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徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

情けは人の為ならず

2020-07-21 15:22:35 | 随想

項羽と劉邦や平家物語を読むと必ずお云っていいほど思い起こすのは情けを掛けるという事・・・・・

情けは人の為ならず、この言葉をどのように解するはは大変難しい。

 

情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、情けをかけた人のためになるばかりでなく、

やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。

人には親切にせよという教えとして用いられるのが普通かもしれない。 

 

けれども、

そうとばかり言えないのが人の世のさだめなのである。

人の為ならず、は人の為なりの古語で断定であり、

人のためであるという意味、の全体を「ず」で否定していると考えると人のためではない、という意味になる。  

情けをかけることは、その人のためにならない、の意味で用いるのは、本来は誤用であるのだが、

本来の意味の言わんとしている事と同じくらいに、解釈を誤っている人が意外に多い。

と言うよりはおそらく人々の半数は誤った解釈をしているのかも知れない。

このような誤用が生じるのは、打ち消しの「ず」が何処に掛かっているかの解釈の相違であるが、

為になる、にかかっていると解釈すると、「ためにならない」という意味になるからである。

 

国語の問題を解決するために、書いたのではなくこれを教訓としていることを実践したがために、

己のいや己を含めた一族すべての命脈を断たれた人々が、中国や、我が国の昔々に起って居る。

情けを掛けられた者はいずれも非情にも本人のみならず、一族もろとも滅ぼして全滅させているのが共通している。

そして、己の国を建て栄耀栄華を独り占めしているのも同じであるが、そのいずれもが、

殆ど無能に近い輩で、周りの者に煽られて、情けを仇で返した結果を招いている。

中國のその茫洋とした支配者は天下を永続させたが、我が国のそれは全く凡庸で能がなかったがために、

その世を継続させることが出来なかったのは、

只々凡庸で、周りの者の佞臣、奸臣を見抜けなかった阿呆な処は秦の始皇帝以上であった。

我が国の場合はそれに嫉み妬みが加わった、無能に輪を掛けたものであったが単に、あっさりと乗っ取られてしまっている。

 

扨、中国の史記に書かれているから知る人も多いが、鴻門の会と言う言葉で表される、

始皇帝の死後、秦帝国を滅亡に導くよう決起した劉邦と項羽との会談として知られている。

この時の劉邦の軍事力は項羽のそれにははるかに及ばない。

劉邦はひたすら寛恕を希うところであるが、項羽の側近の多くは劉邦を弑する事を進言するのだが・・・・・

鴻門の会を史記の項羽本紀に従って書くと・・・・・

前206年、漢の劉邦と楚の項羽が秦都咸陽の郊外の鴻門で一触即発の危機を孕んで対決した。

楚漢の争覇戦の端緒となった会談である。

戦いを避けて、安易な南から関中に入ったのは劉邦であり、函谷関の砦に兵を置いて、項羽の侵入を防ごうとしたが、

項羽は一気に函谷関を突破し、鴻門に布陣して、劉邦の軍を殲滅しようとした。

戦力差は歴然としており、劉邦は項羽の叔父、項伯を通じて和解を申し入れた。

劉邦はひたすら謝罪するのみで、項羽も側近の反対を押してまで、謝罪を受け入れた。

この時の情けで、劉邦は生き延びて、延々と続く戦いに突入するのだが、

何年にも亘って負け続けた劉邦が逆転して、項羽は垓下で自刃する。

重要な戦いの場で、敵将に掛けた情けが仇となって、己だけではなく、項一族すべてが根絶やしにされてしまう。

この垓下で項羽が自刃する時、良く知られた言葉、四面楚歌はこの時に起因する。

楚歌は本来なら自陣から聞こえなければならない、にも拘らず楚歌は敵の陣営から聞こえてきた。

兵のほとんどが寝返ったのだろう・・・・・

 

虞兮虞兮 奈若何   虞や虞や 汝を奈何せん

 

項羽は寵姫に対する憐憫の情をこの言葉で表したという。 

何年にも亘って追い続け、逃げ続けた劉邦に今は己が囲まれて終焉を迎えようとしている。

要らぬ情けが仇となって身を滅ぼした。

他人に対してなまじ情けなど無用の事である、という典型的な見本である。

 

