お鶴が姿を見せなくなった。
昔話をしながら夜遅くまで酒を飲み、朝になると風呂に入って来ようと帰ったまま、もう五日も現れなかった。
五郎右衛門はお鶴の事が気になり、修行どころではなかった。毎日、毎日、木剣を振りながら、小川の方をチラチラ見るが、お鶴はやって来ない。お鶴の足が濡れないようにと、小川に丸木橋をかけてやったのに、お鶴はやって来なかった。
和尚が来たら、お鶴の事をそれとなく聞こうと思うが、和尚もやって来ない。様子を見に寺に行きたかったが、何となく照れ臭く、行く事はできなかった。
五郎右衛門は剣術の修行以前に、お鶴の事を忘れるために座禅を組んだり、倒れるまで木剣を振っていた。
五日めの晩になって、ようやく、お鶴は現れた。いつものように酒をぶら下げ、ニコニコしながらやって来た。五郎右衛門はお鶴に飛び付きたい衝動にかられたが、じっと我慢した。普段と変わらぬ顔で夕飯の支度をしながら、お鶴が来るのを待っていた。
「五右衛門さん、元気だった?」とお鶴は陽気に聞いて来た。
五郎右衛門は鍋の火加減を見ながら、「五日も来ないで、何してたんだ」と聞こうとして、その言葉をぐっと飲み込み、
「なんだ、まだ、いたのか」とそっけなく言った。
「なによ、その言い草は」
お鶴は五郎右衛門の顔を覗き込むと、「ほんとは会いたかったくせに、痩せ我慢なんかして、この」と笑った。
「お前が来なかったんでな、みっちり、修行に集中できたわ」と五郎右衛門は鍋の中を掻き混ぜながら笑った。
「へえ。あたしなんかに用はないっていうのね」
お鶴は五郎右衛門から杓子を奪うと雑炊の味見をした。
「あら、いい味してるじゃない」
「お前には用がないが、その酒には用がある。毎晩、酒の夢ばかり見ておった」
五郎右衛門はとっくりを手に取ると栓を開け、匂いを嗅いだ。
「ははあ、とうとう、本音を吐いたな。ほんとはあたしの夢なんでしょ」
「お前の夢も見た」
お鶴は嬉しそうに、「ねえ、ねえ、どんな夢」と近寄って来た。
実際、五郎右衛門はお鶴を抱いている夢ばかり見ていたが、そんな事は口が裂けても言わなかった。
「お前が熊と相撲を取ってる夢じゃった。わしは酒を飲みながら見物していたんじゃ」
「なによ、それ。どうして、あたしが熊とお相撲しなくちゃなんないの」
お鶴は杓子を振り回した。
「知らん。亭主の仇だと言って、お前は熊に飛びかかって行ったんじゃ」
「あなたはそれを見ていただけ? あたしを助けてくれなかったのね」
「お前は強かったからのう。熊を簡単に投げ飛ばしてしまったわ」
「馬鹿みたい」
お鶴はとっくりをぶら下げ、岩屋の中に入って行った。
結局、五郎右衛門はお鶴が五日間、何をしていたのか聞かなかった。お鶴も話さなかった。その後、お鶴は毎日現れた。もう、仇討ちは諦めたのだろうと思っていたが、そうでもなく、時々、男装姿で現れては五郎右衛門に斬りつけ、傷だらけになっていた。
五郎右衛門が岩屋に籠もって二ケ月余りが過ぎた。厳しかった冬もようやく終わろうとしている。雪はまだ所々に残っていても、朝晩の冷え込みは和らぎ、凍り付いていた氷柱も溶けて、崩れ落ちて行った。
お鶴と出会ってからも一月が過ぎていた。不思議な女だった。何がどう不思議なのか、説明するのは難しかったが、とにかく、普通の女ではなかった。剣術は人並み以上の腕を持ち、男装姿がよく似合い、踊りはうまいし、唄もうまい。武家娘のように上品かと思えば、時には遊女のように男を手玉に取る事もある。酒は底抜けのように強く、毎晩、飲んでいるのに酔い潰れる事は一度もなかった。酔っ払ったように見えても、決して自分を失わない。五郎右衛門が誘いを掛けても乗っては来ない。酔いにまかせてお鶴を抱こうとすると、仇同士でしょと言って、さっと身をかわす。五郎右衛門がお鶴を抱いたのは最初の晩だけで、それ以来ずっと、お預けを食わされていた。
青空が眩しいくらいによく晴れた日だった。珍しく、お鶴は昼前にやって来た。五郎右衛門はいつものように、立ち木を相手に木剣を振っていた。
「今日はこれまで」とお鶴は五郎右衛門の前にとっくりを出して見せた。
何となく、今日のお鶴は着飾っているように思えた。春らしい華やいだ着物を着ていて、長い髪を頭の上に器用にまとめていた。
「毎日、同じ事ばかりやってても、つまんないでしょ。今日はちょっと気分転換しましょ」とお鶴はくるっと一回りした。
「昼間から酒を飲むのか」
