五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。
お鶴は五郎右衛門の前で、持って来た酒を一人で全部、飲み干すと、時々、訳のわからない寝言を言いながら、気持ちよさそうに朝までぐっすりと眠った。
目を覚ますと焚き火を燃やし、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、五郎右衛門が返事もしないでいると、「なんだ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。
「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。
「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた」
五郎右衛門は返事をしない。
「さてと、お寺に帰って朝風呂でも浴びよう。あなたもお風呂に入らない。気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。
五郎右衛門は疲れていた。
昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。
新陰流を忘れ去るとは‥‥‥
心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥
心の止まり居着く所とは、新陰流の事か。
よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥
よしあしと思う心とは、新陰流の事か。
何事もなき身となりてみよ‥‥‥
しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。
ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。
五郎右衛門は目を開けた。
焚き火は勢いよく燃え、部屋中のローソクに火が点いていた。お鶴が酒を飲んでいたお椀は転がっていたが、とっくりは見当たらなかった。
五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばし、お鶴が寝ていた藁布団を見た。お鶴は新しい藁束を全部ほぐして、藁をたっぷりと敷いて寝ていた。
「あのアマ、好き勝手な真似をしやがって」と五郎右衛門は舌を鳴らした。
お鶴が杖代わりにしていた木剣は残っていた。どうやら、足の痛みは治ったらしい。
五郎右衛門はその木剣を手に取って構えようとしたが、途中でやめて木剣を置いた。ローソクの火をすべて消すと岩屋から外に出た。
日差しを浴びて、雪が輝いていた。
五郎右衛門は体を伸ばすと冷たい空気を思い切り吸った。焚き火に火を点け、入口の所に座り込んだ。
お鶴は帰って来なかった。風呂から出て、和尚と一緒に朝飯でも食っているのだろう。
不思議な女じゃ‥‥‥
あの女、変な事を言ってたな‥‥‥わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかったじゃろうと‥‥‥
昔、馬術をやっていた時、『鞍上(アンジョウ)に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥
くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。
剣とは?
五郎右衛門は座り続けた。
昼頃、和尚がやって来た。
「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか」
「わからん」
「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」
「なんじゃと!」
五郎右衛門は目を開け、和尚を睨んだ。
「喝!」と和尚は叫んだ。
物凄い気合だった。五郎右衛門の体が一瞬、飛び上がったように感じられた。
「そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」
「和尚が座れと言ったんじゃろう」
「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。
「くそ坊主め、目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」
五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。
和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。お鶴はさっぱりとした顔をして着物も着替え、女の姿に戻っていた。それでも腰にはちゃんと短刀が差してあった。
「あら、今度は目を開けて座ってんの。その方がいいわ。でも、焚き火くらい、ちゃんと点けなさいよ。まったく、あたしがいないと何もできないんだから」
お鶴はブツブツ言いながら、消えてしまった焚き火の火を点け、枯れ枝をくべた。
「ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた」
「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」
「ふうん‥‥‥」
「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」
お鶴は腹を抱えて大笑いした。
「あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」
「なんじゃと」
「怒っちゃ駄目よ。怒ったら、和尚さんの思う壷(ツボ)よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」
「わからん」
お鶴は笑い続けたまま、汚れた鍋や器を抱えて小川の方に行った。
五郎右衛門はお鶴を眺めながら座っていた。
お鶴は洗い物をしながらも、時々、手を振って、意味もなく、『五右衛門さ~ん』と声を掛けていた。
五郎右衛門は返事もせずに、しかめっ面をしたまま座り続けていた。
「終わったわ。ああ、冷たかった」とお鶴は帰って来た。
焚き火にあたりながら、「ねえ、それで、今日もずっと座ってるつもりなの」と聞いた。
五郎右衛門はうなづいた。
「つまんない。せっかく遊びに来たのに」
お鶴は子供のように駄々をこねた。
「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」
「五右衛門ちゃん、遊ぼ」
「うるさい」
「あたし、泣いちゃうから」
「勝手に泣け」
「そうだ、睨めっこしましょ」
お鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとした。五郎右衛門は無視しようと頑張ったが思わず笑ってしまった。