日本の情け無用の見本は平清盛にある。 

平家物語を滅びの美学という人もいる。

この項羽と劉邦の物語を読んでいると、項羽の死にゆく様も何か物悲しい滅びの美学と言えるのかもしれない。

同じ様に余計な情けを掛けたばかりに、己一族を滅ぼしてしまったのが我が国でも見ることが出来る。

平治の乱と保元の乱とは共によく知られている、平安末期の平氏と源氏の争いと天皇家内部の権力争いである。

天壌無窮と言い神の子孫であるという天皇家の内部で権力争いをし、手当たり次第に女色を漁る様を見せたり、

今様に狂い臣下の佞臣、奸臣の暴政を放置するなど、秦の始皇帝の暴政など物の数ではない。

天皇は神の子孫であるなどは聞いてあきれる、人間以下、否 、動物以下の生き物であった。

この保元、平治の乱のすべての端緒は白河の女色に狂った狂気にある。

白河と言う男、女とみれば、手当たり次第に、昼となく夜と無く閨に引きずり込み犯し、孕めば臣下に払い下げるという悪辣な輩であった。

事の発端は、藤原璋子を白河が己の猶子にするのだが、この璋子も淫乱の身体があったのか、十四歳にして間違いを犯し、

親の白河から折檻を受けるが、その白河が猶子の璋子に手を出して、次々に子を産ませるのだが、

そうしながら、この璋子を己の息子鳥羽の后として嫁がせる。

これなどはもう人間の範疇を遥かに外れた所業、これが天皇だというのだから、日本の民の哀れさは推して知るべし。

この様な生き物のために日本の民は税を搾取され、食うや食わずで生きながらえてきた。

因みに猶子とは兄弟、臣籍または他人の子を養って自分の子としたもの。

名義だけのものと世襲とするものとがある。・・・広辞苑による。

 

それ以後も、己の息子の嫁となった璋子に次々に子を産ませる破廉恥極まりない天皇であった。

この璋子、白河の子を生み、鳥羽の子を生み、十年で七人も産めば満足であったろうが、

白河の死後はひっそりとしていたというから、欲求不満ではあったろう。

譲位して鳥羽に皇位を譲ったのちも、実権を握り院政を敷いていたが、依然として女狂いは収まらない。

それから己の子に皇位を継がせたく鳥羽に譲位を迫り、己と璋子の子、崇徳が皇位に登る。

一方、鳥羽は藤原得子に手を付けて子を産ませるが、この得子が強かな女で、陰険姑息な手段を使って鳥羽を籠絡し、

崇徳に譲位させておのれの子を皇位に付ける、これが近衛であるが、近衛は若くして死んでしまう。

ここで崇徳は重祚するか、己の子が皇位に付けると思っていたが、今様狂いの後白河が皇位についた・・・・・。

 

崇徳が譲位するとき、欺かれて皇弟に譲位する形にされてしまって、院政を敷くこともできなかった。

この崇徳の怨霊が祟る話はまた別の機会にして、ただ明治の代になって明治天皇が崇徳の怨霊を鎮める供養をしたという話は有名である。

この様な陰険な策を弄する輩が国を支配するのであれば国が乱れない筈はない。

白河法皇の女狂いがこの複雑な関係を作り出し、権力争いを激化させ、様々な人間を巻き込んで動乱が始まる。

古代中國なら当然のごとく易姓革命が起こっていただろう。

保元の乱、皇位の権力争いが平氏と源氏を巻き込み、後の論功行賞に不満を持つ源氏が平家との間で平治の乱を引き起こす。

この源氏の義朝は出来のいい武将ではなく、平家に敗れ殺されてしまう。

其の子の頼朝、範頼、義経の三人が殺されるところを、清盛の義母、池の禅尼の差し出口によって命長らえてしまう。

この清盛も白河の落胤で、平の忠盛に下げ渡された女から生まれたと言われている。

その平忠盛の室が藤原宗兼の女で、

己の出自を鼻にかけ長男の清盛を差し置いて己の子に平家の跡を継がせようとしていた何とも姑息な女である。

夫忠盛が逝って後、出家して池の禅にと呼ばれる様になるが、

平治の乱の後、義朝の子たちが捕えられたとき、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。

姑息なことにしか頭の回らない、ただ憐憫の情だけで助命の嘆願をした、阿呆な女が平家を滅ぼしたともいえる。

義朝の子たちの助命の為に池禅尼が断食をし始めたとも言われており、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪に減刑したとも言われている。

