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聖教新聞に学ぶ

日々の聖教新聞から人間学を学ぶ

「人間革命――他者に貢献する人生への転換」

2007-05-11 17:05:10 | その他
ジャパンタイムズ 2007年4月12日(木)

第12回(シリーズ最終回)

今年に人って、シカゴ大学にある「世界終末時計」が、五年ぶりに、二分進められた。現在は二三時五五分。人類滅亡を象徴する〝真夜中〟まで、あと五分に迫ったことになる。これは、北朝鮮の核実験や、イランの核開発問題とならんで、環境破壊と地球温暖化の進行が、深刻に受け止められた結果である。

この終末時計が設定された一九四七年の当時、人類の存亡を危うくする最大の脅威は、核兵器であると考えられていた。六十年を経た今、それに加えて、地球環境の問題が、未来に大きな影を投げかけている。もはや「待ったなし」の状況といってよい。

人類の未来に警鐘を打ち鳴らした、ローマクラブの第一次報告書「成長の限界」が発表されたのは、今から三十五年前であった。その三年後、私は、創立者のアウレリオペッチェイ博士とお会いした。

このままでは、二十一世紀は、自然も人間も破壊されて「不毛の地球」となってしまう。だが、世の指導者たちは、未来のことよりも、目先の利益を守ることばかりに汲々としている――。

ペッチェイ博士の憂慮は、誠に深かった。

この事態を打開するためには、どうすればよいのか。博士と私の意見は一致した。
「人間自身の革命が、まず何よりも必要である」と。

人類は、これまで幾たびも、革命的な変化を起こしてきた。農業革命、科学革命、産業革命、そして政治革命――。ただし、それらは、いうならば、人間と社会の外形的な変化であった。

「外なる世界」を操作する技術と力においては、飛躍的な発達を遂げてきたにもかかわらず、そうした力に見合うだけの精神的な跳躍を、人類はいまだに果たせていない。だからこそ、その巨大な力に翻弄され続けてきたのだ。

たしかに、長年にわたって、人類が獲得を目指してきたのは、生き延びるために物質的な必要を充足させることであったといってよい。しかし、「大地はすべての人々の必要を満たすが、すべての人々の貪欲を満たしはしない」(マハトマ・ガンジー)。

人間の際限のない〝貪欲〟を原動力とするならば、物質主義の文明は人間のコントロールを離れ、人類は、地球という自らの依って立つ基盤すら浪費し、破壊してしまいかねまい。

端的に言えば、人間のすべての営みは「幸福」の実現のためにある。その「幸福」を追い求めながら、かえって「不幸」へと転落してしまうのは、なぜであろうか。
それは、本当の幸福でないものを幸福と見誤って追い求めるからであるといっても、決して過言ではあるまい。

「欲望の追求」と「幸福」とは違う。

もしも同じであると考えるなら、ソクラテスが譬えた「痒いところを掻き続けながら過ごす一生」が、幸福な人生となってしまうであろう。

ゆえに、快楽のみを追求する生き方から、より高次元の目標へと上昇していかないかぎり、本当の幸福をつかむことはできない。それは、より多くを所有することよりも、わが心の世界を、より豊かに、より大きくしていく道である。

「幸福」とは「充実」である。人間は自身のみならず、他の人々の幸福をも追求しゆくときに、いっそう深き充実をつかめるものだ。この〝自他共の幸福〟を目指す生き方こそ、「人間と人間」そして「人間と自然」の共生を実現する道ではないだろうか。

大乗仏教には、そうした人間像を求めて、「菩薩」が登場する。菩薩とは、自らの救いだけを追求するのではなく、自己の救済を差し置いてでも、悩める人々を救おうと、勇敢に行動する人々である。

菩薩にとって、他者に尽くすことは、そのまま自身の成長となり、喜びとなる。「自利」と「利他」は一体である。いな、利他なくして、真の自利もないのだ。

菩薩は地獄の苦しみを味わうことよりも、「利他の心」を忘れ去ることを恐れる。なぜならば、それは自らの存在意義を失うことを意味するからだ。

菩薩と言っても、特別な人間を指すのではない。どんな人間にも、本来、貴き「菩薩の心」が具わっている。そう見るのが仏法の知見であり、生命観である。ゆえに、いかなる宗教や文化を背景にした人であれ、他者のために献身する人は、皆、「菩薩」なのだ。

他者に尽くすことは、誰にでもできる。どんな境遇にあってもできる。特別の肩書きも立場も、必要ない。菩薩道とは、わかりやすく言えば「人を励ます生き方」である。それも、自分が傷つかない高みから、人々を励ますのではない。自らも苦悩の真っ只中に飛び込み、社会の汚濁に身をさらしながら、それでもなお生命の輝きを発光させ、人々に勇気と希望を贈っていく人生である。

その中でこそ、人間は、この世に生を受けた意味をつかみ、尽きせぬ幸福と歓喜に満たされる。自分中心の生き方から、他者に貢献する生き方への転換――。これこそが「人間革命」だ。

人類が直面する危機の深刻さを直視しつつも、私は、いわゆる「終末思想」には与しない。恐怖に追い立てられてではなく、希望に導かれてこそ、人間は正しく前進していけると信ずるからだ。

「人間革命」こそ、希望のキーワードである。それは、万人に開かれた主体的な革命だ。一人の犠牲者も出さない革命といってよい。その変化の波は、一人から一人へと伝わり、拡大し、ある一点にまで到達したとき、劇的に地球社会を変革するであろう。それは「今、ここから」――すなわち、私たち一人一人の心の中から始まる革命なのだ。(以上)

