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徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

図書館の書籍の貸し出しについて

2020-07-04 18:36:39 | 随想

コロナが騒がれだして以来、覆面マスクでしのいでいたが、こう暑くなってくると覆面も鬱陶しくなってくる。

覆面だと上げたり下げたりがいとも簡単で都合がよいのだが、通常のマスクは何とも煩雑である。

それに加えて付け方が、随分と影響してくるので、安心度は極端に下がる。

正常につけたとしても、マスクによっては半分も防げまい。

すなわちマスクをつける効果は50%と思った方がいい。

ただ、他人様に迷惑をかける度合いはほぼなくなると言っていいのだろう。

二メーター離れればその間に、ほとんどが地上に落下するから安全などというのは、まったくの嘘っぱち。

屋外は上昇気流があり、下降流があり、空気の流れは想像もつかない、室内は空調で空気の流れは下降ばかりではない。

人の動きでも空気は流動する。

二メーター以内で落下などという戯言は空気の流れのないところでミストに含まれたCOVID19がどれほど引力の影響を受かるか、計算しての発言かね。

よくもまあ~不確かなことを臆面もなく言えたものだと思う、馬鹿なやつだ。

質量も分からないミストに含まれたコロナがミストともども、そう簡単に地上に落下すると思う方が阿呆で、常識で考えても不可解である。

マスクもこのごろは増産したのか、買い占めをしなくなったのか、大量に出回っているようである。

安倍が配ったというマスクなど時期遅れで、ほとんど役立たず、四百数十億円の無駄な出費は後々国民の懐にはね返ってくる。

ところで本題の図書館の貸し出し等はほぼ通常に近いものになってきたようだが、借り出した本の信頼性は100%無いといっていい。

前に借りたやつが無症状感染者や軽症者であった場合の次の借りては悲劇である、不運とばかりはいっていられない。ハムレットの心境だろう。

無症状感染者や軽症感染者がのさばって街を歩いている限り、健康人がコロナから完全に逃げることは不可能である。

これらの感染者が一呼吸でCOVID19をどれほど吐き出しているのかさえ医学はつかんでいないのだろう。

何にも分かっていないのと同じこと。感染の仕方さえ正確には全部はつかんでいない医学では完全にコロナから逃げ切ることは不可能。

行政などという輩たちは、それらに接触する機会がほとんどないと思っているのだろ。

己たちが無事であるなら国民はどうでもいいと思うのが、古来からの政治屋のものの考え方で、

野放しのコロナ保有者を何ともする気がないようであれば、国民はワクチンが完成するまでマスクをつけて自衛するしかないのだろう。

マスクがどれほどコロナを防いでくれるのかも定かではない状態では、人間の行動範囲もごく限られた煩わしいものになるのだろう。

本題の図書館から借り出した書籍類、学術専門書などは書庫に眠っていることも多く、

コロナも、ついていたとしても死滅しているだろうが、人気の小説などは予約者が列を作るほど大繁盛している。

返却されたものはすぐに次の予約者に貸し出されるとあっては、危険極まりない状態になるという事である。

コロナすなわちCOVID19について、医学が何にも正確なことがわからず全くお手下げ状態であっては、

前に借り出したものがコロナ保有者であれば次の借り受け人は間違いなく感染するだろう。

紙に付着したCOVID19がどれほどの期間、

感染能力を保持するのかさえ医学的にも分からなければ図書館の本は危険極まりない一物と言えるだろう。

まして保有者が手に唾をつけてページをめくったりするような読み方をすれば、

次の借り受け人は地獄へ真っ逆さまという事になる。

図書館では膨大な量の貸し出し返却本をその都度消毒する手間と費用をかけることはありえまい。

私などは、学術書でない限り、借りてきた書物はとりあえず10日間は箱に入れて放置している。

それから、読み始める段階では、面倒でも読み始める段階では前後の手洗いは励行するようにしてはいるが、

気が付けば抜けていることもしばしば、これとて気休めでしかない。

本当にコロナを撲滅する気が行政にあるなら、国民総検査、COVID19を確認したものは強制隔離する必要があろう。

どこか馬鹿が日本はもう終わりだと、言ったとか言わないとか、終わりにするならそれもよかろう。

今はもう忘れ去られたような、昔々の法定伝染病などを思い出している。

これらは有無を言わせず隔離され、家じゅうくまなく消毒されたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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遇と不遇とは時なり

