平らな深み、緩やかな時間

303. 2023年3月個展のパンフレット・テキストより

3月13日から、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。

展覧会の案内状を次のサイトからご覧になれます。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

上記のページに書かれているギャラリーの「3月の予定」を見ていただくか、私のホームページの「pdfファイル」を見ていただくか、いずれの方法でもOKです。

それから、個展で配布する予定のパンフレットの原稿ができました。昨夜、印刷に回しましたが、そのあとでフォントの色が意図しないところで変わっていることに気がつきました。他にも文章表記でさまざまな誤表記や校正不足があると思いますが、もうギリギリなので仕方ありません。作品写真も色味の校正をしていないので、印刷が仕上がってみないとどうなるのかわかりません。

パンフレットのpdfファイルを今週末にはホームページに掲載しますが、ここでテキスト部分のみ、先に掲載いたします。上記のような事情で、不備があるかと思いますが、体裁を整えることよりも、私がいま生きて、悩んで、迷っていることをそのままお伝えしたい、という点では、パンフレットもこのblogも同じです。ということで、さまざまな点でご容赦ください。

それから、今回の展覧会は仕事上、あるいは個人の事情からちょっと忙しくて、週末すら画廊に滞在できない見通しです。来てくださったのにお会いできない方々へ、あらかじめお詫び申し上げておきます。でも、少しでも多くの方に作品を見ていただけるとうれしいです。

それでは、ここからパンフレットのテキストになります。

 

<2023.3 個展テキスト>

このパンフレットは2023年3月に開催する京橋・ギャラリー檜での個展のために製作したものです。新型コロナウイルスの感染状況下で会場に来られない方のために記録として作っておきたい、と思ってパンフレットを製作して数年が経ちました。少しずつ状況は改善していますが、しばらくは継続することにします。そして、もしも私の活動に興味を持っていただけたなら、私の発信しているホームページやblogもご覧になってください。何かの参考にしていただければ、こんなにうれしいことはありません。

 

 スピノザの哲学は、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学であると言うことができます。

 頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・。

(『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎より)

 

 私は近現代の絵画を見直していく中で、絵画における「触覚性」について考えるようになりました。そんな私には、國分さんのスピノザ解釈がとても興味深いものだと思えたのです。「脱構築」どころではないモダニズムの捉え直しが、いま必要とされています。「触覚性絵画」は、その一つの試みとなり得るものです。

<案内状・プレスリリースより>



 私はこの数年、blogに思いついたことを書いています。ここでは、そのblogに書いたことの中から、私の作品と関わることを思いつくままにまとめて書きました。もしも、それぞれの課題について興味を持っていただけたなら、ぜひblogの関連する項目を選んで読んでください。



さて、上記の「案内状・プレスリリース」で引用した哲学者の國分功一郎さんの文章ですが、もう少し長めに引用すると、次のようになります。

 

たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリをあなたの頭の中に入れれば、それが動いていることを教えてくれる。ところがスピノザ哲学の場合はうまくそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・。

(『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎より)

 

 先に書いたように、私は國分功一郎さんが提唱している「思考のOSの入れ替え」というところに興味を覚えました。私流にこのことを現代美術の動向に置き換えて解釈すると、20世紀のモダニズムの時代が終わって、次はポスト・モダニズムだ、というのは単なるアプリの乗り換えに過ぎません。いま、芸術や絵画に限らず、世界が必要としているのは、國分功一郎さんが言うような「思考のOSの入れ替え」なのだと思います。

 なぜ「思想のOSの入れ替え」が必要なのか、もう少し説明が必要ですね。ちょっと美術から離れた話になりますが、しばらくお付き合いください。私は若くて優秀な専門家(学者)の意見に、できるだけ耳を傾けるようにしています。例えば、少し前にベスト・セラーになった哲学者の斎藤幸平さんが書いた、『人新世の「資本論」』という本があります。その本の紹介文は次のようなものです。

