ジャパンタイムズ 2007年4月12日(木)
第12回(シリーズ最終回)
今年に人って、シカゴ大学にある「世界終末時計」が、五年ぶりに、二分進められた。現在は二三時五五分。人類滅亡を象徴する〝真夜中〟まで、あと五分に迫ったことになる。これは、北朝鮮の核実験や、イランの核開発問題とならんで、環境破壊と地球温暖化の進行が、深刻に受け止められた結果である。
この終末時計が設定された一九四七年の当時、人類の存亡を危うくする最大の脅威は、核兵器であると考えられていた。六十年を経た今、それに加えて、地球環境の問題が、未来に大きな影を投げかけている。もはや「待ったなし」の状況といってよい。
人類の未来に警鐘を打ち鳴らした、ローマクラブの第一次報告書「成長の限界」が発表されたのは、今から三十五年前であった。その三年後、私は、創立者のアウレリオペッチェイ博士とお会いした。
このままでは、二十一世紀は、自然も人間も破壊されて「不毛の地球」となってしまう。だが、世の指導者たちは、未来のことよりも、目先の利益を守ることばかりに汲々としている――。
ペッチェイ博士の憂慮は、誠に深かった。
この事態を打開するためには、どうすればよいのか。博士と私の意見は一致した。
「人間自身の革命が、まず何よりも必要である」と。
人類は、これまで幾たびも、革命的な変化を起こしてきた。農業革命、科学革命、産業革命、そして政治革命――。ただし、それらは、いうならば、人間と社会の外形的な変化であった。
「外なる世界」を操作する技術と力においては、飛躍的な発達を遂げてきたにもかかわらず、そうした力に見合うだけの精神的な跳躍を、人類はいまだに果たせていない。だからこそ、その巨大な力に翻弄され続けてきたのだ。
たしかに、長年にわたって、人類が獲得を目指してきたのは、生き延びるために物質的な必要を充足させることであったといってよい。しかし、「大地はすべての人々の必要を満たすが、すべての人々の貪欲を満たしはしない」(マハトマ・ガンジー)。
人間の際限のない〝貪欲〟を原動力とするならば、物質主義の文明は人間のコントロールを離れ、人類は、地球という自らの依って立つ基盤すら浪費し、破壊してしまいかねまい。
端的に言えば、人間のすべての営みは「幸福」の実現のためにある。その「幸福」を追い求めながら、かえって「不幸」へと転落してしまうのは、なぜであろうか。
それは、本当の幸福でないものを幸福と見誤って追い求めるからであるといっても、決して過言ではあるまい。
「欲望の追求」と「幸福」とは違う。
もしも同じであると考えるなら、ソクラテスが譬えた「痒いところを掻き続けながら過ごす一生」が、幸福な人生となってしまうであろう。
ゆえに、快楽のみを追求する生き方から、より高次元の目標へと上昇していかないかぎり、本当の幸福をつかむことはできない。それは、より多くを所有することよりも、わが心の世界を、より豊かに、より大きくしていく道である。
「幸福」とは「充実」である。人間は自身のみならず、他の人々の幸福をも追求しゆくときに、いっそう深き充実をつかめるものだ。この〝自他共の幸福〟を目指す生き方こそ、「人間と人間」そして「人間と自然」の共生を実現する道ではないだろうか。
大乗仏教には、そうした人間像を求めて、「菩薩」が登場する。菩薩とは、自らの救いだけを追求するのではなく、自己の救済を差し置いてでも、悩める人々を救おうと、勇敢に行動する人々である。
菩薩にとって、他者に尽くすことは、そのまま自身の成長となり、喜びとなる。「自利」と「利他」は一体である。いな、利他なくして、真の自利もないのだ。
菩薩は地獄の苦しみを味わうことよりも、「利他の心」を忘れ去ることを恐れる。なぜならば、それは自らの存在意義を失うことを意味するからだ。
菩薩と言っても、特別な人間を指すのではない。どんな人間にも、本来、貴き「菩薩の心」が具わっている。そう見るのが仏法の知見であり、生命観である。ゆえに、いかなる宗教や文化を背景にした人であれ、他者のために献身する人は、皆、「菩薩」なのだ。
他者に尽くすことは、誰にでもできる。どんな境遇にあってもできる。特別の肩書きも立場も、必要ない。菩薩道とは、わかりやすく言えば「人を励ます生き方」である。それも、自分が傷つかない高みから、人々を励ますのではない。自らも苦悩の真っ只中に飛び込み、社会の汚濁に身をさらしながら、それでもなお生命の輝きを発光させ、人々に勇気と希望を贈っていく人生である。
その中でこそ、人間は、この世に生を受けた意味をつかみ、尽きせぬ幸福と歓喜に満たされる。自分中心の生き方から、他者に貢献する生き方への転換――。これこそが「人間革命」だ。
人類が直面する危機の深刻さを直視しつつも、私は、いわゆる「終末思想」には与しない。恐怖に追い立てられてではなく、希望に導かれてこそ、人間は正しく前進していけると信ずるからだ。
「人間革命」こそ、希望のキーワードである。それは、万人に開かれた主体的な革命だ。一人の犠牲者も出さない革命といってよい。その変化の波は、一人から一人へと伝わり、拡大し、ある一点にまで到達したとき、劇的に地球社会を変革するであろう。それは「今、ここから」――すなわち、私たち一人一人の心の中から始まる革命なのだ。(以上)
