「俺は○○会社の部長だ」とか息巻いてる人も、ただの一人の酔っぱらいの男であることに変わりはない。会社の中では部長さんとして「偉い」のでしょうけれども、その「偉い」ということも、ある限られた社会の中でのみ通用するファンタジーに基づいているわけです。
つまり、「現実」と呼ばれているものも、一皮むけば、どれも「ごっこ」の世界なのです。せいぜい子供銀行ごっこと、日本銀行ごっこの違いでしかない。(中略)
我々が「現実」と呼んでいるものも、実のところ、数あるファンタジーの中の一つに過ぎないのです。より多くの人が信奉しているファンタジーが「現実」として特別扱いされているに過ぎないわけです。私たちは、どこかでこのことに目覚めていなければなりません。(p54-55)
フロイトは無意識という概念を提唱し精神分析を創始しましたが、ここで述べられているように、「心的現実性」ということの重要性を指摘したことも、彼の大きな功績の一つではないかと思います。普段われわれが「現実」と呼んでいるものについては、彼は「物的現実性」と呼んで区別しています。心の中の問題を扱う上では「心的現実性」の方が大切なんだということを言っているのです。(p56-)
要は現実なんてのは状況によって簡単に変化する相対的なものだってこと。特に社会的立場なんかはそう。よほどの大物じゃない限り、その人にとっての社会なんて、身の回りの狭い世間、つまり共同体内部の立場に過ぎない。
まぁ、だからって重要じゃないってことはならないけど、自己肯定感を共同体に委ね過ぎで、自己完結出来なさすぎだというところが問題なんだと思う。