恋、仕事、世間とかいろいろ雑記

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タテ社会の人間関係 その6

2016-07-29 19:58:09 | 世間

「丸抱え」は大企業ほど顕著

日本の家に表れている集団としての特色は、また大企業を社会集団としてみた場合にもみられるのである。すなわち、終身雇用制度によって、仕事を中心とした従業員による封鎖的な社会集団が構成される(新規採用なら、ちょうど新しく生まれた家族成員、あるいは新たに婿入りして加わった者の位置に立っている)。ばかりでなく、社宅生活、従業員慰安会、結婚、出産その他の慶祝金、弔慰金の制度などを見てもわかるように、従業員の私生活、すなわち、家族にまで会社の機能が及んでいる。

そして興味があることは、この方向は、最も先端を行く大企業ほど、また、近代的とか先進的とか言われる経営に極めて顕著にみられることである。

明治以来、現在に至るまで、日本の経営管理に一貫して見られるのは、いわゆる『企業は人なり』の立場で、経営者と従業員は仕事を媒介して契約を結ぶというより、よく経営者の言葉に表れているように、経営者と従業員は『縁あって結ばれた仲』であり、それは夫婦関係にも匹敵する人と人のの結びつきと解されている。

したがって、従業員は家族の一員であり、「丸抱え」という表現にもあるように、仕事ではなく人を抱えるのであるから、当然その付属物である従業員の家族が入ってくる。したがって日本尾企業の社会集団としての特色は、それ自体が「家族的」であることと、従業員の私生活に及ぶ(家族が外延的に入ってくる)という二点にある。後者は前者の当然の結果として出てくる。(p42-43)


タテ社会の人間関係 その5

2016-07-29 19:32:11 | 世間

資格の異なる者に同一集団成員としての認識、そしてその妥当性を持たせる方法としては、外部に対して『我々』というグループ意識の強調で、それは外にある同様なグループに対する対抗意識である。そして内部的にには「同じグループ成員」という情緒的な結びつき(連帯感)を持つことである。

資格の差別は理性的なものであるから、それを超えるために感情的なアプローチが行われる。

この感情的アプローチの招来するものは、絶えざる人間接触であり、これは往々にしてパーソナルなあらゆる分野(公私を問わず)に人間関係が侵入してくる可能性を持っている。

したがって、個人の行動ばかりでなく、思考・考え方にまで、集団の力が入り込んでくる。こうなると、どこまでが社会生活(公)で、どこからが私生活なのか区別がつかなくなるという事態さえ、往々にして起こり得るのである。これを個人の尊厳を冒す危険性として受け取る者もある一方、徹底した仲間意識に安定感を持つ者もある。要は後者の方が強いということであろう。

自分の家庭のこと、恋愛のことなどを同僚に語る者が日本人にはいかに多いか、同一村落内の結婚、職場結婚というものがいかに多いか、また会社の慰安旅行に家族が参加したりすることなど、こうしたことを物語っている。これは同時に、村落とか職場を除いて自分の社会生活の場を持っていないという、生活圏と言おうか、社会的『場』の単純性・単一性(一方的所属)から来るものである。そしてあらゆる個人の問題はその枠の中に置いてのみ解決されなければならない。(P37-38)


タテ社会の人間関係 その4

2016-07-22 19:10:22 | 世間

枠の設定によって共通の場を基盤として構成される社会集団が、資格を異にする者を内包する結果となることは、前節によって明らかなところである。そこで次に問題となるのはこのように異なる資格を持つ者から構成される集団が強い機能を持つ場合、集団結集力を導き出す何らかの方法が必ず講ぜられなければならないとピうことである。

集団が資格の共通性によって構成されている場合には、その同質性によって、何らかの方法を加えなくとも集団が構成されうるものであり、それ自体明確な排他性を持ちうるものである。

もちろん様々な条件が加えられることによって、その機能の強弱は論ぜられようが、集団の基盤にその構成員の同質性自体が大いに物を言うのであって、条件は二義的なものとなる

同質性を共有せざるものが場によって集団を共有する場合は、その原初形態は単なる群れであり、寄り合い世帯で、それ自体社会集団構成の要素を持たないものである。

これが社会集団となるためには、強力な恒久的な枠(例えば居住、あるいは経済的要素による『家』や『』・企業組織・官僚組織などという外的な条件)を必要とする。そしてさらに、この枠を一層強化させ、集団としての機能をより強くするために、理論的にも経験的にも二つの方法がある。

一つは枠内の成員に一体感を持たせる働きかけであり、もう一つは集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させ、それを強化することである。(p35-36)


タテ社会の人間関係 その3

2016-07-15 19:25:06 | 世間

筆者の立場からすれば、『家』を構成する最も基本的な要素は、家を継いだ長男の夫婦が、老夫婦とともに居住するという形式、あるいは家長権の存在云々という権力構造ではなく、『家』というものは、生活共同体であり、農業の場合などをとれば経営体であって、それを構成する『家成員』(多くの場合、家長の家族構成からなるが、家族成員以外の者を含みうる)によって出来ている。明確な社会集団の単位であるということである。すなわち、居住(共同生活)あるいは(そして)、経営体という枠の設定によって構成される社会集団の一つである。

ここで重要なことは、この『家』集団内における人間関係というのが、他のあらゆる人間関係に優先して、認識されているということである。(中略)

さらにこうした『家』『一族郎党』を構成した人々は、近代社会に入ると『国家一家』的集団を構成する。組合は職員・労働者共に包含し、労使協調が叫ばれる。家制度が崩壊したと言われる今日なお、「家族ぐるみ」などと言われるように、個人は常に家族の一員として、また、従業員の家族は従業員とともに一単位として認識される傾向が強い。