「そう」とうなづいて、お鶴は左手に持った風呂敷包みを持ち上げた。
「あたしが作ったお料理よ。お花の下でお酒を飲みましょ。今、桜が満開なのよ」
「馬鹿言うな。里ならともかく、山の中の桜にはまだ早いわ。里に下りるのか」
お鶴は首を振った。
「山奥にも早く咲く桜があるのよ。今、丁度、満開なんだってさ」
「花見なぞに興味ないわ」
五郎右衛門はお鶴を無視して木剣を振り上げた。
「そう言うと思ったわ。でもね、陰流の流祖で愛洲移香斎(アイスイコウサイ)って人、知ってるでしょ」
五郎右衛門は木剣を下ろした。まさか、お鶴の口から愛洲移香斎の名が出て来るとは夢にも思っていなかった。
「上泉伊勢守殿のお師匠様じゃ。伊勢守殿は移香斎殿から陰流を習い、新たに新陰流を開いたんじゃ。どうして、お前が移香斎殿を知っているんじゃ」
「和尚さんから聞いたのよ。その移香斎って人が悟りを開いたっていう洞穴が、その桜の木の側にあるんですって」
「嘘つくな。移香斎殿が悟ったのは日向(ヒュウガ)の国(宮崎県)じゃ」
「あたし、そんなの知らないわよ。でも、このお山にもあるんだって、和尚さんが言ったのよ」
「あの和尚の言う事は当てにならん」
「行ってみなけりゃわからないわ。ねえ、行きましょ。たまには剣の事を忘れてみるのもいいわよ。『何事もなき身となりてみよ』っていうでしょ。ねえ、行きましょうよ。朝早くから、あなたのためにお料理、作ったんだから」
お鶴に誘われるまま五郎右衛門は出掛ける事にした。お鶴の言う通り、ここらで気分転換してみるのもいいだろうと思った。
五郎右衛門は今、分厚い壁にぶち当たっていた。正攻法でいくら攻めても壊れそうもなかった。この辺でちょいと搦(カラ)め手から攻めてみようと思った。それに、愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴にも興味があった。
五郎右衛門は移香斎が悟りを開いたのが、日向の国の鵜戸(ウド)神宮の岩屋だと知っていた。実際に行った事もあり、五郎右衛門も移香斎にならって、二十一日間、そこに籠もって修行をした。しかし、上泉伊勢守の師である移香斎がこの山に来たとしても不思議はない。お鶴の言う通り、この山にも、そう言い伝えられている洞穴があるのかもしれないと半ば期待していた。
お鶴は岩屋の先にある細い道をどんどんと登って行った。
「こんな所に道があるのをよく知ってるな」
五郎右衛門はお鶴の後ろを歩きながら聞いた。
「和尚さんから聞いたのよ。あの和尚さん、この辺りの事は何でも知ってるわ」
四半時(シハントキ、三十分)程登って行くと日当たりのいい草原に出た。そこに大きな桜の木があり、不思議な事に、お鶴の言った通り、花が満開に咲いていた。その桜だけが場違いのように、一足早い春を謳歌(オウカ)していた。
「あたし、初めてよ」とお鶴は五郎右衛門に持たせた筵を広げながら言った。
「満開の桜の花の下でお酒を飲むの。あたし、一度、やってみたかったのよ。好きな人と二人っきりでさ」
五郎右衛門は桜の花を見上げた。
「わしも初めてじゃ。何だかんだと忙しくて、のんびりと桜の花など見た事もなかったわ‥‥‥こうして見ると実に見事なもんじゃのう」
「素敵ね」
二人は、いつまでも桜の花に見とれていた。
ここは確かに春のように暖かかった。
「さあ、始めましょ」とお鶴が言って、せっせと料理を広げた。
「あっ、お箸を忘れた。どうしましょ」
五郎右衛門は立ち上がると手頃な枝を見つけ、素早く、刀で斬り落とした。その枝を刀で削り、あっと言う間に二組の箸を作ってしまった。
「凄いのね」
お鶴は五郎右衛門の作った箸を手に持ちながら感心していた。
「使い易いお箸ね」
「わしが最初に作ったのが箸じゃった。何度も何度も失敗したわ」
「へえ、そうだったの。はい、どうぞ」とお鶴は箸を置くと五郎右衛門に酒盃を渡し、しおらしくお酌をした。
五郎右衛門は満開の桜とその下にいるお鶴を眺めながら、やはり、来てよかったと思った。酒盃を口に持って行こうとしたが途中でやめて、「まさか、毒入りじゃあるまいの」とお鶴の顔をまじまじと見つめた。
お鶴は桜の花を見上げて、うっとりとしていた。髪の上にひとひらの花びらが舞下りて来て乗っかった。
「さあ、どうだか‥‥‥入ってるかもしれないわね。なにしろ、あなたはあたしの仇なんだから。飲んでみる?」
お鶴は無邪気に笑っていた。お鶴がそんな事をするまいと思った。
