今日3月11日、東北大震災一周年。成都双流空港ラウンジで上海虹橋行き便を待つ間に、これをメモっている。四川地震から四年、「完全復興なった」宣言もされた蜀の地でこの日にこれをメモっていることに不思議を感じる。東北はあと三年後に「完全復興なった」宣言できるだろうか?
3月3日蘇州を発って蜀(四川)の国を9日間うろついた。巴(重慶)までは足をのばせなかったが、語呂をとって、巴蜀記とした。
先ず、きのうの話から。
3月10日、一週間の蜀の旅を終えて再び成都へ戻ってきた。午後2時、めずらしく晴れ、気温15度。明日は蘇州へもどるが、半日どうするか。
碧峰峡の野生パンダは小雨の中、木に登ってあたりを睥睨していた。濡れそぼって寂寥感さえ感じた。晴れた日のパンダはどうだろうと思いついて、成都大熊猫繁育研究基地へタクシーを飛ばした。交渉で片道80元。80元の元を取ろうと、運転席のとなりにすわって、話しかけてみた。ドライバー、顔はいかついが、けっこうのってきた。
名前は? 。 小平の? そう。 小、生まれは?成都。 歳は? 40。
(娘とおなじだ) 親父はいくつ? 43年生まれ。(ぼくよりふたつ下だ)子供は? 娘が一人、初中二。
向こうからも聞いてきた。
T:どこから来た? 蘇州。 何やってる? 中国語を勉強している。??? 中国人じゃあないの? 日本人。 へえー、地震たいへんだったね、マグニチュード9、四川より大きかった。 よく知ってるね。
T:親父が日本語を勉強していたから、自分も関心をもった。
ぼく:親父は抗日戦争の頃生まれたのに、なんで日本語に関心をもったの?
T:日本もドイツも戦争に負けたのに、なんであんなに早く経済大国になったのだろうと関心をもった。よくTVの外国ニュースを見る。親父も自分も。
車中の話は延々と続く。
T:日本は戦後教育を重視した。毛沢東は文革をやって、その間教育を空白にしてしまった。この差が大きかった。日本の天皇は政治の実権は持っていないが、尊敬されている。毛沢東も天皇みたいになって、政治は周恩来に任せればよかった。
成都のタクシードライバーは実に雄弁。国体の話になったので、こっちも興がのってきた。
ぼく:日本は島国だから万世一系の天皇で今まで来られた。
T:日本にも朝代の交代はあっただろう。 (やつはなんでも知っている)
ぼく:あれは同一民族内の政権交代で、中国のような他民族に征服されての交代ではない。
(つい、そのちがいを説明しようと、以下やや勇み足)
農耕民族の漢族は龍で、狩猟民族の元や満族は鵬だ。龍が長期支配で腐敗すると、外から鵬がやってきて、新しい中国を再生する。しかし、中国には伝統文化という麻薬がある。外から来た鵬もしばらくすると感化されて龍になる。それが腐敗するとまた鵬が来てとってかわる。それでも中国は今日まで欧州のように二十数カ国に分裂せず、一つの国体を保っている。なぜか? 中華思想、孔子だ。老子をとったら、分裂小国家、欧州と同じになっていただろう。
T:そんな話ははじめて聞いた。 フーン。
(少し調子に乗ってしゃべりすぎた。Tは家に帰って、今日日本人がこんなことを言っていたと話すだろうが、親父から「お前、前を見て運転しろ」とどやされるだろう)|
車が止まった。いつのまにか、パンダ基地のゲート前に着いていた。時計を見ると午後3時。
58元払って、入場。目の前にジャッキチェーンが二匹のパンダを抱いてニッの写真。こんなんしたらいくら? 1300元。 パンダは地球スター。
サファリーカーで園内一巡。幼児パンダ、若年パンダ、成年パンダと飼育エリアが分かれている。やはり、人もパンダも幼児のほうがかわいい。生後1年くらいの幼児パンダ園でカメラをまわす。空堀の外に1mくらいの塀をめぐらせた園地で8頭のパンダがぐちゃぐちゃにおりかさなって、なかば遊びで竹を奪い合いながら食っていた。碧峰峡の野生パンダに比べて格段のんびりしている。天気のせいか?環境の違いか?
