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過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

体験談7

2008年08月06日 | Weblog

   【まのあたりにした神宮の害毒】

昭和57年、伊勢市の高校を卒業した私は、就職先を決めるにあたり、家から近くて休みが多い割にお給料が良いという理由で、「特殊な世界だけど大丈夫?」という担任の心配をよそに、伊勢神宮に勤務することにして、そこで、舞女として3年間、さらに神宮司庁で2年間、計5年近くにわたって勤務しました。
そこはまさに社会から隔絶された、特殊な世界でした。「特殊」というのは、単に世間一般から見て変わっている、という意味ではなく、普通では考えられない異様な世界、という意味です。
まず、勤め始めて1ヶ月も経たないうちに、同期で入った1人が不正出血が止まらなくなって退職、長野県から来ていた仲の良かったIさんも、自律神経失調症で下痢が止まらず激やせしていきました。
その後も、「血液の病気」ということで体調不良に陥った先輩が辞め、実家が邪宗の寺であるという後輩が、幾度も意識を失って倒れることを繰り返したあげく、辞めていきました。
病気ばかりではありません。当時、舞女は総勢40名近くいたのですが、その取締役の職に就いていたTさん(実家が神社の宮司でもあった)は、何度も体調を崩して休職し、たまに職場に顔を出したかと思ったら、ほんの些細な事で、自分より20歳近くも年下の女性たちを相手にヒステリックに泣き叫ぶのです。
そして私は、生まれて初めて、身に染みて恐ろしいと思う出来事に遭遇しました。
月に1度、神楽殿という所に神楽を奉納しにくる女性がいるのですが、この女性は、神主が祝詞をあげ始めると物が憑いたようになって暴れ始めるのです。それは、まるで人間以外のモノに変わってしまった、としか言いようのない姿で、その光景を初めて見た時の驚きと、襲いかかられるんじゃないかという恐怖感は今でも忘れることができません。
さて、神楽殿では、1万5千円以上、5万円以上、10万円以上、50万円以上と、玉串料に応じて神楽の種類が増えていき、その中で、家内安全や商売繁盛、病気の平癒など、参拝者の願いに応じて神主が恭しく祝詞を読みます。参拝者の中には、不治の病に冒され、それこそ藁にもすがる思いで参拝してきている人もたくさんいました。
しかし、神楽殿では神主がそれらしく祝詞を読みますが、壁1枚隔てた控え室では、神主達と神楽殿番の舞女たちが、差し入れのお菓子を食べながらワイワイと楽しく雑談をしているのです。そこに、人の身を案じる真剣さや緊張感など全くありません。
この様子を見て、私は「神に祈っても病など治らないのだ」と、当り前のように感じましたし、一緒に勤めていた神主や舞女・楽師の誰もがそう思っていたはずです。
また当時、神宮の山の中で職員が首を吊って自殺する事件がありましたが、これについても不審に思うでもなく、ともかく隠ぺいしただけで、世の中にその事実が公表される事はありませんでした。
神宮で出すお守りについては「年1度は新しく買い替えるよう促す」旨、教えられ、そのように参拝者に答えていました。
一方の参拝者についても、信仰というより、団体旅行の観光気分で来ている酔っぱらいも多く、しつこくからまれることもたびたびでした。
また、私自身に関わることですが、当時、交際していた神宮の神主だったOさんは、平気で嘘をついたり、急に意識を失って倒れる等、普通ではありえないことがたびたびで、最後には、玉串料を盗んだところをカメラに収められ、神宮を退職することとなってしまいました。
その際、印象的だったのは、それまでOさんの面倒を親身になって見ていた神主から、いとも簡単に「もう彼とは関わらない方がいい。彼はダメだ」と言われたことです。そんなに簡単に、可愛がっていた人を「脱落者だから」といって人としても見放すのかと、大変違和感を覚えたのです。
その頃から急速に、神宮の世界はうわべだけ清く見せているが、実際は矛盾に満ちた虚像の世界だ、と感じるようになっていきました。
そして昭和61年の末、私は同級生から折伏を受け「不幸の根源が邪宗教にある」ことを教えていただき、心より納得ができて、日蓮正宗に入信しました。
神宮を辞めた私は、その後、神奈川の実家に戻っていたOさんと、神宮で同期だった高柳さんを折伏して、2人とも入信することができ、その後も次々と神宮の同僚や神主に話をしていきました。
それに対し、「そんな宗教をしていると、そのうち新聞に載るようなことになるぞ」と言って反対した神主のTさんは、数年後、松坂駅の男子トイレで男子高校生に痴漢行為を働いて現行犯逮捕され、雑誌週刊誌に大々的に採り上げられました。
他の神主も誰一人、まともに話を聞こうとしませんでしたが、彼らが口を揃えて言ったのは「神道は宗教じゃない」ということです。その上で、ある人は「神道とは神の道と書くように、日本古来の伝統文化であり、塩・米・酒なんだ」と言い、またある人は「神主は神と人間との仲立ちをするだけの役割」「宗教法人となったのも時代の流れ」と言いました。つまり、神道の大元である伊勢の神宮から全国の神社に至るまで、本当は宗教ではなく、人を救えるなどとは全く考えた事もない、というのが彼らの本音だったのです。
それならそれで、信仰礼拝の対象となるお札や、厄除けのお守りなど発行すべきではないと思いますが、これを発行して人々に拝ませ、かえって人々を不幸のどん底に落としているのが神宮の実態です。
私は日蓮正宗に入信して以来、自分自身が精神面で大きく変わり、生活上にも様々な功徳を頂戴し、今に至る事ができました。これも全て御本尊のおかげと、本当に有り難く感謝しております。