指導者を育む「学寮」の伝統
「人間」を鍛え「人格」を磨く青春たれ
「おお、世界にその名の轟く学芸の中心地よ!」
十八世紀、ケンブリッジ大学に学んだイギリスの桂冠詩人ワーズワースは、おごそかに母校を讃え謳った。
一九七二年の新緑に輝く五月。私は招請を頂き、七日にケンブリッジ大学、そして十日にオックスフォード大学を、相次いで公式訪問した。
石畳の道。林立する石造りの学寮。遠く中世に源をもつ「学芸の中心地」は、時が止まったような佇まいだった。
だが、キャンパスに一歩、足を踏み入れると、幾百年もの間、学問と格闘しつつ人材を育て上げてきた「教育する意志」がみなぎっている。
これが、「世界の大学への道」の私の第一歩となった。わが創価大学が開学して一年後のことである。
◇
「大学のことを知りたければ、学寮に行くのが一番です。それも突然に」
オックスフォードの首脳はこう語られて、十六世紀創立の学寮クライスト・チャーチに案内してくださった。
急な訪問をお詫びしながら、一つの部屋のドアを叩いた。二人の男子学生が、大慌てで片付けていたが、彼らは、清々しい笑顔で迎えてくれた。共に十九歳という。
古い、質素な部屋。華美な要素は何一つない。冬はさぞかし寒いことだろう。
創価学園や創大の寮生たちのことが、脳裏に浮かんだ。
勉強部屋は共通だが、寝室は別々である。客人に見せるなら、どちらの寝室がましかと協議している二人の姿が微笑ましかった。
親元を離れて、不自由なことも多いに違いない。だが、寮生活で鍛えた人間は強い。どこか光っている。
だからこそ、世界の指導者を育成する多くの機関では、寮生活を課すのであろう。
今、困っていることは何かを尋ねると、学生の一人が「僕が勉強しようとすると、彼が遊び始めるし、彼が勉強している時は、僕が遊びたくなることです」と。
思わず、爆笑が弾けた。
「この机は、チャーチル首相の甥も使っていたんです」
歴史に名を残す先輩たちが同じ部屋で、同じ机を使って勉学に励んだことを、二人は胸を張って語ってくれた。
この誇りこそが、自身を高め、向学と錬磨の青春を生きゆく伝統と薫っているのだ。
◇
カレッジ、つまり「学寮」こそ、“オックスブリッジ”(オックスフォードとケンブリッジを合わせた通称)の不死の心臓部といってよい。
教師と学生が同じ建物で寝食を共にし、深き師弟の交流のなかで学究生活を送る組織体がカレッジであり、これが集まってユニバーシティー(大学)を構成しているのだ。
私が視察したクライスト・チャーチには、卒業生に哲学者ロック、大政治家のグラッドストンらが名を連ねる。同じく訪問したケンブリッジのトリニティ・カレッジは、科学者ニュートンや哲学者ベーコンらの学寮でもあった。
ノーベル賞受賞者は両大学で実に百三十人に及ぶ。
かの詩人ワーズワースは、ケンブリッジに入学した喜びを綴っている。
「この芝生も、幾世代にもわたって数多くの名だたる偉人たちの足下に踏みつけられたかと思えば、感動せずにそこの地面を踏むことはできなかった」
ここに、大学という悠久なる城のロマンがある。
◇
この一九七二年の英国訪問において、私は大歴史家トインビー博士と、二年越し四十時間に及ぶ対談を開始した。
トインビー博士はオックスフォード、ベロニカ夫人はケンブリッジのご出身である。私の両校訪問を、ご夫妻で「わが母校にようこそ!」と、それはそれは喜んでくださった。
「学ぶということは、人間が本来もっている『ヒューマニティー(人間性)』を、より高めていくことである」。トインビー博士は、この点を対談でも強調された。
学問は民衆に奉仕するためにある。真のエリートとは、社会のため、民衆のために、進んで犠牲になれる人だ。それこそ「ノブレス・オブリージュ(高貴な者に課せられる高い義務)」の精神である。
博士の自宅には、二十枚近い写真が大切に飾られていた。戦死した学友たちだと伺った。
「年をとるにつれて、戦争で犠牲となった彼らのことが、一層、強く思い起こされます」