いのち輝く「長寿社会」を

2007-04-23 11:41:26 | その他
こころの探究  池田 大作  神奈川新聞  070326

「一日の命は全宇宙の宝よりも尊い」―。
これは、鎌倉時代、一人の女性が大切にしていた師の教えである。その女性は、この哲学を励みとして、姑の介護をし、自らの病気とも戦いながら、長く価値ある人生を生き抜いていった。
寿命とは「命を寿ぐ」と書く。高齢社会は、本来、皆で寿ぐべき「長寿社会」なのである。
この長寿社会にあって、生涯、若々しさを保ち続けるには、何が大切だろうか。
大歴史家トインビー博士の「若さの源泉」は明快であった。それは「次の世代のことに関心を持って、未来のために何らかの行動を起こしていくこと」である。
博士が、青年のような息吹で私と対談を開始されたのは、八十三歳の時であった。
今年は「二〇〇七年問題」と言われ、「団塊の世代」が定年退職し始める。日本の大発展を大きくリードしてくれた、この世代の熱と力は、あまりにも尊い。そのパワーは、これからの新しい未来を建設しゆく希望の活力である。
各地で、団塊の世代の軸足を「会社」から「地域社会」へと転換していく試みも模索されている。
先日の神奈川新聞でも、横浜市の中区で行われた「団塊世代の地域への取り組みを考える公開講座」の模様が報道されていた。
泉区では「団塊世代パワーのいずみ事業」、金沢区では「地域デビュー支援プラン」など、趣向を凝らした企画が活発に組まれている。
川崎商工会議所が推進する人材活用の支援事業は、「達人倶楽部」と銘打たれているとうかがつた。「達人」という名称に込められた敬愛の響きに、私は共鳴を覚えた。
私も、定年を迎えられた方をはじめ、はつらつと地域に貢献する友人たちの集いに「太陽会」の愛称を贈ったことがある。太陽のように明るく人々を照らし、そして太陽のように荘厳に人生を総仕上げしゅく晴れ姿に、心からの敬意を表してである。
「人生に定年なし」である。智慧に老化はない。むしろ年齢とともに、いぶし銀の光を放っていくのが、智慧の真価である。
生活のちょっとした智慧も大事だ。「前向きで肯定的な言葉を使う」「あきらめの言葉は使わない」などの心がけも、その一つであろう。

栄光の「3・16」完勝の王者の舞を!

2007-03-15 09:34:28 | その他
大白蓮華 3月号  巻頭言  2007年3月

栄光の「3・16」完勝の王者の舞を!   創価学会名誉会長 池田大作

三月の一六日のこの佳き日に
同志は忘れじ創価の歴史を

「原点の日」を大切にする団体は強い。いかなる時代の転変にも流されず、常に春のごとく新鮮な活力に満ちて、再生し発展できるからだ。
「3・16」それは―――
「広宣流布の闘魂」を継承する日である。
「正義の王者の誇り」に奮い立つ日である。
「師弟不二の完勝」へ出発する日である。

あの日あの時、わが師・戸田城聖先生は師子吼なされた。「創価学会は宗教界の王者なり」と。それは、七十五万世帯の妙法流布の願業を成就なされた偉大な師の大勝利宣言であった。

御聖訓には、「天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり」(1422㌻)と仰せである。

王者の富士のごとく、何があっても微動だにしない。何ものも恐れず、広宣流布の大遠征へ舞いゆく王者の宝冠が、弟子に授けられたのだ。

「戸田の弟子ならば、みな師子王の子だ。師子は、鍛えれば鍛えるほど、逞しくなるのだ!」

式典それ自体が、最後の薫陶であり、訓練となった。一切の責任を担ったのは、私である。

殉教の決意で恩師を護らむと血潮は燃えたる偉大なこの日よ

稲妻のような緊急の伝達に、「いざ!」と勇み集った闘士は六千名。私と心を一つに、真剣な青年たちが絶対無事故の運営に臨んでくれた。

今、創価班、牙城会、白蓮グループ、さらに音楽隊、鼓笛隊の友らに厳然と脈打つ学会精神である。

万年の正法流布の世界をば見つめて指揮とる誉れの佳き日か

式典に、時の首相の出席はなかった。「大梵天王・帝釈等も来下して」(1022㌻)との法理の上から、「広宣流布の模擬試験」を思い立たれた戸田先生は慨嘆された。中国の周恩来総理やインドのネルー首相などにも聖教新聞を贈呈し、友好を願われていた師である。

この恩師の心を体して、私は人類の恒久平和へ、全世界の指導者と信義の対話を繰り広げてきた。今や、各国の多くの元首や首脳の方々を、創価の大城にお迎えする時代が到来したのだ。

「3.16」は、世界の各地で祝賀されている。アメリカ南東部の中心・アトランタ市でも・創価の平和・文化・教育の貢献を讃えて、「SGI(創価学会インターナショナル)世界平和の日」として宣言してくださった。

アトランタは、人権闘争の大英雄・キング博士の故郷である。博士は、私たち草創の青年部と時を同じくして、嵐のような拡大を巻き起こしていった。その胸には、最も困難な場所で団結して勝ち抜いてみせる。正義は宇宙が必ず味方する―――この信念が燃え盛っていた。

「断乎とした勇気よりもすばらしいものは世に何もない」とは、博士の不滅の叫びである。

「3・16」の儀式を終えたあと、戸田先生は私をじっと見つめられた。その目には烈々たる光が宿っておられた。そして先生は言われた。

「我々は、戦おうじゃないか!」

この師の永遠の大闘争宣言は、私の生命の律動そのものになっている。私には、毎日が「3・16」であり、「広宣流布の戦闘の日」である。

師も弟子も富士の如くに勝ち戦


「高齢社会をどう生きるか」(ジャパンタイムズ寄稿)

2007-03-15 09:25:28 | その他
第11回「高齢社会をどう生きるか」

今年は、日本にとって「二〇〇七年問題」と呼ばれる、大きな変化の節目である。
戦後のベビーブームの中で誕生した「団塊の世代」が、今年から次々と定年を迎え、かつてない大量退職の時代が始まるからだ。

すでに、日本の六十五歳以上の高齢者は、過去最高の二五六〇万人となり、総人口に占める割合も二割を超えるに至った。数年後には、この割合は更に増える見通しである。

もちろん、「高齢化」は日本だけの問題ではない。国連によれば、現在およそ六億人と推定される六十歳以上の高齢者は、二〇五〇年までに二十億人近くに達すると予測されている。

それは、単に「数」の増加の問題ではあるまい。高齢者の一人ひとりを、どう大切にするかという視点から、人生と社会の在り方を、もう一度、見つめ直していく転機であろう。

自らが必要とされているという手応えをもって生きたい――これは万人の変わらざる願望だ。その生き甲斐と充実を、生涯にわたって実感できる社会を、いかに構築すればよいか。

さらにまた、高齢者の知恵と経験は、現在と未来を豊かにする、かけがえのない宝である。高齢者を真に尊ぶ気風を確立することは、社会の持続的な繁栄の基礎となるに違いない。

