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タテ社会の人間関係 その28

2016-10-28 18:30:00 | 世間

この社会的強制は、日本社会という大きなものより、小集団におけるほど密度が高くなる。

一定男集団が他のものと接し、話し合いをするような場合に、誰もが口にするのは「我々に意見をまず統一しておかなければ」ということである。集団の結束が固く、機能が高いほど、集団の個人に対す社会的強制はは強くなる。言い換えれば、それだけ個人の思考・行動を規制してくるのである。

こうした絶えざる運動の結果、一定の集団の構成員のパーソナリティが非常に似てくるという現象がみらえ(この集団強制に耐えられない個人は長い間には結局脱落したりする)、また、似たようなパーソナリティの人々が集団を構成するという現象が見られる。実際、日本社会においては、特定の主義とか思想を旗印にしている集団の人々が、類型的に同じようなパーソナリティを持っていることが指摘できる。

そして、各々のグループは、主張する主義とか思想に、論理的には無関係の、一種の(同じような傾向を持つ人々のパーソナリティの総和から醸し出される)『くさみ』を持っているのが常であり、本質的にその主義・思想自体に共鳴していても、そうしたパーソナリティを持ち合わさなければ、そのグループの成員となることは困難である。

またその一方、そのグループの標榜する主義に全く異議がなく、そのためにこそ、その集団に入っていても、そうした本質的なことに関係しない、些細な事件によって、意見を異にし、往々にして感情的不一致が明白になったりすると、村八分にあったり、グループから脱落することを迫られたりする。

したがって、日本においてはどんなに一定の主義・思想を錦の旗印としている集団でも、その集団の生命は「その主義・思想自体に忠実である」ことではなく、むしろお互いの人間関係にあると言えよう。

ここでも宗教と同様、主義・思想は、日本社会にあっては後退を余儀なくさせられている。堂々と世界に誇りうるような、また、他の社会の人々に影響を与えるような偉大な宗教家・哲学者が、いまだに日本(堂々たる文明国でありながら)から一人も出ていないという事実は、この社会的構造と無関係ではなさそうである。

このように考察してくると、日本人の価値化の根底には、絶対を設定する思考、あるいは論理的探究、といったものが存在しないか、あるいは、あっても極めて低調で、その代わりに直接的、感情的人間関係を前提とする相対性原理が強く存在していると言えよう。

このとは、前に述べた、リーダーと部下の力関係における接点としてのルールの不在、人と人との関係における契約によって表現される約束お不在ということによっても、遺憾なく表れているところである。(p171-173)


タテ社会の人間関係 その27

2016-10-21 19:38:29 | 世間

さらに興味あることは、「神」の観念自体にも、これは見られるのではなかろうか。日本人にとって「神」「祖先」というものは、この「タテ」に線のつながりにおいてのみ求められ、抽象的な人間世界から全く離れた存在としての「神」に認識は、日本文化の中には求められないのである。極端に言えば「神」の認識も個人の直接接触的な関係から出発しており、また、それを媒介とし、そのつながりの延長として把握されている。常に、自己との現実的な、そして人間的な「つながり」に、日本人の価値観が強く置かれていると言えよう。

このあまりにも人間的な(人と人との関係を何よりも優先する)価値観を持つ社会は宗教的ではなく、道徳的である。すなわち対人関係が自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである。

「みんながこう言っているから」「他人がこうするから」「みんながこうしろと言うから」ということによって、自己の考え・行動にオリエンテーションが与えられ、また一方、「こういうことはすべきではない」「そう考えるのは間違っている」「その考えは古い」というような表現によって、他人の考え・行動を規制する。

このような方式は、常にその反論に対して、何らかの論理的、宗教的理由付けがなく、もし、それらの発言を支えるものがあるとすれば、それは「社会の人々がそう考えている」ということである。すなわち、社会的強制である。「社会の道徳」とは、修身の本にあるのではなく、言うまでもなく、この社会的強制である。

したがって、その社会が置かれた条件によって、善悪の判断は変わりうるものであり、宗教が基本的な意味で絶対性を前提にしているのに対し、道徳は相対的な物である。日本人の考え方や心情が戦前・戦後と大変な変わり方をしたことや、また、戦後においてすら、現在まで随分変化した事実は、こうした動く実態自体(社会)に価値の尺度を置いているためである。(p169-171)

 

共同幻想


タテ社会の人間関係 その26

2016-10-14 19:35:47 | 世間

個人と個人との間に理性的な、あるいは抽象的なコントラクト関係の設定が困難であるということは、人間関係が、極めてパーソナルな、直接的な人と人の関係によって設定されるためと言うことが出来よう。