「死んだら、わしの供養をしてくれ」
「まかしといて」とお鶴は胸をたたいた。
五郎右衛門は酒盃をあけた。
「うまい」
「フフフ、飲んだわね。あなたの命はもうないわ」
お鶴は不気味な声を出したが、すぐに、ニコッとして、「今度はあたしにお酌して」と酒盃を差し出した。
二人の酒盛りが始まった。
♪ 松により散らぬ心を山桜、咲きなば花の思い知らなむ~
お鶴がしんみりとした顔で、急に歌い出した。
「何じゃ、そりゃ」
五郎右衛門はお鶴の作った煮物を口にしながら聞いた。うまい煮物だった。
「西行(サイギョウ)法師の歌よ。あたしのね、父親は歌詠みだったわ。意味はよくわからないけど、この歌だけは今でも覚えてるの。桜が咲いている頃、父親は亡くなったわ。そして、母親も次の年に亡くなった‥‥‥だから、あたし、桜の花が嫌いだったのかもしれない」
お鶴は落ちて来た花びらを手に取って眺めた。
父親が歌詠みだったと聞いて、お鶴の父親は公家(クゲ)だったのかと一瞬、思った。しかし、一角(ヒトカド)の武将は皆、和歌や連歌(レンガ)を嗜(タシナ)んでいたという事を思い出した。難しい和歌を知っているという事は、余程、立派な武将だったに違いない。もし、世の中が変わっていなければ、わしがこうして、お鶴に会う事はなかったじゃろう。お鶴は一生、武家の奥方として幸せに暮らした事じゃろう。夫の仇を討つために、こんな山奥に来て苦労をしなくてもすんだのに‥‥‥
五郎右衛門はまた、煮物をほお張ると、「今はどうなんじゃ」と聞いた。
「今は好きよ」とお鶴は顔を上げると手の上の花びらをそっと吹き飛ばした。
「こんな綺麗な花はないわ。パッと咲いて、パッと散る。それが一番いいのよ。さあ、じゃんじゃん飲みましょ。はい、五右衛門さん」
「かたじけない」
「なに、他人行儀な事、言ってんのよ。あたしたちは普通の仲じゃないのよ」
お鶴は笑いながら五郎右衛門の肩をたたいた。
「どんな仲じゃ」と五郎右衛門はとぼけた。
「やだ、すぐ忘れるんだから。仇同士じゃない」
お鶴は五郎右衛門の胸を押した。
「仇同士っていうのは、こんなに親しい仲なのか」
「そうよ。憎さあまって愛しさ百倍って、昔からよく言うじゃない。あたし、もう、あなたの事が憎くって憎くってしょうがないんだから。あなたはどう? あたしの事、憎い?」
「ああ、憎いのう」と五郎右衛門は顔をしかめた。
「まあ、憎らしい」
お鶴は五郎右衛門の髭を撫でると、「いいわ」と立ち上がった。
「あたし、あなたのために踊ってあげる」
お鶴は満開の桜の下で、扇子(センス)を広げ、鶴のように華麗に舞い始めた。
「おい、一体、どこまで行くんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の背中に聞いた。
すぐ近くに愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴があると言うので来てみたが、なかなか、それらしきものにたどり着かなかった。「もうすぐよ」とお鶴はクマザサを踏み分け、どんどん山奥へと入って行った。
雪が溶けて、道はぐちゃぐちゃだった。足を泥だらけにしながら二人は歩いていた。
「かなり歩いたぞ」と五郎右衛門はとっくりをぶら下げながら、ついて行く。
『ホーホケキョ』と、うぐいすが時々、二人の回りで鳴いていた。
「だって、しょうがないでしょ。剣術の悟りを開いたっていう所だもん。かなり山奥よ。天狗が出て来るような所よ、きっと」
お鶴は立ち止まり、五郎右衛門を説得した。
「移香斎殿が赤城山で悟りを開いたなんて聞いた事もないわ」と五郎右衛門は半信半疑だった。
「聞いた事なくても確かなのよ。移香斎っていう人は上泉伊勢守っていう人のお師匠さんなんでしょ。お師匠さんていう事はこのお山で伊勢守に教えたのよ。あの岩屋の所で教えたのかもしれないけど、移香斎がこのお山に来たのは確かだわ。そして、この先にある洞穴で、新しい技を考えたのよ、きっと」
「行った事あるのか」
「ないけど、この道でいいのよ」
お鶴は奥の方を指さした。
「どこに道があるんじゃ」と五郎右衛門は足元を見た。
「ないけど、これでいいの。あっちの方にあるのよ」
二人はどこまでも、あっちの方を目指して歩いて行った。
お鶴が道を間違えたに違いないと思ったが、こんな山奥に入ってしまったら、もう、引き返す事もできなかった。五郎右衛門は覚悟を決めて、お鶴の手を引きながら、お鶴の指さす方を目指して、どんどんと奥へと入って行った。