博士の目は潤んでいた。ご自身は、第一次大戦の兵役を免れた。たまたま伝染病に罹っていたからである。
“オックスブリッジ”など名門大学の出身者は、第一次大戦でも、戦死率が大変高かったといわれる。
博士は、生き残った者の責務として、亡くなった友の分までも、学問と平和の探究に打ち込んでこられたように見えた。わが生命を一分一秒もムダにするまい、と。
そこには、生死を超えて結ばれた魂の結合があった。それを育んだのはオックスフォードの学寮であったのだ。
◇
創価教育の父である牧口先生も、戸田先生も、寮生活の意義に鋭く着目されていた。ゆえに私は、学園にも、創大にも、寮をつくった。
寮のなかで、切磋琢磨し、励まし合い、時にぶつかり合いながら歩む青春。そこに、生涯にわたる友情と、不屈の人格が築かれる。教室だけでは学べぬ「人間」そのものを育てる場が寮である。
だが、大学紛争が激化したころ、寮は学生運動の拠点になると批判された。わが創価大学の準備段階でも、寮の建設には、世間に同調した反対論があった。
しかし、寮は創価教育の生命線という、わが信念は揺るがなかった。
今、創大・女子短大には、滝山寮、友光寮、宝友寮、光球寮、白馬寮、太陽の丘クラブハウス、パイオニアホール、桂冠寮、正義寮、創英寮、白萩寮、朝霧寮、陽光寮、香峯寮、桜香寮、朝風寮、香友寮、サンフラワーホール、秋桜寮等がある。
東京学園には、栄光寮、誓球寮、また関西学園には、金星寮、ビクトリー寮がある。
さらに下宿も寮と位置づけられ、東京校には、学伸寮、向日葵寮、歓喜寮、さくら寮、レインボー寮、太陽寮、清蘭寮、希望寮、香風寮、春風寮、光彩寮があり、関西校には、暁寮、白ゆり寮、紫雲英寮、桜寮等がある。みな青春勝利の輝く故郷だ。
そして、アメリカ創価大学では、学寮がキャンパスの一番良い場所に設置されていることに、多くの識者から感嘆の声が寄せられている。
人材は大河の如く
ケンブリッジ大学を訪れたその日、私は、すぐそばの果樹園に立ち寄った。同大の卒業生である詩人バイロンも愛したという場所である。
ちょうど、りんごの花が真っ白に咲いており、甘ずっぱい香りにあふれていた。
すばらしい環境! 私は、創価の人間教育のよりよい環境づくりを心に誓った。
学寮と並び、“オックスブリッジ”の誇るべき学風に、「個人指導制」がある。
指導教官と学生が一対一、あるいは少人数で向き合い、真剣な議論のなかで学問を深めていくのである。
私が懇談したオックスフォードの教授は言われた。
「この伝統は、学生たちに将来いかなる問題に直面しても、的確な判断力と、適切な決断力を発揮できる能力を身に付けさせ、有能な指導者の薫陶に役立っています」
胸に響く言葉だった。私も一対一の戸田大学の個人授業で、師に鍛え抜かれたからだ。
ともあれ「学問への情熱」「民衆奉仕の心」「永遠なる友情」が、オックスフォードとケンブリッジを世界的名門に築き上げたといえよう。
私は、帰国後、創価大学の滝山寮に足を運び、この確信を、わが建学の同志たる学生たちに語り伝えた。
◇
一九八九年の五月、私は、十七年ぶりにオックスフォードの学都に立った。
四百年の歴史を誇るボドリーアン図書館の「終身名誉館友」証を、ニール副総長が見守るなか、ベイジー館長から拝受したのである。
私は謝辞で申し上げた。
――東洋では、一滴の露は大河に投ぜられることで不滅の生命を得るという。図書館も、個々人の英知の営みを永遠性の次元に昇華させゆく精神の大河といえまいか、と。
オックスフォードにはテムズ川が、ケンブリッジにはケム川が流れる。両大学の知性の人材の水流は、「源遠流長」の大河のごとく滔々と尽きることはない。
「余は、全生涯の間、学生であった。今もなお、学生である。余は、正しき主義を学ばんと欲する」
私が青春時代から好きな、オックスフォード大学出身の宰相グラッドストンの言葉である。
※ワーズワースの言葉は『ワーズワス・序曲』岡三郎訳(国文社)。グラッドストンは守屋貫教・松本雲舟著『グラッドストン伝』(三陽堂書店)=現代表記に改めた。
