい思いをしなかったようです。私も毎朝電車でメールを書き、夕食の時間に電話を続けました。
感動の再開の日は、空港まで来てくれたのですが、眠くて眠くてママを確認したら、直ぐに寝てしまいました。
あおいにとっては、疎開というより、休みを満喫した感じだったようです。

佐賀へ

2011-04-25 08:56:59 | 6歳
地震でこの先どうなるか不安な中、3/19-4/3の15日間でAOIを佐賀に疎開させることにしました。
佐賀でAOIと分かれるとき、ママが号泣してしまいました。
すると、「まま大丈夫だよ。」「いいこにしているから。」とづーと抱っこしあっていました。ママが搭乗近くなると、ガラス越しに、「フレーフレー!マーマ!!」「がんばれがんばれ、マーマ!!」と大きな声でエールを送ってくれました。

私が、飛行機に乗った後、おばあちゃんの胸の中で、「ぼくだって泣きたかったよ」と
言ったそうです。がんばってくれて、ありがとう!!

3.11

2011-04-08 11:40:17 | 6歳
ブログ長らくお休みしていました。

地震の日、本当に怖かった。
ちょうど留学生の相手をしていました。
留学生はどうすればいいのかわからず、ボーとしていたので、頭をつかんで机の下に押し込みました。私も机の下に隠れました。
地震がおさまってから、グラウンドへ逃げました。
そこで、1時間くらい過ごし、オフィスに戻ってよいという許可がでました。

夫と災害があった場合は、夫は保育園にお迎えにいけないと言われていたので、私がお迎えに行くしかないと思い、職員も帰宅してよいと放送があった2回目の時に、大学をでることにしました。
普段走っているおかげか、何時間かかるか分からない距離でしたが、歩き続ければつくだろうと考えあるくことに。
インターネットもつながらなかったため道順が分からない状況で、行けばなんとかなるだろうと思いました。
まずは、渋谷まで同僚のNさんと行きました。
上から物が落ちたとき少しでも予防できたと思い分厚い本と水2本、(ブーツだったので途中つらくなるかもと思い)ナースシューズを持ちました。

歩いていると、大企業の本社があったり、各種団体のビルがあり、へ~こんなとこにあるんだ!なんてのんきにあるいていました。

最初は、保育園にこんなときに連絡したらかえって迷惑になると思い、連絡をしなかったのですが、青山につくころには暗く、寒くなってきました。しかも思ったより時間がかかり、4時20分に出発したのに、7時近くなっていました。
親にメールで保育園の電話番号と保育園の携帯番号を伝え、あと3時間位かかりそうだけど、そちらに向かっていますと伝えてほしいと連絡を入れました。
青山学院大学の傍を通りかかったとき、保育園のメーリングリストへお友達のお母さんから園長先生のメッセージが送られてきました。『子供たちは全員無事です。職員が子いらっしゃるまで子供たちをみていますので、ご安心ください』。このメッセージを見た瞬間、疲れと不安から涙があふれました。
そしてまた、歩こうという気持ちになりました。

渋谷でNさんと別れて、東急線沿いに帰えれば大丈夫!と思いそのまま歩いていると、
な、なんとJR恵比寿駅についちゃいました!代官山に戻り、地図を購入しようとしましたがありませんでした。
声を5、6人にかけたのですが、わかりませんという回答しかこないし・・・とりあえず
進んでいて、Iphoneを片手にもった女性に声をかけると、調べてくれて、代官山駅はこっちですよ。と教えてくれました。

代官山についたところで、よくわからなかったのですが、数回交番で道を聞きながら進みました。中には、そんな遠いとこわかんないよとか管轄外だからといわれることも。
でも新宿で教えてくれた警察官は、この方向に進んで、●●通りや●●って神社を目指していけばいいよ。と教えてくれたので、あってるかどうかわからないままもそのまま進んで行きました。

パパもお迎えに行くことができるとメールをくれ、一安心。私はとりあえず帰ることだけを目標に歩き続けました。

どこをどう通ったわかりませんが、新宿で教えてくれた●●通りがあったり、●●神社があったりして、方向的にはあってると思いつつ、ひたすら歩き続けると、知っている地名になってきました。
看板に中原街道の文字がでてきた時は本当にうれしかった!
中原街道は前の会社がある場所だったので、よく知っている道だったのです。
そこに入り、長くてもあと1時間位と思った時には、寒さに震えていました。普段だれも入らないような定食屋やラーメン屋もちょうだの列。。。。。
どうせ食べるのならおいしいものがいいと思い、もっとあるくことに(笑)
するとお店はやっておらず、かなしかったのですが、目の前に別のラーメン屋がありそこにはいることにしました。
お客さんたちは、お台場からきました。とか、新橋からきましたとか。みんな知り合いに話すようにいっていました。
そこのお店のおばさんも、『がんばって!』と声をかけてくれて、心がほかほかになって外にでました。さあ、残り30分足が棒のようになりつつも元気に歩きました。

しかし・・・・我が家は高層マンション・・・ついたとしても高層階まで上るのかと考えると急にテンションが低くなりました。ちょうどそのとき母から『頑張れ あおいとは話した』とメールがあり、AOIにあいたい一心で家の前につくと、なんとエレベータは動いていました。
そして、家の玄関で倒れこみ、パパがブーツを脱がせてくれました。
AOIは疲れたのか早々に寝ていました。しかも、数年前に防災用の洋服を着ていました。(防災用の服とズボンには、名前と住所電話番号、保育園の名前や血液型を白い布に書いて縫ったものです。)防災用の服なんて使うことないんだから、こんなの用意するだけ無駄と思っていたのに!!必要だったのですね。

30分位休んでから、リュックに洋服や缶パン、水などを詰め込みいつ何があってもいいよに用意しておき、服をきたま寝ることにしました。

家に帰りテレビを見ると、大変なことになっていました。

人生の中で一番怖い思いをした。
これが、私の3.11の日のできごとです。