この社会的強制は、日本社会という大きなものより、小集団におけるほど密度が高くなる。
一定男集団が他のものと接し、話し合いをするような場合に、誰もが口にするのは「我々に意見をまず統一しておかなければ」ということである。集団の結束が固く、機能が高いほど、集団の個人に対す社会的強制はは強くなる。言い換えれば、それだけ個人の思考・行動を規制してくるのである。
こうした絶えざる運動の結果、一定の集団の構成員のパーソナリティが非常に似てくるという現象がみらえ(この集団強制に耐えられない個人は長い間には結局脱落したりする)、また、似たようなパーソナリティの人々が集団を構成するという現象が見られる。実際、日本社会においては、特定の主義とか思想を旗印にしている集団の人々が、類型的に同じようなパーソナリティを持っていることが指摘できる。
そして、各々のグループは、主張する主義とか思想に、論理的には無関係の、一種の(同じような傾向を持つ人々のパーソナリティの総和から醸し出される)『くさみ』を持っているのが常であり、本質的にその主義・思想自体に共鳴していても、そうしたパーソナリティを持ち合わさなければ、そのグループの成員となることは困難である。
またその一方、そのグループの標榜する主義に全く異議がなく、そのためにこそ、その集団に入っていても、そうした本質的なことに関係しない、些細な事件によって、意見を異にし、往々にして感情的不一致が明白になったりすると、村八分にあったり、グループから脱落することを迫られたりする。
したがって、日本においてはどんなに一定の主義・思想を錦の旗印としている集団でも、その集団の生命は「その主義・思想自体に忠実である」ことではなく、むしろお互いの人間関係にあると言えよう。
ここでも宗教と同様、主義・思想は、日本社会にあっては後退を余儀なくさせられている。堂々と世界に誇りうるような、また、他の社会の人々に影響を与えるような偉大な宗教家・哲学者が、いまだに日本(堂々たる文明国でありながら)から一人も出ていないという事実は、この社会的構造と無関係ではなさそうである。
このように考察してくると、日本人の価値化の根底には、絶対を設定する思考、あるいは論理的探究、といったものが存在しないか、あるいは、あっても極めて低調で、その代わりに直接的、感情的人間関係を前提とする相対性原理が強く存在していると言えよう。
このとは、前に述べた、リーダーと部下の力関係における接点としてのルールの不在、人と人との関係における契約によって表現される約束お不在ということによっても、遺憾なく表れているところである。(p171-173)