恋、仕事、世間とかいろいろ雑記

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ハイブマインド

2016-11-30 22:59:06 | 世間
  • 集合意識

フランスの社会学者デュルケームによって用いられたことば。

一つの社会または集団の成員たちの間に共有された諸信念、諸慣行の総体で、成員個々人の意識とは区別される固有の生命と体系をもったものをさす。共同意識ともよばれる。

意識の現象である以上、集合意識は個人の内においてしか実現されないが、各人の個別的な意識とは異なるものであり、いわば『社会の心理的類型』とでもよぶべきものである。

デュルケームによれば、それは個々人の意識に対しては外在的で、拘束的に作用することもあり、世代を超えて維持されるといった持続性ももっている。

具体的には伝統慣習道徳法律などを通して示されるもので、たとえ個人の意識に内面化されるとしても、その社会的な性格は失われないとされる。

『E・デュルケーム著、田原音和訳『現代社会学大系2 社会分業論』(1971・青木書店)』

 

集合精神または集合自我とは、サイエンス・フィクションに登場する概念であり、複数の個体が1つの意識を共有している状態を意味する。

集合精神は、人々が脳と脳を何らかの手段で直結する通信方法を入手するなど人工的なテレパシーによって形成される場合もある。

ハイブマインドは集合精神の一種であるが、各個体の個性がほぼ完全に失われている点が特徴とされる。

集合精神やハイブマインドの概念は蟻や蜂の実在する超個体の知性版と見ることができる。

 

    • 『世間』 は固定的で絶対的なもの。
    • 『空気』 は流動的で状況に依存するもの。

でも本来、どっちも同じもので、たとえば「そういうものだから」「シカタガナイ」と言って諦めて従っていた『世間の常識』が、ある日突然壊れたりする。

そうなると今度は「とても逆らえる『空気』ではなかった」とか「当時の『空気』では」とか言い出す。

『絶対的な世間』から『流動的な空気』に格下げされたわけだ。

要は人がどれくらい強い拘束力があると思ってるかの程度の問題で、どちらも集団を支配する。

この二つを総称する言葉はないかなと思って調べたのが、上の二つの言葉『集合意識』と『集合精神』

日本人の間に共有された諸信念、諸慣行の総体であり、拘束的に作用するという意味では『世間』や『空気』は集合意識と言える。

『空気』は、状況に依存し、流動的なものだが、『世間』は世代を超えて維持される点で違っている。

個々人の意識に対しては外在的であるか?というところが疑問なところで、多くの人は無自覚で反射的に『空気を読んで』行動している。

一方、ハイブマインドはアリのように、個性や自我がほぼ失われた状態で、自ら思考することなく集団生活を営むというもの。

『空気』や『世間』に過剰に従って、思考停止に落ちいってる状態なら、今の日本てむしろハイブマインド状態に近いと思う。

日本人がを『空気』や『ジョーシキ』を共有し、それに支配されいる状態が、『空気の支配』や『世間』というハイブマインド。

『空気を読む』あるいは、『みんな~と思っているにに違いない』という疑似テレパシーよって形成される。

この『みんな』というのも、実は実在しない『仮想他者』なんだけどね。


応援するチームが負けるとその忠誠心は強くなる。サポーターが弱小チームの応援を止められない理由(英研究)

2016-11-29 23:52:43 | 世間

  応援するチームが負けるとその忠誠心は強くなる。サポーターが弱小チームの応援を止められない理由(英研究)

サポーターがサッカークラブに捧げる忠誠心は、勝利はもちろんのこと、敗北の痛みを分かち合うことで、同じチームを応援する仲間としてサポーターを団結させる。

この現象は『アイデンティティの融合(Identity Fusion)』といい、大した成果を残していないチームがサポーターから熱狂的に愛されることがある理由を説明する。屈辱的な降格など、手痛い経験が実際には弱小チームへの支援を強化するのだ。

つまり、自己の形成においてリーグ優勝による喜びと同様に、苦い敗北を共有してきた歴史も重要なのである。こうした経験を通じて、サポーターたちは自分のアイデンティティをクラブと仲間のアイデンティティと一体化するようになる

今回の結果は、テロリズム、サッカーのフーリガン、ギャングの暴力行為への対応に関して重要な示唆を含んでいるという。

つまり、テロリストやギャング構成員の結束は、アイデンティティの融合によって強めらていることも考えられるのだ。

ひどく不快で、苦しい記憶を共有することは、人々を離散させるのではなく、逆に絆を強化する。例えば爆撃に苦しむシリアの為政者や兵士らは、この経験によってかえって結束を強めるだろう。同じことが、政府から圧力を受けるギャングの構成員にも言える。

研究者によると、その逆に『脱融合』を図ることも可能だとしている。これに関連する今後の研究が、犯罪やテロの対策として重要な意味を持つようになるかもしれない。

 

要するに「苦楽を共にすれば、強力な連帯感を持つ」ってことだろ。


人口構造に見るこれからの日本の働き方とは? (まとめ)

2016-11-29 01:25:39 | 世間

人口構造に見るこれからの日本の働き方とは?

 

人口ボーナス期

人口ボーナス期とは、出生率も死亡率の高かった時代から、子供を産む数が減少に転換していく段階の時期を指します。

高齢者がまだ多くはない時期でもあり、この時期には全人口に占める子供と高齢者の割合が小さくなり、生産年齢人口が多くなります。

この期間は社会保障費が嵩まず、豊富な労働力が経済を活発にするため、国として経済発展しやすいと考えられています。現在の中国や韓国、シンガポール、タイなどが人口ボーナス期にあたる国だと言われています。

人口ボーナス期は労働力に溢れ、労働賃金が安く済むため、国内に仕事が集まり、特に重工業が発達します。

さらに、この期間は市場の消費意欲も旺盛で、物は作れば作るだけ売れるので、均一のものを大量生産することに重点が置かれる時期でもあります。

このとき企業は効率的に生産量を増大させるため、社内に同じタイプの従業員を育成し、長時間労働を強いていきました。また、均一なタイプの従業員は替りがきくため、企業は昇進において忠誠心を重視しました。残業を厭わない、出張や転勤でも耐えられる人が企業にとって「優秀な社員」だと見なされていました。

人口オーナス期

一方、人口オーナス期とは人口ボーナス期の次のフェーズを指し、社会が少子高齢化する結果、働く人よりも高齢者が多くなる状態のことを指します。

高齢者の増加によって社会保障費が増大、さらにそれを支える生産年齢人口も少ないため、社会保障制度が大きな社会課題となっていきます。北欧諸国を含むEUの国々など先進各国は既に人口オーナス期に入っていると言われています。

人口オーナス期においては消費者市場も大きく変化します。生活必需品は既に社会に広く行き渡っており、むしろ商品ニーズが多様かつ複雑になっていきます。

環境は「同じものを早くたくさん作ったものが勝つ」時代から、「何をつくるかを適切に考えだしたものが勝つ」時代に変化していきます。

こうした事態に対処するためには、単純肉体労働者よりも、次々とヒット商品を生み出せる知的労働者が男女を問わず必要となります。また、それに応じて賃金も上昇します。

多様化する商品ニーズ、上昇する賃金、減少する労働者人口。この人口オーナス期に企業に求められる戦い方は、多様な知的労働者を雇用し、その知的労働者が働きやすい環境を作って雇用を維持し、忠誠心の踏み絵であった長時間労働をなくすことで短時間労働、人件費抑制を実現していくことになります。

こうすることで社会全体にも大きなメリットが生まれます。短時間労働を実現し、ワーク・ライフバランスを改善した結果、人々が安心して子供を産むことができる社会となり、少子化にもブレーキがかかっていくのです。

 

 


なぜ残業は楽しいのか? モーレツ社員の「リア充」を考える (まとめ)

