『異名編』世に名を馳せたヤクザには異名が付き物だ。
それらを順不同で紹介しよう。
ークマー山口組三代目 田岡一雄組長の若い頃の異名だ。
田岡は、山口組をまたたく間に全国規模の近代組織にした
現代ヤクザの祖とも言うべき人だが、昭和40年頃から
心臓病で入退院を繰り返し、やせ細った為、本人に余り
喧嘩が強いというイメージは無い。
しかし、若い頃は、大柄で喧嘩がめっぽう強くクマの異名
はそこに由来する。
田岡は、昭和12年山口組2代目に逆らって刀を向けて来た
大長八郎と言う男を、一刀のもとに切り殺し、懲役8年の
刑罰を受ける。田岡唯一の長期刑だ。
数々の抗争の末、山口組を全国規模の大組織にした田岡は
晩年誰と会っても温厚な態度を崩さなかったと言われるが
その基盤を作った武闘歴が、田岡の信念によるものと見る
ならば、クマの猛々しさは彼の中に生きていたのだろう。
ージャックナイフの久ー共政会三代目 山田久は広島生まれ。
若い頃は、役所勤めをしていた異色の経歴を持つ。
公務員をしていた頃、広島の繁華街で愚連隊と喧嘩をして
一躍名を上げた。
その当時の異名がジャックナイフの久だった。
ナイフ一本を武器にしていた事から付いたのだが、いかに暴れ
者だったかが、その呼び名で図れる。
凄惨な死闘で、映画の題材にもなった、広島第二次抗争。
共政会の三代目組長を襲名した山田は、持ち前の度胸と統率力
で、やがて四半世紀に及んだこの抗争に終止符を打つ。
以来17年間、ヤクザの組長としては異例にも、肝硬変で
無くなる昭和62年まで、共政会三代目として、その生涯を
全うするのである。
ーお役者政ー住吉連合会総裁 堀政夫 住吉一家五代目の
若き日の異名だ。
戦後、旅回りの一座に居た事から、その名前が付いた。
堀政夫は、大正14年、長崎佐世保市の生まれ。
住吉一家二代目の貸元のひとり、井出六蔵との縁でヤクザ渡世
に身を投じ、見る間に頭角を現し「港会」の役職を歴任、
それから僅か9年後に、住吉一家五代目を就任する。
その時堀は、42歳の若さだった。
昭和40年代から50年代に掛けて、住吉一家は大躍進を果たす
が、それは決して武力制圧の依るものではなく、トップである
堀の侠道姿勢、人となりが求心力になりえたからだ。
他の組織との、平和共存、内政不干渉の姿勢は堀が生涯貫いた
外交方針だった。
昭和63年、各地の系列組織を組み込んだ住吉連合会の総裁と
なり、平成2年肝硬変で死去。
これもまた、稀に見る畳の上での往生であった。
それらを順不同で紹介しよう。
ークマー山口組三代目 田岡一雄組長の若い頃の異名だ。
田岡は、山口組をまたたく間に全国規模の近代組織にした
現代ヤクザの祖とも言うべき人だが、昭和40年頃から
心臓病で入退院を繰り返し、やせ細った為、本人に余り
喧嘩が強いというイメージは無い。
しかし、若い頃は、大柄で喧嘩がめっぽう強くクマの異名
はそこに由来する。
田岡は、昭和12年山口組2代目に逆らって刀を向けて来た
大長八郎と言う男を、一刀のもとに切り殺し、懲役8年の
刑罰を受ける。田岡唯一の長期刑だ。
数々の抗争の末、山口組を全国規模の大組織にした田岡は
晩年誰と会っても温厚な態度を崩さなかったと言われるが
その基盤を作った武闘歴が、田岡の信念によるものと見る
ならば、クマの猛々しさは彼の中に生きていたのだろう。
ージャックナイフの久ー共政会三代目 山田久は広島生まれ。
若い頃は、役所勤めをしていた異色の経歴を持つ。
公務員をしていた頃、広島の繁華街で愚連隊と喧嘩をして
一躍名を上げた。
その当時の異名がジャックナイフの久だった。
ナイフ一本を武器にしていた事から付いたのだが、いかに暴れ
者だったかが、その呼び名で図れる。
凄惨な死闘で、映画の題材にもなった、広島第二次抗争。
共政会の三代目組長を襲名した山田は、持ち前の度胸と統率力
で、やがて四半世紀に及んだこの抗争に終止符を打つ。
以来17年間、ヤクザの組長としては異例にも、肝硬変で
無くなる昭和62年まで、共政会三代目として、その生涯を
全うするのである。
ーお役者政ー住吉連合会総裁 堀政夫 住吉一家五代目の
若き日の異名だ。
戦後、旅回りの一座に居た事から、その名前が付いた。
堀政夫は、大正14年、長崎佐世保市の生まれ。
住吉一家二代目の貸元のひとり、井出六蔵との縁でヤクザ渡世
に身を投じ、見る間に頭角を現し「港会」の役職を歴任、
それから僅か9年後に、住吉一家五代目を就任する。
その時堀は、42歳の若さだった。
昭和40年代から50年代に掛けて、住吉一家は大躍進を果たす
が、それは決して武力制圧の依るものではなく、トップである
堀の侠道姿勢、人となりが求心力になりえたからだ。
他の組織との、平和共存、内政不干渉の姿勢は堀が生涯貫いた
外交方針だった。
昭和63年、各地の系列組織を組み込んだ住吉連合会の総裁と
なり、平成2年肝硬変で死去。
これもまた、稀に見る畳の上での往生であった。