「おい、これ以上、先には行けんぞ」と五郎右衛門は岩に腰掛け、酒を飲んだ。
「どうして」とお鶴が息をハァハァさせながら追いつくと岩に手をついて聞いた。
「見ろ、下は崖(ガケ)じゃ。天狗だって、これ以上は進めまい」
お鶴は崖下を覗いた。
遥か下の方に川が流れているのが見えた。
「目が回るわ」
向こう側を見ると切り立った崖がそびえ、どう考えても、これ以上は進めなかった。
「変ねえ」とお鶴は五郎右衛門から、とっくりを奪うと酒を飲んで、ため息をついた。
「道を間違えたんじゃろう」
「そんな事ないわ」
お鶴も岩に腰を下ろすと、五郎右衛門の背中にもたれ、空を見上げた。
「いい天気だわ」と額の汗を拭った。
うぐいすが鳴きながら木から木へと飛び回っていた。お鶴はのんきに、うぐいすの鳴き声を真似し始めた。
「おい」と五郎右衛門はお鶴からとっくりを奪い、一口飲むと、「どうするんじゃ」と聞いた。
お鶴は五郎右衛門の顔を見てから対岸の崖を眺め、「もしかしたら、この下に洞穴があるんじゃない」と言った。
「まさか」
「だって、愛洲移香斎っていう人、天狗みたいな人なんでしょ。きっと、この崖のどこかに洞穴があるのよ」
お鶴は崖の側まで行くと四つん這いになって、崖の下を覗いた。
「ねえ、あれじゃないかしら。何か、穴があいてるわ」
「どれ」と五郎右衛門も四つん這いになって下を覗いた。
「どれじゃ」
「あれよ、ほら」とお鶴は身を乗り出して、指を差した。
「どれ」と五郎右衛門も身を乗り出して見るが、洞穴らしきものは見えない。
「あれよ」
お鶴は急に五郎右衛門に抱き着くと、「一緒に死んで」と叫びながら、崖から飛び降りた。
二人は抱き着いたまま遥か下まで落ちて行った‥‥‥
ドボンと二人は川の中に落ちた。余程、悪運が強いとみえて、二人共、死んではいなかった。雪溶けのため、水かさが増していたお陰かもしれない。
五郎右衛門が水面に顔を出した。お鶴は五郎右衛門にしがみ着いたまま、気を失っていた。五郎右衛門はお鶴を抱えて、岸に向かって泳いだ。岸に着くとお鶴を川から引き上げ、「おい、大丈夫か」と頬を何度も叩いた。
岸は雪でおおわれていた。
水を飲んだかと口を開けて、腹を押してみたが、水は飲んでいないらしい。落ちて行く途中で気を失ったのだろう。もう一度、頬を叩いてみた。
お鶴は目を開けた。
「あなた‥‥‥ここは極楽なのね。よかった‥‥‥あなたと一緒で‥‥‥」
そう言うと、また、気を失った。
「お鶴、死ぬなよ」
五郎右衛門はお鶴の体を揺すった。返事はなかった。お鶴の胸に耳を当ててみた。心の臓は動いていた。
ホッとして、崖の上を見上げた。
切り立った物凄い崖だった。あんな上から落ちて、よく無事だったものだと自分たちに呆れた。が、いつまでも、こんな所にはいられなかった。
五郎右衛門は辺りを見回した。
崖に囲まれているが、川に沿って歩けない事はなかった。この川の下流にあの岩屋がある事を願うほかはなかった。
五郎右衛門はお鶴を抱きかかえると川に沿って下流へと歩いた。お鶴は腕の中でぐったりとしていた。どこかで、濡れた着物を乾かさなければ、凍え死んでしまうだろう。
五郎右衛門は雪のない乾いた岩場を見つけるとお鶴を横たえ、枯れ木を集めて火を点けた。下に敷く藁に代わる物はないかと捜してみたが見当たらなかった。
五郎右衛門は刀を振り回し、手頃な枝を斬り落とすと、焚き火の上に何本も渡した。お鶴の着物を脱がせ、濡れた着物をよく絞ると枝の上に並べて干した。
お鶴の体はすっかり冷えきっていた。五郎右衛門は自分の着物も干すと、お鶴を抱きながら、お鶴の体を熱心にこすり始めた。
着物が乾くまで五郎右衛門はお鶴の名を呼びながら、休まず、お鶴の体を摩擦し続けた。お鶴は時々、声を漏らすが、意識は戻らなかった。
日が暮れる前に着物もほぼ乾き、乾いた着物をお鶴に掛けると、燃えそうな枯れ枝をかき集めた。
五郎右衛門は一睡もせず、焚き火を絶やす事なく、一晩中、お鶴の介抱に専念していた。
長い長い夜が明けた。朝日が谷間に差し込んで来た。お鶴の体温は元に戻っていた。
五郎右衛門はお鶴を抱いて川を下った。途中、岩に阻(ハバ)まれて、進めない所が何カ所かあったが、何とか迂回をして乗り越え、見慣れた景色にたどり着く事ができた。
落ちた川が岩屋の側を流れている川の上流でよかったと五郎右衛門は胸を撫で下ろした。