(ここで、8匹のパンダだじゃれあって、竹を食っている写真と野生パンダが木に登ってぼくを睨んでいる写真を入れたいが、ビデオで撮ってきたので、あとで工夫してみる)
帰りはバスを乗り継いで、都心までもどってきた。1時間半かかったが、出費はしめて6元。途中雑醤麺を食った。不要辣、清淡的。―――なにか物足りない。スーパーに寄って寝酒とつまみを買って宿にもどる。
酒とつまみ:
路易世家白蘭地110ml 4.9元
九塞溝耗牛肉干 50g 5.6元
一風呂浴びて、さて、ブランデーをコップに注ぎ、耗牛をつまむと、とびきりカライ。
パックをよく見ると「麻辣味」。四川入りして以降、すべて「不要辣的!」でとおしてきたのに、最後にとびきりからいツマミを買ってしまった。風呂も浴びたし、いまさらつまみを買いに出るのもおっくなので、ちびちびツマミながらやる。口内がほてって、感覚がなくなる。でも、ツマミに手が出る。結局50g全部食ってしまった。うまかった感が残る。こんなことなら、初めから麻辣の四川料理を敬遠しなければよかった。 あとの祭り。
9日間、オヤッちがう!と思ったこと。やはり同じだ!長江で繋がっているんだからな、と納得したこと、いろいろあり。このメモを頭に、思い出すままに、コメント欄を借りて、ボチボチメモってみる ことにしたい。 z
そんなわけで、巴蜀记は一回やすみ。埋め合わせに、まずいスピーチ原稿をのせときます。悪しからず! z
道家认为:“穿衣服应合乎大自然四季的变化来穿衣,天气冷多穿一点,天气热少穿一点。”
儒家说:“穿衣服要看你的身份与地位,什么身份及何种地位,该穿什么样的衣服就穿什么样的衣服。”
墨家说:“讲究衣服的穿著是一种浪费,穿得简单,甚至破烂的衣服也未尝不好。”
法家说:“何必麻烦,由上面规定,大家都穿一样的制服不就好了吗?”
我呢?回忆我的一生来看,小学,中学,大学都穿制服,因为没有钱买别的,上课,家里都穿制服,不用想想讲究,很轻松很经济。这是法家的想法。
工作时代,我一直穿正经的西装,除了工作还是工作,没有时间穿休闲服装的。地位高了穿了好一些西装。这是儒家的想法。
现在呢?我已经退休了十几年了。没有什么多钱,衣穿也墨家的那样很随便过日子。老实说,这十几年我一件衣服都没买过。这是道家,墨家的想法。
我承认人家有各有各的想法。我老婆的想法是脱离老,儒,墨,法家的看法。她想人生有限,尽量打扮。她强迫我穿她喜欢的打扮。她给我买的服装相当贵。我表面上听她的话,但心里想有点儿不对头。
我本人是一个,怎么说 ,西皮派。没有穿,没有吃的时代长大的。对休十几年后的现在,我把钱都花在酒食,不想花在穿。因为酒食给我一定的满足,反而穿的一点儿也给我满足什么的。
好了,人各有各的喜好,请大家随便享受各自人生的滋味吧!
もう、明日になった。 z
昔から「蜀の犬は太陽に吠える」という。めったに太陽をおがめないので、犬も吠えるらしい。たしかに、九日間で、最終日パンダ基地へ行った日の午後だけ、日が射した。芝生でじゃれるパンダが実に心地よげだった。犬が吠えるのは見なかったが、犬が群れているのは、たくさん見た。蜀の犬はなべて小型。特に脚が短い。日射量が少ないので、骨が伸びないのかも。そういえば、蜀の人もなべて背が低い。昔から「天府の国」といわれ、穀物が豊かな地ではあるが、太陽の恩恵には恵まれない土地である。「蜀の犬は太陽に吠える、蜀の犬は足が短い」と付け加えれば、蜀の日射を更にうまく言い当てたことにならないか。意外だったのは、蘇州と成都はいずれも北緯31.5度と同じ緯度にあるが、成都のほうが、暖かい。蘇州はまだ梅が開花していなかったが、成都では盛りを過ぎていて、玉蘭花(白モクレン)も咲いて、小鳥が群れていた。内陸部にありながら、春のおとづれが早いのは、穀物の育ちに利するのだろう。日射は少なくても五穀は育つ、なぜに犬の脚は短いのか?
CG多用の戦闘シーンは、迫力はあっても、科学技術のにおいがつきまとって、坂妻世代のぼくには、ほんものだけで撮っていた映画がなつかしい。孔明を演じているのは日本人だよというと、クラスがどよめいた。赤壁の戦い自体は、呉の丞相周瑜が活躍して曹操を撃退したのだが、その前段で、劉備、孫権同盟を演出したのが、孔明のてがらであった。208年湖南で戦われた赤壁のころは、劉備はまだ荊州で、蜀に入るのは211年、まだ三国鼎立には間がある。孔明にいたっては、214年になってはじめて蜀に入り、劉備が帝位についたのは白帝城で死(223年)を迎える2年前、ここに初めて昭烈帝を頂く蜀漢の国がスタートした。
さて、孔明。昭烈帝崩御後劉備の子劉禅のもとでひきつづき丞相の任にあり、魏と戦うにあたって「出師の表」をささげて、魏との戦場に赴くが、司馬仲達との戦いの中、五丈原に陣没した。時に孔明53歳。学生時代高歌放吟した土井晩翠の「星落つ秋風五丈原」。孔明伝説「死せる孔明仲達を走らす」など、孔明には男のロマンがただよう。
そんなノスタルジアもあって、成都に入るとすぐに、「武候祠」をおとずれた。劉備の廟に孔明が合祀され、君臣合廟というめずらしい形式をとっている。ただし、白帝城で没した劉備の遺骸は成都に運ばれて、ここ恵陵に埋葬されたが、五丈原に没した孔明の遺骸の行方はしれない。それでも、この廟は孔明が武郷侯であったことから「武候祠」とよばれ、その人気は主君をしのいでいる。来て見て、はじめて知ったのは、孔明がぼくより5cm
背が高いということ。蜀のひとはみな小柄。孔明は、徐州のひと。劉備も幽州のひと。蜀のひとびとは、よそ者を手厚く受け入れるふところがある。杜甫も河南省襄陽のひとだが、蜀に4年住んだだけで、蜀のひとびとにとっては、まるで身内。小柄な邓小平は四川省嘉定の出身だが客家、それでも四川の生んだ巨星。
蜀の諸葛孔明びいきは、英雄崇拝ではなく、判官びいき。九郎判官義経ほどではないにしても、その生涯は実績以上に評価されている。講談「三国志演義」から生まれた悲運の英雄。そう言いながらも、「武候祠」に彫られた「出師の表」をながめていると、1800年前の男たちのロマンにのみこまれ、ときのたつのを忘れた。
两个黄鹂鸣翠柳 一行白鹭上青天
窗含西岭千秋雪 门泊东吴万里船
草堂門前、岷江に泊まっている船は、遠く蘇州から来たのだろうか。草堂の前を流れるのは岷江支流、とても大型船はもやえない。詩人は心象風景をキャンバスに描く。杜甫は、江南に思いをはせている。後に、長江を下り江南へ向かう船中で没する。享年58歳。
杜甫は河南省襄陽のひと、45歳のとき、安禄山が長安を陥し、玄宗皇帝は逃れる途中楊貴妃を失った。これは、白楽天が「長恨歌」に連綿と詠った。杜甫は幽閉されたが、長安が回復したあとの飢饉で、放浪し759年12月に蜀へ入る。「天府」の地はまだ五穀の蓄えがあった。翌760年草堂を結び49歳から51歳まで3年間ここを住まいとした。杜甫がここで詠んだ詩は240余首、全作品の6分の1。
