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ナチカサヌ恋歌

歌うこと、踊ること、お酒を交えて語り合うこと、心動かされるヒト・モノ・コトとの出会いを楽しみに、毎日を過ごしています。

旅の途中

2009年01月26日 | モノローグ monologue
今、京都から東京に向かう新幹線のなかである。

旧正月の休暇でシンガポールから帰国中の友人と京都で会うことになり、昨日は、冬の京都を少し散策した。

大人になるたびに楽しめる京都が増え、いや、感性や教養が少しばかり大人になった結果、感じ入る京都の風情や趣に出会うといったほうがよいのだろうか。

また毎回、一泊ほどの短い滞在なので、出会った途端に別れ、だからますます心惹かれるのかもしれない。


といったところで、
左手には、中腹まで雪を被った富士山が見え始めてきた。美しいほどに圧巻である。


先ほどまでの想いは、あっという間に過去のものとなり、新たな出会いに心が向かう。


旅とはそんなものかもしれない。そして、やはり人生も似ている。

わが2008年を省みる

2008年12月23日 | モノローグ monologue
昔に書いた日記から、
自分の2008年を振り返り、
前に向かう力としようと思う。



どぅーちゅいむにーです。

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そもそも、生命が誕生することには何かしらの意味があるのだろうか。

そもそも、地球自体が活動しているのだから、そのエネルギーをもって、水も陸も草木も動物も生まれ、また、活動する。生まれ死ぬまでの一連の流れは、狭義では終わりが来るが、広義では、繰り返す。つまり、単体の活動エネルギーが終わることはあっても、細胞分裂に代表されるように、エネルギーは分散されて、また活動を繰り返す。

そもそも、生まれることは、生の繰り返しなのだから、エネルギーがゼロになれば繰り返すことはなくなるわけか。

一番、身近な「自分」を考えてみると、
私が食べることを止めれば、エネルギー活動ができなくなるから死ぬ。
私が子供を産むということをしなければ、私を通しての、生命の循環はなくなる。

などなど、やっぱり、いくら考えてみて、自然の原理で考えると、生まれ出でることは、そもそも、エネルギー活動の循環でしかなく、そこに目的はない。

ただ!!!
生まれることには目的はないが、
生み出すことには目的がある。


などと、朝からくだらないことを考えているのは、
そもそも、私は、何を目的として生きているのかが分からなくなってしまったからなのだが、誰かは言う。「人は人に認められたいがために生きている」と。

確かに、それもそうだろうが、あまり納得できないので、
自然の原理とやらを考えることで、答えが見つかるかと思ったが、そうでもないらしい。

人間は、エネルギー活動を繰り返すだけでは、人間ではないから・・・だと、私は考える。つまり、そこら辺にある動物や草木を食べるだけでは満足せず、火を起こしたり、田畑を耕したり、常に、自ら、自然のエネルギーをコーディネートしながら、新たなものを生み出し、進化することを繰り返してきたからなのかもしれない。というわけで、発展することで、納得する=生きる、ことを、単純なエネルギー活動に加えて行わなければ、生きられない動物なのだ、と思う。

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生きる目的を・・・もっと単純明快にした回答が、やはり、人間であり続けることだとすれば、思考を止めてはいけないような気がしてきました。

そして、私が、仕事をし続ける理由というのは、自分の思考を誰かのそれとコーディネートし、新たな価値を生み出したい、という“性(さが)”からくるものなのかもしれません。それは、仕事以外でもできるのでは??? そうかもしれません。でも、今のところは、私には、それしか見当たらない。

ただ、何を思考して何を生み出すか・・・それが重要なことです。今、それに行き詰っているだけのような気もしています。

と、独り言と前置きはしつつも、己の思考の確認作業を他の誰かと共有することで、確度を高くしたいという欲求は、まぁ、自己中心と言われればそれまでで、一方で、誰かに認められたいのでしょうな。

失礼をば。
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今も、なにをクリエイトすることで自分は満たされるのか、
まったくをもって分からない。

ただ、「出会い」によって導かれ、
「出会い」よって救われている。

感謝。

結構、ファンでした。

2008年11月08日 | モノローグ monologue
ニュースキャスター・筑紫哲也さん、肺がんで死去(読売新聞) - goo ニュース

ファンでした。

たまに行き過ぎるほどに、沖縄が抱える課題を取り上げて下さって、ウチナーンチュの私ですら、過保護すぎやしないか?というくらいに、沖縄を擁護していました。


テレビ朝日が沖縄でも放送されるようになり、
久米宏の番組が放送されるようになるまでの90年代前半まで、
沖縄でニュース、そして、ジャーナリストといえば、
筑紫さんでした。