2020-06-24 17:33:17 | 随想

道徳に棲守するするものは寂寞たり。権勢に依阿するものは万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。

寧ろ一時の寂莫を受くるも、万古の凄涼を取るなかれ。

と菜根譚の第一条にある。

 

遇と不遇とは時なり。    遇不遇者時也。  荀子

と荀子も書いている。

 

真理を守り抜くものは往々にして一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。

権勢におもねって生きるものは、一時は栄えても結局は痛ましく寂しい境遇に陥ることになる。

中国の古い時代、権勢におもねって、他人を讒訴し死に追いやった輩はなんと多いことか。

それは現代においても、言えることで昔のように生命を絶つ死ではなくても、社会的に葬り去る様な讒訴は絶えるることはなかろう。

この讒訴という行為は人間の業みたいなもので、他人に対する嫉妬から沸き起こる人間の感情の末路である。

三木もその著作人生論ノートの中で言っているように、

もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとするとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在であると。

そして、嫉妬こそベーコンが言った様に悪魔に最もふさわしい属性であると。

なぜなら、この嫉妬は狡猾に、闇の中でよいものを害することに向かって働くのが通常であるから、と。

人間社会の中で己より幸福な奴、己より高い地位にある奴を見ると沸き起こる最悪の感情、

それが嫉妬という名の人間という生き物の心の中に巣くう最悪の感情である。

それなら己をその高みに引き上げる努力をすればよいものを、

そうはせずに人を己の位置以下にまで引き下げようと試みるのが嫉妬というものの悪魔性である。

その悪魔から生じる様々な行為の一つに、例えば讒訴などがある。

讒訴、この言葉聞くだに身の毛がよだつ悪魔的な行為である。

こんな行為が、常の世でさりげなく、あるいはあからさまに、行われているのが人間という生き物の世界なのである。

この人間の感情は何も新しいことではなく、何千年も前の古代ギリシャでさえ行われていて、それでソクラテスなどは死刑を宣告されている。

この様な輩はその場限りの人生を生きているのであり、人間としての値打ちはほとんどないと、

このような生き方の輩には遇、不遇などという観念はかけらもなく、己が認められないのは世の所為だぐらいに思っているのだろう。

達人ともなるとは常の世俗の外の真実を見、死後に続く永遠の生命を思う。

一時的に不遇に落ちたとしても、永遠に痛ましさが続くような道を選んではならない。

人間には遇不遇はつきもので、不遇な不幸せが続くものではない。

これを認識している人は、どれ程居るだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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様々な人生論について~

2020-06-22 15:54:41 | 随想

人間は肉体と肉体に宿る動物的意識を理性に従属させること、言い換えれば自我を否定して、愛に生きることによって、

同胞或は生存競争の悲劇から救われるばかりか、死の恐怖からも救われる。

何故なら、その時個人の生命は全体の生命のうちに溶け込んで、永遠の生命を受けるからだとトルストイは言う。

その人生観は何処までも現世的で、理性によってすべてを割り切ろうとしているから、

神の観念の代わりに、人間の集団意識、人類の意識に究極の救いを求めようとしている。

このトルストイの論文は人生とは何か、如何に生くべきかの結論を出したものと言える。

人間、この矛盾に満ちた生き物

この人間と言う生き物の人生論などと言うトルストイの論文、やたらと難しい。

それでも、判り易く簡潔な言葉も述べているところもある。

いずれにしても、訳の解らないことを延々と述べる哲学は苦手である。

 

引用してみると・・・・

人は誰しも自分の利益のため、幸福のためだけに生活している。

自分のうちにこの幸福に対する欲求を感じないという人がいたら、その人は自分を生きている者とも感じていないのである。

人は自分の幸福を願わずに人生を考えることなど出来ない。

誰にとっても生きるということは、とりもなおさず、幸福を願いそれを手に入れるということなので、幸福を願い手に入れるということが、結局、生きるということなのである。

人は自分のうち、自分と言う個人のうちにだけ生命を感じる。

 

