平らな深み、緩やかな時間

295.阿部良雄、歴史の終焉、モデルニテ、そしてボードレールについて

前回のblogで、細見和之さんの『フランクフルト学派』という著作を手掛かりとして、ナチスに追い詰められて亡くなった思想家ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)について考察しました。と言っても、ベンヤミンの難解な思想の全体像に迫ることなどできませんので、彼が書いたボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)に関するエッセイを少しだけ覗いてみたのでした。

ベンヤミンのボードレール論は、ベンヤミンの未完の大著『パサージュ論』の一部の内容をふくらませたものでした。したがって、ベンヤミンが興味を持ったボードレールは、パリの街のパサージュ(アーケード街)に集う大衆の中から芸術的な霊感を得た、近代人としてのボードレールだったのです。

そこで私が思い出したのは、ボードレールを近代的美術評論の始まりとして論じた阿部良雄(1932 - 2007)さんの『群衆の中の芸術家』という本でしたが、私は以前にその本についてblogを書きました。前回もご紹介しましたが、再度リンクを貼っておきます。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/52d9491fac9fd93e3c1ca8508171fa64

その阿部良雄さんには『シャルル・ボードレール - 現代性の成立』(1995)というボードレール研究の大著があります。この本は本格的な研究書の最高峰のようですから、いずれ時間をかけてゆっくりと読み解きたいと思います。

阿部良雄さんには、その『シャルル・ボードレール - 現代性の成立』の少し前に、『モデルニテの軌跡 - 近代美術史再構築のために』(1993)という著書があります。この本は1980年代から90年代にかけて阿部良雄さんが書いた主に絵画に関する文章を集めたものです。その時期がどのような状況であったのか、私はこのblogで私なりにその時期の美術、芸術に関する問題点を書いてきたつもりです。

阿部良雄さんも、「あとがき」のなかでそのことについて触れています。阿部さんはボードレール研究の第一人者であることからも分かる通り、19世紀の文化、芸術の専門家ですが、そのような人が私の若い頃の現代美術の状況や雰囲気をどう感じていたのか、興味深いところです。

彼はこう書いています。

 

80年代は「歴史の終焉」がうんぬんされ始めた時期であって、異論を唱えることは容易ながら、実感ー一種の安堵感ないし脱力感ーを伴う所説として暗々裡に受け入れられたのではあるまいか。こと美術史に関しては、芸術がその時代の人間精神の至高の表現であることを止める時代にさしかかっているという、ヘーゲルの予言に遡るまでもなく、1970ー80年代「ポストモダン」の位相において、様式あるいは流派の交代としての歴史記述が困難ないし無意味なものと化しつつあるのが意識された時点で、一歩先に「歴史の終焉」が到来していたと言い立てることもできるであろう。

「大きな物語」の実効性減退に伴って、美術を論ずる言説(ディスクール)は、二重の危機を体験することになった。一つは、美術史的言説において、過去を一元論的時間構造の相の下に把握・記述することの困難である。もう一つは、美術批評の言説において、時間的に先立って在るものに比べて何か新しい発見や工夫があると指摘することで賞賛の根拠とするパターンが、機能し難くなってきたことだ。

(『モデルニテの軌跡』「あとがき」阿部良雄)

 

私は、本格的な美術史家、あるいは美術史的な学者が、1980年代の「歴史の終焉」あるいは「芸術の終焉」騒動をどのように見ているのだろうか、と疑問に思っていました。というのは、過ぎ去った日々を美術史的な文脈に置き換えて、一つのきれいな筋道として回収するのが美術史に関わる人たちの仕事だと思っていたのです。ですから、彼らが生きている同時代の、それも混沌とした状況などは、美術史学者の眼中にはないだろう、と考えていました。

私は阿部さんのこの文章を30代の半ばに読んで、阿部良雄さんのように確固とした地歩を固めた近代美術の研究者が、私たちと同じような視線で同時代を見ていたことに、少し驚きました。考えてみれば、阿部良雄さんは美術評論家の宮川 淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)さんの盟友でもあるのですから、近代美術の研究者の中でも例外的に広い視野を持った特別な存在なのかもしれません。しかし、そうは言っても、彼のような地道な研究者が書いたコメントは、現代美術の日和見的な批評家の書いた文章とは違って、それなりの重みを持っているように感じました。