 

清盛のこの情けが平家を根絶やしにすることになる。

大切な時に女の情に絡んだ差し出口は凡そ碌な事にはならない。

牝鶏晨す、すなわちめんどりが鳴いて朝を知らせるという言葉もあり、女が大事な所でしゃしゃり出ると、国や家が衰える前兆とされる。

頼朝などと言う他愛もない男が、ただ源氏の嫡流と言うだけで兵が集まるのだから人間と言う生き物の心の内は全く分からない。

楚にしても、平家にしても、滅びの原因は数多くあるが、一つひとつ辿って行くと、項羽の、清盛の情けに行きつく。

 

楚の項羽の様に、清盛が掛けた情けが平家一族を滅ぼしてしまう。

情けや、恩は着せるものではなく、着るものだとは言うが、戦国の世であっても、太平の世であっても、それは相手に依りけりである。

歴史に若し、などと言うことはありえないのだが、清盛が義朝の子すべてを弑していたら、歴史は随分の変わっていたであろう。

情けなどと言うものは戦国の世の武将にとっては禁忌である。

後の世の信長は非情だと言うものが多いが、戦いの中の殺戮は当然の事であり、非難される謂れはない。

非情と言うのは、この保元の乱の後白河の佞臣信西の様な人倫に悖ることを平然と行う輩のことを言う。

当時死刑を宣告されても、実際は罪一等を減じられて、遠流にされていた。

藤原仲麻呂の反乱以来三百数十年、死罪は行われていなかったが、

信西が強固に死罪を主張し、罪人としての義朝の親を義朝に切らせ、平家の清盛には叔父、を切らせる死刑の執行を行わせた。

 

故意に同族の者の処刑を清盛、義朝に強いた、信西の人倫に外れたことを強要する輩が権力を握っていた、

権力を握れば何でもできるという考え、これが日本の歴史なのである。

そんな遺伝子が現代にも脈々と伝わっている。

この様な狂気が朝廷内の権力争に於いてだけであれば、民草には何の痛痒もない。

だが、この様な狂気の持ち主が政お行えば、当然民草に降りかかってくる。

この様な狂気が日本人という生き物の心の奥底に潜んでいる。

それは過去の歴史が物語っている。

これがただ過去の歴史の中の出来事だけとは言えないところが、恐ろしい。

 

この文は何年か前、他ブログで載せたものを加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人の情はふわりふわり空の彼方へ

2020-07-19 14:39:01 | 随想

 

