社会になじめない話、救急搬送され精神科・心療内科にかかった話、その後の話、父の話。地雷ある人は気を付けてください。(青文字はポストへの追記。)
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中学の頃、クラスの雰囲気がおかしいことに気付きながらも私が「何でもないです」と言うので、しかし文化祭やら合唱祭やら卒業文集のテーマを「絆」にしてしまい、表面上はその通りの平和を保とうと必死な先生や一部の同級生たちを、涙ぐましいな、ちょっと滑稽だなとは思っていた 。あのクラスに麗しい友情なんてなかったし演出も難しかった、無視され疎まれていた。美術室に置いておいた絵の中央が黒く汚されていたとき、修復は不可能なんだろうと思い知った。まあ直接攻撃はなかったので(無視、避ける程度)、「ふーん」と思いながら、淡々と通っていた。
正直に「私はこういう扱いをされて傷付いている」とは言えなかった。私が傲慢だから、だめな子だからこういう扱いをされている、いなくなればいいと思われている、と思っていたから。一方で、実際に周囲を愚鈍と感じていたのも物言いがきつかったのも確かで、本心でない謝罪?もできなかった。いや、だって、誰に何を謝るの?って。私は間違っていないと思っていたし、無駄にプライドの高い子だった。
多数派が「お前が性格悪いからいじめられるんだ」という空気だったから、「自分が悪いからいじめられる。でも直せない、自分を曲げる方がもっと苦痛」って、表面上は普通に擬態しつつ、生きづらさを感じつつ、大人になった。
大学生の頃初めて友人に話して、「傷付いていたんだね」と言われて、自覚した。私が悪いからあんな目に遭っていた、それで傷付いたと言うなんておかしいと思っていた 。4, 5年たってようやく、自分自身でいじめられていたって事実を認められて、傷付いたと言っていいんだ、傷付いていたんだと分かった。(便宜上、上でも「いじめ」と書いてはいるが、それまでは、いじめではないと思っていたから「何でもないです」だった。無視?されてるみたいだけど、なんか持ち物害されてるけど、直接何かやられてるわけじゃないしなぁって。「絆」を掲げている学年で、そういうことをしている同級生のがどうかしてるとも思っていたし。明るみに出たら先生や親から責められるのは同級生の方だよなって、でも原因は私の性格の悪さだから私まで責められそうで、今でも辛いのにさらになじられるの?って思考もあって、言わない方がマシって結論だった。)
その直後は、いじめっ子を恨む気持ちが強かったけど、私の性格が悪いのも確かだったし、今更仕方ないと思うようになる。でも30前半まで、受けた傷は引きずっていたと思う。
私にとって本当の敵は、悪意を持って向かってくる人間ではなく、仲裁しようと絆やら仲良くすべき、心を開くべきってべき論を持ち出してくる人間だった。「周囲を敵だと思ってる?」思ってるよ、現にお前は私の心に土足で上がっているよ。私は息も絶え絶えだというのに、もっと踏みつけられろなんて。
一方で、もっと上手くやれていれば、こういう思いをしなくて済むんだろうとも思っていた。私が頼りにしていたのは自身の能力だけだった。学校でも会社でも、良い成績を残せば誰も文句を言わない、性格を直せとか思われない、不当な扱いでも「ひがんでるんだ」でスルーできると思ってた。
でも27の時に限界を感じた。いや本当は昔からどこかでそうだろうなと思ってはいたんだけれど、私は愚鈍と思っていた周囲と変わらない、むしろ性格足したらマイナスの、生きている価値のない人間だった。過去のいじめっ子たちが私の存在を許せないと表明したように、許されないんだろうと思った。
まあ覚悟が足りなかったのか、見つかって救急車呼ばれて、1週間はベッドの上だったけど、2ヶ月で復職したけどね!親の元にいるのも苦痛で……。
カウンセリングも受けたけど、孤独感が深まったな……。基本的に「そんなに思いつめるなんて、考え方が間違っている」だったから。
そもそも病院探しから難航。人事からすすめられた心療内科には「企図者は診るが、未遂者は精神科に」と言われ、精神科ってどこ?って相談窓口に。大学病院に電話したら3ヶ月待ち。嘘やろ…って次に町のクリニック(心療内科だと思うが)にかけてみたら、そこは繰り上げですぐ診ると言ってくれたが。
その頃父は会社にカンカンで、「そんな会社やめてしまえ!」って剣幕で。私は生き残ったからには生活しなきゃならない、働かなきゃならない、再就職探すくらいなら、治療して復職した方が簡単、部署なんていくらでもあるだろ(大会社で良かった)というマインドだったので、自分で電話かけて病院探してた。父にはやめろ、休め、って言われたけど、時間を置くほど復帰が難しくなりそうなのを感じていたので、ちょっと血迷っただけで平気です(平気じゃないけど)路線で行こうとしてた。人事は分かっていたのかもしれないけど、診断書等出して規定は満たしたので、飲んでくれた。
実家の方と会社の方の2ヶ所の町のクリニックに行ったけど、カウンセリングを受けるというより診断書をもらうためだったな、うつとは診断されなかった。まあ生活に支障があったのは外傷起因の極低貧血で、視界の暗転やひどい頭痛あったけど、1ヶ月もすれば薬と食事で回復したし。色白通り越してたが。クリニックでも薬を出すか検討するのに採血したんだが、あまりの数字の悪さにびっくりした先生が家に電話してきた、いや、先生、だから10日くらい前に救急搬送されたんだって言ったじゃないですか…。1週間は寝たきりだったって、いや、これは言ってなかったか?(皆勤賞取るくらい体は頑健な生まれ。だから生き残ってしまったんだとも思うが。)