阿部良雄さんは、現代の把握することすら困難な状況を「歴史」から切り離してはいけないのだ、と言い、なおかつ、日本において「美術」について思考することの難しさについて、次のように書いています。

 

しかしながら芸術に関する言説活動、情報活動のもろもろを、いわば「歴史」から完全に切り離された「庭園」の中に機能しつつ一定の快楽をもたらす遊戯的装置として享受すればそれですむのかという問いが、たやすく封じこめられるわけでもない。対象としての作品や言説をできるならば一元的に統御し得るメタ言説への欲求がーそうした言説の原理が必ずしも「歴史」ではないにせよー已み難いとすれば、それはおよそ人間の創造的ないし文化的活動に関わる言説の宿命と言ってよいことなのではあるまいか。まして日本の場合、そもそも「美術史」の名に値するもの、いや「美術」そのものがこれまで存在したのかどうかを疑問に付した上で、現在、作家あるいは批評家の拠って立つべき地点を設定し直す必要があるという問題意識すら、深刻なものとして発生し得るのだ。そうした意識すら、終焉した「歴史」とともに葬送して、すべてを作家あるいは発話者の、きわめて個別的であることがそのまま普遍的ー少なくとも「国際的」ーでしかあり得ないような状況に還元してしまえばよいのかどうか。おそらくこれは、解答不能なまま抱えこんでゆかなくてはならない問題であるだろう。筆者にとってそのような問題は、専門とする19世紀芸術史の文脈の中で、モデルニテ(「近代性」あるいは「現代性」)と名付けられるものがどのように成り立ったかという問題に照明を当てようとする作業の途上で、私自身の立脚点をどのように設定するのか、という形で現れ出てきたものである。

(『モデルニテの軌跡』「あとがき」阿部良雄)

 

私は「歴史」を都合よく分断せず、連続した問題として抱えようとする阿部良雄さんの姿勢が素晴らしいと思いますが、皆さんはどのようにお感じになりますか?

「モデルニテ」が19世紀に端を発して成立したものだとするならば、その1世紀後に「歴史」が「終焉」を迎えるということを、その時代の研究者としてどう考えたらよいのか、それが阿部さんが自分に問いかけた問題でした。

この「終焉論」には哲学者のヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、 1770 - 1831)が関わっていて、私はそのことについて、以前にblogで書いたことがあります。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c8bace79581bcc80f5f2c0100cd2c540

ヘーゲルは「歴史」について深く考えた人ですから、この「終焉論」は近現代の時代に関わらず、「歴史」に関する思考のすべてに関わる問題だと思います。ですから若い研究者の方は、どうか学問の蛸壺の中に安住しないで、私たちの声が聞こえるところで一緒に悩んでください。

 

さて、80年代の「歴史」や「芸術」の「終焉」について、具体的に阿部さんはどのように書いているのでしょうか。現代美術の評論家ならば、そこら中に状況論を書き散らしていたことでしょうが、阿部さんのような研究者がどうだったのでしょうか?

そこで、あらためて『モデルニテの軌跡』のページをめくってみると、彼はちゃんと当時の状況について詳しく書いていました。

ちょっと長くなりますが、次の文章を参照してください。

 

こうした学問上の動向(これまでの歴史の流れを更新するような動き)は、絵画芸術そのものの状況と無縁に生じているのではない。戦後のパリでの絵画復活が非具象の方向付けを強く示して始まったために、その陰にかくれてしまったが、、両大戦間の欧米絵画に写実性の強い傾向が存在したことは、最近に至って回顧展や研修対象となっているし、「魔術的レアリスム」(ノイエ・ザッハリッヒッカイト)やバルテュスへの強い興味は、そうした20世紀美術史の書き直しと関連付けられ得る。クールベの再評価が1940年代に端を発して70年代に実を結んだのも、そうした推移と符合することである。

60年代には芸術の自律性、構造性を徹底的に追求するミニマル・アートや、物質性(形体性)すらも排除して純粋性の極を究めるコンセプチュアル・アートが出現するが、他方ではポップ・アートやハイパー・リアリズム、あるいはフランスの新具象のように、現代社会に氾濫する具象的画像群を積極的に芸術表現の中に取りこんで、環境としての現実との間に共鳴的ないし批判的な関係を実現しようとする傾向も顕著に現れて、純粋性、自律性を目的とする予定調和的な進化の図式を信ずることはいよいよでき難くなった。