人の情は紙風船。

漱石は情に竿を挿せば、流されると書いた。

この意味は果たしてどんな意味で書いたのだろう。

この書が世に出て以来この言葉の意味をめぐっていろんな考えを見てきただろう。

漱石が思い描いた情景を適切に看破したものは一人としていないであろう。

竿挿すという言葉についてさえ色んなことが書かれている。

江戸のころの水上交通の主力であった小舟の船頭は竿の扱い方一つでその技量を評価されるのであるが、

果たして竿は舟を進めるためだけにあるのだろうか。

竿は舟の推進力でもあり、ブレーキでもあった。

この漱石の草枕を読んで以来、情に竿を挿したらどうなるのか、

もうそろそろ、彼岸へ行こうかという年になっても、いまだに私の答えは出てこない。

この情という奴が、人間という生き物に備わっていることの難しさを、今更ながら実感しているのである。

ただ、うまくこの世とかかわりあっていくのは意外と難しいという実感は心の内にある。

人間という生き物の情は古い古い時代からあらゆる国の区別もなく同じように、様々に人間の生きざまに影響を与えてきた。

中国の古い時代、漢の時代の人間も、わが国の江戸のころの人間も、人間という生き物に変わりがないようで、

政府の高位の高官に付いた時は門前市を為すが如く、様々な手土産をもってご機嫌伺にやってくる。

江戸の享保のころ家重の側用人であった時代から、田沼意次、公然と賄賂による便宜を図った。

老中になってからも当然のごとくであったが、

いったん落ち目になってからは機嫌伺などはもってのほか、鬼畜扱いさえ受けていたという。

賄賂による政治は許さるべきものではないが、

田沼の目指した政治は当時の人間にとっては想像もつかない改革であったと言われている。

人間という生き物、己の理解のつかない考えや行動には、

裏からつぶしにかかる薄汚い情を持った生き物であると言う事である。

人間という生き物の情の恐ろしさは想像だに付かない。

中国の高官は官を止めた時、とたんに人は寄り付かなくなったという。

門前に、史記にある言葉を大書して人々の情のなさを皮肉ったという。

その史記の言葉は

 

一死一生すなわち交情を知り、一貧一冨すなわち交態を知り、一貴一賤交情すなわちあらわる。  という。

 

人の情がガラリ一変する状況を嘆き、皮肉ったものであろう、それぞれに解釈を試みられるとよい。

これを書いたものの嘆きは時代を問わないであろう。

現代でもそのまま通用する。

人によっては、しみじみと実感している人もいるに違いない。

 

 

 

 


閑と忙

2020-07-17 12:43:58 | 随想

 

忙しく働いていた人間がある日突然働かなくなった、世にいう定年である。

忙し過ぎるくらいに働いていたものにとっては、突然何もすることが無くなったとすれば、おそらく虚脱状態に陥っても不思議はない。

要は、何もすることのなくなった人間は暇がありすぎると、どの様なことを考えるのだろうか。

菜根譚は人間が暇があり過ぎて考得るのは、雑念がひそかに心の奥底に湧き上がってくると言っている。

反対に働いていた時、あまりにも忙しかった人間は、その本性というものが現れてこないという。

すなわち、そのものの本来の自分を見失ってしまうというのである。

人間暇すぎても、忙しすぎても、あまりいい結果にはならないという事の様である。

忙しい中にあっても、己の趣味持つことや、風流を解する心の余裕が欲しいという事であろう。

反対にあまりに暇すぎると心にぽっかりと空いた穴に雑念、すなわち不純なものが入ってくる。

中国の古典四書の一つ大学という書物に次のように書かれている。

 

小人閑居して不善を為す。至らざる所なし。君子を見てのち、厭然として、その不善を蔽いてその善を著わさんとす。

 

小人閑居して不善を為す、この言葉自体とてもよく知られた言葉である。

定年になって暇になった時に、人からこのような言葉を陰でささやかれたくはない、ようよう留意することである。

忙しく働いていた企業戦士に小人などと言われる人は居なかろうが、人間という生き物、暇になった心の空洞に忍び寄るものは予測がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人生はただの百年のみ~無駄に過ごす事なかれ~

2020-07-10 14:52:25 | 随想

紀元前二世紀の漢代に書かれた道家系の書に淮南子というのがある。

その一節に次のような言葉がある。

私という人間が生まれるまでにこの天地は無限の時間を経過している。

私が死んだ後もまた無限の時間が流れるであろう。

してみれば私という人間は無限の天地と無限の時間の流れに浮かぶ一点に過ぎない。~老子荘子森幹三郎~

 

その悠久の天地の中に己という生き物が一つの生命として存在するようになる。

その悠久の天地のただ一点でしかない人間という生き物にとってのただ一点の時間が、

その生き物にとっては人生という時の経過、悠久の時の流れの内の一点がただの百年なのである。

菜根譚は中国明代の洪自誠の書で、心の糧としてわが国で随分と愛読された人生の指針を述べた書とされている。

菜根譚で人生はただの百年、無駄に過ごすことの恐れを述べている。

それが言うには~

天地は永遠であるが人生は二度と戻らない、人生はたった百年、日々はあっという間に過ぎてゆく。

幸いにこの世に生まれたからには、命あることの楽しみを知るべきである。

ただ、楽しく生きたいと願うばかりではなく、人生をむなしく過ごしてしまう事のないように心しなければならない。

古来から人々は人生は短いと、そればかりを嘆いてきた。

 