「人間」を鍛え「人格」を磨く青春たれ
「おお、世界にその名の轟く学芸の中心地よ!」
十八世紀、ケンブリッジ大学に学んだイギリスの桂冠詩人ワーズワースは、おごそかに母校を讃え謳った。
一九七二年の新緑に輝く五月。私は招請を頂き、七日にケンブリッジ大学、そして十日にオックスフォード大学を、相次いで公式訪問した。
石畳の道。林立する石造りの学寮。遠く中世に源をもつ「学芸の中心地」は、時が止まったような佇まいだった。
だが、キャンパスに一歩、足を踏み入れると、幾百年もの間、学問と格闘しつつ人材を育て上げてきた「教育する意志」がみなぎっている。
これが、「世界の大学への道」の私の第一歩となった。わが創価大学が開学して一年後のことである。
◇
「大学のことを知りたければ、学寮に行くのが一番です。それも突然に」
オックスフォードの首脳はこう語られて、十六世紀創立の学寮クライスト・チャーチに案内してくださった。
急な訪問をお詫びしながら、一つの部屋のドアを叩いた。二人の男子学生が、大慌てで片付けていたが、彼らは、清々しい笑顔で迎えてくれた。共に十九歳という。
古い、質素な部屋。華美な要素は何一つない。冬はさぞかし寒いことだろう。
創価学園や創大の寮生たちのことが、脳裏に浮かんだ。
勉強部屋は共通だが、寝室は別々である。客人に見せるなら、どちらの寝室がましかと協議している二人の姿が微笑ましかった。
親元を離れて、不自由なことも多いに違いない。だが、寮生活で鍛えた人間は強い。どこか光っている。
だからこそ、世界の指導者を育成する多くの機関では、寮生活を課すのであろう。
今、困っていることは何かを尋ねると、学生の一人が「僕が勉強しようとすると、彼が遊び始めるし、彼が勉強している時は、僕が遊びたくなることです」と。
思わず、爆笑が弾けた。
「この机は、チャーチル首相の甥も使っていたんです」
歴史に名を残す先輩たちが同じ部屋で、同じ机を使って勉学に励んだことを、二人は胸を張って語ってくれた。
この誇りこそが、自身を高め、向学と錬磨の青春を生きゆく伝統と薫っているのだ。
◇
カレッジ、つまり「学寮」こそ、“オックスブリッジ”(オックスフォードとケンブリッジを合わせた通称)の不死の心臓部といってよい。
教師と学生が同じ建物で寝食を共にし、深き師弟の交流のなかで学究生活を送る組織体がカレッジであり、これが集まってユニバーシティー(大学)を構成しているのだ。
私が視察したクライスト・チャーチには、卒業生に哲学者ロック、大政治家のグラッドストンらが名を連ねる。同じく訪問したケンブリッジのトリニティ・カレッジは、科学者ニュートンや哲学者ベーコンらの学寮でもあった。
ノーベル賞受賞者は両大学で実に百三十人に及ぶ。
かの詩人ワーズワースは、ケンブリッジに入学した喜びを綴っている。
「この芝生も、幾世代にもわたって数多くの名だたる偉人たちの足下に踏みつけられたかと思えば、感動せずにそこの地面を踏むことはできなかった」
ここに、大学という悠久なる城のロマンがある。
◇
この一九七二年の英国訪問において、私は大歴史家トインビー博士と、二年越し四十時間に及ぶ対談を開始した。
トインビー博士はオックスフォード、ベロニカ夫人はケンブリッジのご出身である。私の両校訪問を、ご夫妻で「わが母校にようこそ!」と、それはそれは喜んでくださった。
「学ぶということは、人間が本来もっている『ヒューマニティー(人間性)』を、より高めていくことである」。トインビー博士は、この点を対談でも強調された。
学問は民衆に奉仕するためにある。真のエリートとは、社会のため、民衆のために、進んで犠牲になれる人だ。それこそ「ノブレス・オブリージュ(高貴な者に課せられる高い義務)」の精神である。
博士の自宅には、二十枚近い写真が大切に飾られていた。戦死した学友たちだと伺った。
「年をとるにつれて、戦争で犠牲となった彼らのことが、一層、強く思い起こされます」
