昭和16年(74年前)の12月8日、真珠湾攻撃が行われ、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発しました。
昭和20年(70年前)の8月15日、玉音放送が行われ、日本は敗戦しました。
しかし、大局的にみれば、大東亜戦争で敗れたのは植民地を失った欧米諸国でした。
タイ国ククリット・プラモード元首相は、以下のように証言しています。
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。
更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。
我々この2つの日を忘れてはならない。」
長い間、欧米諸国の植民地となっていた東南アジア諸国の立場からすれば、
大東亜戦争は、欧米諸国からの独立のキッカケでした。

島田叡(あきら)氏は、兵庫が生んだ「沖縄の島守」として、今でも多くの沖縄県民に慕われています。
当時、県知事は国から任命される仕組みでした。
島田氏に沖縄県知事への打診があったのは昭和20年1月のことです。
彼は、家族と相談することなく即刻承諾しました。
家族からは、大反対されました。
しかし、彼は「俺が断ったら、誰かが死にに行く必要がある。それが判る以上、嫌とは言えん」と家族に言いました。
彼が沖縄県知事に赴任したのは、昭和20年1月31日です。
赴任後は、食糧確保、住民疎開、軍との情報交換など、精力的に働かれました。
そして、昭和20年6月26日に消息を絶ったのち、亡くなったと推定されています。
それから、70年後の平成27年6月26日、顕彰碑建立の序幕式が開催されました。
顕彰碑の費用は、那覇市民らの募金で賄われました。
【参考記事】沖縄戦時の知事 功績たたえ顕彰碑 出身地の兵庫知事ら除幕式出席【産経新聞】

ちなみに、現在、夏の高校野球の予選大会が行われています。
沖縄県大会の優勝チームには「島田杯」が贈られます。
島田叡(あきら)氏が野球部出身であったことから、「島田杯」を贈ることになりました。
このように、島田叡(あきら)氏は、僅か5か月弱の在任期間でありながら、
今でも多くの沖縄県民に慕われております。
昭和20年6月23日未明、日本軍第32軍司令長官の牛島満中将が自決し、沖縄戦が終結しました。
70年前の今日の出来事です。
大東亜戦争の開戦時と沖縄戦が開始された時点を比較すれば、
日本が失った土地は、硫黄島と南洋諸島(サイパン・パラオなど)であり、
日本が占領した土地は、東南アジア(ビルマ・マレーシア・インドネシア)です。
つまり、沖縄戦の開始時点でも、開戦前よりも多くの占領地を抱えていました。
沖縄戦では、内陸部に米軍を誘い込み、洞窟陣地から攻撃することにより、米軍に甚大な損害を与えました。
また、神風特攻隊による上陸支援用の船舶への攻撃も大きな成果を上げていました。
沖縄戦が泥沼化すれば、有利な条件での終戦講和が可能と考えられていました。
沖縄戦は本土決戦の時間稼ぎではなく、大東亜戦争の天王山だったのです。
この事実を学校教育で教えないのは、日教組が中国などの外国に乗っ取られているからです。
だから、我々は、こういった事実をインターネットを通じて拡散していく必要があります。
沖縄戦の全体像は、あまり知る機会がないと思いますので、ザックリ書いてみます。
昭和20年4月1日:沖縄本島西海岸にアメリカ軍が上陸
昭和20年4月3日:アメリカ軍が沖縄本島東海岸に到着。沖縄本島が南北に分断される。
昭和20年4月9日:アメリカ軍が沖縄本島北部を制圧。
昭和20年4月9日:首里防衛ラインの外郭北側で、日本軍がアメリカ軍を撃退。
昭和20年4月23日:アメリカ軍、首里防衛ラインの外郭を突破。
昭和20年5月4日:日本軍、総攻撃を行うが、大失敗に終わる。
昭和20年5月12~18日:シュガーローフの戦い。一週間で11回も主導権が変わる。
昭和20年5月31日:首里城が陥落。日本軍は、陥落前に南部への撤退を開始。
昭和20年6月6日:大田実海軍中将が決別電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打電。
昭和20年6月13日:大田実海軍中将が小禄の海軍司令豪内で自決。
昭和20年6月18日:アメリカ軍最高司令官サイモン・バックナー中将が真栄里の地で視察中に戦死。
昭和20年6月23日:牛島満陸軍中将が摩文仁の地下豪内で自決。沖縄戦の終結。
前回記事の書き忘れです。
(5)日米の最高司令官のうち、先に戦死したのは、アメリカ側であること
・アメリカ軍最高司令官のサイモン・バックナー中将は、昭和20年6月18日、真栄里の地で戦死しています。
・日本軍の牛島満中将は、昭和20年6月23日未明、摩文仁の地下壕内で自決しています。
・僅か5日間の差ですが、アメリカ側の総大将のほうが先に戦死しています。
・アメリカ軍の総大将が、戦死し指揮系統が混乱したことも、住民犠牲者の増大に繋がったのだと思います。
上記しゃは、沖縄県糸満市真栄里の建立されているアメリカ第十軍最高司令官サイモン・バックナー陸軍中将の慰霊碑