人生論云々と言う本が本屋に氾濫するのは、その時は凡そ世の中の安定が欠けて、人々が安穏に暮らしていけるような状態でないことが多い。

政治屋共の失政が続き、官僚共に振り回されている、政治の世界が見え隠れする。

己のこれからの人生に不安を感じ、そんな社会でどう生きたらいいのか、生き方を考えようとする人々が多くなったときともいえる。

それとも、己の人生をもう一度振り返って、前向きに進んでみようと思う人が多くなった、好ましい社会現象になったときか。

これまでも、様々な人生論の本が出ている様であが、何も人生論などと銘打った本を読むまでもなく、様々な小説や詩、古典や童話からさえも人生の指針は十分に汲みとることが出来る。

多くの人生論に書かれているのは恐らく、金もうけに走りすぎて、自己中心的で、排他的な生活を送って、あるいは富を蓄えることに四苦八苦している、

などと賢しら顔で、読む人を見下したようなことを書いているものがほとんどであろう。

更にどれほど儲けても、永続するわけでもなく、たまったころには死が待ち構えているなどと言う老子かぶれの輩さえいるだろう。

人間の価値観など生きていく上で、時代に即応するように変わっていくのが当たり前なのだが、

それを古い時代に世捨て人の様に時代と隔絶した様な生き方をした者の、価値観に学べなどと言う者が人生論のあちこちに見ることが出来る。

人は誰しも自分の幸福のためだけに生きている。

自分のうちにこの幸福に対する欲求を感じないなどと言う人がいたら、その人は自分を生きているとは感じていないのである。

人は自分の幸福を願わずに、人生を考えることなど出来はしない。

 

本屋で立ち読みした人生論を良寛に学ぶという様な本だったと思うが、

立ち読みした程度だから、正確な言葉ではないかもしれないが、次のような事が書かれている。

金銭感覚と競争原理だけが突出した現代では、市場競争とか功利の追求と言うお題目だけで事に当たれば必ず失敗すると言っていたような気がする。

ある一面だけを捉えた、人を脅すような書き方のものは多い。

 

良寛は子供のころから論語などに傾倒していたことも知っているし、禅坊主になって修行し、剣術でいえば免許皆伝にまで達した学識或る人物であることも理解している。

様々な詩集や随筆風の物もいくつかは読んだこともある。

だが良寛の行動を見ていると、額に汗して働くことを嫌い、その日その日を喜捨で賄って、子供と遊び、年寄りの面倒を見て過ごすのを良しとするような、

現実の世俗の世界とは無縁な生き方をしている。

 

良寛の言葉を引用してみよう。

私が、世の中の人の有様を見るに、皆愛欲のために、思い計っている。

それを求めて満たされないと、心も体も一層悲しみ悶える。

例え望んだことが思い通りになっても、結局は何年続くことか。

一度は極楽の様な楽しみを味わっても、後には地獄のような苦しみから逃れることは出来ない。

苦しみを味わうとそれから逃れようとするから、長い間苦しみ続けることになる。と

 

人生論を書こうかと言うものが、必ず口にすることは、金銭を追い求め、快楽を追い求めて、それを得ることが出来たとしても、

それはほんの一時的なもので、後でそれに倍する苦しみを味わうことになるという、脅し文句である。

人生あざなえる縄の如くいい時もあれば悪い時もあるのは世の常識、目くじら立てて馬鹿の一つ覚えの如く強調することもなかろう。

この良寛にしても、如何に学識があり、悟りきったようなことを書いていても、

働くことを拒否し、その日その日を人々の恵み、喜捨によってのみ生きている人間が、賢しら顔に書くことをどうして人生の指針にしなければならない。

 

名誉だとか利益だとかは此の世の煩わしい事柄であり、その様なものに煩わされるのは御免だという、

世捨て人の言葉をどうして人生の指針にしなければならない。

言葉などは、能書きだけならどんなことでも云える、それが人間と言う生き物の賢しらなところなのである。

ただの生きる事からの逃避、この世からの逃避と言うしかなかろう。

日本人一億数千、すべて良寛の様な生活をしたらどうなる。

私が立ち読みした本の著者は如何なるか考えたことあるのだろうか。

そんなことは絶対ありえないとたかをくくっていのだろうが・・・・・

 