昔話をしながら夜遅くまで酒を飲み、朝になると風呂に入って来ようと帰ったまま、もう五日も現れなかった。
五郎右衛門はお鶴の事が気になり、修行どころではなかった。毎日、毎日、木剣を振りながら、小川の方をチラチラ見るが、お鶴はやって来ない。お鶴の足が濡れないようにと、小川に丸木橋をかけてやったのに、お鶴はやって来なかった。
和尚が来たら、お鶴の事をそれとなく聞こうと思うが、和尚もやって来ない。様子を見に寺に行きたかったが、何となく照れ臭く、行く事はできなかった。
五郎右衛門は剣術の修行以前に、お鶴の事を忘れるために座禅を組んだり、倒れるまで木剣を振っていた。
五日めの晩になって、ようやく、お鶴は現れた。いつものように酒をぶら下げ、ニコニコしながらやって来た。五郎右衛門はお鶴に飛び付きたい衝動にかられたが、じっと我慢した。普段と変わらぬ顔で夕飯の支度をしながら、お鶴が来るのを待っていた。
「五右衛門さん、元気だった?」とお鶴は陽気に聞いて来た。
五郎右衛門は鍋の火加減を見ながら、「五日も来ないで、何してたんだ」と聞こうとして、その言葉をぐっと飲み込み、
「なんだ、まだ、いたのか」とそっけなく言った。
「なによ、その言い草は」
お鶴は五郎右衛門の顔を覗き込むと、「ほんとは会いたかったくせに、痩せ我慢なんかして、この」と笑った。
「お前が来なかったんでな、みっちり、修行に集中できたわ」と五郎右衛門は鍋の中を掻き混ぜながら笑った。
「へえ。あたしなんかに用はないっていうのね」
お鶴は五郎右衛門から杓子を奪うと雑炊の味見をした。
「あら、いい味してるじゃない」
「お前には用がないが、その酒には用がある。毎晩、酒の夢ばかり見ておった」
五郎右衛門はとっくりを手に取ると栓を開け、匂いを嗅いだ。
「ははあ、とうとう、本音を吐いたな。ほんとはあたしの夢なんでしょ」
「お前の夢も見た」
お鶴は嬉しそうに、「ねえ、ねえ、どんな夢」と近寄って来た。
実際、五郎右衛門はお鶴を抱いている夢ばかり見ていたが、そんな事は口が裂けても言わなかった。
「お前が熊と相撲を取ってる夢じゃった。わしは酒を飲みながら見物していたんじゃ」
「なによ、それ。どうして、あたしが熊とお相撲しなくちゃなんないの」
お鶴は杓子を振り回した。
「知らん。亭主の仇だと言って、お前は熊に飛びかかって行ったんじゃ」
「あなたはそれを見ていただけ? あたしを助けてくれなかったのね」
「お前は強かったからのう。熊を簡単に投げ飛ばしてしまったわ」
「馬鹿みたい」
お鶴はとっくりをぶら下げ、岩屋の中に入って行った。
結局、五郎右衛門はお鶴が五日間、何をしていたのか聞かなかった。お鶴も話さなかった。その後、お鶴は毎日現れた。もう、仇討ちは諦めたのだろうと思っていたが、そうでもなく、時々、男装姿で現れては五郎右衛門に斬りつけ、傷だらけになっていた。
五郎右衛門が岩屋に籠もって二ケ月余りが過ぎた。厳しかった冬もようやく終わろうとしている。雪はまだ所々に残っていても、朝晩の冷え込みは和らぎ、凍り付いていた氷柱も溶けて、崩れ落ちて行った。
お鶴と出会ってからも一月が過ぎていた。不思議な女だった。何がどう不思議なのか、説明するのは難しかったが、とにかく、普通の女ではなかった。剣術は人並み以上の腕を持ち、男装姿がよく似合い、踊りはうまいし、唄もうまい。武家娘のように上品かと思えば、時には遊女のように男を手玉に取る事もある。酒は底抜けのように強く、毎晩、飲んでいるのに酔い潰れる事は一度もなかった。酔っ払ったように見えても、決して自分を失わない。五郎右衛門が誘いを掛けても乗っては来ない。酔いにまかせてお鶴を抱こうとすると、仇同士でしょと言って、さっと身をかわす。五郎右衛門がお鶴を抱いたのは最初の晩だけで、それ以来ずっと、お預けを食わされていた。
青空が眩しいくらいによく晴れた日だった。珍しく、お鶴は昼前にやって来た。五郎右衛門はいつものように、立ち木を相手に木剣を振っていた。
「今日はこれまで」とお鶴は五郎右衛門の前にとっくりを出して見せた。
何となく、今日のお鶴は着飾っているように思えた。春らしい華やいだ着物を着ていて、長い髪を頭の上に器用にまとめていた。
「毎日、同じ事ばかりやってても、つまんないでしょ。今日はちょっと気分転換しましょ」とお鶴はくるっと一回りした。
「昼間から酒を飲むのか」
「そう」とうなづいて、お鶴は左手に持った風呂敷包みを持ち上げた。
