令和7年1月1日発行 たかはま広報にたかはま歴史探検隊会員が記事を担当しましたので紹介します。
以前から何処の場所なのか分からず、それらしき逆への字の地形で112年前海だった場所の近くを探し、それとなく見当を付け調査しましたので結果を報告します。
明治44年3月
より鮮明な写真で、松渚館の玄関前右に大きな石が有ります。
大正11年発行 高浜町商工案内に掲載されてる「清渚館」の記事
より鮮明な写真で清渚館玄関先の門前右に大きな石が有り、明治44年の写真と同じ場所であることから
おそらく、松渚館から清渚館に名前を変更したと思われます。
昭和20年頃の本町通りの明細地図
昭和20年頃の、川ノ田海岸で遠浅の綺麗な海水浴場や地引き網が出来たと聞きました。
当時の海岸線から徐々に埋め立てられて現在に至る
現在の場所は、高浜市碧海町三丁目8番地辺り
明治44年3月
より鮮明な写真で、松渚館の玄関前右に大きな石が有ります。
大正11年発行 高浜町商工案内に掲載されてる「清渚館」の記事
より鮮明な写真で清渚館玄関先の門前右に大きな石が有り、明治44年の写真と同じ場所であることから
おそらく、松渚館から清渚館に名前を変更したと思われます。
昭和20年頃の本町通りの明細地図
昭和20年頃の、川ノ田海岸で遠浅の綺麗な海水浴場や地引き網が出来たと聞きました。
当時の海岸線から徐々に埋め立てられて現在に至る
現在の場所は、高浜市碧海町三丁目8番地辺り
たかはま歴史探検隊より、昭和36年頃の懐かしい写真を公開します。当時の思い出がよみがえる方がみえれば幸いです。
全ての画像提供:高浜市郷土資料館
玉津浦海水浴
全ての画像提供:高浜市郷土資料館
玉津浦海水浴
たかはま歴史探検隊より、吉浜銀座と言われた時代のうちわです・・・全てのうちわは個人蔵です。
昭和36年に、炭鉱離職者住宅として建設された屋上から東西南北を撮影した写真が残されていますので、約60年前の風景が大きく変わった事が良く分かる資料だと思います。
全ての画像提供は、ギャラリー彦六
よく見ると、遠方中央やや右の林の中に神明社の石の大鳥居が見えます。
遠方左側の大きい建物は吉浜小学校の講堂です。
遠方画面右の林は高取神明宮と思われます。
高浜中学校のグランドと講堂です。
高浜のスズメが黒かったと言われた時代の町並みで、こんな状態でも生きていくため必死に働いた時代。
全ての画像提供は、ギャラリー彦六
よく見ると、遠方中央やや右の林の中に神明社の石の大鳥居が見えます。
遠方左側の大きい建物は吉浜小学校の講堂です。
遠方画面右の林は高取神明宮と思われます。
高浜中学校のグランドと講堂です。
高浜のスズメが黒かったと言われた時代の町並みで、こんな状態でも生きていくため必死に働いた時代。