人生論を書こうかと言う者が必ず書くだろうことは、決まっている。

現代の生活はお金がすべてで、お金さえ出せば何でも購える、

そのお金を手に入れるために神経をすり減らし苦労の連続で、自分で自由にできる事は何にもない。

そんなお金に捉われるために生活の充足が損なわれ、金儲けだけを目的とした生活になっている。

精神のゆとりは殆どないに等しい。と

なんとも偉そうな言い草、世の懸命に働く人を見下げ果てた奴であることか。

心に余裕が見いだせないのは、何もお金を得ることに夢中になっているからだけではない。

意識する、しないに係わらず、生活にゆとりを取戻し、平和な心を取り戻すには、この社会あまりにも権力によってがんじがらめに縛られている。

自分の周りを見回してみるがいい。

外国ではほとんど放置されて人々の自由に任されていることが、我が国では行政の監視下に抑えられている。

身近な処で、免許の書き換え、車の定期検査、きっちり官僚共に抑え込まれている。

これらの事はすべて、権力者の利益につながっているという事である。

 

老子の言う、貧しいものから取り上げて、裕福な者へどんどんと実を運んでいる、それを手助けするのは権力者だと。

この様な事が人々の幸福を阻害する原因の一部になっていることも確かな事だろう。

先進諸外国と比較してみるがいい。

人々の生活の隅々にまで権力が入り込んで、人々の自由を拘束している。

我が国の人々は古代から、様々な拘束を課せられ、それに耐え忍んできた。

それが戦後、民主主義という名の自由に出合い一気に解放されたかに見えるが、その自由にはきっちりと紐がついていた。

その紐を徐々に締め上げられていったのが現代なのである。

その中で、人々が望むものは己の幸福っだけなのではなかろうか。

何が幸福かは人それぞれで、他人がとやかく言うべきことではない。

 

トルストイもその人生論の中で、幸福を願い、手に入れる事が結局は生きるということなのである。

人間にとって本当に大切で必要なのは、ただ自分のものとしか感じられない、生命の喜び、つまり自分の幸福なのである。

とまでトルストイはその人生論の中で語っている。

トルストイの人生論なる論文は滅多矢鱈に難しい。

老境に差し掛かったトルストイの死への恐怖なのかもしれない。

それで辿り着いたのが、愛と言うことなのであろう。

人間の生き方など、悩み続けて一生を終る人、ゆったりのんびり生きるを楽しむ人、人さまざまであろう。

他人がどの様に生きなさいなどと賢しらに、口出し忠言する様な安易な問題ではない。

 

朝起きると、様々な事が頭を駆け巡っている。

そうかといって科学的に脳科学によって、分析すれば人の理性に裏打ちされた心というものはいかに科学が発達したとは言っても、

科学などでは解明できると言うものではなかろう。

人間と言う生き物の心、内奥など、科学などではとても太刀打ちできない深奥なものなのだ。

科学万能の世の中の様だが、人間に関する科学など科学が解明できるのはほんの一部でしかなかろう。

人間の幸不幸はその人の心の内にある。

良寛など学識をもち、随筆や詩を書きなぐった様だが、世に残った名言や、書かれたものを読んで、良寛の様に生きたいと思う人はいなかろう。

子供と遊び、老人を介護したとは言っても、人々の汗と涙の結晶を喜捨してもらって、漸く安住していた。

現代でいえばホームレス、そんな生活を楽しむとまで行かなくても、堪えられさえすれば、それはそれで何の屈託もない、気楽な人生であろう。

世からの疎外感に堪え、それを本人が納得できれば・・・・・

そんな生き様にもそれなりの苦痛はあるだろう。

 

良寛の言葉にこんなのがある。

浮世を捨てて、わが身を捨てて迷いのない僧となり、月や花を友として残された命を保っている。      良寛全詩集

 

