無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

12.抜けがら座禅

2008年01月14日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。

 お鶴は五郎右衛門の前で、持って来た酒を一人で全部、飲み干すと、時々、訳のわからない寝言を言いながら、気持ちよさそうに朝までぐっすりと眠った。

 目を覚ますと焚き火を燃やし、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、五郎右衛門が返事もしないでいると、「なんだ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。

「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。

「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた」

 五郎右衛門は返事をしない。

「さてと、お寺に帰って朝風呂でも浴びよう。あなたもお風呂に入らない。気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。

 五郎右衛門は疲れていた。

 昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。

 新陰流を忘れ去るとは‥‥‥

 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥

 心の止まり居着く所とは、新陰流の事か。

 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 よしあしと思う心とは、新陰流の事か。

 何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。

 ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。

 五郎右衛門は目を開けた。

 焚き火は勢いよく燃え、部屋中のローソクに火が点いていた。お鶴が酒を飲んでいたお椀は転がっていたが、とっくりは見当たらなかった。

 五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばし、お鶴が寝ていた藁布団を見た。お鶴は新しい藁束を全部ほぐして、藁をたっぷりと敷いて寝ていた。

「あのアマ、好き勝手な真似をしやがって」と五郎右衛門は舌を鳴らした。

 お鶴が杖代わりにしていた木剣は残っていた。どうやら、足の痛みは治ったらしい。

 五郎右衛門はその木剣を手に取って構えようとしたが、途中でやめて木剣を置いた。ローソクの火をすべて消すと岩屋から外に出た。

 日差しを浴びて、雪が輝いていた。

 五郎右衛門は体を伸ばすと冷たい空気を思い切り吸った。焚き火に火を点け、入口の所に座り込んだ。

 お鶴は帰って来なかった。風呂から出て、和尚と一緒に朝飯でも食っているのだろう。

 不思議な女じゃ‥‥‥

 あの女、変な事を言ってたな‥‥‥わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかったじゃろうと‥‥‥

 昔、馬術をやっていた時、『鞍上(アンジョウ)に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥

 くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。

 剣とは?

 五郎右衛門は座り続けた。

 昼頃、和尚がやって来た。

「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか」

「わからん」

「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」

「なんじゃと!」

 五郎右衛門は目を開け、和尚を睨んだ。

「喝!」と和尚は叫んだ。

 物凄い気合だった。五郎右衛門の体が一瞬、飛び上がったように感じられた。

「そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」

「和尚が座れと言ったんじゃろう」

「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。

「くそ坊主め、目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」

 五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。

 和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。お鶴はさっぱりとした顔をして着物も着替え、女の姿に戻っていた。それでも腰にはちゃんと短刀が差してあった。

「あら、今度は目を開けて座ってんの。その方がいいわ。でも、焚き火くらい、ちゃんと点けなさいよ。まったく、あたしがいないと何もできないんだから」

 お鶴はブツブツ言いながら、消えてしまった焚き火の火を点け、枯れ枝をくべた。

「ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた」

「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」

「ふうん‥‥‥」

「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」

 お鶴は腹を抱えて大笑いした。

「あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」

「なんじゃと」

「怒っちゃ駄目よ。怒ったら、和尚さんの思う壷(ツボ)よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」

「わからん」

 お鶴は笑い続けたまま、汚れた鍋や器を抱えて小川の方に行った。

 五郎右衛門はお鶴を眺めながら座っていた。

 お鶴は洗い物をしながらも、時々、手を振って、意味もなく、『五右衛門さ~ん』と声を掛けていた。

 五郎右衛門は返事もせずに、しかめっ面をしたまま座り続けていた。

「終わったわ。ああ、冷たかった」とお鶴は帰って来た。

 焚き火にあたりながら、「ねえ、それで、今日もずっと座ってるつもりなの」と聞いた。

 五郎右衛門はうなづいた。

「つまんない。せっかく遊びに来たのに」

 お鶴は子供のように駄々をこねた。

「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」

「五右衛門ちゃん、遊ぼ」

「うるさい」

「あたし、泣いちゃうから」

「勝手に泣け」

「そうだ、睨めっこしましょ」

 お鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとした。五郎右衛門は無視しようと頑張ったが思わず笑ってしまった。

「やったあ、笑った、笑った」とお鶴は両手をたたいて大喜びした。

「まったく、お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れた。

「そうよ。今のあたし、一番幸せ」

 お鶴は嬉しそうに五郎右衛門を見つめていた。

「わしらは仇同士じゃなかったのか」

 五郎右衛門は体をひねった。背骨がポキポキと鳴った。

「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌(イハイ)に感謝してるの」

「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」

「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」

「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」

「女っていうのはね、幸せにならなきゃ駄目なのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」

 お鶴はじっと焚き火の火を見つめていた。その目がだんだんと潤んで来ていた。

「お前もわりと苦労したみたいじゃな」と五郎右衛門は言った。

 お鶴の陽気さの裏に隠された、悲しみを垣間見たような気がした。

「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目から涙が一滴、こぼれ落ちた。「馬鹿ね、あたし」

 お鶴は立ち上がると後ろを向いて涙を拭いた。五郎右衛門にわざと笑って見せると、「さっきの和尚さんの話だけどね」と話題を変えた。

「あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」

「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め」

「ねえ、見て」とお鶴は突然、木の上を指さした。

「ほら、変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」

 お鶴は真剣な顔をして、鮮やかな色をした小鳥を見つめていた。この辺りでは見かけない珍しい小鳥だったが、五郎右衛門には興味なかった。

「お鶴さん、酒はあるか」と五郎右衛門はお鶴の長い黒髪を見ながら言った。

「えっ、お酒飲むの」とお鶴はニコニコしながら振り向いた。

「今晩、一緒に飲もう」と五郎右衛門も笑った。

「ほんと? もう座るのやめたの?」

「ああ、抜けがら座禅はもう終わりじゃ」

 五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばした。

「やった!」とお鶴は両手を上げて飛び上がった。

「そうじゃなきゃ、あたしの五右衛門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」

 お鶴は跳ねるように帰って行った。まだ、足が痛むのか、時折、立ち止まっては五郎右衛門を振り返っていた。

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。

 新陰流の形はやらなかった。何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように、冷たい滝に打たれた。


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