2016-11-29 01:12:59 | 世間

なぜ残業は楽しいのか? モーレツ社員の「リア充」を考える

「君はなぜ残業をしないのか?」

こう言われて純粋に頭が混乱しました。私が残業をせず毎日定時で帰ることに怒っているのです。

「他の同僚が定時内で仕事を終えていないのだから、君も少しは手伝ったらどうだ?」という言い分ならわかります。しかし、仕事に遅延がないのであれば、定時で帰る権利はある、というのが私の主張でしたが、とてもそれを言える雰囲気ではありません。

結局、言うことを聞かない私に「残業をしないと処理できない仕事量」を与えるという結末に。

その結果、私も見事にその職場の空気に染まっていきました。生存本能と言いましょうか。残業しないと、ここでは生き残ることができないと感じたからです。

刺激を与え続けると人間の脳は麻痺できるもので、夜10時、11時が当たり前の生活がはじまりました。

不思議なもので、終電を逃すと、さらにダラダラと朝の2時や3時までオフィスに残っている日常を平気で送ることができるようになるのです。毎日その時間に残っている同僚たちの顔ぶれはいつも一緒。仕事の成果ではなく、夜遅くまで残っていることそのものに充実感を感じるようで、オフィスに人がいなくなればなるほど、表情が生き生きとしてくる連中ばかりです。

恍惚とした表情をしながら笑う同僚。「何がおかしいんだ」と思いながら、調子を合わせて笑う私も私でした。頭が完全に麻痺していたのでしょう。

モーレツ社員にとっては残業こそが「リア充」。休日出勤こそが「リア充」。仕事によって手にした成果は目に見えませんが、長時間働いているという事実は、簡単に、確実に、他人に見せつけられます。

ビッグなプロジェクトを期限内に成功させようと、仲間と寝食を忘れて過ごした時間なら楽しいかもしれません。しかし、恒常化した長時間労働が「リア充」を人にもたらすはずがない。楽しいと思うのは、感覚が麻痺したモーレツ社員だけです。

 


ラムもハルヒも燃えた学園祭~長時間労働の原点 (まとめ)

2016-11-29 00:44:30 | 世間

ラムもハルヒも燃えた学園祭~長時間労働の原点~

■ダラダラは学園祭が原点

日本企業の長時間労働の原点

  1. メンバーシップ制(連帯感)
  2. ミドル・アップダウン型組織
  3. 過剰なホウレンソウ

特に1.に関して、その「仲間」意識によるダラダラな仕事の流れの原点は、学園祭にあるのではと思えてきた。

広告やマスコミ業界は集中して長時間働いているわけではなく、特に夜になるとテレビがつけられたりしながらダラダラ時間が流れていた。

NPO業界でも、夜になってくるとだんだん仕事とコミュニケーションの区別が曖昧になり、時にアルコールも入りながら熱心に議論することもある。

学校現場でも20年くらい前までは、18時を過ぎると缶ビールをあけながら教育議論を交わしていたそうだ。

 

■「麻痺した」感覚

いずれも、正社員同士の連帯感が土台にあり、いわば『選ばれた人々』というプライドを前提として仕事の質の向上に向けて議論をする。

それが時には雑談になったり、あるいはいつ果てることのない過剰なホウレンソウや稟議が重なり、明け方までオフィスで過ごすことになる。

それは何かが麻痺した時間なのだが、たとえばこの記事(なぜ残業は楽しいのか? モーレツ社員の「リア充」を考える)などを参照にすると、多くのメンバーシップ型会社や組織における『麻痺した』感覚がよくわかる。

この記事では、その感覚を以下のように表現している。

「不思議なもので、終電を逃すと、さらにダラダラと朝の2時や3時までオフィスに残っている日常を平気で送ることができるようになるのです。

毎日その時間に残っている同僚たちの顔ぶれはいつも一緒。仕事の成果ではなく、夜遅くまで残っていることそのものに充実感を感じるようで、オフィスに人がいなくなればなるほど、表情が生き生きとしてくる連中ばかりです。」

この部分を読んで、僕は昔の「学園祭」の記憶とリンクした。

 

■「日常」を超える学園祭と残業

反復する日常を超えたイベントして学園祭。

その高揚感や時間感覚の喪失は、長時間労働の感覚に似ている。

つまりは、『連帯感が醸し出す『祭』感覚、時間感覚の麻痺』がここにある。

 


無思想の発見 その2

2016-11-23 01:14:39 | 世間

『俺』も『お前』も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを西欧近代的自我という。(p17)

そう思えば、漱石や鴎外の作品の中には、その問題が見え隠れしている。しかしその漱石が、晩年にはなんと『則天去私』と述べた。この『私』は近代的自我を含んでいる、あるいは近代的自我そのものだと私は信じている。近代知識人としての漱石は、とどのつまりは『私を去った』のである。

どこでどう曲がったか、その『無私』が行き着いた先が『滅私奉公』、『一億玉砕』の世界である。(中略)

『全体主義』と『自己犠牲』

西欧の『個』にはそれなりの長い歴史があり、社会的必然がある。それがない日本の世間に、『自我』だけが入ってきても、根本から定着するはずがない。(p18-19)

「『個人』は社会を構成する最小の公的単位であり、その内部が『私』である」

ということである。日本の世間では、実はそれがそうではない。日本語においては、この『私』という言葉が、『自分』個人selfという意味と、『公私の別』という時の『私』privateという、二重の意味を持つことに、ぜひご注意くださいませ。(p21)

日本の世間における、『私』というものの最少の『公的』単位、それは『個人』ではなく『家』だった。(p22)

この場合、タテマエとは「言葉とその意味内容と思われるものだけがあるべきものとして存在していて、実体が不在である」ことを意味している。(p23)


無思想の発見 養老猛

2016-11-22 01:50:13 | 世間

何故日本語には自分を表す言葉が沢山あるのか。たくさんあるということは、実は『定まった私』なんて、ないということではないのだろうか。

ジブンという言葉は、関西弁では相手を指すことがある。

「ジブン、ニンジン嫌いやろ」(中略)

これに類する使い方は他にもある。『手前』という言葉がそうである。(中略)

「テメー、この野郎」(中略)

あるいは小さい子に対して、

「ボクちゃん、ダメよ。そんなことしちゃ」(p10)

ホンネとタテマエの場合なら、口に出して言っても言わなくてもいいし、ジブンの場合だったら、自分を指しても相手を指してもいい。それは単に『状況に依存する、その場の表現に過ぎない』からである。それが日本語であって、その根底にあるのは、『実体』(この場合、『状況』を指す)と呼んだものに対する深い確信である。それがあるからこそ日本では以心伝心、腹芸だったのである。(p12-13)


タテ社会の人間関係 その29

2016-11-22 00:33:47 | 世間

こうしたわずらわしさは、何も書評などという特殊の領域に限られているのではなく、私たちが、毎日生活で経験するものである。人のことを言ったり、ある事件に、ある問題に関して、私たちが自分の意見を発表する時、対人関係、特に相手に与える影響を考慮に入れないで発言することは難しい。

もちろん、いずれの社旗においても、こうした考慮は多かれ少なかれあるわけであるが、日本社会におけるほど、極端に論理が無視され、感情が横行している日常生活はないように思われる。(p175-176)

何らかの意味において「タテ」につながる人々の中では、反論はこのように抑圧されているから、大っぴらな反論というものは、常にそうした関係にない人々(他の集団に属する人)、あるいは反抗者(たとえば、上司に反発を感じて発言する部下や、教師に何らかの不満を抱く若い学生など)から出される。この場合も、反論とは称しても、実は論理の上での反論というよりは感情攻撃の形をとりやすい点で、やはり、論理性の欠如が見られる。この典型的な例は、国会における、与党に対する野党の反論である。(p178)

批評にとって、感情は敵となる。感情はエネルギーを結集することができても、個別的であり、また、パースペクティブ(相関関係)を欠くために、共通に場に立つ者、また、同じムードを持つ者にしか通じないという、批評において決定的な弱点を持つものである。(p179)

日本人の 『話せる』とか、『話ができる』という場合は、気が合っているか、一方がある程度犠牲にして、相手に共鳴、あるいは同情を持つことが前提となる。すなわち、感情的「合流を持っていなければならない。(p180)