ちょっとはやい気もしますが、今日はクリスマスに起こる奇跡の物語、『東京ゴッドファーザーズ』をご紹介。『パーフェクト・ブルー』、『千年女優』に続き製作された、今敏監督によるアニメ作品で、東京の街を舞台にしたメルヘンチックな映画です。
東京に暮す三人のホームレス、初老の男性ギンに元ドラッグクイーンのハナ、そして家出少女の女子高生ミユキの三人はクリスマスの夜にごみ捨て場から赤ん坊を拾う。添えられていたのは出生届と「この子をお願いします」とだけ書かれたメモが一枚、そして駅のコインロッカーの鍵。聖なる夜、名前すら付けられずに捨てられてしまったこの赤ん坊を、三人は「清しこの夜」にちなんで「清子」と命名、ダンボールの家で一夜を過ごす。そして夜が明けた後、ハナは清子のためにを彼女の親を探し出そうと提案する。
今敏監督はいつも見事に観るものを「裏側」の世界に引き込んでしまう。『パーフェクト・ブルー』と『千年女優』はドラマや映画の製作現場といった裏方の世界で物語が進行していくし、登場人物たちの心理の裏側に潜む影の部分が恐怖の連鎖を生んでいくテレビアニメ『妄想代理人』にもこの言葉はしっくりくる。一見見慣れたものを裏側から描くことで作品に帯びるリアリティが、そこにはある。ホームレスである主人公の視点で描かれた本作の舞台である東京の風景などは、まさにそれだ。そしてそんな空気感をで画面を満たしていながらも、日常ではとうてい起こり得なさそうな物語を上手に繰り広げてみせる。それは「ありえない」という非現実感にある程度までのフィルターがかかるアニメという表現ででしかできないことだが、その強弱の加減は至極難しいことのように思える。そういった意味で今敏監督はアニメで「映画」が作れる数少ない表現者といえるだろう。
主軸となる物語だけではない。既視感すら覚えるほどリアルに描かれた東京の姿に、はっと気付くと様々な表現が次々導入される。物語の中盤、ギンが出会うホームレス老人が暮すダンボールの家の周りには、まるでファンタジーの世界から転移してきたような金属製の風ぐるまが無数に回っており、その全てが彼が息を引き取ると同時に静かに動きを止める。まるで絵本の挿絵のような印象だ。そしてその余韻を感じる暇もなく、今度は「年末の大掃除」と言ってホームレス狩りをする若者たちがギンの前に登場し、彼らが振るう暴力が描かれる。画面は横から固定した映像に切り替わり、背景のビルディングの窓の明かりがワンフロア分だけ、ギンが殴られるたびに画面左から消えていく。なじみのない方にはわかりずらいかもしれないが、対戦格闘ゲームの体力ゲージの見立てでろう。ホームレス狩りをゲーム感覚で楽しむ若者の心理は、そこで使用されている場違いに明るいBGMにもあらわれる。続き同時進行する他のエピソードをわずかにはさんで、今度は傷つき倒れたギンの姿が、夜空の星座にかたっどて浮かび上がる。実写映画では浮いた場面になってしまうであろうこれらの表現を様々散りばめ、寓話的な物語の演出として機能させることができるのはもちろんアニメならではの強みである。
単純に心温まる現代の御伽噺として楽しめる映画だが、様々なところに深みもある。特に印象に残ったのはギンが自分の娘の清子(拾った赤ん坊と同じ名前で、そこにも御伽噺的な要素がある)と再会するエピソードだ。ギンはそこで自分の娘が直結婚をむかえる予定であることを知るのだが、その相手の医者は自分と同じくらいの初老の男で面影もよく似ている。直接は触れられないが、娘が男に父の面影を求めていたことは明らかである。家族を捨てホームレスになったギンにとっては再会の喜びとともに、娘が父親の愛に飢えて生きてきたということを改めて思い知る、つらい場面でもある。余韻を長くは引きずらず、映画は物語に戻っていくのだが、題材であるホームレスの一面をリアルにとらえ、映画がもう一つの表情をあらわす場面である。そしてそれがやがて向かえる大団円を、より感慨深いものにもしてくれる。