このような枠単位の社会的集団の在り方は、いつの時代においても、道徳的スローガンによって強調され、そのスローガンは、伝統的な道徳的正当性と、社会集団構成における構造的妥当性によって支えられ、実行の可能性を強く内包しているのである。(p32-35)

 

スローガンについてはこちら

『空気』の研究 その7 表層的な回心

人間を幸福にしない日本というシステム  その3  『集団主義という神話』


タテ社会の人間関係 その2

2016-07-08 19:40:11 | 世間

社会による相違

どの社会においても、個人は資格と場による社会集団、あるいは社会層に属している。この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合は無きにしも非ずであるが、たいてい両社は交錯して小野その二つの異なる集団を構成している。そこで興味あることは、筆者の考察によれば、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者がたがいに匹敵する機能を持っている場合があることである。

この機能の在り方は、その社会の人々の社会的認識における価値観い密接な関係を持っている。そこに底社会の構造を端的に考察することができる。この点において最も端的な対照を示しているのは、日本とインドの社会であろう。

すなわち日本人の集団意識は非常に場に置かれており、インドでは反対に資格に置かれている。(最も象徴的に表れているのはカースト、基本的に職業、身分による社会集団である)(p27-28)

 

職種よりも会社名

さて、本論である。場を強調する日本の社会集団の在り方の分析に入ろう。

日本人が外に向かって(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは資格よりも場を優先することである。記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。また、他人がより知りたいことも、A社、Sしゃということがまず第一であり、、それから記者であるか、印刷工であるか、また、エンジニアであるか、事務員であるか、ということである。(中略)

ここではっきり言えることは、場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割を持っていること言うことであって、個人の持つ資格自体は第二の問題となってくるということである。

この集団認識の在り方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの、相手のそれを「オタの」などという表現を使うことにも表れている。

この表現によく象徴されているように、「会社」は、子jンが一定の契約期間を結んでいる企業体であるといく、事故にとって客体としての認識ではなく、私の、または我々の会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどころというようなエモーショナルな要素が濃厚に入ってくる。(家族的共同体)

A社は株主のものではなく、我々の者という論法がここにあるのである。この強い素朴(ネイティブ)な論法の前には、いかなる近代法といえども現実に譲歩せざるを得ないという、極めて日本的な文化的特殊性が見られる。(p29-31)

つまり、日本人にとっては『世間(共同体)=現実』であり、法律はモラル、合理性などよりも優先される。


タテ社会の人間関係 中根千枝

2016-07-01 19:59:19 | 世間

「ソーシャル・ストラクチュア」というのは、社会学・経済学・歴史学などで従来使用されてきた「社会構造」という用語とは少し意味が異なっている。すなわち後者(社会構造)では、例えば、17世紀のイギリスの社会構造とか、日本農村の社会旗構造などというように使われ、その時代、あるいはその社会の全体像、重なり合っている諸要素の仕組み、制度化された組み立てというような意味を持っている。これに対して社会人類学で言う「ソーシャル・ストラクチュア」というのは、ずっと抽象化された概念であって、一定の社会に内在する基本原理ともいうべきものである。(p19-20)

社会構造        = 法律や経済などの社会インフラ

ソーシャル・ストラクチュア = 伝統的・文化的価値観やエートス

社会人類学に於いては、この基本原理は常に個人と個人、個人と集団、また個人からなる集団と集団の関係を基盤として求められる。

この関係というものは、社会(あるいは文化)を構成する諸要素の中でも最も変わりにくい部分であり、また、経験的にもそうしたことが立証されるのである。(中略)

先生の学生に対する、また父親に対する子供のマナーとか、儀礼的なやり取りが簡略になってきたとか、敬語が乱れてきたとか、戦後の社会生活における変化がいろいろ指摘されようが、その変化mの代表選手のように見なされている若い人たち、例えば学生の間では今も上級生・下級生の根強い区別があり、BGの職場にはボスが出来ていたり、その他の分野においても、同一集団における、上下関係の意識はあらゆる面に顔を出している。(p21-22)

 

「資格」および「場」とは何か

一定の個人からなる社会集団の構成の要因を、極めて抽象的にとらえると、二つの異なる原理、『資格』『場』が設定できる。すなわち、集団構成の第一条件が、それ(集団)を構成する個人の『資格』の共通性にあるものと『場』の共有にあるものである。

ここで資格と呼ぶものは、普通使われている意味よりずっと広く、社会的個人の一定の属性をあらわすものである。

例えば、氏・素性(血縁)といったように、生まれながらに個人に備わっている属性もあれば、学歴・地位、職業などのように、生後個人が獲得したものもある。また、経済的に見ると、資本家、労働者、労働者・地主・小作人などというものも、それぞれ資格の種類となり、また、老若男女といった一定の社会的(生物的差から生ずる)相違によるものまで、ここでいう資格(属性)の一つとして取り上げることができる。

このような一定の個人を他から区別しうる属性による基準のいずれかを使うことによって、集団が構成されている場合、「資格による」という。例えば特定の職業集団、一定の父系血縁集団、一つのカースト集団などがその例である。

これに対して、「場による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、資格の相違を問わず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合を指す。例えば、××村の成員というように。産業界を例にとれば、旋盤工というのは資格であり、P社の社員というのは場による設定である。同様に、教授・事務員・学生というのはそれぞれ資格であり、R大学の者というのは場である。(p26-27)