下界の娘

毒親育ちだった。パニック障害になる。人や世の中の闇・真理までわかる。心の闇を・・吐き出してみる。【闇ブログ専用】

今日の【名言】53

2020-07-25 16:46:55 | 日記
確信の強さがそのまま正しさの証拠になるわけではない。/ジョン・ロック


※思い込みに気をつける。自分の考えが正しいとは限らないということ。


(イラストは本文の内容とは関係ありません、ただの落書きです)


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自制

2020-07-25 16:10:06 | 日記
ーここは自分の闇を吐き出す闇(病み)ブログでありますが、
今日は特にネガティブな内容を書いています、嫌な方は避けてください。ー



私の手を止めたもの。

2つある。
先に言う、 私の手を止めたのは【猫】。
もう一つは、【母の思うつぼ】になるから。



物理的に母と暮らしていた時、(ひとり暮らしができない状態でアウトな人間ですね)
八方塞がりになるほど責められ罵られた時が何度もあった。
喧嘩の始まりは私が思わずそういう事を言わないでほしい的な発言をした時、
あとはいつも何がきっかけか、本当にさっぱりわからないくらい母の気分、母の私へのマイナスな感情からくるいきなりスイッチが入りケンカになる。
本人はただのケンカのつもり??のようだ。
とにかく始まったら止まらない。
私にも熱が入るに決まってる。黙っていれば終わるかもしれないと何度か試したが、変わらなかったし、
勝手に話させておけばおくほど
なんだか全然娘のことをわかっていなく、そりゃ黙ってはいられなくなる。
そして言い返すと必ず言われるのは
「親を親と思っていない証拠だ」

酷いのは、罵るだけでなく、脅してくる。
だからどんどん追い詰めらる。。。。。。
頭がおかしくなる。
ノイローゼになりそう。
壁に自分の頭を打ち付けた、おかしくなりそうで痛みでごまかしたかった。
いつものケンカの時、終わりがくる前兆は、母が最後自分が子どもを望んでいたこと、子どもがかわいいに決まってる、そんな自分が何をしたんだと号泣する。
これは最後は自分は可愛そうであり、暗に私に罪悪感を抱かせるため。
(共依存のやり方なので注意です)
そして号泣してタバコを吸って自分は落ち着いたら
「じゃあ外にご飯を食べいこう」という。

魂も肉体も疲れている自分はそんなの行きたいわけない、
食べたくない、恐怖でしかない。
でもそれを断るとまたケンカが始まるのなら、物理的に一緒に暮らしてる身は、言う事をきくしかない。外食は本当に辛かった。場合によっては外食先レストランでキレることもあった。
しかも手が込んでいるのが娘にいじめられてるかのような構図。。。
この流れがケンカ終わるまで。



ある日あまりにも酷く、
泣きながら
こんなに心の虐待が酷いのなら
泣きながら
「もうその手で殺してほしい」
と頼んだ。包丁を母に無理矢理でも持たせて、今私を殺してほしいと。
でも母が包丁を握る訳がない。
だって常に自分が加害者にならない事だけに重点を置いて生きているのだから。
被害者になるように設定されてる母が私を肉体的に殺してくれるわけない。
だからこそ、母に無理矢理握らせて加害者にさせたかった。
それが私の気持ち。
でも、過ぎる気持ちがもう一つある
自分が母の首を締めたくなったこと。
全く収まらない口を、罵倒してくる口を、ノイローゼになりそうな娘を見てなんとも思わない追い詰める母の口を、止めるには首を締めたいと衝動になる。

わからない人にはわからないだろう。

母の首を締めたいという衝動を最終的に思いとどまらせたのは、
本当に母が被害者になってしまうこと(私は加害者になり、母に同情が集まる)
私が今ここでやったら、猫に会えなくなること
自分を止めたのは冒頭で言ったこの2つ。
でも本当は母に肉体的にやってもらうことだったけれど。

私はやらなかった。ノイローゼになりそうな頭で考えた思いとどまらせたもの。
思うだけなら自由だ。
それでも私は犯罪者になり得る危ない奴で白い目で見られるのだろうか。
世の中の全ての人は犯罪者予備軍ではあるとは思ってる。(日常のちょっとした事がきっかけで、誰でも起こりうる。なんでも)
もう少しでなにかのタガがはずれたら、と思うと
人はなんにでもなってしまう。
そしてまた周囲がそう作り上げてしまうのも事実。

子どもが欲しくて熱望している人はいつの時もいっぱいいるけれど、それならなぜ子供と向き合ったり、一緒に居ようとしなかったり、寄り添う事ができなかったり、老後を見てもらう事をばかり心配したり、孫が欲しいと言ったり・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分だって子どもの時期があったから理解出来るはずなのに
無償の愛を持ってこそなのに







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未練

2020-07-19 14:59:51 | 日記
自分の身体的にでた症状を、
ふつうに、ごくふつうに母親に言いたいのに
私は言えない。

自分から電話して言わない。

向こうが電話をかけてきたときに、初めて言う。
もうその時はタイムリーな状態ではないけれど。

この間電話があった。
だから
全身蕁麻疹がでたことを言いたかった。
そしたら間違えて私にかけてしまったんだと。

悲しくて怒ってしまった。
泣きながら
蕁麻疹のことを言った。
でもあなたは(母親)ただ間違えてかけてきたんだものね、

最近は目が血に染まったんだよ。あなたの娘は、
尋常じゃないくらい繊細なんだよ。
お母さんにふつうに聞いてもらいたいのに、話したいのに、
そんな簡単なことができないくらい会話にならないから、
諦めてるんだよ。
政治家と話してるのかと思うような会話、
親と話しているはずなのに小さい子供と話してるのではないかというくらい結局自分の話ばかり、
話したいポイントが気付けばどんどんズレてなんの話をしたかったのかわからなくなる、



