ステンレスの豆知識

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ステンレス鋼の発明史(3)

2007-12-24 10:16:41 | ステンレス
第4章高クロム鋼の基礎研究(1):イギリス
§4.1高マンガン鋼の発明者
イギリスの鋼都・シェフィールドが誇る歴史的な発明家として、次の5人の先達を挙げることができる(発明年)。
①ルツボ製鋼法のB.ハンツマン(1740)
転炉製鋼法のH.ベッセマー(1856)
③タングステンエ具鋼のR.マシェット(1858)
④高マンガン耐磨耗鋼のR.A.ハドフィールド(1882)
⑤刃物用ステンレス鋼のH.ブレアリー(1913)
R.A.ハドフィールドがステンレス鋼史に登場するのは、クロム最高20%にもおよぶ広範囲の鉄クロム合金系について初めて系統的な研究を行ったからである。しかしそのとき、せっかくステンレス鋼成分を手掛けながら掌中の珠に気付かなかったため、発明者の栄誉を逃がしてしまった悲運の人だったからでもある。

RA.ハドフィールドはシェフィールドの専門学校を卒業したとき、名門大学へ進むかあるいは彼の父Robert Hadfie1d(1831-1888)が創業した鋳鋼工場を継くかで悩んだ。結局後者を選び、父から経営者としての訓練を受けながら、参考書を師として金属学の習得に励んだ。
やがて1878年のパリ万国大博覧会に出掛けたRA.ハドフィールドは、テル・ノアール会社[Terr Noire Co.]が展示していたマンガン鋼の研究に強い印象を受けた。それは、炭素鋼にマンガンを添加すると強くかっねばくなるが、2~3%以上に多くなるとかえって脆くなるというものであった。
テル・ノアール会社は高マンガン鋼の研究を断念し、代わりにベッセマーが発明した転炉製鋼法に必要不可欠とされた鏡鉄よりも、さらに脱酸・脱硫効率のよい高マンガン鉄合金の研究に力を注いだ結果、やがて80%マンガンを含むフェロマンガンの開発に成功した。

ハドフィールドはさっそくこれを入手し、純鉄に段階的に添加する一連の実験を開始した。このフェロマンガンは8%の炭素を含んでいたので、得られたマンガン鋼の試料はいずれもマンガン量の1/10前後の炭素を含むことになったが、このマンガンと炭素の比率が偉大な発明を生む鍵となるのである。
ハドフィールドがマンガン鋼の機械的性質を調べたところ、マンガン量が2.75%までは硬さとねばさが改善されるが、2.75~7%の範囲ではガラスのように脆くなり、試料を床に落としただけで砕けてしまった。
ところがさらに7~20%マンガンになると再びねばくなり、また約100ぴCの高温から水冷すると延性が著しく改善されることが分かった。例えばマンガン13.75%,炭素0.85%の鍛造材に'Water-toughened'(水靭法)と呼ばれるこの熱処理を施すと、引張強さが102kg/mm2一伸びが50%という驚異的な機械的性質が得られた。

この史上初のオーステナイト鋼が発明されたのは1882年の秋だったが、工業的に圧延に成功するまで公表は控えられた。やがて1888年の'Institutionof Civi1 Engineers'(土木技師協会)で、まだ30歳に満たない若き技術者ハドフィールドは、マンガン鋼にかかわる二っの講演を堂々と発表し、並み居る聴衆に大きな感銘を与えたのであった。

高マンガン鋼のオーステナイト組織は準安定なため、外力を受けると加工誘起変態を起こしてマルテンサイト組織に変わって硬くなる。鉄道レールのクロッシングや土木・鉱山機械部品を高マンガン鋼でっくると、内部がねばいまま表面が硬化して磨耗しないという、願ってもない特性が発揮されることになる。

高マンガン鋼が開発されてから1世紀以上経った現在でも,“ハドフィールドマンガン鋼"と発明者の名前を付けて呼ばれていることは、この発明がいかに画期的なものであったかを物語っているといえよう。



出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター




今更・・・冬のソナタ

2007-12-11 23:03:56 | 私生活
もう何年前になるのだろうか・・・冬ソナが大ブームを博したのは。


NHK総合テレビで5話から観始めた。NHKBS放送は既に終了していて、1~

4話が見たくてレンタルビデオに行くも・・・ない。何時行っても・・・ない。

レンタルが引っ切り無しの状態なのだ。・・・・痺れを切らして、DVD7巻を買っ

てしまった。


「チュサンをみてるとね、急にふうっと吸い込まれる感じがしたの・・・」

田中美里の声はイメージにピッタリだった。・・・実際のチェ・ジュウは以外にも声

が低く、えっ!・・・って感じだった。



もう、2年は見てないだろうか?・・・年末年始の休みに観てみようと思う。



雪のようにあわく消えてしまった・・・あの初恋に・・・まためぐりあえるなん

て・・・



ステンレス鋼発明史(その2)

2007-12-09 12:21:53 | ステンレス
第3章クロムを鉄鋼に合金
§3.1英国の研究からヒント
ヴォークランが18世紀末に“シベリアの赤い鉛"からクロ今を発見して以来すでに20年が過ぎていた。しかし、色鮮やかなクロム化合物の活躍をよそに、脆い金属クロムの利用は全く見向きもされなかった。この深い眠りを目覚めさせたのは、フランスの鉱山技師ベルティェ[PiemBerthier(1782-1861)]が1821年に発表した「鉄および鋼とクロムの合金について」の論文である。