「あたしが作ったお料理よ。お花の下でお酒を飲みましょ。今、桜が満開なのよ」
「馬鹿言うな。里ならともかく、山の中の桜にはまだ早いわ。里に下りるのか」
お鶴は首を振った。
「山奥にも早く咲く桜があるのよ。今、丁度、満開なんだってさ」
「花見なぞに興味ないわ」
五郎右衛門はお鶴を無視して木剣を振り上げた。
「そう言うと思ったわ。でもね、陰流の流祖で愛洲移香斎(アイスイコウサイ)って人、知ってるでしょ」
五郎右衛門は木剣を下ろした。まさか、お鶴の口から愛洲移香斎の名が出て来るとは夢にも思っていなかった。
「上泉伊勢守殿のお師匠様じゃ。伊勢守殿は移香斎殿から陰流を習い、新たに新陰流を開いたんじゃ。どうして、お前が移香斎殿を知っているんじゃ」
「和尚さんから聞いたのよ。その移香斎って人が悟りを開いたっていう洞穴が、その桜の木の側にあるんですって」
「嘘つくな。移香斎殿が悟ったのは日向(ヒュウガ)の国(宮崎県)じゃ」
「あたし、そんなの知らないわよ。でも、このお山にもあるんだって、和尚さんが言ったのよ」
「あの和尚の言う事は当てにならん」
「行ってみなけりゃわからないわ。ねえ、行きましょ。たまには剣の事を忘れてみるのもいいわよ。『何事もなき身となりてみよ』っていうでしょ。ねえ、行きましょうよ。朝早くから、あなたのためにお料理、作ったんだから」
お鶴に誘われるまま五郎右衛門は出掛ける事にした。お鶴の言う通り、ここらで気分転換してみるのもいいだろうと思った。
五郎右衛門は今、分厚い壁にぶち当たっていた。正攻法でいくら攻めても壊れそうもなかった。この辺でちょいと搦(カラ)め手から攻めてみようと思った。それに、愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴にも興味があった。
五郎右衛門は移香斎が悟りを開いたのが、日向の国の鵜戸(ウド)神宮の岩屋だと知っていた。実際に行った事もあり、五郎右衛門も移香斎にならって、二十一日間、そこに籠もって修行をした。しかし、上泉伊勢守の師である移香斎がこの山に来たとしても不思議はない。お鶴の言う通り、この山にも、そう言い伝えられている洞穴があるのかもしれないと半ば期待していた。
お鶴は岩屋の先にある細い道をどんどんと登って行った。
「こんな所に道があるのをよく知ってるな」
五郎右衛門はお鶴の後ろを歩きながら聞いた。
「和尚さんから聞いたのよ。あの和尚さん、この辺りの事は何でも知ってるわ」
四半時(シハントキ、三十分)程登って行くと日当たりのいい草原に出た。そこに大きな桜の木があり、不思議な事に、お鶴の言った通り、花が満開に咲いていた。その桜だけが場違いのように、一足早い春を謳歌(オウカ)していた。
「あたし、初めてよ」とお鶴は五郎右衛門に持たせた筵を広げながら言った。
「満開の桜の花の下でお酒を飲むの。あたし、一度、やってみたかったのよ。好きな人と二人っきりでさ」
五郎右衛門は桜の花を見上げた。
「わしも初めてじゃ。何だかんだと忙しくて、のんびりと桜の花など見た事もなかったわ‥‥‥こうして見ると実に見事なもんじゃのう」
「素敵ね」
二人は、いつまでも桜の花に見とれていた。
ここは確かに春のように暖かかった。
「さあ、始めましょ」とお鶴が言って、せっせと料理を広げた。
「あっ、お箸を忘れた。どうしましょ」
五郎右衛門は立ち上がると手頃な枝を見つけ、素早く、刀で斬り落とした。その枝を刀で削り、あっと言う間に二組の箸を作ってしまった。
「凄いのね」
お鶴は五郎右衛門の作った箸を手に持ちながら感心していた。
「使い易いお箸ね」
「わしが最初に作ったのが箸じゃった。何度も何度も失敗したわ」
「へえ、そうだったの。はい、どうぞ」とお鶴は箸を置くと五郎右衛門に酒盃を渡し、しおらしくお酌をした。
五郎右衛門は満開の桜とその下にいるお鶴を眺めながら、やはり、来てよかったと思った。酒盃を口に持って行こうとしたが途中でやめて、「まさか、毒入りじゃあるまいの」とお鶴の顔をまじまじと見つめた。
お鶴は桜の花を見上げて、うっとりとしていた。髪の上にひとひらの花びらが舞下りて来て乗っかった。
「さあ、どうだか‥‥‥入ってるかもしれないわね。なにしろ、あなたはあたしの仇なんだから。飲んでみる?」
お鶴は無邪気に笑っていた。お鶴がそんな事をするまいと思った。
「死んだら、わしの供養をしてくれ」
「まかしといて」とお鶴は胸をたたいた。
五郎右衛門は酒盃をあけた。
「うまい」
「フフフ、飲んだわね。あなたの命はもうないわ」
お鶴は不気味な声を出したが、すぐに、ニコッとして、「今度はあたしにお酌して」と酒盃を差し出した。
二人の酒盛りが始まった。
♪ 松により散らぬ心を山桜、咲きなば花の思い知らなむ~
お鶴がしんみりとした顔で、急に歌い出した。
「何じゃ、そりゃ」
五郎右衛門はお鶴の作った煮物を口にしながら聞いた。うまい煮物だった。
「西行(サイギョウ)法師の歌よ。あたしのね、父親は歌詠みだったわ。意味はよくわからないけど、この歌だけは今でも覚えてるの。桜が咲いている頃、父親は亡くなったわ。そして、母親も次の年に亡くなった‥‥‥だから、あたし、桜の花が嫌いだったのかもしれない」
お鶴は落ちて来た花びらを手に取って眺めた。
父親が歌詠みだったと聞いて、お鶴の父親は公家(クゲ)だったのかと一瞬、思った。しかし、一角(ヒトカド)の武将は皆、和歌や連歌(レンガ)を嗜(タシナ)んでいたという事を思い出した。難しい和歌を知っているという事は、余程、立派な武将だったに違いない。もし、世の中が変わっていなければ、わしがこうして、お鶴に会う事はなかったじゃろう。お鶴は一生、武家の奥方として幸せに暮らした事じゃろう。夫の仇を討つために、こんな山奥に来て苦労をしなくてもすんだのに‥‥‥
五郎右衛門はまた、煮物をほお張ると、「今はどうなんじゃ」と聞いた。
「今は好きよ」とお鶴は顔を上げると手の上の花びらをそっと吹き飛ばした。
「こんな綺麗な花はないわ。パッと咲いて、パッと散る。それが一番いいのよ。さあ、じゃんじゃん飲みましょ。はい、五右衛門さん」
「かたじけない」
「なに、他人行儀な事、言ってんのよ。あたしたちは普通の仲じゃないのよ」
お鶴は笑いながら五郎右衛門の肩をたたいた。
「どんな仲じゃ」と五郎右衛門はとぼけた。
「やだ、すぐ忘れるんだから。仇同士じゃない」
お鶴は五郎右衛門の胸を押した。
「仇同士っていうのは、こんなに親しい仲なのか」
「そうよ。憎さあまって愛しさ百倍って、昔からよく言うじゃない。あたし、もう、あなたの事が憎くって憎くってしょうがないんだから。あなたはどう? あたしの事、憎い?」
「ああ、憎いのう」と五郎右衛門は顔をしかめた。
「まあ、憎らしい」
お鶴は五郎右衛門の髭を撫でると、「いいわ」と立ち上がった。
「あたし、あなたのために踊ってあげる」
お鶴は満開の桜の下で、扇子(センス)を広げ、鶴のように華麗に舞い始めた。
「おい、一体、どこまで行くんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の背中に聞いた。
すぐ近くに愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴があると言うので来てみたが、なかなか、それらしきものにたどり着かなかった。「もうすぐよ」とお鶴はクマザサを踏み分け、どんどん山奥へと入って行った。
雪が溶けて、道はぐちゃぐちゃだった。足を泥だらけにしながら二人は歩いていた。
「かなり歩いたぞ」と五郎右衛門はとっくりをぶら下げながら、ついて行く。
『ホーホケキョ』と、うぐいすが時々、二人の回りで鳴いていた。
「だって、しょうがないでしょ。剣術の悟りを開いたっていう所だもん。かなり山奥よ。天狗が出て来るような所よ、きっと」
お鶴は立ち止まり、五郎右衛門を説得した。
「移香斎殿が赤城山で悟りを開いたなんて聞いた事もないわ」と五郎右衛門は半信半疑だった。
「聞いた事なくても確かなのよ。移香斎っていう人は上泉伊勢守っていう人のお師匠さんなんでしょ。お師匠さんていう事はこのお山で伊勢守に教えたのよ。あの岩屋の所で教えたのかもしれないけど、移香斎がこのお山に来たのは確かだわ。そして、この先にある洞穴で、新しい技を考えたのよ、きっと」
「行った事あるのか」
「ないけど、この道でいいのよ」
お鶴は奥の方を指さした。
「どこに道があるんじゃ」と五郎右衛門は足元を見た。
「ないけど、これでいいの。あっちの方にあるのよ」
二人はどこまでも、あっちの方を目指して歩いて行った。
お鶴が道を間違えたに違いないと思ったが、こんな山奥に入ってしまったら、もう、引き返す事もできなかった。五郎右衛門は覚悟を決めて、お鶴の手を引きながら、お鶴の指さす方を目指して、どんどんと奥へと入って行った。
「おい、これ以上、先には行けんぞ」と五郎右衛門は岩に腰掛け、酒を飲んだ。
「どうして」とお鶴が息をハァハァさせながら追いつくと岩に手をついて聞いた。
「見ろ、下は崖(ガケ)じゃ。天狗だって、これ以上は進めまい」
お鶴は崖下を覗いた。
遥か下の方に川が流れているのが見えた。
「目が回るわ」
向こう側を見ると切り立った崖がそびえ、どう考えても、これ以上は進めなかった。
「変ねえ」とお鶴は五郎右衛門から、とっくりを奪うと酒を飲んで、ため息をついた。
「道を間違えたんじゃろう」
「そんな事ないわ」
お鶴も岩に腰を下ろすと、五郎右衛門の背中にもたれ、空を見上げた。
「いい天気だわ」と額の汗を拭った。
うぐいすが鳴きながら木から木へと飛び回っていた。お鶴はのんきに、うぐいすの鳴き声を真似し始めた。
「おい」と五郎右衛門はお鶴からとっくりを奪い、一口飲むと、「どうするんじゃ」と聞いた。
お鶴は五郎右衛門の顔を見てから対岸の崖を眺め、「もしかしたら、この下に洞穴があるんじゃない」と言った。
「まさか」
「だって、愛洲移香斎っていう人、天狗みたいな人なんでしょ。きっと、この崖のどこかに洞穴があるのよ」
お鶴は崖の側まで行くと四つん這いになって、崖の下を覗いた。
「ねえ、あれじゃないかしら。何か、穴があいてるわ」
「どれ」と五郎右衛門も四つん這いになって下を覗いた。
「どれじゃ」
「あれよ、ほら」とお鶴は身を乗り出して、指を差した。
「どれ」と五郎右衛門も身を乗り出して見るが、洞穴らしきものは見えない。
「あれよ」
お鶴は急に五郎右衛門に抱き着くと、「一緒に死んで」と叫びながら、崖から飛び降りた。
二人は抱き着いたまま遥か下まで落ちて行った‥‥‥
ドボンと二人は川の中に落ちた。余程、悪運が強いとみえて、二人共、死んではいなかった。雪溶けのため、水かさが増していたお陰かもしれない。
五郎右衛門が水面に顔を出した。お鶴は五郎右衛門にしがみ着いたまま、気を失っていた。五郎右衛門はお鶴を抱えて、岸に向かって泳いだ。岸に着くとお鶴を川から引き上げ、「おい、大丈夫か」と頬を何度も叩いた。
岸は雪でおおわれていた。
水を飲んだかと口を開けて、腹を押してみたが、水は飲んでいないらしい。落ちて行く途中で気を失ったのだろう。もう一度、頬を叩いてみた。
お鶴は目を開けた。
「あなた‥‥‥ここは極楽なのね。よかった‥‥‥あなたと一緒で‥‥‥」
そう言うと、また、気を失った。
「お鶴、死ぬなよ」
五郎右衛門はお鶴の体を揺すった。返事はなかった。お鶴の胸に耳を当ててみた。心の臓は動いていた。
ホッとして、崖の上を見上げた。
切り立った物凄い崖だった。あんな上から落ちて、よく無事だったものだと自分たちに呆れた。が、いつまでも、こんな所にはいられなかった。
五郎右衛門は辺りを見回した。
崖に囲まれているが、川に沿って歩けない事はなかった。この川の下流にあの岩屋がある事を願うほかはなかった。
五郎右衛門はお鶴を抱きかかえると川に沿って下流へと歩いた。お鶴は腕の中でぐったりとしていた。どこかで、濡れた着物を乾かさなければ、凍え死んでしまうだろう。
五郎右衛門は雪のない乾いた岩場を見つけるとお鶴を横たえ、枯れ木を集めて火を点けた。下に敷く藁に代わる物はないかと捜してみたが見当たらなかった。
五郎右衛門は刀を振り回し、手頃な枝を斬り落とすと、焚き火の上に何本も渡した。お鶴の着物を脱がせ、濡れた着物をよく絞ると枝の上に並べて干した。
お鶴の体はすっかり冷えきっていた。五郎右衛門は自分の着物も干すと、お鶴を抱きながら、お鶴の体を熱心にこすり始めた。
着物が乾くまで五郎右衛門はお鶴の名を呼びながら、休まず、お鶴の体を摩擦し続けた。お鶴は時々、声を漏らすが、意識は戻らなかった。
日が暮れる前に着物もほぼ乾き、乾いた着物をお鶴に掛けると、燃えそうな枯れ枝をかき集めた。
五郎右衛門は一睡もせず、焚き火を絶やす事なく、一晩中、お鶴の介抱に専念していた。
長い長い夜が明けた。朝日が谷間に差し込んで来た。お鶴の体温は元に戻っていた。
五郎右衛門はお鶴を抱いて川を下った。途中、岩に阻(ハバ)まれて、進めない所が何カ所かあったが、何とか迂回をして乗り越え、見慣れた景色にたどり着く事ができた。
落ちた川が岩屋の側を流れている川の上流でよかったと五郎右衛門は胸を撫で下ろした。