「ねえ、ゼイン。それ、捨てるの?」
久々に訪れた夫の執務室で、ミゼット=ミルズは遠慮がちに声を発した。視線の先には黒い布が数枚折り畳んで置いてあり、その上には黒塗りの仮面が無造作に折り重なっていた。
「こうなった以上、致し方ないだろう」
「何だか気の毒ね。勝手に悪者にされた挙げ句、捨てられるなんて」
ミゼットはその場にしゃがむと、仮面のひとつを手に取った。前に見たときには不気味だとしか思わなかった鬼の仮面も、今は何だか淋しそうに見える。
「何を今更。オニなんてものは、元来嫌われてなんぼだろう」
「あはは、流石に含蓄があるわね。あなたが言うと、本っ当」
「喧嘩を売っているのかい?」
「まさか、そこまで暇じゃないわよ。やあね、ふはは…」
ツボにはまったのか、ミゼットは笑いを堪えるのに必死だ。
「笑い事で済まされる話ではないことくらい、君にもわかるだろう」
「ごめんって。あ…ねえ、どうせ捨てるなら、もらっても良い?」
「かまわないよ、妙なことに使わない限りは。宴会の余興かい?」
「ええ、そんなところよ」
ゼインが力なく笑い、ミゼットの瞳がキラリと輝いた。
それからしばらく経った、ある休日のことだ。真っ黒い顔に、つり上がった目、口からは二本の牙が飛び出している。言わずと知れた、雪割り祭の鬼たちである。彼らは今、ひとかたまりになって街中を疾走していた。
「あ!オニだ!!」
「まてー!!」
そんな鬼たちを見るや否や、子供たちが一斉に走り出した。子供たちの手には、めいめい真っ赤に熟れたトマトが握られている。
「うわっ!痛った!ていうか、汚な!」
追われているのは子供たちではない。オニ役その一、キール=ダルトンは、にわかに痛む肩をどろどろになったマントの上からさすった。
「痛ってえ!マジかよ、半端ないな」
そしてすぐ隣では、オニ役その二、テイラー=エヴァンズがオニの面の隙間から入ったトマトを拭おうと必死だ。
「二人とも声が大きい」
そんな二人を小声で諌めるのは、オニ役その三、アルベリック=バルマーである。
「なんだよ、優等生」
「ゆ…!別にそんなんじゃないよ」
「優等生だろ?監督生にまでなったんだ」
「そうそう、ジョージア先生のお気に入り」
三人が囁き合う間も、子供たちは次々とトマトを投げてくる。ひたすら逃げ惑っているうちに、どうにか躱せるようになったが、それでも油断すると何発か食らった。
「二人には言われたくない!!だいたい、何だって今更オニをやらなきゃならないんだよ。しかも、設定おかしいし…」
「よくわかんないけど、何か不祥事を起こしたみたいで、いつもどおりには出来ないみたい」
「不祥事って、オニが?」
「みたいだよ。それでミルズ先生に捨てられそうになったのを、うちの上官が拾ってきて、今ココ」
「話が違うよ!子供たちのための慈善活動っていうから来たんだ」
「慈善活動?俺はスゲー美人の頼みだって聞いたぞ」
「どっちも事実だよ…って、うわあぁっ!?」
突然、足元に何かを引っ掛け、キールは大きくバランスを崩した。幸い転倒することはなかったが、体勢を立て直す間にトマトの集中砲火を受けた。
「みんな、オニはここよ!今のうちにじゃんじゃん狙いなさい」
「ちょ…何を?!」
甲高い声に、顔を見るまでもなく上官だと確信する。
「ってか、人を盾にするなよ。おいテイラー!もう、アルまで!」
気づけば、仲間の鬼たちがキールの背後にまわり、巧みにトマトから身を守っている。お陰でこちらはやられ放題だ。
「ちょっとあんたたち、何本気で逃げてるのよ。当たらなければ意味がないでしょう」
「んなむちゃくちゃな…って、うそだろうっ!」
そのとき、視界の端に映ったのは、子供たちにせっせとトマトを補給している教官たちの姿だ。流石にばつが悪いのか、目を合わそうとはしなかった。
「ほら、みんなあと少しよ。悪いオニを懲らしめて頂戴」
「はーい!!」
茫然自失の中、子供たちの無邪気な返事が遠く聞こえた。
おしまい