急速な高齢化に直面している日本は、創造的な息吹をもって、この人類的課題の〝挑戦〟に〝応戦〟していきたいものだ。

昨年、団塊の世代を対象に行ったアンケート調査によると、将来の暮らしについて、「不安に感じている」と答えた人は六六%に及んだ。年金や生活費などの経済面に加えて、自分自身の健康や親の介護の問題が、不安の要素として挙げられている。

実際に、介護で想像を絶する苦労をされている方々の声は、まことに切実である。こうした声に対して、どれだけきめ細やかで誠実な政策的対応ができるのか。政治の責任は、極めて大きい。

その一方で、日本の未来に明るい兆しを感じさせる調査結果も出ている。現在、団塊の世代で「ボランティア活動に参加している人」は一五%にすぎない。しかし今後、「参加したいと考える人」は六割に達している。

とともに、今後、近所での「つきあい」を深めたいという人も、八割近くに上った。私は、こうした「他者のために尽くす生き方」や「地域で人間関係を深める生き方」を、多くの人が生き生きと持ち続けていくことが、実は高齢社会活性化させゆく重要なカギになると思う一人である。

「自分を必要とする人のために尽くす」――こうした心があれば、その人自身が若々しく元気になっていくからだ。そして周りの人々の心を温め、地域を明るく輝かせていくからだ。東洋の箴言には、「人のために火を灯せば、自分の足元も明らかになる」とある。真心込めて周囲を照らした光は、わが人生の完成期を包む荘厳な光彩となって還ってくる。

「真に幸福な人」とは、「人びとに幸福をもたらす人」であるといえないだろうか。「生涯青春」という言葉がある。いわゆる心の若さとは、年齢によって決まるものではない。

みずみずしい探求心、向上心を失うことなく、自らの掲げた目標に向かって、たくましく挑み続けていく情熱の炎によって決定されるものであろう。

「何かを揚げなければならない、そんな思いがやって来る。凧に似たものを、高く揚がるものを、烈風の中に舞い、奔り、狂うものを、高く揚げなければならぬと思う」

これは、作家の井上靖氏が、私に送ってくださった手紙の忘れ得ぬ一節である。

正月に子どもたちが凧揚げに出かける姿をみて胸によぎった感懐ですと、書き留められてあった。老境を迎えるにつれ、「烈日」という言葉にますます惹かれるようになった――との心情を綴った手紙を頂戴したこともある。

真夏に烈しく照りつける太陽のように、「烈しく何事かを為そうとした気持だけが、生きたということの証し」といわれるのである。最後の作品となった『孔子』の執筆を始められたのは、ガンを患い、大手術を受けてからのことであった。

以来、二年にわたり、時には病室に机を待ち込んで連載を続け、孔子とその弟子たちに人間的な光を当てた名作は仕上げられた。「晩年、人間として完成に近づいていく年代に、最高にいいものを書ける――できることなら、これが一番、幸せなことと思います」と述懐されていたことも、思い起こされる。

老いを、「死に至る衰えの時期」と受け止めるか、それとも、「人生の完成への総仕上げの時」ととらえるか。

老いを「下り坂」と見るか、それとも「上り坂」と見るか。その微妙な一念の違いによって、人生の豊かさには天地雲泥の違いが生じよう。かりに無量の富や権力を手にしても、死という定めからは絶対に逃れることはできない。

人は、限られた生を自覚するからこそ、「より良き人生」「より価値ある人生」を真摯に求めることができるともいってよい。真っ赤な夕陽が翌日の晴天を約束しながら、赫々と輝き切っていくように、未来の世代に希望の光を贈りゆく晩年でありたいものだ。

文豪にあらずとも、誰にも残せるものがある。「わが人生」という名の生命の軌跡である。それは、何ものにも侵されないものだ。

その軌跡が満足のいくものであったか否かは、自身の胸中にのみ厳然と刻印される。そして人生最高の一節は、むしろ苦闘の中に刻まれる。

「我は、かく戦った。かく生き抜いた」「わが生涯に悔いはなし」と胸を張れる誇りこそが、勝利の人生の証しとはいえないだろうか。

「最後にいい人生だった」と言い切れるゴールを、互いに励まし合いながら目指していく――そこに高齢社会の一つの指標を見出したい。

高齢社会を考えること、それは政策にとどまらない。私たち自身の生き方を考える好機でもあるのだ。

昭和三十四年・東京の戦い―世間をあっと言わせた首都決戦②

2007-01-16 23:47:57 | その他
◇首都・東京の事情

 第三に、東京の複雑な土地柄である。
 当時は「東京創価学会」という概念はない。タテ線と呼ばれた縁故関係による組織の系統が、東
京に太く混在していた。
 一九五六年の参院選。東京が敗れた背景にも、学会草創の一二支部の存在があった。
 会長のすぐ下に、支部長がいる。権限は大きい。連帯意識が強い分、競争意識も激しかった。蒲
田系。杉並系。小岩系……。それぞれ、縄張り意識が強い。東京を広く見渡す全体観に立ってな
い。
 要するに、一二支部を束ねるだけの強力なリーダーシップが東京にはなかった。
 文京支部の宮林義一。
 「三十一年に敗北した時の戦いは『船頭多くして船山に上る』。中心者がはっきりしなかった。だか
ら力が出なかった」



 日本は戦後の復興期が終わり、いよいよ経済成長期に突入しつつあった。
 社会の一大転換期の首都決戦である。
 東京は華やいでいた。四月、皇太子のご成婚。五月、東京オリンピックの開催が決定。
 人口は九〇〇万人を超え、ニューヨークを抜き、世界一の大都市になった。完成したばかりの東
京タワー。まだ家並みは低く、ノッポな姿を遠くから望めた。日々、変わっていく新しい街だった。
 上京組が多く、新住民が急増していた。戦後のベビーブームに生まれた子どもが、路地裏にあふ
れていた。
 政党。労組。宗教。経済界。あらゆる勢力が、首都で虎視眈々(こしたんたん)と陣地の拡大を狙
っていた。焦点は新しい人間の獲得である。
 これが難しい。
 名著『東京百年史』には、生粋の江戸っ子と、地方から東京に集まってくる者たちのギャップが強
調されている。

