ステンレスの豆知識

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ステンレス鋼発明史(その1)

2007-10-30 13:42:51 | ステンレス
第1章クロムの発見
§1.1シペリアの赤い鉛
時は1760年代に逆上る。当時、ロシア帝国の新興首都としてまた西欧文化の窓口として、活気溢れるサンクト・ペテルブルク(旧レニングラード)に、プロイセンの鉱山監督官だったレーマン[JohanGott1obLehmann(1719-67)]が化学教授として招かれ、鉱物資源を調査していた。ヴォルガ川左岸に位置するエカテリネンシュタット(現マルクス)に近い、ある製錬所で見付かった赤い色の鉱石を手にしたレーマンが、化学分析のために塩酸に漬けたところ白い粉末[塩化鉛]が沈殿したので、この鉱石は鉛を含んでいるとラテン語の記録を残したのは1766年のことといわれる。

それから数年後の1770年に、“シベリア・ウラル・アルタイ山脈探検隊"のリーダーで博物学者のパラス[PeterSimonPa1las]が、ウラル山脈東麓のエカテリンブルクに程近い鉱山で採掘された赤い鉱石を分析し、鉛のほかに硫黄や砒素などを含んでいると報告した。この粉末は鮮やかな黄土色で、またオイルで練りやすいので、細密画用の絵の具に適しているとパラスが指摘してから、この鉱石は“シベリアの赤い鉛"と呼ばれ、ヨーロッパの芸術家達の間で画材として珍重されるようになった。

採掘された鉱石は、いったん、いかだに載せてオビ川まで下ろし、さらに船に積み替えて北極海沿岸に移し、翌年の短かい夏の間に西ヨーロッパヘと運んだので、時には3年も掛かることがあった。人荷量もわずかだったから価格が高くなるのは当然で、品質の良いものは金と同じ値段で取引されたという。

シベリアの赤い鉛はCrocoite'クロコアイト、和名では'Red Lead Ore'を訳して紅鉛鉱と呼ばれる天然のクロム酸鉛で、純粋な結晶の分子式はPbCr04で示され、一酸化鉛(Pb0)68.9%と無水クロム酸(Cr03)31.1%を含む。

§1.2革命の同志がクロムを発見

クロムの発見者となるヴォークラン[Louis Nico1as Vauque1in(1763-1829)]は、フランスのノルマンディー地方の小作農家に生まれた。幼いころから畑仕事を手伝っていたが、勉強好きな素質が司祭の目に留まり、14歳になってルーアンの薬局で働くことになった。この時ヴォークラン少年の目が初めて化学へと開かれたのであった。

その後ヴォークランはパリの薬局へ移ったが、程なくして著名な化学者フールクロア[Anto㎞e Frangois Fourcroy]の研究室の助手に採用されてから、分析化学者の道を歩むことになった。
やがて1789年を迎える。この夏にフランス革命の火ぶたが切られたが、このころヴォークランの所に"シベリアの赤い鉛"の分析依頼があった。友人の物理学者マカート[L.C.H.Maquait]と共同で分析したところ、鉛のほかに多量の酸素と鉄やアルミナを検出したという。

その後も鉱物学者や化学者らによって赤い鉛の分析結果がいくっか報告されたが、結論はどれもまちまちだった。そこでヴォークランは再び赤い鉛の分析に取り組むことにし、実験を重ねているうちに次の手順で分析したところ、未知の金属を含んでいることを発見した。

まず粉砕した鉱石に炭酸カリウム水を加えて炭酸鉛を除き、次に抽出された黄色の〈クロム酸カリウム〉溶液に塩酸を混ぜたら〈クロム酸の〉結晶が遊離したので、これを大気中で加熱して酸化物に変え、最後に、木炭と一緒に黒鉛ルツボに入れて赤熱したところ、灰色がかった金属の塊が得られた。

やがて1797年の半ばに、『鉱山ジャーナル』誌に「シベリアの赤い鉛とそれに含まれている新しい金属の研究」のタイトルで、ヴォークラン名の研究報告が掲載された。彼の肩書は、鉱山監督官で鉱山学校の化学薬晶管理人となっている。ヴォークランは新発見の金属を"Chrome"と名付けた。

新金属はいろいろな化合物をつくるが、それらはどれも異なった色を呈していることから、鉱物学者アユイ[Rmn Just Hauy]の提案に従って、ギリシャ語で“色"を表す'khroma'にちなんだものという。

ヴォークランは続いて11月に科学アカデミーで白い針状の結晶を示しながら、クロムの性質として、脆く、たいへん融けにくく、また酸に侵されにくいことを報告し、さらに翌1798年早々の『化学年報』誌に、続けて二つの報文を発表して、化学関係者にも紹介した。

ヴォークランがっくった金属クロムが脆かったのは、木炭還元法によったために多量の炭素を含んでおり、一部は“炭化クロム"だった疑いもある。彼はこの砕けやすい金属クロムの工業的用途については、それほど興味を示さなかったといわれる。

ヴォークランがクロムを発見したころのフランスは、まさに世紀末の乱世の最中であった。革命派から同志[Citoyen]と慕われていた彼の名は、ベリリウムに続くクロムの発見によって、フランスの誇る分析化学者としても広く知られるようになっていった。やがて1809年にフールクロアの後を継いでパリ大学教授になっても、ヴォークランは相変わらず寝食を忘れて研究に没頭した。これらの成果は376編に及ぶ膨大な数の研究論文として残されており、まさに“実験の虫"の異名にふさわしい精力的な分析化学者であった。

§1.3一歩遅れたベルリン
ヴォークランから数か月遅れて、彼とは別個に、ドイツの高名な分析化学者クラプロート[Ma111in Heinrich K1aproth(1743-1817)]も「赤いシベリアの鉛から新しく発見された金属について」と題する論文を発表した。

クラプロートはその時、ベルリンの王立砲術専門学校の化学教授であつた。すでに1789年にピッチブレンドからウラン酸化物を、続いて1795年には金紅石からチタン酸化物を発見したばかりでなく、数多の鉱石分析法も創案していた。名誉にこだわらないその人柄とともに、ドイツ分析学界の最高峰として尊敬されていた。

1797年も終わろうとするころ、クラプローはシベリアの赤い鉛のなかに、未知の金属が含まれていることに気付いた。すなわち、鉱石を塩酸で溶かして鉛塩化物を分離し、残りの溶液に炭酸ナトリウムを飽和させたところ、青みがかった金属化合物を得た。クラプロートはさっそくこのサンプルを『化学年報』の編集長に送り、またこの化合物に燐酸塩と棚砂を混ぜて木炭の上で溶融したところビーズ玉状の金属を得たが、赤い鉛の試料が途切れてしまったので、しばらく実験を中断せざるを得なかった。

このため同じころにフランスで研究を進めていたヴォークランに、第1発見者の名誉を譲ることになった。クラプロートが化学者になったいきさつもヴトクランに似ている。幼いころに生家が火災に遭って家運が傾てしまったため、16歳で薬局へ奉公に出され、徒弟として働きながら化学を勉強したのであった。クラプロート名の研究
論文は200編を超え、また1810年にベルリン大学が創立された際には、67歳の高齢にもかかわらず請われて初代化学教授となり、生涯を閉じるまで若い化学者達の教育に尽力した。

§1.4クロム鉄鉱
クラプロートがシベリアの赤い鉛からクロムを発見した1798年に、サンクト・ペテルブルクの宮廷薬剤師だったゲッティンゲン出身の化学者ローヴィツ[Tobias Lowitz]が、北ウラルで採掘された鉄鉱石を分析して多量のクロムを含んでいることを見いだし、この鉱石はクロム酸鉄に違いないと結論したと伝えられる。これはクロマイト[Chromite]と呼ばれ、FeCr204の化学組成からなり、やがてフェロクロムに還元されてステンレス鋼の主原料として使用されることになる。

またこれとほとんど同じ頃に、フランスのヴァール県のガサン近郊でもクロム鉄鉱の鉱床が発見されたといわれる。

第2章貴金属入り合金鋼を研究
§2.1あこがれのダマスカス剣
聖地エルサレム奪還のために、11世紀末から170年余りに亘ってヨーロッパのキリスト教各国から十字軍が派遣された。このとき遠征軍の騎士達は競ってダマスカス剣を土産に持ち帰り、これを帯びることを誇りにしたと伝えられる。類いまれな名剣として知られたダマスカス剣は切れ味が鋭く、しかもしなやかで、波紋あるいはダマスク[damask]と称する日本刀の銃に似た渦状の紋様がその象徴とされた。

ダマスカス剣は当地の刀鍛冶の手でっくられたが、その素材ははるばるインドからペルシャ商人によって運ばれた“ウーツ鋼"を使用したのであった。'wootz'とは南インドのカナラ語で“鋼"を意味する'ukke'から転訛したものといわれ、マイソールやサレムが主な産地だった。

ウーツ鋼の製法はおおむね次のように考えられている。まず、純度の良い鉄鉱石を還元して半溶融状態の粒鉄(ルッペ)をっくり、これを良質の木炭か生木と一緒に耐火粘土製のルツボに入れて加熱する。やがて浸炭反応が進むと融点が降下してルッペが溶融するので、その後に徐冷して鋼塊とした。

さて、イギリスの鋼都・シェフィールドでは14世紀ころから刃物類を生産したといわれるが、素材としては浸炭鋼を充当していた。このつくり方は、耐火粘土製ルツボの底に敷き詰めた木炭の中に、鍛鉄あるいは錬鉄と称する低炭素の鉄棒を置いて加熱し、2週間ほどの長時間にわたって融点直下に保持するものであった。製品は火ぶくれ状を呈していたため“b1ister"(泡鋼)と呼ぱれ、炭素量は表面に多く内部ほど少なかったので品質にむらがあり、選別して使った。

このように鋼は融かすことができないものとされていた常識の壁を破ったのは、オランダ系イギリス人の時計師、ハンツマン[Benjamin Hantsman(1704-1776)]である。時計や錠前用ばねの粗悪な品質に長い間悩まされていたハンツマンは自ら良質の鋼をっくるべく志し、均質化と併せて不純物を除くためには完全に溶融させることが必要であると考えた。そして高い温度が得られる溶解炉の設計、燃料用コークスの選定や耐火性の優れたルツボの製作などの多くの難問をひとつずつ解決した結果、1740年に画期的な“ルツボ鋳鋼法"を開発した。成功の鍵は緑色のガラス粉末をフラックスとして用いることで、これが産業スパイによって盗まれたとも伝えられる。

フランスに押されて斜陽化しつつあったシェフィールドの刃物工業が、ルツポ鋳鋼法によって息を吹き返すことができた。しかし、ルツボ鋼からつくった刀剣はダマスカス製にはまだ太刀打ちできるほどではなかったし、もちろん波紋は見られなかった。ダマスカス鋼の復活には、ルツボ鋼誕生から200年を超す長い年月が必要だった。

§2.2インド鋼に魅せられた刃物商
18世紀に入ってイギリスがインドを植民地化すると、古代インドの鉄鋼に対する関心が急速に高まってきた。なかでも注目されたのは旧デリーのイスラム教寺院の中庭に直立する巨大な鉄の柱、いわゆる"デリーの柱"であり、またダマスカス刀剣の原料とされたウーツすなわちインド鋼であった。

1818年の暮れ近くのこと、ロンドンの刃物師、ストダート[James Stodart(1760-1823)]から王立研究所[Roya1 Institution]にインド鋼の調査が依頼された。ストダートは“外科医用器具、かみそり、その他高級刃物"を製造・販売していたが、彼の扱う刃物は切れ味が素晴らしいぱかりでなく、刃こぼれがしないとの評判が高かった。その理由は、インド鋼を使用していることに加えて、当時ではまだ珍しかった“焼戻し"を、しかも正確な温度管理のもとで実施していたからであるとされた。

ストダートは早くからインド鋼に関心を持ち、1795年にはインド鋼を鍛造してペンナイフを作り、国産のルツボ鋼製品よりも優れていることを示したといわれる。その後ストダートは東インド会社に対して、インド鋼を再溶解して鋼塊を造り、さらに鍛造して輸出するよう提案した。彼自身も輸入インド鋼を再加工して高級刃物の製造販売へと進んでいったが、これに満足することなく、国産のルツボ鋳鋼から良質の刃物を作るべくあれこれと模索を続けた。

しかしその努力も空しく、実を結ぶまでには至らなかった。




出典:井上隆志 ステンレス鋼の発明史 アグネ技術センター