観光ボランティアでガイド講座がありました。
前回11のガイドコースを検討しましたが、今回はその中のひとつを皆で歩いて来ました。
「江戸末期地方文化の発展に業績を残した史跡をめぐるコース」
潮来駅発
本間自準亭跡ー宮本茶村の墓ー潮来の大ケヤキー
素鵞熊野神社ー潮来郷校跡ー七面堂(恵雲寺・えうんじ)ー
二十三夜尊ー河岸めぐり
約二時間半の道程でした。
1.自準亭
本間道悦(ー1697)の診療所。
後に「読み書き・そろばん」「礼儀作法」等教えるようになり、この地域の庶民教育の発祥の地と言っても過言ではない。
本間道悦は近江の出身。
「島原の乱」に出陣(当時15才)するも負傷、医師となり戸田藩の藩医となる。
江戸に出た道悦は俳諧も志し、松尾芭蕉とも親交。
延宝10年(1682)、潮来へ居を構え「自準亭」と名付ける。
貞享4年(1687)、芭蕉が曾良を伴い水郷地方をを遊歴、晩春から晩秋まで滞在している。
長勝寺に石碑。
牛堀・長国寺に墓碑。
2.宮本茶村(1793ー1862)
幼少より聡明で兄の篁村と共に江戸に出て、儒学者・山本北山に学ぶ。
文化9年(1812)、師の死により帰郷。家業の再興に努めるかたわら私塾「恥不若(ちふじゃく」を開く。
文化4年(1807)郡奉行の小宮山楓軒の尽力により設立した延方郷校で、下総の学者・久保木清淵と共に郷党子弟の教育に尽力する。
一方庄屋となって村民を慈しみ、天保7年の大飢饉の際には私財を投じて窮民を救済、同14年には郷士に抜擢される。
弘化元年(1844)、水戸藩主・徳川斉昭の雪冤運動に指導的役割を果たしたと言われ、門閥派に水戸赤沼の獄舎に繋がれる。
嘉永2年(1849)、蟄居が解かれる。
主な著述に「常陸国郷考」等。
明治40年(1907)、正五位を追贈される。
3.潮来の大ケヤキ
天王様として親しまれている素鵞熊野神社の入り口にある。
幹周り8m、高さ14m。推定樹齢500年。
4.素鵞熊野神社
詳しくは潮来・茨城の歴史「おまつりセミナー」
5.潮来郷校跡
潮来第一中学校下。
今年で開校150年。
安政4年1月に武館、9月に文館が開校。
小川・湊郷校と共に天狗党の三大拠点となる。
元治元年9月、天狗党追討に派遣された麻生藩兵の砲火により焼失。
6.七面堂
延方郷校の仮聖堂。恵雲寺境内にあり。
7.二十三夜尊
延方郷校の聖堂。文化年間(1810年代)。
明治11年(1878)、辻有志が買い受け現在地に移築したもの。
本格的な中国式孔子聖堂。
神仏を併せて祀る。
月読尊。勢至菩薩・妙見様・清正公(せいしょこ)様。
外向きに倒立したシャチホコ・放射状丸木垂木等が外から見られる特徴。
内側に入ると、独特の梁屋根支持組木が見られる。
残念ながら何度もリフォームされた為、価値は不明。
茨城県指定文化財
8.河岸めぐり
二十三夜尊の隣にある「硯ノ宮」と「愛友酒造」の間の細い道を行くと、(城米)上米河岸跡に行き当たる。
現在では「舟溜まり」も埋め立てられ、当時の面影は無いが、釣り船だろうかサッパ舟が繋がれ、波に揺られているのが見られた。
東から「上米河岸跡」「仙台河岸跡」「津軽河岸跡」「天王河岸跡」「大門河岸跡」
天王河岸跡には「素鵞熊野神社」の御仮宮。
*鳥居の向いには「磯山源兵衛商店」があり、びっくりしました。
言い伝えの中の人物だとばかり思っていたのに・・・!!
一緒に行った方が教えてくださったのですが、お神輿が出る時は「源兵衛さん」を乗せるんだそうです。
今でも大事な方なんですね!
*潮来市教育委員会発行「潮来市の文化財」
*二十三夜尊のしおり
後ほど写真をup。
※延方郷校について
以前の記事にて「水戸藩により開設された」と書いていたのですが、「郡奉行の小宮山楓軒の尽力により設立した」に改めました。官民一体となって設立した学校を水戸藩が後ほど郷校として認可した、というイメージです。(H24,12,30記)
私が会長の歴史サークルで、先日、潮来の宮本茶村について学習しました。そして、来年、歴史サークル主催の潮来連枝散策を企画することになりました。
12月25日(日)、下見を実施します。下見のコース案を作成する為、ネット検索したら、ぽんたさんのブログが出てきました。
考えているのは、津軽河岸、仙台河岸などの河岸巡り、潮来郷校跡、素鵞熊野神社、遊女の墓、長勝寺、宮本茶村の墓などを歩着たと思います。
このブログは隙間の記事が多いので、私自身そういう事あります
この道々ですと、宮本茶村の墓・潮来郷校跡、そしてちょっと外れますが弁天山のふもとに新しく天狗党関係の石碑が建てられています。
あとはほぼ変わっていないですね
遊女の墓のある西円寺さんは裏口から出て左へ行くと潮来公民館の裏手に出ますので、右に曲がると長勝寺表門です。西円寺さんにお声掛け下さい。