この研究のヒントはイギリスからもたらされたのであった。前年の1820年にロンドンの王立研究所のストダートとファラデーが発表した「改良の目的で行った鋼合金の実験」の論文は直ちにフランス語に翻訳され、間もなく工業奨励協会の集会で討論された。このときベルティェは、ヴォークランが発見したまま利用されていない金属クロムを鉄に合金することを思い付いた。


§3.2「案ずるより生むが易い」
ベルティェはさっそくクロム鉱石と鉄鉱石をいろいろな比率で混合した複合酸化物を用意し、木炭と一緒にルツボに入れて強く加熱したところ、酸化物は完全に還元して金属クロムと鉄との均一な合金ができた。こんにち、ステンレス鋼の主要原料として使用されているフェロクロムの誕生である。このように思いのほか容易にフェロクロムの製造に成功した鍵は、鉄の存在がクロム酸化物の還元を促進するからだった。

ベルティェが用いたクロム鉱石は西インド諸島のサント・ドミンゴ非に近い島から採掘されたもので、36.0%のクロム酸化物を含んでいた。こうして17%クロムを含む高炭素フェロクロムを初めてつくったベルティェは、さらに最高60%クロムの特殊なサンプルも手掛けた。得られた鉄クロム合金はいずれも淡い灰色の輝いた結晶だった。おおむね硬く、脆かった。最も硬いものはダイヤモンドと同じようにガラスに深い疵を付けることができたが、それは乳鉢で細かく砕けるほど甚だ脆かった。というのは多量の炭素を含んでいたからに他ならない。
また、この高炭素フェロクロムは鉄に比べて融けにくく、磁性が弱、,酸によって侵されにくいことが分かった。このような性質はクロム量の多いものほど顕著になることも明らかにされた。
沸騰した王水のような非常に強い酸でも、高クロム鉄合金はわずかに侵されるだけだった。ベルティェは鉄クロム合金の耐酸性を指摘した初めての科学者として、フランスでは“耐酸合金研究の父"とたたえられている。


§3.3クロム鋼の刃物は切れ味抜群
ベルティェはさらに進んで、フェロクロムを母合金として2種類のクロム鋳鋼をつくった。クロム配合量は1.0%と1.5%で分析値は示されていないが、現用の高炭素クロム軸受鋼(炭素~1%,クロム~1%)に近い組成だったろうと思われる。これらをナイフとかみそりに加工したが、どちらも楽に鍛造でき、1%クロム鋼は純粋な鋳鋼よりも加工しやすかったという。

刃物としての生命である切れ味は共に申し分なかった。注目すべきことは、刃物に硫酸を付けて擦ると見事なダマスク模様が現れたことである。模様の中の白い部分はおそらく酸によって反応しない純クロムであろう、とベルティェは考えた。

このようにベルティェは、初めてフェロクロムをつくってその耐酸性を示唆し、さらに1%台のクロム鋼で切れ味鋭い刃物を手掛けた先覚者として忘れられないが、彼の名を高めたのは他にある。

フェロクロムとクロム鋼の論文を発表した1821年に、ベルティェは南フランスのアルルに近いボー村で、アルミナ水化物に富んだ粘土を発見した。地名にちなんでボーキサイトと名付けられたこの鉱石は、やがてアルミニウムの精錬に最適な原料として利用されるようになる。これらの功績によってベルティェは1827年にフランス科学アカデミーの鉱物部会の会員に選出された。


§3.4ファラデーの玉手箱
ベルティェの研究論文を読んだファラデーは、ちょうど貴金属入り合金鋼の大規模実験を進めていたときだったが、急いでクロム鋼の試作を追加し、翌1822年3月に発表した「鋼の合金について」の論文の終わりに書き添えた。
クロム量は1%と3%の2種類で、そのあらましは以下のとおり。

まず、鋼103.7gと純クロム1.0gをルツボに入れて熱風炉で溶解し、ボタン状に凝固させた。このボタンは容易に鍛造できた。硬かったが割れるようなことはなかった。表面を磨いてから希硫酸でマクロエッチしたところ、長く伸びた結晶が現れた。研磨後再び希硫酸で拭いたら、非常に美しいダマスク模様が見られた。
次に103.7gの鋼と3.1gの純クロムを溶解した。このボタンは1%クロム鋼よりも硬かったが、これも純鉄と同じ位の展延性があり、また素晴らしく美しいダマスク模様が得られた。研磨してこの模様を消してから大気中で加熱したところ、元通りの模様が現れた。テンパーカラーによるこのダマスク模様は,淡い黄色から青色まで変化した虹色の実に珍しい外観を呈していた。

このように、クロム鋼はダマスク模様が見事なので刃物として期待されるが、まだ切れ味を試していないのでその価値をいうまでには至っていない、とファラデーは結んだ。なお、原料の金属クロムは’pure'と称するのみで、分析値や製法などについてはコメントされていない。
それから1世紀以上も経ったある日のこと、王立研究所の地下室からファラデー直筆の”鋼と合金"のラベルが貼られた小さな木箱が発見された。この中に79個、合計3,500g余りの試料が入っていたがこれらは元ファラデー学会会長(1914-1920)で、程なく王立研究所所長(1932-1933)となるR.Aハドフィールド[Robert Abott Hadfie1d(1858-1940)の手にゆだねられ、当時の分析技術の粋を駆使して詳細な調査が進められた。

この中のNo.28と32の番号が付けられた試料は、1822年の論文に出ているクロム鋼であったが、No.28は玉虫色を呈していたので、一見して3%クロム鋼と思われた。クロム鋼の試験結果は表3.1のとおりで、クロムの分析値が低目なのは原料の金属クロムの純度が100%でなかったことと、溶解時の酸化ロスによるものであろうと解説されている。


出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター