昨年から続けている木村紀夫さんお話会。ブログで宣伝せぬまま、今回で5回目の開催が終了しました。
毎回違う場所で開催してきましたが、これくらいの少人数で行えるのが一番いいかなぁと思っています。これからも続けていきますので、まだ聞いたことがないけど気になっていたという方は、是非いつか足をお運びください。
+++++
いつも様々なことを考えさせていただける木村紀夫さんお話会。今回は、木村さんにご質問をしながら、「そういえばあの日、自分は何をしていたんだっけ?」と思い返していました。
震度5弱で大きく揺れたビル。通話中だった電話を置いて、棚を押さえながら机の下にもぐりこむ。揺れがおさまってすぐに避難した隣の公園。交通機関の回復を待ちながら食べたうどん。結局歩いて帰ることになった夜の街。帰宅難民が同じ方向に連なって歩いている中で、ホームレスの方だけがゆっくり空を見上げていたのを何故かよく覚えている。
これが、僕が体験した「東日本大震災」の当日。
あの日、色々な場所で色々な人が色々な状況の「東日本大震災」を体験した。木村さんが教えてくれるのは、そういう当たり前のこと。
木村紀夫さん。東日本大震災により発生した津波で、ご自宅と奥様とお父様を亡くし、次女は今も行方不明。現在は移住先の長野県白馬村で今後の生き方を模索しながら、次女の捜索のために定期的に福島県に通っている。
簡単に書けば、これが木村さんの現在のプロフィール。だけど、話を聞けば聞くほど、「こうして簡単に紹介していいのかな」という気持ちが強くなってくる。
東日本大震災が起きた時、ご自宅ではなく職場にいた木村さん。ラジオから流れてきたのは「3mの津波がくる」という予想。それを聞いて安心し、職場の片付けを優先させた。
しかし実際に来たのは10mを越える津波で、家に戻ったときにはすでに家が流されていた。それでも家のすぐ裏は高台になっているので、当然避難できているだろうと考えた。だが避難所を周っても、お母様と長女以外のご家族と会うことが出来なかった。
暗くなった自宅周辺で家族を捜すが、目視と声がけしかできない。震災の翌日、明るくなってからご家族を捜そうとした時に、原発周辺から避難指示が出る。行方不明のご家族も、生き延びた家族もどちらも大事だが、ひとまず長女を安全な場所に連れて行くことが大事だと考えて、自家用車で大熊町を出た。
避難指示が出たのは朝7時頃だったが、その時にはすでに茨城からも大型バスが到着していた。ということはもっと早い段階で避難しなければいけないということが分かっていたのでは?という疑問がよぎる。
後日になって、お父様のご遺体が自宅近くの田んぼで見つかる。震災翌日の朝に周辺を捜索出来ていればお父様を見つけてあげることが出来たのではないかという思いがこみ上げる。
震災当日から翌朝にかけてだけでも、これだけのことを聞かせていただける。きっとまだまだ話せることはあるのだろうし、どこまで話しても話し尽くせるものでは無いのだろうと思う。
それを知ってほしいなというのが、僕の思いです。「東日本大震災」という一息で発せられてしまう単語を、「木村紀夫さんが体験した東日本大震災」という長いストーリーに変える。そのことで、想像できる範囲が格段に広がる。
たとえば、いつも話題に上がるのが中間貯蔵施設の問題。
福島県内の除染で取り除いた土や廃棄物を、安全に管理・保管するための施設である「中間貯蔵施設」。この受け入れを、大熊町は正式に表明している。
木村さんのお話を聞くまでは、「中間貯蔵施設」は福島第一原発からほど近い場所に作るしかないだろうなと僕も思っていました。帰還間困難区域として立ち入りが制限されている大熊町に、放射能に汚染された廃棄物を集めることは、各地でバラバラに保管するよりも合理的なことのように思っていたからです。
そして「中間貯蔵施設」というのは恐らくそのまま「最終処分場」に変わっていくのだろうなということに関しても、そこまで違和感を持っていませんでした。
ですが、いま僕は木村紀夫さんを知っています。「帰還困難区域」と捉えていた大熊町を「木村さんが次女の捜索を行っている大切な故郷」として想像できるようになっています。
