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島崎氏について

2021-07-22 12:09:33 | 潮来・茨城の歴史

「潮来市」HP・潮来の歴史(中世)より

鎌倉、室町時代を通して行方郡内を支配したのは、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)の一族で、行方(後に小高)・島崎・麻生・玉造の地名を苗字とした諸氏は「行方四頭」と呼ばれ、郡内に勢力をふるいました。潮来地方は郡内で最大の勢力を誇った島崎氏の支配下にあり、城跡や菩提寺の大興山長国寺などから、当時の面影をしのぶことができます。
 一方、源頼朝は文治元年(1185年)潮来に海雲山長勝寺を創建して武運長久を祈願しました。そして、元徳2年(1330年)先の執権北条高時が長勝寺に寄進した銅鐘(国重要文化財)の銘文(めいぶん)から、風光明媚(ふうこうめいび)で水上交通の要所として繁栄した当時の潮来の様子が想像されます。
 戦国時代の末期になると、豊臣秀吉の権力を背景にした佐竹氏が次第に勢力をのばし、天正19年(1591年)2月、およそ400年間当地方を支配した島崎氏は、「南方三十三館」と総称された行方・鹿島郡内の諸城館主と共に滅ぼされてしまいました。しかし、佐竹氏の支配も長くは続かず、関ヶ原の戦に勝利した徳川家康によって慶長7年(1602年)秋田へ移封されました。


潮来が主に有名になったのは、東国三社詣でのいわば観光客や文人墨客の訪問で賑わった江戸・元禄時代。水戸藩南領となるまでは天領(幕府の直轄地)でした。とはいえ潮来は水戸から遠く、もとより水戸藩は徳川御三家で江戸常勤でしたので、お殿様がいない土地柄でありました。江戸時代以前には佐竹氏の影がありますが全く馴染みは無く、またその以前は?と調べても「中世の記録は少なくて」と言われてしまい、なかなか詳しくは解りませんでした。それが「島崎城跡を守る会」様の活動により島崎城跡や島崎氏について目にする機会に恵まれました。

 

潮来市HPの紹介にあるように、水上交通の要所であった潮来(光圀公が「潮来」の字を当てるまでは「板久」「板来」)の繁盛の様子は、長勝寺にある銅鐘に『客船夜泊常陸蘇城』と記されています。鎌倉初期より島崎を領地としたという島崎氏としても、水運や(もし取っていたら)津料によりかなり潤っていたという事でしょうか。「海夫注文」によると、島崎氏知行の津としては「しまさきの津」「うしほりの津」が挙がっているそうです。島崎城築城は、一説には応永年間(1394~1426)、十一代成幹の時。※「幹」=「もと」と読みます。

「潮来地方は郡内で最大の勢力を誇った島崎氏の支配下にあり」との文章が気になって、少し調べてみました。中世の潮来に関わっていた勢力には鹿島神宮、行方氏、そして源頼朝、北条得宗の名も見られます。時の権力者にまで注目されていた潮来を、島崎氏が直接統治出来ていたのか、いささか心配になります。

「潮来町史」には、鹿島神宮と行方氏は土地を巡って紛争もある一方、鹿島社の国司の祭りにて同氏が「鹿島大使」を務めるなど相互依存している、「ふるさと牛堀」には、島崎氏は五代時幹・七代高直・九代満幹の時に「鹿島大使」を務めている、とありました。

文治元年(1185年)、源頼朝は潮来に長勝寺を創建、入母屋造り茅葺の仏殿屋根に源氏の常紋・笹竜胆の紋が輝き、(この土地は)鎌倉幕府のものであるとの意思表示のようにも見えますし、元徳2年(1330年)に寄進された銅鐘からは、下総国千葉氏の思惑も透けて見えます。実際、行方氏から北条氏の管轄へとされていた「いたくの津」ですが、「ふなかたの津」も含め、知行者として島崎氏の名があるのは、鎌倉幕府滅亡後の事だそうです。つまり潮来は(鹿島神宮社領は別にして)、行方氏→北条氏の支配から、南北朝時代に島崎氏の支配へと変わって行ったという事でしょうか。この当時、島崎氏は潮来南西部から牛堀に至るまでの勢力を有していた事になるそうです。

その後、島崎氏は大永2年(1522年)永山氏を攻め滅ぼしたのを皮切りに、鹿島氏・玉造氏・麻生氏・小高氏を攻め、「南方三十三館」と称された鹿島・行方両郡に割拠する国人領主で筆頭となりました。尚、南方とは常陸の南方の事、三十三館は実際の館の数ではなく、多いという意味だそうです。

戦国時代後期には島崎氏は佐竹氏に「国人」(地侍)として従属するようになり、天正12年(1584年)の沼尻合戦等にも佐竹氏の一翼を担って参陣しています。豊臣秀吉の小田原征伐の際には、伊達政宗と合戦中だった佐竹義宣と共に遅参、秀吉に馬一匹・太刀一腰を献上しています。仕置きは無かった模様?

しかし、天正18年(1590年)秀吉から常陸国54万石の支配権を認められた佐竹義重は、御礼のための上洛に先立ち、常陸国内の有力な江戸氏・大掾氏の仕置きを重臣たちに命じます。翌年2月、南方三十三館の領主等は太田城にて謀殺され(「南方三十三館の仕置き」)、島崎義幹(安定)は妻の父・小川大和守(佐竹家臣・上小川城主)に預けられ鉄砲で射殺、義幹の子・徳一丸は自殺させられたと言います。城主不在となった島崎城も佐竹氏に攻められ落城、初代高幹(孝幹とも)から十七代義幹まで、400年間続いた島崎氏はこうして滅亡しました。江戸氏攻めにも参陣した島崎氏でしたが、常陸大掾一族として同じ運命を辿りました。

 

島崎城跡近くに残る伝説をひとつ置いておきます。

 

「お投げの松」

城主の義幹が大切にしていた松の銘木があったが落城の際、奥方のお里の方が城外へ投げ捨ててしまった。これが根付いたのが現在東門付近(田園)にある松の古木だという。しかし、昭和40年代の「松枯れ病」に枯れてしまい、現在、三代目の松の木が植えられている。(「島崎城跡登城案内」パンフレットより)

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