80年代に至って表現主義の復活とも目されるニュー・ペインティングの出現したことをもって、60ー70年代の禁欲的傾向への反措定と見なすならば、否定の弁証法によって規定される流派の交代として叙述される美術史の枠組みだけは維持されるわけだが、時を同じくして、芸術における前衛(avant-gaude)はもはや成立しないという言説がかなりの信憑性をもって流布されるに及び、この枠組みすらも頼りないものと見えざるを得なくなってくる。芸術上の新たな試みとしての主義(イスム)なり流派(エコール)なり傾向なりが、既存の主義なり何なりに対する反措定として自らを規定することにより進化の最先端に位置し、まず「前衛的」な批評家・画商・愛好家から成る「幸福ナル少数者」に支持されたのが、しばらく後には広い範囲の公衆の受け容れるところとなって前衛性を喪失し、その頃には次の前衛が萌芽を現している、といった事態が繰り返されて、流派の交代としての美術史が展開されて行く、そういう認識=行動モデルはついに無効になったのではないかと実感されるのである。

(『モデルニテの軌跡』「1 歴史主義からモデルニテへ」阿部良雄)

 

阿部良雄さんは80年代の美術の状況をこのように見ていました。その内容は、当時の美術雑誌に掲載された騒々しい特集記事とさほど変わらないように思いますが、書かれているトーンはきわめて冷静です。この冷静さが重要だと私は思います。

阿部さんのように声高ではない、冷静な語り方がある一方で、「表現主義の復活とも目されるニュー・ペインティング」の出現を、「ポストモダン」という思想的な流行と一体化して売り込む画商の思惑に乗っかって、大いに宣伝活動に勤しんだ美術評論家や学者たちが、当時はたくさんいたように思います。その中には、いつの間にか偉くなった人もいるようですが、その割には美術における「ポストモダン」が一向に発展的に語られないのは、どうしたことでしょうか?

阿部良雄さんは「私自身の立脚点をどのように設定するのか」という迷いをためらわずに公言している点で誠実であったと思います。しかし、その阿部さんの80年代当時の状況分析を読んでも、「歴史の終焉」、「芸術の終焉」に至る必然性を読み取ることができないのは、どうしてでしょうか?

阿部さんは、「禁欲的傾向」の70年代から「表現主義的傾向」の80年代へと美術の動向が移り変わって「前衛(avant-gaude)はもはや成立しない」という言説が一定の信憑性を持って流布された、と書いています。しかし、その時代の流れには、確たる理由も、信憑性も、実は何一つなかったのだと私は思います。私自身がその時代の中にあって、このような認識に至るには少々苦々しい思いを経なくてはなりませんでしたが、今ではそのことを確信を持って言うことができます。

70年代の「禁欲的な傾向」も、80年代の「表現主義的な傾向」も、すべてが単なる時代的な気分によって生じたものでした。その当時は、どうしてそんな気分だったのか、と考えてみることはそれなりに意味があると思いますが、その気分に乗じて「歴史の終焉」や「芸術の終焉」などというものを信じてしまってはいけません。そんな時は、「終焉」してしまうような「歴史」や「芸術」の概念ってどんなものだろう?と逆に問いかけてみましょう。

話が理屈っぽくなりました。切り口を変えましょう。

 

それではここで、「モデルニテ」の始まりだとされるボードレールの時代の批評はどうだったのでしょうか?ボードレールは美術作品を批評するときに、「禁欲的」とか、「表現主義的」とかいうような、意味をなさない言葉を羅列していたわけではないようです。

ボードレールが近代へと一歩踏み出したと言われる批評について、阿部さんが取り上げて解説しているので、その部分を読んでみましょう。

 

しかしロマン主義の役割は、われわれが今たどりつつある進化の過程の中で、退行的と評価されるわけではない。そうした典拠の選択は、画家個人の情念や理想の反映するところとして、集団的な表象から個人的な表現への転換により、「近代」の方向へ大きく一歩踏み出したものと評価される。個人的な情念や理想の表現としての画面は、見る者の内面に相似の情念や理想を喚起する媒介物として機能することが肝腎であって、画面にいかなる事物いかなる物語が表象されているかを集団的な記憶に照らして識別することは第二義的であるという考えが導入されるわけである。言いかえれば、一枚のタブローを物語的なものではなく詩的なものと見なす考えだが、そこで重要なのは、詩(ポエジー)は絵画の制作に先立って(例えば典拠として用いられる文学作品の中に)存在するものではなくて、絵画に固有の手段によって喚起されるものだ、という意識の措定である。

「一枚のタブローの着想に当たり成心をもって詩を探し求めること、それは詩を見出さぬ最も確実な手立てである。詩は芸術家の知らぬ間にやって来るのでなければならない。それは絵画自体の結果である。というのも詩は観覧者の魂の中に眠っているからであって、天才とは、その詩を目覚めさせることに存する。絵画とは、色彩によりまた形態(フォルム)によってのみ興味あるものなのだ。」

(シャルル・ボードレール『1846年のサロン』)

『ファウスト』の中の人口に膾炙する場面を描いて人気のあったアリ・シェフールを批判したくだりだが、この批判と対極的な賞讃の対象となるのはウージェーヌ・ドラクロワであって、ロマン派の巨匠の作品は文学的な主題をしばしば援用するものでありながら、「その主題も線も分からないほど遠くから眺める」だけで「旋律(メロディー)」を感じさせ、そのことによって「一つの意味をもつ」ことが強調される。同様の発想が数年後には、「主題を分析することはおろか理解するにも遠すぎるような距離から見ても、ドラクロワの一枚のタブローはすでに魂の上に、幸福なものにもせよメランコリックなものにもせよ、一つの豊かな印象を生み出している」と言い換えられ、そうした印象の拠ってくるゆえんは、ドラクロワの色彩がその「和合(アコール)」によって「しばしば和声(ハーモニー)や旋律(メロディー)を思わせる」ものであることに存すると、ここでも音楽的な比喩が用いられる。

(『モデルニテの軌跡』「1 歴史主義からモデルニテへ」阿部良雄)

 

ここでは、ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)の絵画が、文学的な説明のための描写よりも、絵画的な表現を重んじていることが指摘されています。そして純粋に絵画的であることの比喩として、ハーモニーやメロディーという音楽用語が用いられているのです。これは歴史画に重点を置いていた当時の風潮が、純粋に絵画を楽しむ傾向へと移行したことと同時進行的に起こっていて、そのような傾向のなかでも絵画的な要素を音楽を奏でるように、見事に表現したのがドラクロワだった、ということをボードレールは言っているのです。

ちなみに歴史画(れきしが)とは、歴史上の事件や神話・宗教に取材した絵画を指していて、 西洋絵画のヒエラルキーの中では、肖像画・風俗画・静物画・風景画をおさえて、もっとも評価されるものとして君臨していたのです。美術史的に言うと、歴史画から風景画や静物画に人々の嗜好の比重が移り、それがやがては具象絵画から抽象絵画へと変わっていく、というふうに解釈されています。この歴史画の後退と市民社会の勃興がリンクしていたことが、まさに重要なことだったのです。

しかし私はここであえて、ボードレールが音楽用語を比喩として、絵画の批評の言葉を紡いだことに注目したいと思います。実は具象絵画であっても抽象絵画であっても、音楽的な比喩を使いたくなるほど見事な絵がある一方で、そういう音楽的な要素が感じられない、ひどい絵が双方にあるのです。ですから、絵画の芸術的な発展と、歴史的な絵画のヒエラルキーの移行とは、お互いに無関係ではないけれども、まったく同じことではないのです。絵画のスタイルだけを見れば、歴史的に一定の方向へと進んでいるのでしょうが、その芸術性ということについて言えば、単純に進歩も退行もしていないのです。

ボードレールがその両者の関係性(無関係性)にどれほど自覚的であったのかわかりませんが、すくなくとも彼の批評眼はそのことを見逃していませんでした。彼は絵画のスタイルに限定されない、抽象的な音楽用語を使うことで普遍的な言葉で絵画を批評することを始めていたのです。ボードレールの批評が19世紀の時代と同様に、現代の私たちにとっても重要なものであるとしたら、おそらく彼のその鋭い詩的感性による的確な言葉の使い方にあるのではないか、と私は思います。

 

さて、ここで70年代から80年代の絵画の問題に立ち戻ってみましょう。「禁欲的」なミニマル・アートの絵画から、「表現主義的」なニュー・ペインティングの絵画へと、時代が移行したのだと言われていますが、このスタイルの移行には、どれほどの意味があったのでしょうか?

少なくともそれは、19世紀に歴史画から風景画や静物画に絵画の比重が移ったことより重要ではありません。19世紀においては、その変化によって純粋な絵画的要素が注目され、ドラクロワのような画家が現れ、その絵画を音楽的な比喩を用いて批評するボードレールが現れました。繰り返しになりますが、この歴史性と芸術性との関係は、まったく同じように発展しているとは言いませんが、ある程度の相関関係があると思います。

それでは、70年代から80年代の絵画はどうだったのでしょうか?ミニマルから表現主義へという流れは、歴史的な絵画のスタイルの移行としての意味を持っているのでしょうか?

あるいは、現代のドラクロワはどこにいるのでしょうか?

そして、ボードレールはどこにいるのでしょうか?

おいおい、どこにもそんな人たちはいないぞ、というぼやきが聞こえてきますが、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。現代という時代においては、私たちは無関係ではいられません。つい、ぼやいてしまいたくなったら、自分自身は何者なのか、ドラクロワにも、ボードレールにもなり得ないのか、と反省してみましょう。

そして最後に、阿部良雄さんがこの問題をどう締めくくっているのか、その文章を読んでみてください。

 

政治的水準でも芸術的水準でも進化の幻想が自動的な批判=浄化(時には恐怖政治)の役割をはたしてくれていたモデルニテの位相が通過してしまったかに見える現在、氾濫する画像(イメージ)の魅惑に身を任せ、過剰がやがては生み出すはずの飽和=倦怠をのみたのみにするという受動性に甘んずるべきであろうか。そうではなくてやはり、われわれの内部でそうした反応を起こす部分をも含めた現実に対する客観的な認識を踏まえて、芸術に我々の求めるものが何であるかを見定めてゆくべきであろう。一元的史観の廃棄が没価値的な態度に結びつかなければならないいわれはない。19世紀芸術のより広い部分への好奇心や興味が広まってくるとしても、他方やはり最良の部分と考えられるものへの関心が薄められるわけではない。モデルニテの成立に貢献した人々の仕事をその当時の環境に置き直して評価しなおすことは、ひょっとしてまだ今後の芸術の在り方に関しての示唆を与えてくれるかもしれないのだ。

(『モデルニテの軌跡』「1 歴史主義からモデルニテへ」阿部良雄)

 

阿部良雄さんが書いているように、今は「モデルニテの位相が通過してしまった」時代なのかもしれません。「氾濫」、「過剰」、「飽和=倦怠」が今の時代のキーワードなのかもしれません。これでは19世紀よりも、随分と困難な時代であるように見えます。

しかし、どのような時代であっても当事者にとっては容易なものではなかったはずです。ドラクロワは勇敢に戦い、ボードレールはボロボロになって死んでしまったように見えます。阿部さんがボードレールを徹底的に研究したのは、「モデルニテの成立に貢献した人々の仕事をその当時の環境に置き直して評価しなおすこと」の実践だったのでしょう。

その結果、まったくきれいごとではないボードレールの姿が見えてきて、それが「今後の芸術の在り方に関しての示唆を与えてくれる」ものなのでしょう。ボードレールのように、希望と絶望が同居するのは、いつの時代でも同じです。私たちはその双方を学ばなければなりません。それでも、心配する必要はありません。ドラクロワも、ボードレールも、素晴らしい芸術作品や批評を残しています。

 

再度申し上げますが、私たちは現代の芸術的な実践に対して、まったく無関係ではいられません。もしもあなたが芸術作品の創作者ではないとしても、芸術作品の発見者には、なれるはずです。

そして現代という時代について、つい、ぼやいてしまいたくなったら、「自分自身は何者なのか、ドラクロワにも、ボードレールにもなり得ないのか」と反省してみましょう。

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