「やったあ、笑った、笑った」とお鶴は両手をたたいて大喜びした。
「まったく、お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れた。
「そうよ。今のあたし、一番幸せ」
お鶴は嬉しそうに五郎右衛門を見つめていた。
「わしらは仇同士じゃなかったのか」
五郎右衛門は体をひねった。背骨がポキポキと鳴った。
「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌(イハイ)に感謝してるの」
「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」
「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」
「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」
「女っていうのはね、幸せにならなきゃ駄目なのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」
お鶴はじっと焚き火の火を見つめていた。その目がだんだんと潤んで来ていた。
「お前もわりと苦労したみたいじゃな」と五郎右衛門は言った。
お鶴の陽気さの裏に隠された、悲しみを垣間見たような気がした。
「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目から涙が一滴、こぼれ落ちた。「馬鹿ね、あたし」
お鶴は立ち上がると後ろを向いて涙を拭いた。五郎右衛門にわざと笑って見せると、「さっきの和尚さんの話だけどね」と話題を変えた。
「あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」
「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め」
「ねえ、見て」とお鶴は突然、木の上を指さした。
「ほら、変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」
お鶴は真剣な顔をして、鮮やかな色をした小鳥を見つめていた。この辺りでは見かけない珍しい小鳥だったが、五郎右衛門には興味なかった。
「お鶴さん、酒はあるか」と五郎右衛門はお鶴の長い黒髪を見ながら言った。
「えっ、お酒飲むの」とお鶴はニコニコしながら振り向いた。
「今晩、一緒に飲もう」と五郎右衛門も笑った。
「ほんと? もう座るのやめたの?」
「ああ、抜けがら座禅はもう終わりじゃ」
五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばした。
「やった!」とお鶴は両手を上げて飛び上がった。
「そうじゃなきゃ、あたしの五右衛門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」
お鶴は跳ねるように帰って行った。まだ、足が痛むのか、時折、立ち止まっては五郎右衛門を振り返っていた。
五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。
新陰流の形はやらなかった。何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように、冷たい滝に打たれた。
お鶴は五郎右衛門の前で、持って来た酒を一人で全部、飲み干すと、時々、訳のわからない寝言を言いながら、気持ちよさそうに朝までぐっすりと眠った。
目を覚ますと焚き火を燃やし、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、五郎右衛門が返事もしないでいると、「なんだ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。
「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。
「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた」
五郎右衛門は返事をしない。
「さてと、お寺に帰って朝風呂でも浴びよう。あなたもお風呂に入らない。気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。
五郎右衛門は疲れていた。
昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。
新陰流を忘れ去るとは‥‥‥
心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥
心の止まり居着く所とは、新陰流の事か。
よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥
よしあしと思う心とは、新陰流の事か。
何事もなき身となりてみよ‥‥‥
しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。
ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。
五郎右衛門は目を開けた。
焚き火は勢いよく燃え、部屋中のローソクに火が点いていた。お鶴が酒を飲んでいたお椀は転がっていたが、とっくりは見当たらなかった。
五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばし、お鶴が寝ていた藁布団を見た。お鶴は新しい藁束を全部ほぐして、藁をたっぷりと敷いて寝ていた。
「あのアマ、好き勝手な真似をしやがって」と五郎右衛門は舌を鳴らした。
お鶴が杖代わりにしていた木剣は残っていた。どうやら、足の痛みは治ったらしい。
五郎右衛門はその木剣を手に取って構えようとしたが、途中でやめて木剣を置いた。ローソクの火をすべて消すと岩屋から外に出た。
日差しを浴びて、雪が輝いていた。
五郎右衛門は体を伸ばすと冷たい空気を思い切り吸った。焚き火に火を点け、入口の所に座り込んだ。
お鶴は帰って来なかった。風呂から出て、和尚と一緒に朝飯でも食っているのだろう。
不思議な女じゃ‥‥‥
あの女、変な事を言ってたな‥‥‥わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかったじゃろうと‥‥‥
昔、馬術をやっていた時、『鞍上(アンジョウ)に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥
くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。
剣とは?
