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徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

彼岸の日に咲く花~リコリス彼岸花~

2020-09-22 15:59:05 | 随想

彼岸の日に咲く花~リコリス彼岸花~

 

多くの人々は、この頃様々な機会に真っ赤に咲いた彼岸花を目にしていることであろう。

律儀に彼岸の日に現に合わせたように草むらに一つ真っ赤な花を咲かせていた。

陰暦と原太陽暦の月日の表示に沿いうはあるが、季節感は同じであったろう。

現彼岸のは922日でも、旧暦は八月六日。

この日付けを見ると現代に置き換えて、暑い盛りに彼岸かなとは思うが、ただ暦の表示が異なるだけで、現季節とわりはないのだろう。

現在の九月に二十二日を江戸のころは八月六日と表示していただけの事である。

旧暦と言われる日図家の設定と現暦とは半月から一月半ぐらいの日付けの表示に違いがある。

旧暦は一年357日しかなく、現暦とは11日間の誤差がある。

そのために何年かに一度閏月を設けて調整していたようである。

時代小説などを読んでいると、日付が表jされて季節などが書かれた場面を読んでいると、

そのまま現在の日付に置き換えてしまうので、ちょっとした違和感を感じることがあるが、よくよく考えてみると日付の表示が異なるだけで、

季節には何の違いもないことを意識しておかなければならない。

現在の地球が健在である限り、季節感は日付の表示がどのように変わろうとも、人間様が感じる季節感には影響がない。

ただ人間が破壊する地球環境の変化によって、徐々に季節感も変わって感じるようにはなるだろう。

ただ様々な行事の日が旧暦の日付をそのまま現代の暦の日付に合わせて同じ日に設定すると、

季節感の違いを意識することになるのは当然の事であろう。

地球もこのまま破壊が進むと何百年後か、何千年後か、あるいは何万年後かには、更には何十万年後かには宇宙の星屑になってしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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信念の人とは~精神活動の止まった人~

2020-08-24 15:00:35 | 随想

 

情熱から意見が生じる、そして主義主張というものを生み出す。

この主義主張を認めてもらうためには、これにいつまでもこだわって持ち続ける必要がある。

このことが、意見や主義主張を凝り固まらせて信念というものに変化させてしまう。

すなわち、精神の怠惰がこれを信念に硬化させるという事である。

自由な絶えず生き生きとした精神を自らに感じているものは、不断の変転によってこの効果を防ぐことが出来る。

その信念というものは認識のある一点で絶対的真理を所有しているという信仰である。

ところが人々は信念があるというのは、なんとなく人間が偉くなったような、高尚になったように感じているようだが、

その人はかっての自分の旧態な意見を頑なにに持ち続けていたというに過ぎない。

言い換えるとその人の精神の活動が、その時点で止まってしまったという事なのである。

つまり、精神の怠惰が信念を生み出したという事である。

いかに素晴らしい意見や主張であっても、日進月歩、新陳代謝を繰り返して、

時代の変化に対応させる必要がある。

そうでなければ、当時としては斬新な素晴らしい意見主張であっても、

時代とともに古びた頑固なカビの生えた信念とみなされるようになる。

時代の変化や要求に応じてその主義主張は作り直されて行かなければならない。

これらは、ニーチェが著書人間的に、あまりに人間的の中で、信念についてところどころで述べている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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~~の為に行うのだという不遜な考えは

2020-08-09 17:25:10 | 随想

 菜根譚は人に恩を施すものは内に己を見ず、外に人を見ざれば、すなわち斗粟も万鐘の恵みに当たるべしと言っている。

すなわち、人に恩を施すものは心の中に施す自分を意識せず施される相手の感謝を期待しないようであれば~~~

~~の為にするのだという人間の心のうちについて、心ある人間が考えることは考えることは、似たような考え方に到達するのであろう

現代において、殊勝な見返りをわずかでも思い浮かべず人に施しをしようとするなどというものはおそらく皆無であろう。

何らかの見返りをわずかでも心の底に思うならそんなものは斗粟にも値しない。

~のために、行うなどという事は、どれ程良いことのように見えても、それは卑しく貧しいことだ。

だれだれの為にであろうとも何々の為であろうとも、もしそれが何の効果もないものであったとしたら、相手もしくはその事情の所為にする心が生まれる。

それが、うまく運んだ時には己の手柄にする心が生まれ、あわよくばその見返りを期待する心が生ずる。

その何内のためにという事の発端にそのような心が芽生えていないときでも、成功に対する自分の手柄だとする慢心が生ずる。

本当は~~のためにする、という行いは己自身の為だけに行っているのである。

なぜなら、本当に~~のためにという事が純粋に己の心の愛の発露として行われるときは、~~の為にという、

言葉や考えなどが出て来ることはない。

とニーチェがツアラトゥストらの中で言っている。

人間の考えることは西も東も心あるものが考えることはみな同じなのだろうとつくづくと思ったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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衣冠の盗~菜根譚の言葉~ 