クリニックに行くと、周囲の言うことを全部真に受けなくてもいいんだよという話ではあったと思うんだが、「なんでそんな風に思うかなぁ」とか言われたので、こいつも「周囲を敵と思ってる?」とか言い出す輩かと思って、診断書の件がなければあまり行きたくなかったな…。復職の条件だったから行きましたが。
父が会社(社長)に喧嘩売っていたことが分かって、「いやいや何してるの?!働きづらくなるじゃん!」って、平謝りしつつ異動&復職。実家(地元)にいればいいなんて、あなた、私、中学時代いじめられてるのよ、いくら隣の市に就職すればいいなんて、そっちのが地獄なのよ。会社では自滅しただけだから。
自分に絶望しただけで、会社は特に悪いことはしてな……いやちょっとあくの強い上司はいたけど、向こうも異動したな、大会社で良かった、どこにでも仕事はある。むしろ変なやつが騒いで申し訳なかったという気持ちすらある。就活のとき、他は全部落ちたから、クビにならない限りはいたい気持ちがある……。(就活で1社以外全滅も、メンタルを削るには十分な状況ではあった。相性だろうとも思うけど、結局中学と同じ、自分って世間には受け入れられないんだろうなーって。)受け入れてくれた会社だからこそがんばりたかったけれど、能力の限界を感じて、自分に失望したんだよ。でも父は「会社が悪い!」だからさぁ……。ある意味私よりも私を信じるというか愛してくれている人ではあるが、面倒でさっさと復職したかったのはある。しかしたまに会社の代表番号に父が電凸してくるようになったので、ほんと……ありがたいと思わなきゃいけないんだろうけど、申し訳なさでいっぱいで、神経を削り始める。そうだね、これは私のせいだねって……。
経緯を知っている人間は土足で踏み込んでこなくなって、私も多少他人に優しくなったけど。しばらくは組合活動に巻き込まれたり(今思っても一番向いてないよな、絆とか連帯とか持ち出して来る組織……人がいなかったからなんだけど)、べき論持ち出す友人や、心配する父をいなすストレスフルな数年を過ぎ。
未遂後の数年の方がうつに近かったのではと思う。7年くらいたって、気付けば息がしやすくなってた。組合代議員も(これは2年の任期で)やめたし、フレネミーな友人にはブチ切れて距離を置き、父も落ち着いたし。私には湿度の高い付き合いは向いてないし、自分自身も周囲もそれが許容できるようになった。
今でも私を許せない人間はいるだろうし、私も苦手な人種はいるが、わざわざそれを表明したり何とかしようとしなくてもいいなと。昔は嫌われているのを何とかしたいと思っていたけど、他人は変えられないし自分も変わるのイヤだし。絆?それって私の精神を犠牲にしてまで必要?犠牲にさせる自覚ある?
こう、私を理解したいんじゃなくて、私に理解させたい、折れて受け入れてほしいという思惑が透けて見えるのはなぁ……。たまに会ったときにどうもーとあいさつするくらいがいい、仕事やら何か用事があるなら仕方ないが。
父は自立心旺盛で、世間はバカばっかだし、付いてこれないやつは放っておけというタイプで、子供の頃の私は父が大好きだった(いやまあ今でも結構好きではあるが)、父は頭がいいし何でもできるって。私も父みたいになりたかったんだろうなぁ。大人になって世間にもまれて、父は結構変人というか特異な性格してるなと気付くんだが、父はそれを貫けるくらい、周囲も認めざるを得ないというか諦めるしかないくらい、能力が高いタイプだったんだよ。今でも「俺はこう思うのに、お母さんは全然理解しない」とか「あの制度はこうすべきなのに、何やってんだか」とかちょこっと文句言って、自分で自分が守りたいもの守って、ニュース見ながら「ほれ見たことか~」ってやってる。「なんでみんな、合理的な賢い方法をとらないのか?」が大体の父の疑問なので、「みんな、お父さんみたいに賢くないんだよ。そうは思ってもそうは行動できないのが人間ってもんじゃない?」
父の中には優先順位と、合理的な見通しと計画があり、実行・実現している。田舎に住んでいるせいもあって、世間を当てにしていない。かと言って、60までは勤めていたし、地域の自治会の長みたいなのを(順番で、2年任期で)やっていたこともあるけど、私よりも社交性マシそうなんだよなぁ…。性格は多少クセつよで言葉も強いことあるけど、愛嬌もあって、正直、自由に生きててそれが許されてる感ある。……まあ、母は苦労してるけど……(一番の被害者)(許されてるというか、許さざるを得ないというか……)。
私は父みたいになりたいと思いながら、そうはなれなかったタイプなんだよなぁって。帰省の際、思い出した。
(救急搬送されたのは7月の下旬だった。)
(一番辛かったのは、貧血による頭痛だよ、四六時中血が酸素が足りなくて、頭がギリギリしてた。縫った腕より痛かったと思う。輸血はしなかったので、その後献血できるくらい回復したけど、造血剤や鉄サプリメントやめてからは一般女性になったかな。昔は頑健だったので、定期に400mL献血してた。未遂後は2回に1回は断られるので、そのうちやめてしまったな。)