いつだったか、新宿駅からの中継現場でおみかけし、案外、背が高く素敵な紳士だったことを覚えています。


政治だけでなく文化にも精通し、
思想においてもバランスの取れた言論を展開できる、
ジャーナリストを失いました。

心からご冥福をお祈りいたします。

フィリピンキャンプ97 ~ 涙 ~

2008年01月29日 | モノローグ monologue
2.涙

ある晩、いつものように妹のBettyと弟のMichaelと遊んでいると、顔を赤らめて兄のAlbertが帰ってきた。酔っ払っているようだった。Michaelは、その場を去ったが私とBettyは無視して歌を歌うことにした。「上を向いて歩こう」を歌い始めた時、Albertが急に反応を示した。そして、もう一度歌えと言う。仕方ないから歌えば、彼は、目頭を押さえた。泣いていた。

彼の初めの印象は最悪だった。村に着いたその晩に彼と話したのだが、こちらもイゴロットの話す英語にまだ耳が慣れておらず、何度も、"Pardon?"を繰り返し、単語確認のために辞書を持ち出したら、"高校までしか出ていない俺が英語をこんなに話せるのに、日本の大学生は英語もできない"と笑った。以来、私の”R”の発音をいちいち直そうとするし、終いには、イゴロット語の"-ngang"の発音ができないといっては矯正しようとする。何度、"パチャンガンと言わされただろうか。何度か繰り返すうちにネイティブに近づいてきたらしく、しかし、彼は"OK"ではなく、"Better"としか言わなかった。私も負けじと、"Better is good"切り替えした。

ただ、彼の気持ちも分からなくもない。St.Maryという、地元では有名進学校を卒業したにもかかわらず職はなく(彼曰くStand-by)、かといって普通に農業をすつのはちょっとしたエリート意識が許さないのだろう。しかも、自分より英語ができないらしい日本人が目の前でゲスト待遇で座り、もてはやされ優遇されている。そりゃ、皮肉のひとつも言いたくなるだろう。確かに、話していても私と彼の違いは性と国籍だけで、話す内容にほとんど差はない。なのに、方や大学に行きVacationを外国で優雅に楽しんで、方や願っても村を出られないのは、やはり、たまたま生れ落ちた国の違いに過ぎない。しかし、たったそれだけの違いがこんなにまでも大きいとは・・・この時初めて、なんとなくだが国家権力の差というものを感じた。

―その後、何度か歌わされたが、あの時の彼の涙の真相は、いまだに知らない。

フィリピンキャンプ97 ~ 再会 ~

2008年01月29日 | モノローグ monologue
フロッピー!を整理していたら、昔の文章が出てきた。

読んでいると、
あまりにも初々しく、自分がかわいくなってきた。

おそらく、誰しも人生を揺さぶるような体験をしたことが何度かあるだろう。

「フィリピンキャンプ97」は、若い私を揺さぶった体験の一つ。
自己満足、自己陶酔、自省のため、ブログしておこう。

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1997年7月30日(水)~8月19日(火)
通っていた大学が主催する「フィリピンキャンプ」に参加。
36人の仲間と共に、Mt. Provinceという地方
(ルソン島北部マニラからバスで2日かけて行く)に赴いた。
初めの1日はSagada(サガダ)という村にステイし、
St.Mary Highschoolの生徒たちと交流して過ごす。
同じ日、その後、残り10日を過ごす村が発表された。
私は、ギナァンという村に行くことを告げられた。
約2-3名ずつが10くらいの村に分けられるのだが・・・。

今でこそ、私なりの付き合い方で、
フィリピンと関わることができるようになったけれども、
この時の体験は、数年ほど整理がつかず引きずることとなってしまった。

これは、1997年夏の思い出・・・
21歳の時に感じたままを綴った文章が・・・気恥ずかしさと共に懐かしい。


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■はじめに

春に出会い、
時を重ねるにつれ仲良くなっていった30余人の仲間とともに、いざ出発。
私の興奮は最高潮に達していた。
異常なまでのハイテンションは、
いくら長時間バスに揺られようとも一向に下がる気配はない。
とにかく、うれしくて仕方なかった。
これから先、感じるもの全てが私の好奇心をみたしてくれて、
きっと全てのことは良きに進み、そして終わると信じていた。
「為せば成る何事も」そういう自信があった。
ただまっさらに明るい未来が目の前にはあるはずだった。