近代日本における経営者と従業員の結びつきや、西欧的教養を身に着けているとされている知識人の間においてさえ、このような「タテ」の情的な関係が強いのであるから、これがヤクザの世界の親分・子分関係となれば、論を待つまでもない。親分のために殺人くらいすることは当然であろう。

ある保護施設の園長の言によると、やくざの世界を一度味わった子供が、何回連れ戻しても戻ってきてしまうのは、ヤクザの絵会では、その子にとって、保護施設や里親などからは得られないような、理解と愛を受けるからであるという。親分・子分関係の強さ、エモーショナルな要素は、弱い者にとって安住の世界を作っている。

戦後とみに盛んになった新興宗教団体が、魅力的なリーダーを持ち、直接接触を媒介とするエモーショナルな「タテ」の線 集団組織の機関としていることも注目に価する。創価学会の折伏による「タテ線」、立正佼成会の「親l・子」関係は、その典型的なものである。これによって信者は、しっかりと組織網に入れられ、「私はもう独りぼっちではないのだ」という安定感に浸ることができる。

また、古い歴史を持つ伝統的な教団と言われるものにも、これら新興宗教とは異なるが、基本的ンには「タテ」の繋がりが見られる。たとえば、真宗の門徒は、真宗という教理の共通性自体を媒介として集団を作っているというよりも、むしろ、実際には自分の父も、祖父も門徒であったからという「タテ」の線によって、現在のこじんが支えられていると言えよう。

信仰というような、一見抽象的なものを媒介として、成立しているがごとき集団いおいても、それは驚くほど顕著に表れている。また、競願組織そのものも、「タテ」関係を貫いていることは、天理教の本教会・分教会組織、真宗の本寺・末寺関係などによく表れていることも付け足しておこう。(p167-169)


タテ社会の人間関係 その25

2016-10-14 19:22:55 | 世間

近代西欧的ディレクターシップにおいては、何よりもリーダーと部下の間に約束があり、そのルールによって一定のミーティング・ポイントが決まっているから、どちらの側も一定以上の力を行使することができない、という同時に、一定の権力行使が許されている。

日本的な表現をとれば、この力関係において、上が強くなると「権威主義」であり、したが強くなると「民主主義」である。前者は戦前に多く、後者は戦後に多い。いずれも両者(上・下)の約束による接点が設定さていないという点で、いずれの仕方にも弊害が相当ある。

戦前・戦後を問わず、日本のあらゆる集団を全般的に見ると、リーダーの権威発動は、特定分野・特定条件に限られ、全体としては、さっきに述べたように、リーダーシップは、集団全体によって、極めて制約されているということが言えよう。言い換えれば、日本的社会集団においては、組織が個人に優先していると言えよう。

このことはさらに、リーダー(また上にある者)に対して部下の力が強い、ということが言えよう(こうした社会であるからこそ、民主主義が行き過ぎ、真の民主主義と違った平等主義が猛威を振るうことにもなるのである)。(p144-146)


タテ社会の人間関係 その24

2016-10-07 19:33:39 | 世間

リーダーのレゾンデートルは、折衝の成功にあるよりも、集団の利益を最大限に標榜し、集団成員に意を十分に受け止める事であって、もしこれに失敗すれば、自分自身が危うくなるという立場に置かれている。

実はここに、異なる意見統一に困難さが存在するのである。「タテ」の折衝は、ある意味で単純に帰着し過ぎるのであるが、「ヨコ」の折衝がこのように非常に困難であるということは、x(タテ)集団的構造を持つ社会においては、「ヨコ」に働くメカニズムが不在で、もしあったとしても、それが機能しにくいということに求められる。

これが同時に「タテ」の折衝に置いても、「ヨコ」に折衝においても、実は「論理」というものが重要視されていない、ということが指摘できる。論理に代わってここに出ているのは「力関係」である。(p132-133)

 

さらに、このリーダーと直属幹部成員との関係は(その他の成員すべてにも共通した関係であるが)、「タテ」の直接的人間関係であるために、それによって招来されるエモーショナルな要素に支えられていることである。

「タテ」のエモーショナルな関係は、同質の者(兄弟・同僚関係)からなる「ヨコ」の関係より、いっそうダイナミックな結びつき方をするものである。古い表現をとれば、保護は依存によって答えられ、温情は忠誠によって答えられる。すなわち、等価交換ではないのである。

このために、「ヨコ」の関係におけるよりいっそうエモーショナルな要素が増大しやすく、それによって、いっそう個人が制約される。この関係はした(子分)を縛るばかりでなく、上(親分)をも拘束するのである。「温情主義」という言葉に表されている情的な子分への思いやりは、常に子分への理解を前提とするから、子分の説、希望を入れる度合いが大きい。(p139-140)