 いわば水と油。
 東京ほど、まとまりにくい単位もない。
 歌謡曲に東京ソングは数あるが、歌い手は、たいてい地方の出身者。「有楽町で逢いましょう」の
フランク永井も東北出身である。
 東京とは何か。東京の心とは何だ。東京人は己を表現するのに、立ち往生してしまう。

▼首都決戦に、味方は少なし、敵多し。

◇めぐらされた包囲網

 第四に、社会の偏見である。
 警察。学会員の不慣れな支援活動をねらい打ちにする構えを見せていた。
 マスコミ。学会の組織形態について軍隊的、全体主義、ファッショだと難し立てた。
 評論家の大宅壮一。「創価学会が伸びた理由の一つは、旧軍隊組織を信仰という形で復活した
ことである」。当代きっての論客にして、はじめは、この程度の認識だった。
 共産党。機関紙「アカハタ」で学会批判を繰り返している。
 春の統一地方選で躍進した学会に、危機感を強めた。
 学会から三人、共産党から三人が当選した中野区議選。その激戦を総括した「選挙と創価学会」
と題する記事(一九五九年五月十九日付)がある。
 「大衆の貧困につけこむ」との大見出し。生活互助会(共産系)が支援する共産党候補が落選し
た。その責任は、互助会に所属する学会員にあると決めつけている。
 「こんどの選挙で積極的に創価学会のために働いた信者には互助会をやめてもらうし、こんごは
生活相談に応ずるのもやめる」



 味方は少なし、敵多し。
 広大な砂漠にも似た東京のどこに、勝利の突破口があるのか
――。

◇東京の隅々へ

 池田総務は、どのように東京を牽引していったのか。
 当時の学会幹部や関係者に広く取材したが、明確な記憶がない。ただ、関西全体が横一線で押
し上がっていった「大阪の戦い」とは様相を異にしていたようだ。
 大阪は極端に言えば、新会員しかいなかった。先輩も後輩もない。ゼロからの出発。その分、乾
いたスポンジが水を吸い込むように信心を血肉化し、ぐんぐん勢いが増した。
 東京は違う。古参幹部が多い。ややこしい上下関係もある。
 取材は難航した。散らかった断片的な証言をジグソー・パズルのように組み合わせると、おぼろ
げな輪郭が見えてきた。
 総務は、徹底的に深く潜っていたようだ。最前線へ。最末端へ。他の幹部が知るよしもない東京
の最深部で、会員一人一人を励ましていた。
 神出鬼没である。
 東京の東、葛飾区。
 ほこりっぽい下町の路地に、車が止まった。「ニッサン・ジュニア」。小型トラックの助手席から飛び
おりた人がいる。小回りのきく軽トラックは、貴重な活動の足だった。
 南の外れ、大田区。
 油と鉄の臭いが漂う工場街。つぶれかけたガラス工場で、青年が汚れた手をぼんやり見つめて
いると、入り口に人影があった。
 自分のニックネームまで覚えていてくれた。
 戸田会長の事業を支えた苦闘時代を話してくれた。
 信濃町の学会本部。
 連日、悩みにうちひしがれた会員が指導を求めてきた。
 気弱な学生が、身を縮めている。
 「そんなことでは大成できないなあ。青年は、どんなことがあっても悠々と戦っていきなさい。銀座
の真ん中で、大きな声で歌を歌えるようでないといけない」
 学会本部での御書の勉強会。
 「仕事が忙しくて、遅刻しそうだった人?」
 一人の青年が勢いよく挙手したものの、後悔した。他に誰も手をあげていない。
 「それが本当だ。真面目に信心すれば、仕事が忙しくなるのは当然だ。自分は仕事もやり抜い
て、悠々と会合に出てきた、という顔をしているのはインチキだ」
 大田区小林町の自宅。
 青年たちが夜討ち朝駆けで現れる。香峯子夫人の手料理をつつきながら、彼らといつまでも語り
合った。

▼「池田会長は『自他共にある人』だ」

◇脚本家・橋本忍の回想

 脚本家・橋本忍に、池田会長の印象をインタビューした。
 橋本は、日本映画界を代表する名脚本家。『七人の侍』『生きる』『砂の器』など幾多の名作を手
がけた。
 池田会長原作の映画『人間革命』『続・人間革命』のシナリオも執筆している。
 映画製作の挨拶に訪れた日。会長と一緒に長い廊下を歩いていると、五十がらみの男性が向こ
うから来た。
 会長が軽く手を挙げ、名前を呼ぶ。久しぶりの再会らしい。
 親しげに話しかける。気さくで、てらいがない。男性は大変に恐縮している。
 彼の経歴や住まい、家族構成、人間関係、悩み事まで、すべて知り尽くしているようだ。
 橋本は感嘆した。
 “とてもとても、ここまで相手のことを覚えられるものじゃない……”
 別の機会に、こんな会話があった。
 「橋本先生は、お話しされる言葉自体には内容がある。だけど、人前で話すのは、それほど得意
ではなさそうですね」
 「昔から、あまり、しゃべったことがないので」
 「大勢の前で話すときには、心得ておくといいことがあるんですよ」
 「ほう、それは……」
 「たとえ三千人の集まりでも、まず左端の人に話しかける。
 次に右端の人。その次は左端の一番奥。最後に右端の一番奥。
 そうやって四隅に話しかけていく。そうすると自然に話ができます」
 「ははあ」
 「大事なことは、一人で演説するのではなく、そこに来ている一人一人と話すことです」
 焦点は、あくまでも一人。人間対話の本質を突いている。
 橋本は考えた。
 「この人は『自他共にある人』なんだと思い、それを一番、感じた。世間では池田会長を独裁者と
いう人もいるが、そうではない。独裁者は『自分』しかいなくて『他者』がない。世間は間違っている」
 「学会員は、何百万人といるのでしょうが、池田会長は、その一人一人をよく知っていて結びつい
ている。そういう人だと思う。
 池田会長ほど『自他共にある人』は見たことがない」



 一九五九年。池田総務は東京で人と会った。演説でも、宣伝でも、号令でもない。一対一の対話
に徹した。
 東京の東の端へ。南の端へ。上から命令するのではなく、東京の四隅を回るなかで、一人一人と
の結びつきを強めた。

◇戦う機運が満ちはじめた

 「へい、いらっしゃい!」
 暖簾をくぐって、若い客が次々と現れる。夜の信濃町。駅前に屋台のラーメン屋があった。“最
近、やけに景気がいいや”
 ラーメン屋のオヤジは、えびす顔である。夜更けの客が、このところ急に増えた。
 どうやら創価学会の青年が、腹ごしらえに来るようだ。
 活気づいていた信濃町。
 学会本部には、細長い和室があった。通称“うなぎの間”。そこが男子部の根城となった。ふとん
を持ち込み、泊まり込む。小腹がすくと、屋台でラーメンをすすった。
 学会本部で勤行し、御書を読みあって、弘教と個人指導に散っていく。
 「大阪の戦い」と同じように、拠点闘争が始まった。
 戦う機運が満ちはじめた。
 「男子部が三人でも集まれば、三輪トラックに乗り込んで回ったものです」(青木亨、最高指導会
議副議長)
 ぴんと張り詰めた緊張感があった。
 「池田先生は、ここぞというとき、例外なく厳しかった。 青年部には、先生に叱られてこそ本物と
いう自覚があった。戸田先生の時代、一番叱られていたのは池田先生でしたから。油断、慢心を断
ち切っていただいた」(吉田顕之助)

◇火ぶたを切った選挙戦

 五月七日、参院選が公示された。
 投票日は六月二日。二七日間にわたる選挙戦が火ぶたを切った。
 学会の候補者は、全国区が五人、地方区は東京だけに絞られた。
 精力的な遊説計画が組まれた。
 秋山栄子も遊説隊の一員としてマイクを握った。
 「池田先生は裏方を大事にされた。事務所で缶詰になっている役員のため毎日、差し入れを届け
てくれる。焼き鳥。バナナ。その一方で、候補者には厳しかった」
 東京は、全国区の候補として学会理事の原島宏治を支援した。
 ある時、遊説カーが多摩方面を回った。山に緑が濃い。民家がぼつんぽつんと点在し、菅笠をか
ぶった農夫が腰をかがめている。
 のどかな風景に、ふと気がゆるむ。原島がドライバーに声をかけた。
 「まあ、いいよ。そんな奥まで行かなくても。ここらで、おにぎりでも食べよう」
 予定コースの途中で引き返した。
 現場からの報告を聞いた総務は、事務所へ向かい、強い口調で原島を糾した。
 「遊説は予定通り、回っていただきたい。疲れもあると思いますが、戦いですから!」
 ドライバーの男子部員に向き直った。
 「先輩だからといって遠慮することはない。君からも意見を言っていいんだよ」
 誰であろうと、間違っていることは間違っている。筋を通すことが健全な体質をつくる。遊説隊や
事務員にも、持論を伝えた。
 「候補が死に物狂いで戦うのは当然だ。候補や家族が必死だからこそ、支持者も全力で支援す
る。幹部だからといって、わがままや傲慢を許してはならない」

◇女性票の行方

 東京選挙区は三年前、三人の女性候補が、そろって涙をのんでいる。
 政界は男生優位で、まだ「マドンナ旋風」が起きる時代ではない。
 この時も自民党四人、社会党三人、共産党、緑風会の有力候補の前に、苦戦が予想されてい
た。
 それでも一番の注目株は、市川房枝。女性の政治参加のシンボル。市川に票を食われると、柏
原ヤスは苦しい。

 当落は、学会婦人部の奮闘いかんにかかっていた。



 選挙といえば、公然と金が動く時代だった。
 「五当三落」――当時の金で五〇〇〇万円かければ当選するが、三〇〇〇万円では落ちる。ま
ことしやかに、ささやかれていた。
 警察当局は、学会にも黒い金が流れているはずだとにらみ、次々と会員を取り調べた。
 文京の宮崎初恵。出頭に応じたが、高圧的な態度に、たんかを切った。
 「世間のように金をもらっている卑しい選挙と違います! 雨が降ったらポスターが濡れないよう
に、自分がずぶ濡れになって町中かけずり回る。そんな支持者が、どこにいるんですか。いくら金
をもらったって、そこまでやるものですか!」
 警察官は黙ってしまった。



 チンチン。
 出発進行の合図を鳴らした都電が、民家の間を縫って、軒先の洗濯物をかすめながら動いてい
く。運賃が一三円の時代だった。
 子どもに卵を食べさせるため、その一三円を惜しんで歩いた人もいる。
 荒川土手で柏原の演説会。水たまりでアマガエルが飛びはねる。丈の短い元禄袖(げんろくそ
で)の着物を着た婦人部から声援が飛ぶ。
 昼間のポスター貼りは婦人の仕事。両面テープなどない。
 荒川区の田辺さく子もブリキのバケツに、うどん粉を溶いて糊をつくり、刷毛でペタペタ塗つた。
 町屋には鉛筆工場があった。たいていの主婦は内職をしていて、一日の手間賃は数十円。一本
の鉛筆にも思い入れがある。
 田辺の家でも、短くチビて握れなくなるまで使った。
 そんな生活者の側に立った政治家が求められていた。
 南千住には、簡易宿泊所があった。
 いわゆる「山谷のドヤ街」。男でも避けて通る。そこにも勇気を出し、足を踏み入れた。



 選挙も終盤戦。
 アナウンスが聞こえると、遊説コースに、みるみる学会員が現れ、遊説カーを追いかける。前回
の参院選では見たことのない光景だった。
 草履履きの婦人が着物の裾を取られ、転びそうになりながら懸命に走る。
 そのたびに遊説カーは速度を落とし、追いつくのを待った。
 政治と支持者の距離が、限りなく近かった。



 開票の結果。
 一位、柏原ヤス。四七万一四七二票。
 二位、市川房枝。二九万二九二七票。
 マスコミにとって、格好のネタである。
 「気をはく新旧二女性 一、二位を占める」(日経)
 「女性がお強い!東京地区」(毎日)
 各紙の分析。
 「山手向きの女性候補市川房枝さんに対して(柏原には)下町の婦人票が集まった」(朝日)
 「柏原候補が予想を上回る得票ができたのもこの浮動票、とくに婦人票が流れたためであろう」
(毎日)
 東京婦人部の奮闘を物語っている。

