SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要3:《中観》(第2回)

 「仏教思想概要3:《中観》」の第2回です。
 第1回では、中観派の発展の歴史をまずみてみましたが、第2回の今日は、中観思想の基となった『般若経』を取り上げます。

 

2.『般若経』の成立

2.1.「菩薩」の登場

 ナーガールジュナには大乗経典にあらわれる菩薩と同じ性格が与えられていました。
 伝記にあらわれたナーガールジュナは劇的な、波瀾にとんだ生涯を送った人でした。激しい気性、さかんな批判精神、そして東奔西走する英雄的行動。こうした生き方は、シャカムニ・ブッダやその保守的な弟子たちの、平和、理知、冷静、円満といったことばで形容される生活とはかなり違ったものでした。
 しかし、こうした劇的な英雄がインド社会に新しい仏教者として登場するのは、ナーガールジュナに始まるわけではありません。『般若経』その他の大乗仏典にあらわれる菩薩たちには、同じような性格が与えられていました。大乗仏教は僧院の宗教(=小乗仏教)に対立する社会人の宗教であり、菩薩は社会人を代表する英雄でした。

 

2.2.「菩薩」登場の背景

2.2.1.原始仏教教団の分裂

 ブッダの死後教団の統一規制を図ったのは、マハーカーシャパ(大迦葉だいかしよう)を中心とする保守派(=上座部、主に出家仏教者)でした。
 彼ら出家信者は、王家や在家信者からの保護により、遊行生活から僧院への定住化とその生活スタイルは変化していきます。その結果の問題点として次のような点があげられます。
 ↓
・ブッダの神格化により、修行者の目標の変化→アルハト(阿羅漢)になること
・出家者にのみ可能な「修行」によりアルハトに到達→在家信者の締め出し
 ↓
 この結果、大衆部(主に、在家一般信者)は、上座部より独立し、彼らと対立することとなりました。(ブッダ死後100-200年ごろ)

 

2.2.2.大衆部の仏教

 大衆部は教義面では、「空の観念」「ことばへの不信」「シャカムニを法身の化身と考える『仏身論』に発展」など大乗仏教への道を準備しました。

・時期:西暦一世紀ごろ、『般若経』の編纂が盛んになる
・大乗の菩薩=『般若経』にあらわれた英雄

 大乗の菩薩は、迷い悩む衆生を導くため、自分の涅槃を断念して衆生とともに、この世の苦難の道を歩むのです。僧院の出家者である「声聞(しょうもん、ブッダの教えを聞く弟子)」、社会を離れて犀のようにひとりきりで瞑想して悟る「独覚(どくかく)」たちとはまったく種類を異にしていたのです。

 

2.3.『般若経』思想の社会性

2.3.1.八正道から六波羅密へ

 初期仏教や僧院仏教の修道の規範に「八正道(はっしょうどう)」というものがあります。これに対して、大乗菩薩の徳目としては六種のパーラミター(「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」)が説かれています。両者は下図1のように整理できます。

 六波羅密のうち前の五つは、完全な知恵(智慧)によって裏付けられています。完全な知恵とは「空の知恵」、つまりすべてのものには本質はないという知恵のことです。(ここでは、徳が徳自身を否定するというようなはたらきと理解しておけばよいのです。「空」についは詳細後述)
 六種のパーラミターは修道の徳目であると同時に、社会的徳目でもあります。しかし、社会的な徳目が自分を否定することで社会的でなくなります。
 さらに、瞑想という宗教的修道も涅槃のためでなく完全なる慈善のため、つまり、ついには宗教性が否定され、社会性にもどるのです。

 

2.3.2.不二ということ

 六種のパーラミターは以下の二つの性格にまとめられます。

 ①その社会性ということ
 ②社会的なものと宗教的なものとの(俗なるものと聖なるもの)とが一体であること

 この二つの性格は、大乗の菩薩、あるいは大乗仏教一般を特徴づけています。
 ここで、第2の特色、聖俗一体をということを考えてみると、社会的・世俗的なものがそのままで宗教的価値をもってくるわけではありません。社会的・世俗的なものがみずからを越え出てそれ以上のものになるためには、「空の原理」がはたらいているのです。
(聖俗一体の事例 下表4参照)