 

人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

(『人新世の「資本論」』紹介文より)

 

 私は学者ではないので、斎藤幸平さんがこの著書で言っていることの妥当性については、よくわかりません。しかし斎藤さんが近代社会の根幹である資本主義のあり方に疑問を突きつけていることには共感しました。國分功一郎さんが「考え方のOSを入れ替えなければならない」と言ったように、斎藤幸平さんもこの著書の中で、「この正しい方向を突き止めるためには、気候変動の原因にまで遡る必要がある」と書いています。若くて真剣な専門家は、現在の危機的な状況について、目先のことではなくて、時間を遡ったところから考え直さなくてはだめなのだ、と言っているのです。これを美術の話に置き換えるなら、先ほども書いたように「モダンの次は、ポスト・モダン」というようなことではだめなのです。もっと根本から考え直すことを、私たちは求められています。

 ただし、私は國分功一郎さんや斎藤幸平さんたちが提示する思想や社会的な問題への対処法を、やみくもに美術に置き換えようというのではありません。話はその逆で、現代美術の世界こそ、もう数十年も前から行き詰まっている状態で、真剣にそこから脱する方法を考えなくてはならなかったのです。このことはblogで散々書きましたが、モダニズム美術は深い袋小路に入ってしまっていて、ずいぶん前からそこで沈滞していたのです。その後に現れたポスト・モダニズムの美術は、モダニズムのような大きな動向にはなりえていません。もしも、そのように吹聴している動きがあるとしたら、それは商業主義的な思惑からご都合主義のムーヴメントを演出しているだけです。

 もちろん、現在でも世界中で優れた作品を作り続けている作家たちがいます。しかし、彼らの動向を一つに束ねることは、不可能だと思いますし、その必要もないのです。さまざまな考え方の作家たちが、同じ時間軸の中で活動していて、そのことを互いに認め合うということが、いま求められています。それを「ポスト・モダニズム」などという言葉で束ねること自体が、ナンセンスなのです。

 現在の世界は、このように多様な考え方が共存する「場」として捉えるべきだと、マルクス・ガブリエルさんという学者が、『なぜ世界は存在しないのか』という著書の中で詳しく書いています。ガブリエルさんの学説によれば、「世界」という概念はそこにはなくて、さまざまな世界観が共存する「場」のようなものがあるだけなのです。

 以上のことを踏まえて、ここで確認できることが二つあります。一つは、私たちは次の時代の「主義(イズム)」や動向を無理に捻出する必要などないということです。もう一つは、現状を小手先で変えることを考えるのではなく、私たちの思考を遡って根本的なところから考え直さなくてはならない、ということです。

 

 私は数年前から「触覚性絵画」という概念を念頭において制作を続けています。絵画は視覚的な表現ですから、「触覚性」という言葉はそぐわないのですが、それを承知であえて「触覚性絵画」と言っているのです。これは、考えてみると私なりの絵画における「OSの入れ替え」でした。もちろん、数年前の時点でそんなことを考えていたわけではないのですが、モダニズムの理論に則った絵画表現に行き詰まりを感じていた私は、何かを根本的に変えなくてはならない、と思ったのです。

 そんなことをモヤモヤと考えているときに私が読んだのは、哲学者の中村雄二郎(1925 - 2017)さんが書いた『共通感覚論』(1979)という本でした。その中に、次の一節がありました。

 

近代文明の視覚の独走、あるいは視覚の専制支配に対して、ずいぶんまえから多くの人々によって、いろいろなかたちで触覚の回復が要求されてきた。視覚の独走は、すでに述べたように、人間と自然、人間と人間との間に見るものと見られるものとの冷ややかな分裂、対立をもたらした。それに対して、人間と自然、人間と人間をそのような分裂や対立から救い出し、ふたたびそれらを結びつける力をもっているのは触覚だ、と考えられたのである。

(『共通感覚論』中村雄二郎)