ぼくも蜀入りした翌日草堂を訪ねた。清代に修建された草堂の敷地はひろびろしていて、紅梅、ぼけ、白木蓮が咲き乱れ、小鳥がしきりにさえずっている。興味をひいたのは、長安へ向かう杜甫と長安をおちてきた李白が洛陽で出会う場面の蝋人形。二人とも背が高く、まだ青年。説明版には;二人は一晩呑み明かした。老子と孔子も出会いがあったとされるが、二人の出会いはこれに匹敵する中国史上稀有な偶見とある。李白は少年のころ蜀で生いたったとされ、峨眉山に遊んで「峨眉山月半轮秋,,,,,」の歌を詩作。宋代、蘇州知事もつとめた苏东坡も四川楽山のひと。楽山の苏东坡楼には东坡が硯を洗ったという泉があるが、なぜか酒徳利の中から水が流れ出てくる。
草堂でもうひとつ面白かったのは、現代感覚でデフォルメされた、古代中国詩人9体の彫刻。李白,杜甫はもちろん、苏东坡や屈原もいかにもそれらしい。宋代山東済南の詩人李清照はデフォルメされず、詩人美女ナンバーワンの容姿のまま。 声声慢「乍暖还寒的时候,最难将息。三杯两盏淡酒怎敌他,,,,」彼女の澄んださびしげな声が聞こえてきそうな彫像。
それにしても、詩人に酒はつきもの、李白「酒一斗詩百篇」というが、李清照でさえ「淡酒を二三杯呑んだくらいでは憂さははれない」とのたもう。詩人にあやかって、その晩も呑んだ。蜀にはなぜか黄酒がない。ミニスーパーで色が黄色いので黄酒かと思って買ってきてみたら、52度の白酒だった。酩酊したが、詩は一篇もでてこなかった。
邓小平 1904.8.22—1997.2.19 92岁 四川嘉定人 国家中央军事委员会主席
巴 金 1904.11.25—2005.10.17 100岁 四川成都人 全国政治协商会议副主席
中国作家协会名誉会长
清朝末蜀に生まれ、新中国の成立前夜から改革解放後まで長きに渡って活躍した代表的政治家、作家をあげてみた。みな長寿。巴金に至っては、101才に手が届く。今回、地元で「蜀人長寿」となんどか聞いたが、たしかに。
郭沫若は岷江を見おろす楽山大佛山頂に銅像と記念館があり、生涯の事跡と写真資料も展示されている。日本留学後南昌蜂起に加わり、蒋介石の弾圧を逃れて再び日本に亡命10年の履歴も紹介されている。
邓小平は中国全土に銅像があるが、なぜか成都では見なかった。ぼくの目にとまらなかっただけか。
巴金は7年余前に亡くなったが、その後四川大地震もあり、成都には記念館はなかった。いずれは、何かできるだろう。
33班の漢語課本に马大为が北京の中国現代文学館を参観した日記が載っている。文学館入り口のドアの銅製取っ手は巴金の95才の時の右手の型をとったもので、参観者は握手して離館するようになっている。巴金が87才の時、出身の成都和平街小学校生徒達に向けて“给家乡孩子的信”と題して送った手紙が残っている。 曰く「私はやっとわかってきた、生きることの意味は自分が楽しむことではなく、人のためにつくすことにあるのだ、と。私はもう一度うまれることが出来たら、更に勉強し、更に働き、その命を開花結実させたい」。聞きようによっては「自分は平々凡々と一生を送ったが、87才の今となって思うに、もっともっと勉強して、人のためにつくす働きをしたい。生まれ変わったらぜひそうしたい」と聞こえるが、巴金が人のためになる作品を生涯山ほど残したのは誰でも知っている。この人にしてこのことば。
87才までまだ歳月のあるぼくたちは、生まれ変わらなくてもまだまだ十分時間はある。
めざせ!“大家努力学习,让我们的生命开花结果”。