 般若経の逆説があります。菩薩は菩薩でない、だから菩薩といわれる、と。そしてこの逆説はすべてのものについてくりかえされます。
 『般若経』には空・無区分という言葉を言い換えて、平等・不二(一体性)という言葉も頻出します。「ものが区分されず、本質的に空であれば、すべてのものは空であることにおいてみな等しく、一体である。世間的なもの、俗なるもの、また、出世間的・聖なるものも、相互に区分されず、等しいもの、一体のものとなる。」そこでは、社会的な行為がそのまま宗教的な行為になってくるのです。

 

2.4.『般若経』の神秘性

(1)三種の瞑想と「最高の真実」
 『般若経』の菩薩の物語は、出家教団の利己的なおごりを批判しています。それは無執着(むしゅうじゃく)ということを在家仏教者の倫理的・宗教的な態度として、大乗仏教の旗印として掲げているのです。そして無執着の基礎付けとして空の思想を展開しました。
 ここで、ものごとにとらわれない、という菩薩の心構えは、ものは本体をもたない、空である、という認識まで昇華させるところには哲学があります。
『般若経』は、菩薩の劇的な活躍の舞台であっただけではなく、神秘主義的な哲学者の舞台でもあったのです。
 仏教の初期の段階から、出家僧の中には、アビダルマの体系を組織した合理主義者とともに、これに反発し、仏教の真意は、深い瞑想によってのみ得られるものだという人々もいたにちがいない。このいわば神秘家の一群が般若経典の制作者の重要な一部をしていたのです。
 初期の般若経典では、瞑想は以下の三種に区分されていました。(下表5参照)

 瞑想は神秘家たちにとって、真実探求のただ一つの真実の方法でした。「ほんとうに存在するものは何か。ある対象に注意を集中して瞑想していると、その名前、そのかたちは消えてしまう。思惟すべきもの、表現すべきもの、知覚すべきものはすべて消え失せて最後に残った「最高の真実」、それは生じもせず、滅しもせず、来たらず去らず、作られたものでなく変化もしない。いかなる形でも現象せず、時間的にも、空間的にも無限・無辺である。それはすべての限定を離れ、静寂であり、孤独であり、静寂である。」と。それは、神秘的な直観の世界(原語を否定し、思惟を超越した純粋に直観の世界)であったのです。

(2)ことばへの不信
 『般若経』の神秘家たちは、また人間のことばを信用していませんでした。
 「アビダルマの区分はことばの世界にのみあり、実在するものにあるのではない。人間がことばによって考え、区分したイメージを実在するものそれ自体の本体としてもっているものではない。→それが、ものが空であり、無相であることの意味である」と。

(3)積極的表現としての「最高の真実」
 『般若経』の「最高の真実」は、「しるしがなく、願わるべきものなく、生ぜず、滅せず、云々」という空性の否定的な表現が用いられる例が多くみられます。一方で、「本来完全に清浄である」とか「心は本来清く輝いている」という積極的な表現にも注目すべきです。このような表現は、後期中観派、唯識派の重要な観念として継承されていきます。(詳細は後述)

 

3.アビダルマの世界―有部の「永遠なる本体」

 アビダルマの代表的な部派である有部(説一切有部)は、永遠なる本体の存在を主張します。それは、過去・現在・未来を通じて永遠にある(三世実有)の世界であり、思惟の世界を本体として、事実の世界を現象と考える世界です。(思惟は永遠である)
 これに対して、経量部、中観派、唯識派などは、直観だけを事実の世界として認め、思惟の世界は人間の構想としてのみ認め、永遠の本体を否定しています。
(アビダルマについては、「仏教思想概要2・アビダルマ」で詳しく取り上げていますので、ここでは、詳細は省略します。)

 

 本日はここまでとします。以上で、第1章が終わりとなります。ここまでは、中観派の思想内容の背景をみてきました。次回からいよいよ中観派の思想そのものについて触れていきます。しばらくお待ちください。

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