そして終末にかけてのギアの上げ方は、まさにアニメの本領発揮。こうなれば、後は放っておいてもおもしろい。三人の名付け親に、清子がもたらしてくれる幸せな運命に、思わず拍手で映画は終わる。
東京に暮す三人のホームレス、初老の男性ギンに元ドラッグクイーンのハナ、そして家出少女の女子高生ミユキの三人はクリスマスの夜にごみ捨て場から赤ん坊を拾う。添えられていたのは出生届と「この子をお願いします」とだけ書かれたメモが一枚、そして駅のコインロッカーの鍵。聖なる夜、名前すら付けられずに捨てられてしまったこの赤ん坊を、三人は「清しこの夜」にちなんで「清子」と命名、ダンボールの家で一夜を過ごす。そして夜が明けた後、ハナは清子のためにを彼女の親を探し出そうと提案する。
今敏監督はいつも見事に観るものを「裏側」の世界に引き込んでしまう。『パーフェクト・ブルー』と『千年女優』はドラマや映画の製作現場といった裏方の世界で物語が進行していくし、登場人物たちの心理の裏側に潜む影の部分が恐怖の連鎖を生んでいくテレビアニメ『妄想代理人』にもこの言葉はしっくりくる。一見見慣れたものを裏側から描くことで作品に帯びるリアリティが、そこにはある。ホームレスである主人公の視点で描かれた本作の舞台である東京の風景などは、まさにそれだ。そしてそんな空気感をで画面を満たしていながらも、日常ではとうてい起こり得なさそうな物語を上手に繰り広げてみせる。それは「ありえない」という非現実感にある程度までのフィルターがかかるアニメという表現ででしかできないことだが、その強弱の加減は至極難しいことのように思える。そういった意味で今敏監督はアニメで「映画」が作れる数少ない表現者といえるだろう。
主軸となる物語だけではない。既視感すら覚えるほどリアルに描かれた東京の姿に、はっと気付くと様々な表現が次々導入される。物語の中盤、ギンが出会うホームレス老人が暮すダンボールの家の周りには、まるでファンタジーの世界から転移してきたような金属製の風ぐるまが無数に回っており、その全てが彼が息を引き取ると同時に静かに動きを止める。まるで絵本の挿絵のような印象だ。そしてその余韻を感じる暇もなく、今度は「年末の大掃除」と言ってホームレス狩りをする若者たちがギンの前に登場し、彼らが振るう暴力が描かれる。画面は横から固定した映像に切り替わり、背景のビルディングの窓の明かりがワンフロア分だけ、ギンが殴られるたびに画面左から消えていく。なじみのない方にはわかりずらいかもしれないが、対戦格闘ゲームの体力ゲージの見立てでろう。ホームレス狩りをゲーム感覚で楽しむ若者の心理は、そこで使用されている場違いに明るいBGMにもあらわれる。続き同時進行する他のエピソードをわずかにはさんで、今度は傷つき倒れたギンの姿が、夜空の星座にかたっどて浮かび上がる。実写映画では浮いた場面になってしまうであろうこれらの表現を様々散りばめ、寓話的な物語の演出として機能させることができるのはもちろんアニメならではの強みである。
単純に心温まる現代の御伽噺として楽しめる映画だが、様々なところに深みもある。特に印象に残ったのはギンが自分の娘の清子(拾った赤ん坊と同じ名前で、そこにも御伽噺的な要素がある)と再会するエピソードだ。ギンはそこで自分の娘が直結婚をむかえる予定であることを知るのだが、その相手の医者は自分と同じくらいの初老の男で面影もよく似ている。直接は触れられないが、娘が男に父の面影を求めていたことは明らかである。家族を捨てホームレスになったギンにとっては再会の喜びとともに、娘が父親の愛に飢えて生きてきたということを改めて思い知る、つらい場面でもある。余韻を長くは引きずらず、映画は物語に戻っていくのだが、題材であるホームレスの一面をリアルにとらえ、映画がもう一つの表情をあらわす場面である。そしてそれがやがて向かえる大団円を、より感慨深いものにもしてくれる。
そして終末にかけてのギアの上げ方は、まさにアニメの本領発揮。こうなれば、後は放っておいてもおもしろい。三人の名付け親に、清子がもたらしてくれる幸せな運命に、思わず拍手で映画は終わる。