- 集合意識
フランスの社会学者デュルケームによって用いられたことば。
一つの社会または集団の成員たちの間に共有された諸信念、諸慣行の総体で、成員個々人の意識とは区別される固有の生命と体系をもったものをさす。共同意識ともよばれる。
意識の現象である以上、集合意識は個人の内においてしか実現されないが、各人の個別的な意識とは異なるものであり、いわば『社会の心理的類型』とでもよぶべきものである。
デュルケームによれば、それは個々人の意識に対しては外在的で、拘束的に作用することもあり、世代を超えて維持されるといった持続性ももっている。
具体的には伝統、慣習、道徳、法律などを通して示されるもので、たとえ個人の意識に内面化されるとしても、その社会的な性格は失われないとされる。
『E・デュルケーム著、田原音和訳『現代社会学大系2 社会分業論』(1971・青木書店)』
集合精神または集合自我とは、サイエンス・フィクションに登場する概念であり、複数の個体が1つの意識を共有している状態を意味する。
集合精神は、人々が脳と脳を何らかの手段で直結する通信方法を入手するなど人工的なテレパシーによって形成される場合もある。
ハイブマインドは集合精神の一種であるが、各個体の個性がほぼ完全に失われている点が特徴とされる。
集合精神やハイブマインドの概念は蟻や蜂の実在する超個体の知性版と見ることができる。
- 『世間』 は固定的で絶対的なもの。
- 『空気』 は流動的で状況に依存するもの。
でも本来、どっちも同じもので、たとえば「そういうものだから」「シカタガナイ」と言って諦めて従っていた『世間の常識』が、ある日突然壊れたりする。
そうなると今度は「とても逆らえる『空気』ではなかった」とか「当時の『空気』では」とか言い出す。
『絶対的な世間』から『流動的な空気』に格下げされたわけだ。
要は人がどれくらい強い拘束力があると思ってるかの程度の問題で、どちらも集団を支配する。
この二つを総称する言葉はないかなと思って調べたのが、上の二つの言葉『集合意識』と『集合精神』
日本人の間に共有された諸信念、諸慣行の総体であり、拘束的に作用するという意味では『世間』や『空気』は集合意識と言える。
『空気』は、状況に依存し、流動的なものだが、『世間』は世代を超えて維持される点で違っている。
個々人の意識に対しては外在的であるか?というところが疑問なところで、多くの人は無自覚で反射的に『空気を読んで』行動している。
一方、ハイブマインドはアリのように、個性や自我がほぼ失われた状態で、自ら思考することなく集団生活を営むというもの。
『空気』や『世間』に過剰に従って、思考停止に落ちいってる状態なら、今の日本てむしろハイブマインド状態に近いと思う。
日本人がを『空気』や『ジョーシキ』を共有し、それに支配されいる状態が、『空気の支配』や『世間』というハイブマインド。
『空気を読む』あるいは、『みんな~と思っているにに違いない』という疑似テレパシーよって形成される。
この『みんな』というのも、実は実在しない『仮想他者』なんだけどね。