第4章高クロム鋼の基礎研究(1):イギリス
§4.1高マンガン鋼の発明者
イギリスの鋼都・シェフィールドが誇る歴史的な発明家として、次の5人の先達を挙げることができる(発明年)。
①ルツボ製鋼法のB.ハンツマン(1740)
②転炉製鋼法のH.ベッセマー(1856)
③タングステンエ具鋼のR.マシェット(1858)
④高マンガン耐磨耗鋼のR.A.ハドフィールド(1882)
⑤刃物用ステンレス鋼のH.ブレアリー(1913)
R.A.ハドフィールドがステンレス鋼史に登場するのは、クロム最高20%にもおよぶ広範囲の鉄クロム合金系について初めて系統的な研究を行ったからである。しかしそのとき、せっかくステンレス鋼成分を手掛けながら掌中の珠に気付かなかったため、発明者の栄誉を逃がしてしまった悲運の人だったからでもある。
RA.ハドフィールドはシェフィールドの専門学校を卒業したとき、名門大学へ進むかあるいは彼の父Robert Hadfie1d(1831-1888)が創業した鋳鋼工場を継くかで悩んだ。結局後者を選び、父から経営者としての訓練を受けながら、参考書を師として金属学の習得に励んだ。
やがて1878年のパリ万国大博覧会に出掛けたRA.ハドフィールドは、テル・ノアール会社[Terr Noire Co.]が展示していたマンガン鋼の研究に強い印象を受けた。それは、炭素鋼にマンガンを添加すると強くかっねばくなるが、2~3%以上に多くなるとかえって脆くなるというものであった。
テル・ノアール会社は高マンガン鋼の研究を断念し、代わりにベッセマーが発明した転炉製鋼法に必要不可欠とされた鏡鉄よりも、さらに脱酸・脱硫効率のよい高マンガン鉄合金の研究に力を注いだ結果、やがて80%マンガンを含むフェロマンガンの開発に成功した。
ハドフィールドはさっそくこれを入手し、純鉄に段階的に添加する一連の実験を開始した。このフェロマンガンは8%の炭素を含んでいたので、得られたマンガン鋼の試料はいずれもマンガン量の1/10前後の炭素を含むことになったが、このマンガンと炭素の比率が偉大な発明を生む鍵となるのである。
ハドフィールドがマンガン鋼の機械的性質を調べたところ、マンガン量が2.75%までは硬さとねばさが改善されるが、2.75~7%の範囲ではガラスのように脆くなり、試料を床に落としただけで砕けてしまった。
ところがさらに7~20%マンガンになると再びねばくなり、また約100ぴCの高温から水冷すると延性が著しく改善されることが分かった。例えばマンガン13.75%,炭素0.85%の鍛造材に'Water-toughened'(水靭法)と呼ばれるこの熱処理を施すと、引張強さが102kg/mm2一伸びが50%という驚異的な機械的性質が得られた。
この史上初のオーステナイト鋼が発明されたのは1882年の秋だったが、工業的に圧延に成功するまで公表は控えられた。やがて1888年の'Institutionof Civi1 Engineers'(土木技師協会)で、まだ30歳に満たない若き技術者ハドフィールドは、マンガン鋼にかかわる二っの講演を堂々と発表し、並み居る聴衆に大きな感銘を与えたのであった。
高マンガン鋼のオーステナイト組織は準安定なため、外力を受けると加工誘起変態を起こしてマルテンサイト組織に変わって硬くなる。鉄道レールのクロッシングや土木・鉱山機械部品を高マンガン鋼でっくると、内部がねばいまま表面が硬化して磨耗しないという、願ってもない特性が発揮されることになる。
高マンガン鋼が開発されてから1世紀以上経った現在でも,“ハドフィールドマンガン鋼"と発明者の名前を付けて呼ばれていることは、この発明がいかに画期的なものであったかを物語っているといえよう。
出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター
§4.1高マンガン鋼の発明者
イギリスの鋼都・シェフィールドが誇る歴史的な発明家として、次の5人の先達を挙げることができる(発明年)。
①ルツボ製鋼法のB.ハンツマン(1740)
②転炉製鋼法のH.ベッセマー(1856)
③タングステンエ具鋼のR.マシェット(1858)
④高マンガン耐磨耗鋼のR.A.ハドフィールド(1882)
⑤刃物用ステンレス鋼のH.ブレアリー(1913)
R.A.ハドフィールドがステンレス鋼史に登場するのは、クロム最高20%にもおよぶ広範囲の鉄クロム合金系について初めて系統的な研究を行ったからである。しかしそのとき、せっかくステンレス鋼成分を手掛けながら掌中の珠に気付かなかったため、発明者の栄誉を逃がしてしまった悲運の人だったからでもある。
RA.ハドフィールドはシェフィールドの専門学校を卒業したとき、名門大学へ進むかあるいは彼の父Robert Hadfie1d(1831-1888)が創業した鋳鋼工場を継くかで悩んだ。結局後者を選び、父から経営者としての訓練を受けながら、参考書を師として金属学の習得に励んだ。
やがて1878年のパリ万国大博覧会に出掛けたRA.ハドフィールドは、テル・ノアール会社[Terr Noire Co.]が展示していたマンガン鋼の研究に強い印象を受けた。それは、炭素鋼にマンガンを添加すると強くかっねばくなるが、2~3%以上に多くなるとかえって脆くなるというものであった。
テル・ノアール会社は高マンガン鋼の研究を断念し、代わりにベッセマーが発明した転炉製鋼法に必要不可欠とされた鏡鉄よりも、さらに脱酸・脱硫効率のよい高マンガン鉄合金の研究に力を注いだ結果、やがて80%マンガンを含むフェロマンガンの開発に成功した。
ハドフィールドはさっそくこれを入手し、純鉄に段階的に添加する一連の実験を開始した。このフェロマンガンは8%の炭素を含んでいたので、得られたマンガン鋼の試料はいずれもマンガン量の1/10前後の炭素を含むことになったが、このマンガンと炭素の比率が偉大な発明を生む鍵となるのである。
ハドフィールドがマンガン鋼の機械的性質を調べたところ、マンガン量が2.75%までは硬さとねばさが改善されるが、2.75~7%の範囲ではガラスのように脆くなり、試料を床に落としただけで砕けてしまった。
ところがさらに7~20%マンガンになると再びねばくなり、また約100ぴCの高温から水冷すると延性が著しく改善されることが分かった。例えばマンガン13.75%,炭素0.85%の鍛造材に'Water-toughened'(水靭法)と呼ばれるこの熱処理を施すと、引張強さが102kg/mm2一伸びが50%という驚異的な機械的性質が得られた。
この史上初のオーステナイト鋼が発明されたのは1882年の秋だったが、工業的に圧延に成功するまで公表は控えられた。やがて1888年の'Institutionof Civi1 Engineers'(土木技師協会)で、まだ30歳に満たない若き技術者ハドフィールドは、マンガン鋼にかかわる二っの講演を堂々と発表し、並み居る聴衆に大きな感銘を与えたのであった。
高マンガン鋼のオーステナイト組織は準安定なため、外力を受けると加工誘起変態を起こしてマルテンサイト組織に変わって硬くなる。鉄道レールのクロッシングや土木・鉱山機械部品を高マンガン鋼でっくると、内部がねばいまま表面が硬化して磨耗しないという、願ってもない特性が発揮されることになる。
高マンガン鋼が開発されてから1世紀以上経った現在でも,“ハドフィールドマンガン鋼"と発明者の名前を付けて呼ばれていることは、この発明がいかに画期的なものであったかを物語っているといえよう。
出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター