驚いたことに、戦前の多摩川スピードウェイの回顧展が開かれるみたいです。興味のある人以外には「なんだ?」というテーマかと思います。
その頃の施設の一部が残っているらしいですが、知らない人には単なる河川沿いの土手に見えるのではないでしょうか。
むしろ「戦前」という時代を振り返る良い機会になるかもしれません。教科書や教室では「軍国主義が覆っていた時代」という表現しかしないかもしれません。しかし、日本が欧米列強に追いつき、文化的にも発展していたことも確かだと思うのです。昭和6年の満州事変により、軍国主義が進んでいったとしか教室では教わりません。しかし、その9年後の昭和15年の東京オリンピックの開催を欧米列強は認めてもいたのです。これは、アジア初開催、非キリスト教文化圏でのオリンピック開催を欧米が認めていたということでもあるのです。それだけ関東大震災の痛手から立ち直ってきてもいたのです。そういったことを含めて、戦前という時代を見つめる機会になるのではないかと思います。
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私は、介護の都合で行けるかどうかギリギリなのですが、良いレポートがあったので・・・
------> ココ
行きたい!
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段々盛り上がってきたというか、イベント開催と共に価値が認識されてきたみたいです。私自身はとうとう行けなかったのですが、資料のアップが増えてきたみたいで色々覗いてみました。
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当時の写真
これは有名な写真ですね。
これは初めて見ました。
終戦直後と現在の航空写真
単なる河川敷になってます。
戦前の文化財の一環として、記録、保存の気運が盛り上がるのでは?
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色々と過去と現在のつながりが分かってきます。
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”<東京サーキット>の建設計画が世に出たのはいまから2年まえ。東京・千駄ヶ谷でハイヤー・タクシー会社を経営する張煥慶氏が提唱したものだった。さらに資金面で、イースタン観光(本社、東京・佐久間町)の藤本威宏社長が計画に参加、電通の島崎千里専務やJAF(日本自動車連盟)の竜村徳理事らが設立発起人、あるいはアドバイザーとして名を連ねるに及んでしだいに具体性をおびてきた。
藤本威宏氏は一つ橋大出身のインテリジェンス経営者、父親の軍治氏は日本のオート・レース界の草分けとあって、<東京サーキット>にイースタン観光の資本が投入されることになったのは偶然とはいえないようだ。PR面は電通が担当し、強力な組織力にものをいわせてマスコミ対策を推進するであろうことは想像に難くない。”
ここで更にポイントなのが、イースタン観光の藤本威宏社長という人物がこの東京サーキットの方向性を決定づけたのではないかと思われる。
電子書籍化した関連の記事として、この号と連動したオートスポーツwebの記事の中でこの藤本威宏氏の父親、藤本軍治氏の解説をしている。
http://as-web.jp/as_feature/info.php?no=44#11_0
"1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで11回の日本自動車レースが開催されているが、日本に自動車レースを始めさせる強力な推進力となった人はジョージ藤本こと藤本軍次だった。藤本は昭和に入り、多摩川スピードウェイを実現させるのに力を尽くした人でもある。
6歳のときに渡米し、1910年(明治43年)頃からポンコツ車を改造してレーサーに仕立て、全米各地を巡業してまわっていたが、1922年(大正11年)にハドソン・レーサーを持って帰国。早速、当時の有力な新聞だった報知新聞社の煙山二郎企画部長を訪ねて自動車レースの必要性を説き始めた。 "
”常設の自動車レース場をつくらなければいつまでたっても会場難は解消しないと、大正時代の日本自動車レースを推進した藤本軍次と当時報知新聞社企画部にいた金子常雄が目をつけたのは多摩川沿いにあったオリンピア球場跡地だった。日本スピードウェイ協会を推進母体につくり、敷地の所有者だった東横電鉄(現在の東急)を口説き落として、1936年(昭和11年)5月9日、日本で初めての本格的なサーキットである多摩川スピードウェイが誕生した。"
(日本モーターレース史/桂木 洋二 より)
当時報道されていた東京サーキットの計画図の色々
更に、これは見た方も多いと思いますが、富士スピードウェイの初期計画図
この計画の中でスタンド前ストレートと30度バンクが残って建設された。
参照させていただいた記事 ----------> ココ
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昭和40年前後に東京サマーランドの一環として計画されていた東京サーキットを進めていた方の父上が多摩川スピードウェイの中心人物だったみたいですね。そして1960年代から1970年代にかけて、アメリカンタイプからヨーロッパタイプに傾向が変わっていったということでしょうね(鈴鹿は最初からヨーロッパ指向ですが)。
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ところで、単純な好奇心からの質問になりますが、お使いになられている写真はご所蔵のものなのでしょうか。あるいはお知り合いにiお持ちの方がいらっしゃたりするのでしょうか。
著作権、肖像権等、権利問題が厳しく管理される昨今です。老婆心ながらお尋ねしてみることにいたしました。
今回は、思いがけないテーマでまとめられるだけまとめてしまいました。今のところ抗議のコメントは来ていませんし、営利的な意図もありません。しかし、来た時には、このページを取り下げることもあるかもしれません。