木村さんのご自宅は、中間貯蔵施設の建設予定地とされている。もし中間貯蔵施設が出来たら、木村さんの自宅跡はどうなるのだろう。自由に捜索活動を続けることは出来るのだろうか。木村さんにとって、ご家族と繋がることの出来る大事な場所への立ち入りは制限されてしまわないだろうか。
そういうことがとても気になるようになりました。それに対して自分が出来ることは思いつかないかもしれない。だけど、確かに自分の物の見方は変わっている。多分そこがスタートラインなのだと思います。
物事を考える時、テレビや新聞・ネットの情報だけでなく「具体的な顔が思い浮かぶこと」がいかに大切かを、木村さんは教えてくれます。
会の終わりに、「親ばかかも知れないけど・・・」と言いながら見せてくれたのは、たくさんの汐笑ちゃんの写真。
このまま社会に出しても恥ずかしくなかったという自慢の汐笑ちゃん。次女らしい要領の良さと周りを観察する力、利発な笑顔、気付けば輪の中心にいる求心力、走るのだって速かった。
伝わってくるご家族への想いの中で、「汐笑が見つからないのは、そのことで俺の背中を押しているのかもしれない」と木村さんが話してくれたことが強く印象に残っています。
いま、木村さんが暮らす長野県白馬村では、様々な能力や個性をもった仲間が集まって、ああだこうだ言いながらともに未来を考えています。震災後に出来たこうした関係も、汐笑ちゃんがつなげてくれたもの。ともに捜索活動をしている仲間も汐笑ちゃんがつないだもの。もちろん僕と木村さんの出会いも汐笑ちゃんのおかげ。
こうして木村さんが体験を伝えてくださるのは、「亡くなった家族のために伝えていきたい」という気持ちもあるのだと伺いました。それならば、木村さんが望む限りは僕も微力ながらお手伝いさせていただきたいと思っています。
今後とも、地道に一回ずつ続けていきたいと思っていますので、いつかタイミングが会ったときに是非お越しください。
毎回違う場所で開催してきましたが、これくらいの少人数で行えるのが一番いいかなぁと思っています。これからも続けていきますので、まだ聞いたことがないけど気になっていたという方は、是非いつか足をお運びください。
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いつも様々なことを考えさせていただける木村紀夫さんお話会。今回は、木村さんにご質問をしながら、「そういえばあの日、自分は何をしていたんだっけ?」と思い返していました。
震度5弱で大きく揺れたビル。通話中だった電話を置いて、棚を押さえながら机の下にもぐりこむ。揺れがおさまってすぐに避難した隣の公園。交通機関の回復を待ちながら食べたうどん。結局歩いて帰ることになった夜の街。帰宅難民が同じ方向に連なって歩いている中で、ホームレスの方だけがゆっくり空を見上げていたのを何故かよく覚えている。
これが、僕が体験した「東日本大震災」の当日。
あの日、色々な場所で色々な人が色々な状況の「東日本大震災」を体験した。木村さんが教えてくれるのは、そういう当たり前のこと。
木村紀夫さん。東日本大震災により発生した津波で、ご自宅と奥様とお父様を亡くし、次女は今も行方不明。現在は移住先の長野県白馬村で今後の生き方を模索しながら、次女の捜索のために定期的に福島県に通っている。
簡単に書けば、これが木村さんの現在のプロフィール。だけど、話を聞けば聞くほど、「こうして簡単に紹介していいのかな」という気持ちが強くなってくる。
東日本大震災が起きた時、ご自宅ではなく職場にいた木村さん。ラジオから流れてきたのは「3mの津波がくる」という予想。それを聞いて安心し、職場の片付けを優先させた。
しかし実際に来たのは10mを越える津波で、家に戻ったときにはすでに家が流されていた。それでも家のすぐ裏は高台になっているので、当然避難できているだろうと考えた。だが避難所を周っても、お母様と長女以外のご家族と会うことが出来なかった。