◇「世間は大騒ぎになるよ」

 「三年後を見給え、世間の人たちがヘソの裏をひつくり返して大騒ぎするよ」
 一九五六年、参院選投票日の夜に、戸田会長は言い残した。東京は敗色濃厚と見越した上で、
早くも頭を切り換えている。
 その言葉は現実となった。
 五九年、学会が立てた六人は、全員が上位で当選を果たした。全国区の総得票数は二四八万に
達した。
 マスコミの論評。
 「創価学会は全員当選」(朝日)
 「落選知らずの組織」(日経)
 「なぜ強い創価学会 自社、盲点をつかれる」(毎日)
 選挙から三日後。
 池田総務は、柏原たちと戸田会長の墓前へ、勝利の報告に向かった。
 静かに手を合わせる総務の背中を見ながら、一行の胸に去来する思いがあった。
 “池田先生のおかげで、戸田先生の無念を晴らすことができた”
 最も功を誇ってよいはずの総務からは一言もなかった。
 ある折、語っている。
 「私は戸田先生のおっしゃることなら、何でもやっちゃうんだ。誰が何と言おうが、どう思おうが関
係ない。私は戸田先生に『大作、よくやったな』と言っていただければ、それでいいんだ。それだけ
なんだ」(文中敬称略)

「池田大作の軌跡」編纂委員会

昭和三十四年・東京の戦い――世間をあっと言わせた首都決戦①

2007-01-16 23:47:06 | その他
平和と文化の大城 池田大作の軌跡 (潮2007年1月号掲載)

ドキュメント企画・連載第13回

昭和三十四年・東京の戦い――世間をあっと言わせた首都決戦

戸田会長の心残りだった東京の敗北。

恩師亡きあと、東京を強くした池田総務によって雪辱は果たされ、過渡期にあった学会は危機を越
えた。
▼東京創価学会の礎を築いた池田会長。

◇根っからの「江戸っ子」

 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長は、一九二八年(昭和三年)一月二日、東京・大
田区の下町生まれである。
 ジャーナリスト・大森実のインタビューに答えている。
 「根っからの江戸っ子で、虚栄が大嫌いな人間であったことだけは間違いない」
 江戸っ子は「ヒ」と「シ」の区別が苦手である。ある直筆原稿で「昼間」という文字に思わず「しるま」
とルビを振りかけたほど。
 飾らない。威張らない。気前がいい。湿っぽいことが嫌い。明快、率直。
 時の総理に「言うべきことは言わせてもらいます。江戸っ子ですから」と伝言を託したこともある。
 奥歯に物をはさまない。世界的な指導者だろうと、平凡な家庭の主婦だろうと、接する態度が変
わらない。



 時に東京の幹部に厳しい。関西を称えた返す刀で「それに比べて……」と首をひねることもある。
 だが大阪や名古屋から帰京する新幹線の車中では、こんな場面がある。
 多摩川の鉄橋を渡ると、そこは生まれ育った大田。ふと表情が変わる。同郷の香峯子夫人と窓の
外に目を向ける。
 新幹線は徐々にスピードをゆるめていく。開発が著しい品川駅周辺。短い感嘆の声がもれる。
 田町、浜松町、新橋、有楽町――。沿線は、かつて通勤コースだった。青春の一時期、池田会長
は新橋の会社で働き、夫人は銀座にあった住友銀行の支店に勤めていた。
 終点・東京駅。若き日に夜行列車で関西から帰京する会長を、早朝から夫人が出迎えた駅であ
る。



 故郷・東京。実は最も安心し、心寛(くつろ)ぐ地である。
 そして関西と同じく、東京創価学会の礎を築いたのも、ほかならぬ池田会長であった。
 昭和三十一年(一九五六年)の「大阪の戦い」を知らぬ者はない。
 だが、その三年後の「東京の戦い」を語る者は少ない――。

◇雪辱果たしたトップ当選

 トランジスタ・ラジオにかじりついていた男が突然、弾かれたように立ち上がった。
 「出た! 当確だ!」
 品川区・上大崎の選挙事務所に、野太い歓声がどよめいた。
 ラジオを鷲づかみにした事務長の和泉覚が、巨体を揺らしている。
 壁に開票速報を貼り出していた青年たちも、手にしていた集計用紙を宙に投げ出している。
 一九五九年(昭和三十四年)六月三日、正午過ぎ。
 参議院選挙(前日の二日投票)の東京地方区で、創価学会が支援した柏原ヤスが当選を決めた
瞬間である。
 定数四に対し、二三人の候補がひしめく大激戦区だった。接戦が予想されたが、ふたを開けてみ
れば、柏原は四七万票を獲得した。二位の市川房枝に一七万票もの差をつけ、堂々のトップ当選
である。
 報道記事の行間から、記者の驚きが聞こえてくる。
 「創価学会の都内の固定票が約十六万票止りとされていたにもかかわらず、その約三倍の得票
をみた」(毎日新聞、六月四日付)
 「『いくら創価学会の組織でも次点がせいいっぱい』との町の選挙評を完全にくつがえした」(読売
新聞、六月三日付夕刊)
 「まさかが実現」の再来である。
 この年は参院選に先立ち、四月に統一地方選挙があった。三年ごとの参院選。四年ごとの統一
地方選。一二年に一度、二つが重なる年だった。学会が初めて経験した“ダブル選挙”である。
 しかも統一地方選では、都議会選挙(後年から七月に実施)も行われた。東京にとって“トリプル
選挙”だった。参議院の東京地方区で柏原はトップで勝ち上がった。都議会では四人が当選。区議
会は七六人の候補全員が当選した。三年前の惨敗と比べ、実に対照的な勝利であった。