 

 この『共通感覚論』は、「コモンセンス」という言葉が、「常識」という意味と同時に「共通感覚」という意味を持っていたことに注目して書かれた本です。その「共通感覚」とは、例えば「甘い」という言葉が味覚上の意味合いだけでなく、視覚や聴覚、嗅覚に関する表現にまで使われているように、諸感覚を分断せずに統合した「感覚」が私たちの中には存在する、という考え方を示した言葉なのです。そして引用した一節のように、近代文明は五感のなかでも「視覚」を優先することによってさまざまな発達を遂げてきたのですが、そのことによる弊害もあらわれてきました。中村雄二郎さんは、1970年代にそのことを察知して、この本を書いたのだと思います。

 

 そして「触覚性」ということを考えていると、いろいろな本や思考に出会います。例えば高村峰生さんという研究者の書いた『触れることのモダニティ  ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』という著書があります。この本はまさに、タイトルに列挙された作家や批評家、研究者の思想から「触覚性」を取り出して考えるというものです。

 あるいは美学者の伊藤亜紗さんが書いた『手の倫理』という本にも出会いました。伊藤さんは障がいのある方と接しながら、「ふれる」と「さわる」という言葉のニュアンスの違いを考えるなど、私たちが見過ごしてきた「触覚性」の問題について考察を進めています。この『手の倫理』では、哲学者の坂部恵(1936 - 2009)さんの思想についても探究されています。

 それから、冒頭で引用した國分功一郎さんですが、彼が書いた『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本も、とても興味深いものでした。視覚による素早い認識は、近代文明が尊重した「能動性」と相まってモダニズムを形成したのですが、もともとのヨーロッパの言語には「能動態」と「受動態」の間に、「中動態」という概念がありました。國分功一郎さんは、この「中動態」の価値を見直すことで近代の捉え直しを試みているのです。

 私はこの「中動態」という概念に興味を覚え、その視点で芸術について論じた本がないのだろうか、と探しました。そして見つけたのが森田亜紀さんという研究者が書いた『芸術の中動態 受容/制作の基層』でした。この本は、芸術の「創造性」という概念の中にいつの間にか根付いてしまった近代的な考え方を、「中動態」という概念から解き明かしていきます。私たちは気づかないうちに、能動的な創造者であることを求められているのですが、その呪縛を意識するだけで随分と気持ちが楽になるものです。この本も、やはり芸術における「OSの入れ替え」に関わるものでした。そして「中動態」という概念は、対象物と私たちとの双方向の関係性を築くという点で、「触覚性」の概念と近いものがあるのです。

 これらの本から私が読み取ったり、学んだりしたことは実にいろいろとあるのですが、その中でももっとも素朴で単純なことを書いておきます。人間は「もの(対象物)」から距離をとって視覚的に眺めていると、その「もの」を自分の思い通りに操作できるような錯覚に陥ります。近代科学はまさにそうした操作から発達してきたのですが、結果としてその弊害があらゆるところで現れていると思います。しかし「もの」との距離を縮めて直に触れてみるといろいろなことが実感として伝わってきますし、それだけではなく、相手からの反応も伝わってきてきます。それが、相互的な理解へと発展していくのです。相互理解が深まれば、「もの」や「相手」を一方的な操作によって変えてしまおう、という人間の欲望も形を変えることになるでしょう。「もの」との関わり方の根本から変更するという意味で、これは重要な「思考のOSの入れ替え」なのです。

 そして私は、芸術表現においてならば、「視覚性」重視の考え方をあらためて「触覚性」に配慮した思考のあり方を指し示すことができる、と考えました。それはとても困難なことですが、社会全体を一気に変革する力は私には(誰でも?)ありませんが、芸術表現の新たなあり方を探究することならば、私一人でもできます。そして、もしも表現者の一人一人が同様のことを試みるなら、いずれ理解者が増えていって、社会的な大きなうねりとなるでしょう。

 

 話がだいぶ大袈裟になってしまったでしょうか?