父がいたら、手厚い救護を受けれたけれど、パパ(父)に甘えすぎていた。
でも大人になったとはいえただふつうに母親と話すことを切に願うのは欲しがり屋なのか。。。

諦めてるけど諦めたはずだけど
嗚咽するほど泣くのははまだ諦めきれてないんだ。


でも小さいときに、親が離婚したり早くからなにかの理由で離別してる場合、
母親の愛情(もしくは父親、さらにいえば両方)がなにかもわからず喉から手がでるほどほしいけれどそう願ってることすらわからないくらい、最初から知らないから諦めてる、、、のかなと思ったりするけれど
人と比べてどうとか考え出たら・・・・キリがないね。。。。

柳葉敏郎のファミリーヒストリーも神回とのことで
見ることができたけれど(とても良かった)
育ての親がいる間には、また自分が探し回ってる間は、決して繋がらなかった出来事が繋がった瞬間を見て
「あーやっぱり人生って2つも3つも同時に手にすることは出来ないようになっているのかもしれない」と確信に近い思いを抱いた。

そして「諦めるということ」も大事だということ。
諦めたその時に、
という瞬間もみたから。
それだけ世の中のひとたちはそれぞれ内容が違えど
なにかに異様に執着している。
決して諦めないことも大事だけれど
諦める事も大事。そのバランス感覚が優れているような人になれるようになりたい。
恐ろしく欲深いこの世界では、そのバランス感覚を持ち合わせていてもとても生きづらいけれどね。。。。。。






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今日の【名言】52

2020-07-19 14:30:14 | 日記
実際私たちが死ぬということは、
死んでいく当人よりも、むしろあとに残る人々にとっての問題なのである。
                        /トーマス・マン




(イラストは本文の内容とは関係ありません、ただの落書きです)



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【羊たちの沈黙】はサイコパススリラーではない

2020-07-09 17:08:41 | 日記
続編にあたる【ハンニバル】は観ていないですが
【羊たちの沈黙】について、タイトルに先に書いた通り
あの映画はサイコパススリラーではありません。

といってもあくまでも個人的な見解とするしかないですが。


様々なこの映画のレビューを見て、高得点を得ているにも関わらず
また、レクター博士に惹かれてるというかスポットライトがあたっているのに
本当のあの映画の意味にたどり着いた同じ意見の人がほぼいなかったので
なんとなく書いてみようと思った。(何度も言うが、たどり着いたと言ってもあくまでも個人的な見解です)


一見
犯罪、サイコパススリラー映画になっていますが
それはただのエンターテイメントとしての表向きであって
あの映画の根本は(映画というかおそらく原作者の意図)
結論から先に言うと
☆「普通に暮らしてる人間そのものの方が残酷で傲慢である」ということを伝えたい。

☆「自分たちは気付いてないけれど自分たち人間が食べるために、動物の悲鳴なんて聞こえてても聞こえないふり、もしくは聞こえない、ぐらい食べるために動物をはいで食べているじゃないか」
主にこれをレクたー博士というサイコパス(人間を食う)を使って表していると思う。

その結論になったのは
レクター博士が、ジョディフォスターに対して、過去の事を聞くシーンで
ジョディフォスターが子羊の悲鳴を聞いてなにをしているか見てショックを受け助けようと思った。
このことでレクター博士が彼女に対して、もちろん真実を話したということで距離が縮まるというか彼女には敵意を向けない。
それは真実を話したという正直さだけではなく、内容そのものに共感したと思った。

そしてもう一人出てくる犯罪者、自分の身体にあった人間の皮を求めて犯罪を繰り返す男、は
映画としてはサイコパスで、もちろん立派な犯罪者であるけれど
人間だって動物に対して同じ事をしているようなものだという警鐘。




映画内ではそこまでわかるひとがいるかどうかわからないけれど
原作者であるトマス・ハリスが、
自然動物愛好者であることと、
「わたしはこう答えるんだ、自分は特別何かを創り出しているわけじゃない。周囲を眺めてみたまえ。何もかも現実に起きているじゃないか、とね」
(ネットでもはや犬でも猫でもない動物を抱えて映っている原作者のインタビュー記事に書いていた事です。猟奇的なアイデアはどうやって生み出されたのかという質問に対しての答えです。興味がある方はみてみて下さい)

と答えていることに全てが出ていて
自分たちの見解が間違っていないと確信した。(主人のほうがとてもすばやくとてもすらすらとこの映画の本当の意味にたどり着いた。恋愛ものはきれいさっぱり分析できないのに。。。。)

つまりレクター博士は、その警鐘を訴えるための、
代弁者というか象徴というかうまい言葉が見つからない(そこが大事!!)が
あからさまに人間が悪だという表現にしないための、大事な役。
だからなんだかはわからないけれど皆がレクター博士というダークな役柄に
惹かれていく。

今まさに、原作者の言う、
猟奇的で、狂った、人間不信になるような出来事が多く、
人間こそがとても貪欲で利己的だという絶望を感じてしまうようなそんな

何もかも現実に起きているじゃないか、
その意味が今なら皆わかるのではないか。。。。。