◇石田で負けた三年前

 学会が初めて国政選挙に候補を立てた一九五六年の参院選。
 当選が最も有力視された東京地方区は“まさかの敗北”を喫した。
 ある女性が悲痛な声で、幹部に食ってかかった。
 「なぜ負けたんですか! あんなに一生懸命やって……」やせた肩が震えている。背中に赤子を
おぶい、下駄の鼻緒が切れて素足になっても、走り回った。汚れた足に、赤黒い血豆ができた。
 会員たちは、自分たちの力不足で負けた、と己をさいなんだ。
 戸田会長は最高幹部に激怒した。
 候補者・柏原ヤス。顔も見たくない。
 「いいか! 二度と会長室の敷居をまたいではならぬぞ!」
 当時の東京幹部。
 「震え上がりました。戦いは絶対に負けてはいけないと骨身に染みました」
 負け戦の張本人は、石田次男である。学会の理事。東京の支援責任者だった。
 投票日の前夜。忙しい在京の幹部を集め「明日は一〇〇万票出すぞ!」と、ぶちあげた。
 現実は二〇万票にも届かなかった。読みは甘く、号令ばかりかけていた。
 上野だ! 新宿だ! 連日、街頭遊説の会場に学会員を集めた。
 「どの街頭も、同じ顔ぶれ。こんなことで勝てるわけない。素人でも分かりました」(婦人部員)
 大阪の池田室長のもとへ応援に通った森本静(元・品川区議会議員)は、東西の温度差を肌身で
感じた。
 「リーダーの真剣さが全然違う。大阪では、池田先生のもと、楽しいなかにも、ピンとした緊張感
がみなぎっていた。東京は活動内容も、報告の把握も、全部いい加減。要するにリーダーが本気じ
ゃなかった」
 森本の目撃談。東京の敗戦が決まった時、石田は大阪の池田室長に電話をかけている。
 目を疑う光景だった。へらへら笑いながら、口調もだらしなく崩れていた。
「ああ、大ちゃん? いやあ参ったよ。こっちは負けちゃったなあ」

◇世間をあっと言わせる

 戸田会長の生涯に心残りがあったとすれば、その一つは東京の敗北ではなかったか。
 「よく見ておきなさい。次は、私が本部で指揮をとる」雪辱に燃えていたが「次」を迎えることなく、
一九五八年四月二日に逝去している。
 棺(ひつぎ)を見送りながら「東京の落選が、先生の寿命を縮めてしまった」と崩れ落ちた者もい
た。



 明けて五九年。「本年こそ、若き将として、指揮をとらねばならない」
 年頭に池田会長(当時・総務)は日記に綴っている。
 期するものがあった。
 一度だけ、選挙で苦杯を喫した経験がある。五七年四月の参議院大阪補選。
 なぜ、この選挙の指揮をとったのか。諸説ある。
 五六年の参院選。青年部の池田室長のもとで大阪は勝った。
 敗れた東京勢は面白くない。妬む心が動く。だったら大阪で補選もやってみればいい。そんなに
力があるのなら、もう一回やったらどうだ。東京の幹部から、やっかみ半分の声が上がったというの
だ。
 補選の支援期間。応援に来た東京の幹部たちには、必死の姿勢が欠けていた。
 「まじめに戦ってくれた人も多かったが、遊ぶ人間も多かった。とくに議員が悪かった」(学会首脳)
 揚げ句の果て、東京からの派遣幹部が選挙違反で決定的なダメージを与え、大阪は一敗地にま
みれた。
 池田室長は、戸田会長に一切の役職の解任を申し出た。負けて薄ら笑いを浮かべた、東京の敗
将・石田。
 自ら望んだわけでもない敗戦必至の戦いに、それも半ば味方の失策で敗れながら、愚痴も文句
も言い訳もしなかった池田室長。
 その場で戸田会長に誓っている。
 「いつの日か、世間をあっと言わせる戦いをしてみせます」
 その約束を果たす時が来た。



 過渡期の学会に、世間は注目していた。
 戸田会長が逝去して一年、会長職は空席のままである。
 強力なリーダーシップを失った創価学会。その発展は戸田時代だけなのか、それともポスト戸田
時代も続くのか。

 その一つの目安が、五九年の選挙だった。
 支援は、学会の運動の一断面である。しかし社会は“選挙の土俵”で学会の力を見極める。
 他陣営と正面で胸をあわせる四つ相撲。乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負である。
 選挙前、下馬評は厳しかった。

▼「東京に池田先生がいてくだされば……」

◇蒲田が立ち、文京が立った

 「池田先生が中心者になると知って、そりゃあ嬉しかった。どうしても勝ちたい。蒲田の力で勝つと
決めたんだ」
 蒲田支部の山田恵三。
 蒲田は池田総務の地元。一九五二年(昭和二十七年)に支部幹事として、圧倒的な弘教を成し
遂げた。これらの歴史は、また語る機会があろう。
 大田区内で食料品店を営む白石康嗣。学会本部で池田総務とすれ違い、急いであいさつした。
その顔を、総務は、ひたと見つめた。
 「知ってますよ。たしか大田で、お店を開いていましたね」。右手を差し出し、力強く握りしめた。
「身体を人事にして戦ってください」。
 仰天した。その四年も前のこと、偶然、自分の店の前で立ち止まっている総務に呼び掛けた。
 「これは私の店なんです」。胸を張ったものの、ショーウインドーは壊れかかり、ひさしは今にも落
ちそうだった。
 「ほんの、わずかな出会いだったのに……。柔らかな手でした。私はやせて、ガリガリだったの
で、心配してくださったのだと思います」
 人は己を知る人のために、死力を尽くす。白石だけではない。
 「忘れもしません。三年前の負けは悔しくて、悔しくて。東京に池田先生がいてくだされば、と何度
も思いました。だから三十四年の時は、もう夢中。歩きに歩きました。乗り物なんてなくたって、全然
平気」(蒲田支部、町田セイ)



 文京支部も奮い立った。
 豊島区・池袋にある炭屋の二階が拠点。思い出が染みついている。
 「池田先生は、何度も通ってくださった。結核で血を叶き、奥様が止めても、それを振り切って
……」(荻野文弘)
 一九五三年から支部長代理に。
 「命懸けです。私たちにも伝わりますよ。立正安国論の講義をされました。厳しかった。拝読する
人が少しでも、つつかえると、最初から読み直し。何度でも繰り返された。信心に中途半端も、妥協
もないことを知りました」
 太田久雄も、この拠点に思い出がある。
 「いつも駆け足で動いておられた。だから拠点に入られると、足音ですぐに先生だと分かるんで
す」
 「電報でーす」
 大きな戦いの節目になると、郵便局員が拠点に飛んできた。
 池田支部長代理からである。
 「サイゴノダイセントウニトツニウシ ダイシヨウリナルコトヲキタイス イケダ」
 「ヒツショウ ゴケントウヲイノル」

◇池田門下が名乗り出た

 青年部男子第一部隊。
 「何でも第一の第一部隊」。かつて池田部隊長のもと、黄金の歴史を綴った自負がある。
 ある青年は初めて受けた指導が消えない。
 「信心すれば、必ず悪口をいわれる。言われ切った時には、尊敬されるようになる。それまでやり
通しなさい」