しかし、その根拠のない自信はサガダに着いてから少しずつだが崩れていく。
今思えば、その原因は他愛のないことかもしれない。
例えば、部屋に入ると先住民(※)がいらっしゃって、
結局そこで一人では眠れなかったこと。
St.Mary(フィリピン北部地方の進学校)との交流会で、
私に近寄ってくる子どもたちが少なかったこと、etc...
キャンパーと過ごす時の私は、異常なほど陽気だった。
だけど、いざ一人になったり、フィリピン人と交流しなければならない時、
どこか消極的で、何かを怖がっているのが自分でも分かった。
そして、私の恐れは、ギナアンへ向かうジープ二ーの中で最大のものになった。

「あなたは、早く結婚したほうがいいよ」。
ボントック(フィリピン北部の都市)で
それぞれに旅立つキャンパーたちを見送り、しばし寂しさに浸っていると、
Mさんは私にそう言った。
「なぜ、そんなことを言うんですか」と聞けば、
「寂しがりやでしょ」と言う。
すっかり平常心を失った私は感情むき出しのままに反撃し始めた。
だが、それは、本当のことを指摘されたからにすぎず、
確かに、私は、寂しがりやかもしれない。
Sagadaに着いて以来、ふつふつと涌いてきた不安と怖さは
これから未知の世界へ独りさらされようとする、
この旅立ちの瞬間を想定してのものだったことに気づいた。
M氏には、痛いところをつかれたが、言い当てられたという悔しさより、
なぜ、彼に諭されたように言われなければならないのか、不愉快だった。
ただ、本人はいたってそのような気などないらしいのが、
また、私の反逆真をあおった。
急降下…。


1.再会

気持ちが不安定なままジープ二ーを降りたから、
愛嬌のないまま村人の挨拶と視線に応えた。
まるで、品評会の牛だ。
「絶対媚なんて売るものか。私は私だ」。
やけくそだった。
やる気もうせた。
テキトーに過ごそう、
そう心に誓った。

だが、Super Powerは、私を見放さなかった。

私の憧れの人が、かつて、このフィリピンキャンプに参加していたのが、
どうやら、このギナァンに来たらしい!!!
と言うのも、Father(※牧師)の家で見せてもらった写真の中に、
思いがけず、彼の姿を見つけたのだ。

Fatherによれば、ギナァンの隣の集落、マイニットにステイしたらしい。
マイニットとギナァンは歩いて1時間もかからない距離にあることが判明。
そして、彼がマイニットとギナァンを行き来したように
私もそのようにできるとFatherは言ってくれた。
時は違えども、同じ空間に身を置いている・・・それだけで、もう十分だ。

ここでの10日間をちゃんと生きよう。
さっきとは、180度変わって妙にポジティブになった。
どうやら、私は単純系の人間らしい。
それとも、人間が持つ感情の極端と極端は単純なのかもしれない。
急浮上。



※2先住民=壁の落書き。
私が使うことになった部屋は個室だったのだが、
壁には、たくさんに落書きがあって、
例えば”Jason was here!”とか、
インディアン風な男の顔の絵とか・・・。
私は、この壁の男に妙なものを感じてしまったので怖くて部屋に入れなかった。

親知らず、子知らず

2007年11月13日 | モノローグ monologue
ある日①
 親「誰かいい人いないの?」

 子「いない」

 親「寂しくない?」

 子「いや」

ある日②
 親「誰かいい人いないの?早く孫の顔みたいんだけど」

 子「時期尚早」

 親「でも、パートナーはいたほうがいいよ」

 子「だよね」

ある日③
 親「誰かいい人いないの?」

 子「いるよぉ」

 親「あら、どこの誰?何してる人?」

 子「○○で××」

 親「へぇ。まぁ、お友達がいるのはいいことよね」
 子「ねぇ。

 親「まっ、恋愛と結婚は別だし、焦らなくてもね」


面倒くさい。

ので、

「放っておいてください」と伝えたら、

「嫌です」といわれた。

面倒くさい。