2020-07-27 16:46:57 | 随想

書を読みて、聖賢を見ざれば、鉛槧の傭となる、官に居て人民を愛せざれば衣冠の盗となる。

学を講じて躬行を尚ばざれば、口頭の禅となる。業を立てて稲穂を思わざれば眼前の花となる。

本を読んだら聖賢の心に触れなければ、ただの文字の奴隷。

衣冠とは高い官位、今に言い換えればエリート官僚。

官位にあっても俸給をむさぼるだけで人民を愛さなければ、それではただの禄盗人に成り下がる、成り下がるというよりも禄盗人そのもの。

科挙に合格して高級官僚になる、中国の古い時代の知識人の夢であった。

古代中国以来、数多くの文化や制度を取り入れてきたが、この科挙だけは取り入れることはなかった。

なら平安などの時代は特殊な貴族が他者が入り込むのを嫌った偏狭な心、それ以後は武家政治による幕藩制度の所為であろう。

現代の我が国では明治時代になって、

帝国大学の出身者による高等文官試験合格者が政官界入りの切符を手にしていたのがこの科挙に類すると言えるのだろう。

それが現代に於ける一流の国立大学から官僚の試験に合格してエリートコースに乗るのが夢であるのと同じ事である。

そのためにはあらゆるものを犠牲にしている。

受験地獄と言われる所以でもあるのだが、それ故に人間として歪な人格を形成するものも少なくない。

これが日本人の人生を大きく左右して居ることは間違いない。

日本人という生き物の性情を勘案すると、その反動がどこに向くのかを考えると実に恐ろしい。

だが官僚の構造はピラミッド、次ぎ次に落伍者を出しながら頂点に立つのはただの一人だけ。

落伍したものは、関係省庁の外郭団体や公益法人へと天下りしていく。

ここでしっかりと第二の人生を歩む者もいるだろうが、多くは有名無実のポストに胡坐をかき、

仕事などは無関係とばかりに無駄な時間を過ごす輩がほとんどといっていい。

適当な時期に退職金をせしめ安楽な余生へと入るか、再び他のポストを得て天下りを繰り返す輩もいる。

まさに衣冠の盗そのものと言っていいい。

適当なポスが無い時は無理やり外郭団体などを作り上げておさまる者もいるだろう。

わが国が官僚天国と言われる所以でもある。

この天下りする外郭団体や公益法人がすべて国民の役に立っているかと言えば恐らく皆無。

わが国の官僚と言われエリートコースに乗った人間という生きものに、

どれ程民の事を真剣に考慮する人間がいるだろうか。

これもおそらく皆無。

小さなころから、受験戦争を勝ち抜くためにあらゆるものを犠牲にする、

世間知らずの歪な人間が出来上がる可能性は非常に多い。

この様にして育った人間の反動が恐ろしい。

職種によっては、任官してからも世間との交渉は極力制限されるものも有る。

己たちは、天下りという制度があるから如何に老後の制限をきつくしてもほとんどは影響はない。

そのたびに馬鹿を見るのは一般国民の老後の無制限な負担の付加、制限である。

ただいま現在においても、様々な理由をつけて負担を強制しているものも数多い。

最もらしき理由など糞と同じ何処にでもくっ付く。

日本という国は老人にとって、姥捨て山など遥かに超えた、恐ろしい国である。

日本の老人にとって人生百年などというのは、生き地獄を味わうことを意味するのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マスクの夜話~コロナも人によっては福の神~

2020-07-22 21:57:36 | 随想

 

数年前、入院中の人の見舞いに出かけたところ、入り口で、マスクを購入するようにとの指示があり、

自動販売機でマスクを一袋200円なりで買わされた。

十枚も入っていた、一枚あれば足りるものを10枚セットで買わせる、

こんなところで利益を上げようとしていると随分と腹が立ったものだ。

見舞いに来る人は一枚あればもう必要のないもの、大学病院とはいえ企業の一つ、

儲けを出さねば成り立たないのかもしれないが、良識から言えば随分とアコギな方法ではある。

一度の見舞いで、十枚入りのマスクを買わせる方も随分と非常識な話だが、

一枚使って、残りは袋に入れて保管しておいたのが、今随分と役に立っている。

幸不幸は周り灯篭。

今にして薬局をのぞけば多くは品切れ、だが在庫のあるところは数倍の価格が表示されていた。

市販のマスクの高いこと高いこと。

何倍にも値が跳ね上がっている、マスク製造業者は笑いが止まるまい。

是だから人生は面白い、と言えるのかもしれない。

だがこれは己の努力による幸運ではないという事に気づかねばなるまい。

コロナは思わぬ福の神になっているようで、倒産業者には何とも気の毒な話ではある。