 私はまったくそう思わないのですが、この辺りで、具体的な表現上の手がかりについても書いておきましょう。

 絵画において「触覚性」を重視するということは、視覚的に心地よく消費されていくだけの絵画ではまずいということです。視覚的に、つまり作品を見た時に、何か心の中に引っかかるものがあって、「これはちらっと見ただけでは済まないぞ」というふうに感じさせるものがなくてはなりません。鑑賞する方の視線を画面上におしとどめて、その方の心の中に違和感を生じさせる必要があるのです。人は心に違和感があるとそれを解消しようとしますから、例えばその方は私の描いた行為の痕跡をなぞってみたり、素材の物質感を肌で感じようとしてみたり、いろいろなことを試みるでしょう。それらの視覚的な行為が、「絵画に触れる」ことになるのです。

 それから、今回の制作でとくに意識するようになったことは、ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)やボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)のような、独特の色彩の質感です。ゴッホは、細い筆のうねるような筆触を持っていましたし、ボナールはボソボソと壁に触れるような筆触を持っていました。彼らの画面は、それに加えて色彩が独自の触覚性を持っているのです。彼らの筆触と色彩は不可分で、その秘密を解き明かしたい、とずっと思っていました。

 また、画家の中西夏之(1935 - 2016)さんは「混合色と云われるものが、原色となるような正三角形パレット」という不思議な制作メモを残しています。実際に彼は「紫・オレンヂ・緑を三原色としたNのパレットの例」という具体例まで示しています。私たちは、何の疑問も抱かずに、赤、黄、青を基本的な色として扱いますが、その概念を突き崩すとどうなるのか、中西さんは試行錯誤しています。そして中西さんの絵画には、絵画という概念をその成立のときから見直して、もう一度、絵画表現とは何なのかを問いかけようとする壮大な探究心を感じます。中西さんの絵画は、「思考のOSの入れ替え」をたった一人で実践した事例として、今後、ますますその価値が認められるのだろうと思います。

 私がこれらの色彩に関する思考に興味を持ったのは、文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)の色彩論について考えてみたからでした。ゲーテの理論は科学的ではない、と色彩科学の世界では退けられているのですが、彼の徹底した主観性はかえって興味深くもあり、また時には愉快です。ゲーテにとっては、酒場で「透き通るように白い顔をした、黒い髪の、真赤な胸衣を着た、立派なからだつきの少女」に見惚れてしまうことさえも、研究になってしまうのです。その赤い服の少女をじーっと見た後で、少女が去った白い壁に補色の「美しい淡緑色」が見えた、というのは本当でしょうか?いずれにしろ、そのおおらかさが楽しいのです。

 このようなことを考えていたので、今回の個展では今までよりも色彩に対する意識の高い作品を見ていただけると思います。色彩表現に取り組むことは簡単なことではないので、作品の良し悪しはまた別の話になります。しかしそれにもかかわらず、「触覚性」という概念に色彩がどう関わってくるのか、という自分なりの課題が増えるのは喜ばしいことです。私のように知性も才能も不足している人間にとっては、そのときどきの作品の見栄えを気にしている暇はありません。とにかく、絵画表現の「思考のOSを入れ替え」るために、少しでも多くの課題や悩みを抱えたいのです。大風呂敷を広げたいわけではありませんが、自分自身の表現が容易に解決できない問題や矛盾を孕んでいることは、決して悪いことではないと考えています。

 

 私も、少し前ならこんな風には考えなかったと思います。というのは、モダニズムの考え方というのは、例えばアメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 – 1994)が「平面性」だけが絵画を他の表現と分かつ唯一の特徴だ、と書いたら、本当に平滑な色面の絵画になってしまうぐらい、理論的な原則へとひたすら走ってしまうのです。グリーンバーグは、自分はカント(Immanuel Kant 1724~1804)に端を発する「自己批判」の思想に影響を受けたと書いていますが、さらにその源をさぐると、デカルト(René Descartes、1596 – 1650)にまでたどり着くでしょう。