第12回(シリーズ最終回)
今年に人って、シカゴ大学にある「世界終末時計」が、五年ぶりに、二分進められた。現在は二三時五五分。人類滅亡を象徴する〝真夜中〟まで、あと五分に迫ったことになる。これは、北朝鮮の核実験や、イランの核開発問題とならんで、環境破壊と地球温暖化の進行が、深刻に受け止められた結果である。
この終末時計が設定された一九四七年の当時、人類の存亡を危うくする最大の脅威は、核兵器であると考えられていた。六十年を経た今、それに加えて、地球環境の問題が、未来に大きな影を投げかけている。もはや「待ったなし」の状況といってよい。
人類の未来に警鐘を打ち鳴らした、ローマクラブの第一次報告書「成長の限界」が発表されたのは、今から三十五年前であった。その三年後、私は、創立者のアウレリオペッチェイ博士とお会いした。
このままでは、二十一世紀は、自然も人間も破壊されて「不毛の地球」となってしまう。だが、世の指導者たちは、未来のことよりも、目先の利益を守ることばかりに汲々としている――。
ペッチェイ博士の憂慮は、誠に深かった。
この事態を打開するためには、どうすればよいのか。博士と私の意見は一致した。
「人間自身の革命が、まず何よりも必要である」と。
人類は、これまで幾たびも、革命的な変化を起こしてきた。農業革命、科学革命、産業革命、そして政治革命――。ただし、それらは、いうならば、人間と社会の外形的な変化であった。
「外なる世界」を操作する技術と力においては、飛躍的な発達を遂げてきたにもかかわらず、そうした力に見合うだけの精神的な跳躍を、人類はいまだに果たせていない。だからこそ、その巨大な力に翻弄され続けてきたのだ。
たしかに、長年にわたって、人類が獲得を目指してきたのは、生き延びるために物質的な必要を充足させることであったといってよい。しかし、「大地はすべての人々の必要を満たすが、すべての人々の貪欲を満たしはしない」(マハトマ・ガンジー)。
人間の際限のない〝貪欲〟を原動力とするならば、物質主義の文明は人間のコントロールを離れ、人類は、地球という自らの依って立つ基盤すら浪費し、破壊してしまいかねまい。
端的に言えば、人間のすべての営みは「幸福」の実現のためにある。その「幸福」を追い求めながら、かえって「不幸」へと転落してしまうのは、なぜであろうか。
それは、本当の幸福でないものを幸福と見誤って追い求めるからであるといっても、決して過言ではあるまい。
「欲望の追求」と「幸福」とは違う。
もしも同じであると考えるなら、ソクラテスが譬えた「痒いところを掻き続けながら過ごす一生」が、幸福な人生となってしまうであろう。
ゆえに、快楽のみを追求する生き方から、より高次元の目標へと上昇していかないかぎり、本当の幸福をつかむことはできない。それは、より多くを所有することよりも、わが心の世界を、より豊かに、より大きくしていく道である。
「幸福」とは「充実」である。人間は自身のみならず、他の人々の幸福をも追求しゆくときに、いっそう深き充実をつかめるものだ。この〝自他共の幸福〟を目指す生き方こそ、「人間と人間」そして「人間と自然」の共生を実現する道ではないだろうか。
大乗仏教には、そうした人間像を求めて、「菩薩」が登場する。菩薩とは、自らの救いだけを追求するのではなく、自己の救済を差し置いてでも、悩める人々を救おうと、勇敢に行動する人々である。
菩薩にとって、他者に尽くすことは、そのまま自身の成長となり、喜びとなる。「自利」と「利他」は一体である。いな、利他なくして、真の自利もないのだ。
菩薩は地獄の苦しみを味わうことよりも、「利他の心」を忘れ去ることを恐れる。なぜならば、それは自らの存在意義を失うことを意味するからだ。
菩薩と言っても、特別な人間を指すのではない。どんな人間にも、本来、貴き「菩薩の心」が具わっている。そう見るのが仏法の知見であり、生命観である。ゆえに、いかなる宗教や文化を背景にした人であれ、他者のために献身する人は、皆、「菩薩」なのだ。
他者に尽くすことは、誰にでもできる。どんな境遇にあってもできる。特別の肩書きも立場も、必要ない。菩薩道とは、わかりやすく言えば「人を励ます生き方」である。それも、自分が傷つかない高みから、人々を励ますのではない。自らも苦悩の真っ只中に飛び込み、社会の汚濁に身をさらしながら、それでもなお生命の輝きを発光させ、人々に勇気と希望を贈っていく人生である。
その中でこそ、人間は、この世に生を受けた意味をつかみ、尽きせぬ幸福と歓喜に満たされる。自分中心の生き方から、他者に貢献する生き方への転換――。これこそが「人間革命」だ。
人類が直面する危機の深刻さを直視しつつも、私は、いわゆる「終末思想」には与しない。恐怖に追い立てられてではなく、希望に導かれてこそ、人間は正しく前進していけると信ずるからだ。
「人間革命」こそ、希望のキーワードである。それは、万人に開かれた主体的な革命だ。一人の犠牲者も出さない革命といってよい。その変化の波は、一人から一人へと伝わり、拡大し、ある一点にまで到達したとき、劇的に地球社会を変革するであろう。それは「今、ここから」――すなわち、私たち一人一人の心の中から始まる革命なのだ。(以上)