そんな浮世を捨てた良寛が・・・・

浮世の人々を非難している。

なんと世間の人の利己的で薄情な事よ、これを思えば嘆かわしくなる。

正しく義に叶った道を踏み行わなければならない時に、かえって身を避けて隠れ、利益になると見ると、先をあらそってはしりまわる。   

やはり良寛も浮世を捨てたとは言っても、生きてる現実は浮世の中、人々との交流もわずかながら残ってはいる。

人間一人では生きられない。

浮世を捨てたという良寛でも、浮世を捨てる事は出来なかった。

浮世を捨てるのは死のときのみ・・・・

学識があると自覚している良寛にそのことがわからない筈はなかろう。

地位や名誉やお金がそんなに煩わしければ、関わらなければいい。

世の人々が額に汗して生きているのを、人の喜捨によって命を繋いでいる者が世の人々を非難するには及ばない。

世を捨て働くことを放棄した、自堕落な男、己の内でだけで黙って世を眺めていればいい。

世を捨てた、世とは無縁の男が世を批判するのは以ての外。

この男何ともちぐはぐな生き方をしているものだとは思う。

学識があるからと、詩を作り物を書いて世を非難するのは僭越の極み。

そんな浅はかな思い付きを人生の指針になど出来るわけがない。

 

自分以外の他人の幸福について、トルストイは良寛が聞いたら卒倒しそうなことを、平然と述べている。

他人が不幸になることを望まなかったとしても、それは他人の苦しみを見る事が、自分の幸福を損なうからに過ぎない。

人間にとって本当に大切で必要なのは、ただ自分のものとしか感じられない生命の喜び、つまり自分の幸福なのである。

他人もやはり自分と同じように、自分自身の生命と、自分自身の幸福だけを感じ、自分自身の生命だけを重要な真実のものと考えて、

人の生命などは自分の幸福のためのただの手段ぐらいにしか考えないものである。

ただ、人は自分の幸福と言うもの、それがなければ人生も意味を失ってしまう。

自分一人の幸福と言うものが、そう容易く手に入るものではないばかりか、いずれは自分の手から、全く奪われてしまうに違いないと悟るのである。

人生を長く生きれば生きるほど、この考えは経験によって確かめられる。

 

 

 

以前に他で載せたものに加筆修正したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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花発けば風雨多し

2020-06-21 13:47:31 | 随想

 

春先から強風が吹き荒れることが多く、花を撮るものにとっては、まったくな邪魔者。

この頃は梅雨の所為もあって晴れ間はいくらもない。

ふと思い出した。

この世の中は花が咲けば、とかく風が多く、生きていくうちには別離が多い、と歌った漢詩がある。

友と語るも酒、友との別離にも酒、何かと言うと酒を酌み交わし人生を楽しんでいたのだろう。

漢詩にはとかく飲酒に関するもの、別離に関するものが非常に多いが、

この詩もたしか勧酒と題した詩であったように記憶しているが果たして、ただ作者は全く記憶の外・・・・

如何にも気になって仕方がないので、唐詩選の詩集を引っ張り出してみた。

案の定、勧酒と題する五言絶句。友人との別離に際して、別れの杯を勧めながら作った詩とある。作者は于武陵。

 

君に勧む 金屈巵

満酌 辞するを須いず         ~須いずはもちいずと読む。

花発けば風雨多く

人生 別離足し       ~足しは多しと読む。

 

漢詩が気にいるいらないは、長々とうたった詩であっても、ほんの数句が印象に残ると全体が好みになったような気になる。

特にこの詩のように五言絶句などは非常に簡潔で憶えやすく、後の転結が心の中にすんなりとはいってくる。

花には風、人には別れ~とかくままならないのがこの世の中。

ずう~んと心に響くような気がしてくる。

 

それでは美酒を一杯、辞するを須いず。

 

因みに五言絶句とは

起・承・転・結の四句からなり、一句が五字の五言絶句と七字の七言絶句とがある。


COVID-19の無知は恐ろしい

2020-06-14 22:14:55 | 随想

 