荘子は著書荘子知北遊篇で、白駒の隙を過ぐるが如し、と言っている。

人間が天地の間に生を受けるのは、あたかも白馬が走りすぎるのを、戸の隙間から覗くようなものであり、誠に瞬間のことに過ぎない。と

また水の湧き出るように現れて、やがて吸い込まれて消えてゆく。

まさに人間の人生そのものである。

また、漢書 蘇武伝には人生朝露のごとしと述べている。

唐の李白は、光陰は百代の過客なり、という。

であってみればこの世に生まれてきたからには、その人生は十分に楽しむべきである、と。

だが人生の時間は思いのほか短い、その短い時間を無駄に過ごすことを憂うべく、常に心に留めておく必要もあるだろう。

と洪自誠、菜根譚は言うのである。

まさに心すべき、人間の生きざまである。

 


人間の本性~欲望の生きがい~

2020-07-08 13:48:19 | 随想

人間は誰でも生まれつき欲望を持っている。

たとえ聖人であろうと、例外ではない。その欲望はやり方によっては制御することができる。

荀子という人の考えはこれで貫かれている。

人間の天性は悪である。善なる性質は人為の所産に過ぎない。

人間は生まれつき利益によって左右される一面がある。

この一面がそのまま成長していくと、誠意が失われ、相手を失うことになる。

荀子の思考の前提は人間の欲望に対する客観的な認識である。

きれいごとでは人を動かすことは出来ない。

欲望を持ち、本能のままに動こうとするのが人間という生き物の本質である。

荀子は欲望を持つ人間を如何に制御するか、そのために人間の本質の直視が必要であると説く。

 

韓非子は説林篇に斉の名宰相管中の言葉として、人自ら足るにとどまること能わずして滅ぶ、と述べている。

 

富の涯たる、その富既に足れるものなり、人は自ら足るにとどまること能わずして亡ぶ、とある。

富の限界はそれに満足することにある、しかし人間はどこまで行っても満足することを知らずついには身を滅ぼしてしまう、という。

管中は斉の国の宰相として民生の安定を優先させた人物として知られている。

 

人間誰もが欲に取りつかれている、これがあることによって人間社会が進歩してきた一面があることもまた事実である。

欲というものは、これが手に入れば、次はあれと際限なく広がっていく。

人間という生き物、欲というものに際限がなく止まることを知らないが、とどのつまりは欲を出しすぎて足を滑らせてしまう。

後で後悔するが後の祭りである。

 

老子も言う、足るを知れば辱められず、止まることを知れば殆うからず、と。

足ること、止まることをよく心得ていれば、安全にこの世の中を生きていくことができるというのである。

自分だけがいい思いをしようとか、自分だけが儲けようとすると、一時はいいとしても長続きはしない。

よい時にはいいのだが、足ることを知らないと身を滅ぼしてしまう。

 

老子‐四四章に止足の戒めと言われている文がある。

知足不辱、知止不殆

 

物惜しみして大量に蓄えれば、必ず大いに散財する羽目になり、大いに失うことになる。

満足することを知っていれば、辱めを受けず、止まることを知っていれば危険を免れられ、いつまでも永らえられる。

と老子は言うが、現実の問題として、人間という生き物はどんなにお金を貯めてもこれでいいということは在り得ない。

出来ればもっと増やしたいと欲の皮が突っ張り、満足感を満たすことはない。

では欲望の限界はどこにあるのだろう。

富というのは結局のところ,本人が満足をしたところなのかもしれない。

 

韓非子に斉の桓公と管中の問答が載っている。

富には限界というものがあるのだろうかという桓公の問いに、

管中の答えは、富の限界はそれに満足するところにある、しかし人間は満足することを知らず、ついには身を滅ぼしてしまう。

それが限界かもしれないと、答えている。

 

人間という生き物の欲の皮には際限がない、富を追求することが生きがいという輩は、

欲惚けのために身を亡ぼす愚かさを考えることの余裕もないのであろう。

人間、足ることを知らないと身を滅ぼしてしまう、肝に銘じる必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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