 そのデカルトの有名な「我思うゆえに我あり」(コギト)という思想は、その後の近代哲学の原理となりました。「私はあらゆることを幻ではないかと疑ったけれども、そのように疑っている私という存在だけは疑う余地がない、だから私という存在は確かなものだ」というのがこの言葉の趣旨です。國分功一郎さんは、このデカルトの思想は他者の反論を封じ込めるための思想だ、と言っています。そしてスピノザは、このデカルトの思想には、「私が考える」ということが、すなわち「私が存在する」ことになる、という暗黙の前提が含まれている、と指摘したそうです。つまり、デカルトは徹底的に疑ったというけれども、自分の都合で前提となる仮定をあらかじめ定めてしまっているし、そもそもこの言葉は自分の思想を深めるためのものというよりは、他人を説得するためのものだ、というのです。

 それではスピノザはどう考えたのでしょうか?國分功一郎さんはスピノザの考えを次のように説明しています。

 

「私は考えている、だから私は存在している」を口先では疑うことができます。しかし、「私は考えている。考えているならば、その考えている私は存在しているということではないか」と言われれば反論できない。デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能をそなえた真理なのです。

それに対してスピノザの方はどうでしょうか。スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるというわけです。スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。

 

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。

(第2部定理43)

 

ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思います。デカルトはどんなに真であると思える観念であろうとも、それを疑わざるをえませんでした。

<中略>

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対してスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題とされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしないわけです。

(『100分DE名著 スピノザ』國分功一郎)



 このデカルトの思想が近代の基礎となり、私たちはその多大な恩恵の下で暮らしています。ですから、単純にデカルトの思想を否定してよいものではないでしょうが、デカルトからカント、そしてグリーンバーグというふうに系譜をたどっていくと、その先には平滑な色面による表現しか許容しないミニマル・アートの絵画があります。グリーンバーグ自身は、話を分かりやすくするためにそのように言っただけだ、と書いていますが、彼のフォーマリズム批評の中には、そんなふうに絵画表現を追い詰めてしまう方向性があったのだと思います。

 それに比べると、スピノザは鷹揚です。彼の定理「真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない」を解釈すると、私は本当の真理を知っているのだから、その真理はうたがいようがないよ!と言っているのです。これは「おれは分かっているんだってば!」と分かっていないくせに虚勢をはる困った親爺の言葉のようにも読めます。しかし真理を知ったときの確信というのは、こういうものなのではないでしょうか。もしもこの定理のような言葉を吐く人が本当に真理を掴んでいるとしたら、そのことは自然と他の人にもわかるものではないでしょうか。

例えば私は、中西夏之さんの書いた文章を時おり読むのですが、その考え方はまったく主観的でありながら、多くの真理が含まれていると思います。中西さんは、人を説得するためにではなく、ただ自分のためにメモを取っているのですが、そのどれもが真理として私の心をつかんでしまいます。先ほども書いたように中西さんはスピノザ的な「思考のOSの入れ替え」のもとに表現活動した人なのです。

 

 さて、私のことに話をもどします。

 私は「触覚性絵画」を標榜し、たとえどんな素材を扱おうと、その絵画が「触覚性」を感じさせるものになるように描いています。今回の展覧会では、入り口から入ってすぐの部屋には水性のアクリル絵の具を主な素材とした作品を展示する予定です。そして奥の部屋には、油性の絵具を主な素材とした作品を展示する予定です。アクリル絵の具の不透明な感じと、油絵具の透明感と、比較してみていただきながら、いずれにしても私の「触覚性」が表現できているならうれしいです。実は見た目以上に、アクリル絵の具と油絵具の感触は違うのですが、その違いが見る楽しみにつながっているでしょうか?かつて私は、どちらの絵具を使っても同じように表現できないとまずい、と思っていました。ここにもちょっと、近代主義的な病理が含まれていたのかもしれません。いまはその違いをちゃんと表現できているのかどうか、ということで悩んでいます。もっと言えば、一枚一枚の絵がもっと違っていて良いのだと思っています。描きあげたときは、だいぶ前の作品と違っているつもりなのに、あとで並べてみると同じような絵に見えてがっかりしてしまうことが多いのです。