公共の乗り物に乗るのは実に恐ろしい。

何も罹患して、死を迎えることを恐れているのではない。

罹患が判明したら軽度の内は自宅療養を勧める行政の態度が恐ろしいのである。

そして、新型コロナウイルスは伝染しますか?の質問には

新型コロナウイルス感染症の主要な感染経路は飛沫感染と接触感染であると考えられています。と答えている。

飛沫というものの詳細は・・・・飛沫とはどのようなものを意味するのか詳細は分からないのであろう。

人体から出た飛沫は二メートルで地上に落下するなどと簡単なことを言っているが、どこにその確証がある。馬鹿な話よ。

室内には空調の流れ、外は空気の流れいわゆる風が飛沫を巻き上げていくだろう。

人間の呼気はCOVID-19を含むに十分なゾルになっている。

このゾルが消えればCOVID-19は空気中を独り歩きすることになる、いわゆる空気感染の可能性である。

単なる通常の呼気にはCOVID-19が含まれていないような言い草である。

 

そして問題は、COVID-19 による症状は、人によって異なりますが、ほとんどの感染者では軽度から中等度の症状であり、入院せずに回復します。

自宅療養者が己が出歩けばコロナを感染させる可能性があるからと、自覚して出歩かなければいいのだが、

日本人でその様に簡単に自己規制出来る輩は一人としていなかろう。

それが感染拡大の最大原因、体内にCOVID-19を抱えたものを野放しにしていることが、コロナ感染患者の拡大につながっている。

自宅療養をしている者の家族、日本の住宅事情やその他もろもろの事を考えると、その家族でさえCOVID-19の運び屋になっている可能性さえある。

COVID-19については日本の医学界でさえ、何にもわかっていないような気がする。

飛沫の重みで、二メートルで地上に落下するなどと馬鹿なことをまことしやかに発表して実行させているなど、馬鹿な話よ。

それでちょっと罹患者が増えると、緊急事態だ医療崩壊だと大騒ぎし、己のものでもない金をばらまいてきた。何とも馬鹿な話である。

人の金なら、無尽蔵にばらまいても己には何の痛痒も感じない。

国民は将来の増税をあてにした滅多矢鱈の金のばら撒きまで承認したわけではない。

この後、何十年も子々孫々まで、国民を増税で苦しめる、その先の見通しさえできない宰相では日本はもう終わりだ。先見の明の欠片もない。推して知るべし。

緊急事態発表の時は全員分厚いマスクで覆っていたが、五月の末の期間短縮の発表の時は全員素顔、まるでコロナ騒動が終焉したかのような表情、

あのマスクなどどこへ行ったのか、コロナ騒動が終焉したかの如き表情は何とも軽薄、これが一国を動かす者たちの表情とは、・・・・

今頃になって、マスクが届いたという話もある。一家に只の二枚、特に役に立つとも思えないことに466億円。

国民はこの何倍も税を払わされる。

参政権を行使するときは、民主主義を実行しているわけではない。

目覚めよ、日本の民よ、政治の無知はそろそろ終わりにしないと、国が成り立っていかなくなるであろう。

夏を越し、秋のコロナ対策に、マスクの着用を義務付けることを検討している国も出ているようである。

この暑い極暑の夏にマスクの着用を義務付けられると、体力のないものはCOVID-19ならぬ熱射病にやられることになる。

猿真似日本の行政もやりかねないであろう。

 

以下の様な記事もある。

ウイルス排出:ウイルス排出は、ウイルスが宿主に感染して繁殖し、周囲に放出しているときに発生する。したがって排出によって感染者が他人にウイルスを感染させてしまう。新型コロナウイルスの感染者の一部は、感染から2日以内で症状が出る前にウイルスを排出していた。とはいえWHOは、このような感染者は恐らく感染拡大の主因ではないと考えている(今週発表された査読前の論文では、新型コロナウイルス感染症の患者は無症状か軽度の症状を示す初期段階に、大量のウイルスを排出していることが示されている)。

インフルエンザウイルスは通常、症状が現れてから最初の2日間にウイルス排出が起こり、最大1週間排出が続く。しかし、ランセット(The Lancet)に発表された中国の患者に関する研究によると、新型コロナウイルス感染症の患者は約20日間(または死亡するまで)ウイルスを排出し続けていたことが分かった。検出されたウイルス排出最短期間は8日だが、37日目にウイルスを排出していた症例もあった。このことから、新型コロナウイルス感染症の患者が、インフルエンザ患者よりもはるかに長く感染力を維持すると考えられる。