博士の目は潤んでいた。ご自身は、第一次大戦の兵役を免れた。たまたま伝染病に罹っていたからである。
“オックスブリッジ”など名門大学の出身者は、第一次大戦でも、戦死率が大変高かったといわれる。
博士は、生き残った者の責務として、亡くなった友の分までも、学問と平和の探究に打ち込んでこられたように見えた。わが生命を一分一秒もムダにするまい、と。
そこには、生死を超えて結ばれた魂の結合があった。それを育んだのはオックスフォードの学寮であったのだ。
◇
創価教育の父である牧口先生も、戸田先生も、寮生活の意義に鋭く着目されていた。ゆえに私は、学園にも、創大にも、寮をつくった。
寮のなかで、切磋琢磨し、励まし合い、時にぶつかり合いながら歩む青春。そこに、生涯にわたる友情と、不屈の人格が築かれる。教室だけでは学べぬ「人間」そのものを育てる場が寮である。
だが、大学紛争が激化したころ、寮は学生運動の拠点になると批判された。わが創価大学の準備段階でも、寮の建設には、世間に同調した反対論があった。
しかし、寮は創価教育の生命線という、わが信念は揺るがなかった。
今、創大・女子短大には、滝山寮、友光寮、宝友寮、光球寮、白馬寮、太陽の丘クラブハウス、パイオニアホール、桂冠寮、正義寮、創英寮、白萩寮、朝霧寮、陽光寮、香峯寮、桜香寮、朝風寮、香友寮、サンフラワーホール、秋桜寮等がある。
東京学園には、栄光寮、誓球寮、また関西学園には、金星寮、ビクトリー寮がある。
さらに下宿も寮と位置づけられ、東京校には、学伸寮、向日葵寮、歓喜寮、さくら寮、レインボー寮、太陽寮、清蘭寮、希望寮、香風寮、春風寮、光彩寮があり、関西校には、暁寮、白ゆり寮、紫雲英寮、桜寮等がある。みな青春勝利の輝く故郷だ。
そして、アメリカ創価大学では、学寮がキャンパスの一番良い場所に設置されていることに、多くの識者から感嘆の声が寄せられている。
人材は大河の如く
ケンブリッジ大学を訪れたその日、私は、すぐそばの果樹園に立ち寄った。同大の卒業生である詩人バイロンも愛したという場所である。
ちょうど、りんごの花が真っ白に咲いており、甘ずっぱい香りにあふれていた。
すばらしい環境! 私は、創価の人間教育のよりよい環境づくりを心に誓った。
学寮と並び、“オックスブリッジ”の誇るべき学風に、「個人指導制」がある。
指導教官と学生が一対一、あるいは少人数で向き合い、真剣な議論のなかで学問を深めていくのである。
私が懇談したオックスフォードの教授は言われた。
「この伝統は、学生たちに将来いかなる問題に直面しても、的確な判断力と、適切な決断力を発揮できる能力を身に付けさせ、有能な指導者の薫陶に役立っています」
胸に響く言葉だった。私も一対一の戸田大学の個人授業で、師に鍛え抜かれたからだ。
ともあれ「学問への情熱」「民衆奉仕の心」「永遠なる友情」が、オックスフォードとケンブリッジを世界的名門に築き上げたといえよう。
私は、帰国後、創価大学の滝山寮に足を運び、この確信を、わが建学の同志たる学生たちに語り伝えた。
◇
一九八九年の五月、私は、十七年ぶりにオックスフォードの学都に立った。
四百年の歴史を誇るボドリーアン図書館の「終身名誉館友」証を、ニール副総長が見守るなか、ベイジー館長から拝受したのである。
私は謝辞で申し上げた。
――東洋では、一滴の露は大河に投ぜられることで不滅の生命を得るという。図書館も、個々人の英知の営みを永遠性の次元に昇華させゆく精神の大河といえまいか、と。
オックスフォードにはテムズ川が、ケンブリッジにはケム川が流れる。両大学の知性の人材の水流は、「源遠流長」の大河のごとく滔々と尽きることはない。
「余は、全生涯の間、学生であった。今もなお、学生である。余は、正しき主義を学ばんと欲する」
私が青春時代から好きな、オックスフォード大学出身の宰相グラッドストンの言葉である。
※ワーズワースの言葉は『ワーズワス・序曲』岡三郎訳(国文社)。グラッドストンは守屋貫教・松本雲舟著『グラッドストン伝』(三陽堂書店)=現代表記に改めた。