五郎右衛門は座り続けた。
昼頃、和尚がやって来た。
「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか」
「わからん」
「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」
「なんじゃと!」
五郎右衛門は目を開け、和尚を睨んだ。
「喝!」と和尚は叫んだ。
物凄い気合だった。五郎右衛門の体が一瞬、飛び上がったように感じられた。
「そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」
「和尚が座れと言ったんじゃろう」
「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。
「くそ坊主め、目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」
五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。
和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。お鶴はさっぱりとした顔をして着物も着替え、女の姿に戻っていた。それでも腰にはちゃんと短刀が差してあった。
「あら、今度は目を開けて座ってんの。その方がいいわ。でも、焚き火くらい、ちゃんと点けなさいよ。まったく、あたしがいないと何もできないんだから」
お鶴はブツブツ言いながら、消えてしまった焚き火の火を点け、枯れ枝をくべた。
「ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた」
「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」
「ふうん‥‥‥」
「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」
お鶴は腹を抱えて大笑いした。
「あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」
「なんじゃと」
「怒っちゃ駄目よ。怒ったら、和尚さんの思う壷(ツボ)よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」
「わからん」
お鶴は笑い続けたまま、汚れた鍋や器を抱えて小川の方に行った。
五郎右衛門はお鶴を眺めながら座っていた。
お鶴は洗い物をしながらも、時々、手を振って、意味もなく、『五右衛門さ~ん』と声を掛けていた。
五郎右衛門は返事もせずに、しかめっ面をしたまま座り続けていた。
「終わったわ。ああ、冷たかった」とお鶴は帰って来た。
焚き火にあたりながら、「ねえ、それで、今日もずっと座ってるつもりなの」と聞いた。
五郎右衛門はうなづいた。
「つまんない。せっかく遊びに来たのに」
お鶴は子供のように駄々をこねた。
「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」
「五右衛門ちゃん、遊ぼ」
「うるさい」
「あたし、泣いちゃうから」
「勝手に泣け」
「そうだ、睨めっこしましょ」
お鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとした。五郎右衛門は無視しようと頑張ったが思わず笑ってしまった。
「やったあ、笑った、笑った」とお鶴は両手をたたいて大喜びした。
「まったく、お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れた。
「そうよ。今のあたし、一番幸せ」
お鶴は嬉しそうに五郎右衛門を見つめていた。
「わしらは仇同士じゃなかったのか」
五郎右衛門は体をひねった。背骨がポキポキと鳴った。
「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌(イハイ)に感謝してるの」
「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」
「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」
「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」
「女っていうのはね、幸せにならなきゃ駄目なのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」
お鶴はじっと焚き火の火を見つめていた。その目がだんだんと潤んで来ていた。
「お前もわりと苦労したみたいじゃな」と五郎右衛門は言った。
お鶴の陽気さの裏に隠された、悲しみを垣間見たような気がした。
「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目から涙が一滴、こぼれ落ちた。「馬鹿ね、あたし」
お鶴は立ち上がると後ろを向いて涙を拭いた。五郎右衛門にわざと笑って見せると、「さっきの和尚さんの話だけどね」と話題を変えた。
「あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」
「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め」
「ねえ、見て」とお鶴は突然、木の上を指さした。
「ほら、変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」
お鶴は真剣な顔をして、鮮やかな色をした小鳥を見つめていた。この辺りでは見かけない珍しい小鳥だったが、五郎右衛門には興味なかった。
「お鶴さん、酒はあるか」と五郎右衛門はお鶴の長い黒髪を見ながら言った。
「えっ、お酒飲むの」とお鶴はニコニコしながら振り向いた。
「今晩、一緒に飲もう」と五郎右衛門も笑った。
「ほんと? もう座るのやめたの?」
「ああ、抜けがら座禅はもう終わりじゃ」
五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばした。
「やった!」とお鶴は両手を上げて飛び上がった。
「そうじゃなきゃ、あたしの五右衛門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」
お鶴は跳ねるように帰って行った。まだ、足が痛むのか、時折、立ち止まっては五郎右衛門を振り返っていた。
五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。
新陰流の形はやらなかった。何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように、冷たい滝に打たれた。