 それから、いま検討しているのが、もっともシンプルな素材で「触覚性」が表現できないかどうか、を試みています。その素材は子供のころから使っている普通の鉛筆です。鉛筆が紙と接するときの感触は心地よいものですが、それを見ている方と分かち合うにはどうしたらよいのか、展覧会の直前まで悩んでみたいと思っています。

 

 こんなふうに悩みながら描かれた、それでも他愛のない絵が、その中に近代の「思考のOSの入れ替え」の種子を宿し、それが見る人の心の中に植えつけられ、それが育っていって、モダニズムの行き詰まりを克服する人たちの力になる・・・、私はそんなことを考えています。

これはたんなる夢でしょうか?そんなことは、ありません。実際に目を凝らしてみれば、そういう作品がすでにたくさんあるからです。私の作品も、そんな作品の列に並びたい、ただそれだけのことです。はたして私の絵は、そんなふうにみえるでしょうか?

(2023年3月 記)



〇作家プロフィール

<harvestone1@gmail.com>

 

1960 愛知県名古屋市に生まれ

東京都板橋区~練馬区に育つ

1985 愛知県立芸術大学大学院絵画研究科修了

 

グループ展等(選)

1983 愛知県立芸術大学卒業制作展 

愛知県立美術館(買い上げ)

1983 上野の森絵画大賞展 

上野の森美術館(佳作賞 買い上げ)

1984「空間・遊」名古屋市博物館

(85 N-1ギャラリー・ウェスト)

1991「平らな深み、緩やかな時間」 真木画廊/東京

1992「眼の座標」代々木アートギャラリー

(93、96、00、02、03)

1995「未来の予感 -韓国現代美術交流展」韓国 清州

1995 現代アーチストセンター展 

東京都美術館(00、02、13)

2005「東-南、投影と変質」 ギャラリー檜/東京

2015 小田原ビエンナーレ展 飛鳥画廊/小田原

2016 dialogue(with 稲 憲一郎) ギャラリー檜/東京

2018 dialogue(with 5人の作家) ギャラリー檜/東京

2020「なんでもない日ばんざい!」

上野の森美術館(所蔵作品展)



個展

1984 ギャラリー・ラブ・コレクション/名古屋 駒井画廊/東京

1987 真木・田村画廊/東京(89、90、92、93、94、95、96、99)

1997 ルナミ画廊/東京(98)

2002 ギャラリー檜/東京(03、04、17、19、20、21、22)

 

評論、講演等(選)

1995 評論「絵画表現における重層性について」

/第11回名古屋文化振興賞(作品集所収)

1999 評論「終わりなき『意識のさわり』の営み」

/かわさきIBM市民文化ギャラリー

『飯室哲也・宮下圭介』展

2000 評論「稲憲一郎論」

/『月刊ギャラリー』公募評論入賞

2001 評論「倉重光則論」

/『月刊ギャラリー』公募評論入賞

2009 評論「藤井博論」/第14回芸術評論佳作賞

2011 講演「絵画における『時間』について」

愛知県立芸術大学

2012 blog「平らな深み、緩やかな時間」

2014 評論「透視する眼差し」

/沼津市庄司美術館『宮下圭介』展

2014 講演「絵画特論Ⅱ」沖縄県立芸術大学

2020 評論「ダン・ナダナーと宮下圭介」/櫻木画廊/東京

2022 評論「表現の深化について」/稲憲一郎アトリエ展

/東京







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