暗くなった自宅周辺で家族を捜すが、目視と声がけしかできない。震災の翌日、明るくなってからご家族を捜そうとした時に、原発周辺から避難指示が出る。行方不明のご家族も、生き延びた家族もどちらも大事だが、ひとまず長女を安全な場所に連れて行くことが大事だと考えて、自家用車で大熊町を出た。
避難指示が出たのは朝7時頃だったが、その時にはすでに茨城からも大型バスが到着していた。ということはもっと早い段階で避難しなければいけないということが分かっていたのでは?という疑問がよぎる。
後日になって、お父様のご遺体が自宅近くの田んぼで見つかる。震災翌日の朝に周辺を捜索出来ていればお父様を見つけてあげることが出来たのではないかという思いがこみ上げる。
震災当日から翌朝にかけてだけでも、これだけのことを聞かせていただける。きっとまだまだ話せることはあるのだろうし、どこまで話しても話し尽くせるものでは無いのだろうと思う。
それを知ってほしいなというのが、僕の思いです。「東日本大震災」という一息で発せられてしまう単語を、「木村紀夫さんが体験した東日本大震災」という長いストーリーに変える。そのことで、想像できる範囲が格段に広がる。
たとえば、いつも話題に上がるのが中間貯蔵施設の問題。
福島県内の除染で取り除いた土や廃棄物を、安全に管理・保管するための施設である「中間貯蔵施設」。この受け入れを、大熊町は正式に表明している。
木村さんのお話を聞くまでは、「中間貯蔵施設」は福島第一原発からほど近い場所に作るしかないだろうなと僕も思っていました。帰還間困難区域として立ち入りが制限されている大熊町に、放射能に汚染された廃棄物を集めることは、各地でバラバラに保管するよりも合理的なことのように思っていたからです。
そして「中間貯蔵施設」というのは恐らくそのまま「最終処分場」に変わっていくのだろうなということに関しても、そこまで違和感を持っていませんでした。
ですが、いま僕は木村紀夫さんを知っています。「帰還困難区域」と捉えていた大熊町を「木村さんが次女の捜索を行っている大切な故郷」として想像できるようになっています。
木村さんのご自宅は、中間貯蔵施設の建設予定地とされている。もし中間貯蔵施設が出来たら、木村さんの自宅跡はどうなるのだろう。自由に捜索活動を続けることは出来るのだろうか。木村さんにとって、ご家族と繋がることの出来る大事な場所への立ち入りは制限されてしまわないだろうか。
そういうことがとても気になるようになりました。それに対して自分が出来ることは思いつかないかもしれない。だけど、確かに自分の物の見方は変わっている。多分そこがスタートラインなのだと思います。
物事を考える時、テレビや新聞・ネットの情報だけでなく「具体的な顔が思い浮かぶこと」がいかに大切かを、木村さんは教えてくれます。
会の終わりに、「親ばかかも知れないけど・・・」と言いながら見せてくれたのは、たくさんの汐笑ちゃんの写真。
このまま社会に出しても恥ずかしくなかったという自慢の汐笑ちゃん。次女らしい要領の良さと周りを観察する力、利発な笑顔、気付けば輪の中心にいる求心力、走るのだって速かった。
伝わってくるご家族への想いの中で、「汐笑が見つからないのは、そのことで俺の背中を押しているのかもしれない」と木村さんが話してくれたことが強く印象に残っています。
いま、木村さんが暮らす長野県白馬村では、様々な能力や個性をもった仲間が集まって、ああだこうだ言いながらともに未来を考えています。震災後に出来たこうした関係も、汐笑ちゃんがつなげてくれたもの。ともに捜索活動をしている仲間も汐笑ちゃんがつないだもの。もちろん僕と木村さんの出会いも汐笑ちゃんのおかげ。
こうして木村さんが体験を伝えてくださるのは、「亡くなった家族のために伝えていきたい」という気持ちもあるのだと伺いました。それならば、木村さんが望む限りは僕も微力ながらお手伝いさせていただきたいと思っています。
今後とも、地道に一回ずつ続けていきたいと思っていますので、いつかタイミングが会ったときに是非お越しください。