 曽根原敏夫も第一部隊。地元は葛飾区で、三年前の悔しさは忘れられない。
 なんで負けたのか。大阪の白木義一郎に聞いたことがある。
 「東京と関西の違いは何ですか?」
 白木は、にやりと笑った。
 「関西は“上り”と“下り”がある。東京は“下り”しかない」
 要するに幹部が活動方針を流すだけで後は放ったまま。現場へ入っていかない。耳の痛い話だ
った。
 池田総務は初代の葛飾総ブロック長でもあった。曽根原は、下町の庶民群に分け入る姿を目の
当たりにする。会合の前と後に、必ず個人指導。どの拠点でも、会員の悩みに耳を傾けた。
 金属商を営む金沢秋次郎。夫婦喧嘩に明け暮れた。青白くやせた妻の顔が、幽鬼に思えた。
 仕事で首が回らないのも、腹一杯食えないのも、すべて女房のせいだと信じて疑わない。
 「この貧乏神と、一日も早く別れさせてください」と祈っていた。
 ある時、会合で池田総務に打ち明けた。妻は横でうつむいて、畳の目を数えている。
 総務は、静かに言った。
 「私の前で奥さんの手を握って、一生涯、私はあなたを愛してまいりますと誓いなさい」
 度肝を抜かれた。思わず妻も顔を上げた。“私を愛せ……?”。そんなことを言ってくれる人など
いなかった。

 皆、げらげら笑っている。総務の目だけが真剣である。
 金沢は恐る恐る貧乏神の細い手を握った。半分やけくそである。喉の奥から「あなたを愛します」
と声を振り絞った。
 二人は、どっと拍手に包まれた。はにかんだ妻が、小さくうなずいた。
 この日を境に、妻が変わった。いや、金沢が変わったのかもしれない。
 夫婦喧嘩はいつしか止まり、仕事も忙しくなった。



 関西も黙っていない。
 池田総務の手作りの砦である。
 夜行列車に揺られて、早朝から続々と東京へ乗り込んでくる。「わてらが応援せな、しゃあないや
ろ」「せやせや、東京は、関西が勝たせたるんや」

◇“空中分解”の兆候

 池田総務の前には、幾つもの壁が立ちはだかっていた。
 第一に、幹部の足並みの乱れである。
 表に理事長の小泉隆を立て、総務が陰で支えていた創価学会。
 ある海外の識者の分析。
 「戸田会長が亡くなっても、すぐ分解はしなかったけれども、数年たったら勢力争いがあるだろう」
 水面下で工作する者もいた。
 「石田次男です。妻の石田栄子から、はっきり言われました。うちの主人が次の会長になる。あな
たは伸びる人だから私に付いてきなさい、と」(秋山栄子、婦人部総主事)
 石田を担ぐ勢力もあった。
 学会の幹部に、満州(現・中国東北部)帰りの男がいた。 
 戦時中、国策会社で働き、参謀気取りだった。この男が石田を御輿(みこし)に乗せた。そのほ
か、古参幹部の中にも同様の動きがあった。
 マスコミは「学会は空中分解する」と書き立てていた。
 予想は早くも的中しつつあったといってよい。
 「池田先生が東京の総責任者でしたが、当時の空気は簡単なものではなかった」(吉田顕之助、
関東参事)

◇戸田精神の継承

 第二に、戸田会長の精神の衰退である。
 たとえば次期会長が誰かをめぐって内外ともに、かまびすしかった時期。池田総務が自らを語る
ことはなかった。ゴシップ好きの週刊誌等の下馬評にも一切名前が見あたらない。
 戸田会長が早くから総務を後継者に定めていたことは、学会首脳にとって周知の事実であった
が、総務自身が口にすることは絶えてなかった。
 自分が表に出ることより、戸田会長の精神の継承を訴えた。
 毎日、恩師の指導テープを聴き、思索を重ねている。
 一九五九年当時の日記。
 「恩師の信任の人が、伸びのびと闘えるようにしてあげねばならぬ。増上慢の人が、気ままに振
る舞うようでは、学会は衰退してしまう」(二月二十四日)
 「御書をはきちがえた、自己中心主義の、幹部のいるのに頭痛あり」(三月十七日)
 「恩師の指導・訓練が、もう消えたのか、と怒りたい」(同)
 我がことよりも師の遺志の継承を第一義においた。
 五九年三月十六日。
 総務は、青年部の代表と戸田会長の墓前に詣でた。
 ちょうど一年前、恩師が青年に後事を託す儀式が行われた日である。
 「毎年、この日を青年部の伝統ある節としていこう」
 こんにちの学会で「広宣流布記念の日」と銘記される三月十六日の意義も、池田総務がとどめ
た。

巻頭言「友情」は生命の名曲♪

2006-12-26 18:38:22 | その他
偉大なる
我らの友情
美しく
広宣流布へと
諸天も護りて

仏法の世界は、陰湿な差別を晴れ晴れと打ち破った、明るい明るい、平等な友情の
広場である。
釈尊白身が、当時のカースト制度を否定し、分け隔てなく「友よ!」と親しく呼び
かけながら、法を説いていった。「われは、万人の友である。万人の仲間である」-
これが、人間・釈尊の大宣言であった。
そもそも、「慈悲」の「慈」は「メッター」という。これは、その本義として「友
情」を意味する言葉である。
友を思いやり、友を大切にする心は、仏の心に、まっすぐにつながっているのだ。
日蓮大聖人は、植物の共生を例として、「草木すら友の喜び友の欺き一つなり」
(934㌻)と仰せになられた。
さらにまた、「たとえ他人であっても、心から語り合えば、命にも替わるほど、大
切にしてくれるのである」(1132㌻、通解)とも示されている。
この御指南通りの「友情の真髄」で結ばれているのが、わが創価学会の同志である。
初代・牧口常三郎先生は先頭に勇み立って、人間の中へ飛び込み、仏法を語り弘め
られた。先生は深く仏縁を結んだ人々のことを、「新しい親友」とも呼ばれていた。
その友誼の心を帯びた、信念と大確信の対話は、法難の獄中でも、取り調べの刑事、
また看守らにまで及んだのである。
戸田城聖先生は、よく青年に言われた。
「大事なのは、人間としての外交である。どんどん人と会って、友情を結んでいき
なさい。すべて勉強だ。また、それが広宣流布につながるのだ。人の心を動かし、捉
えるものは、策でもなければ、技術でもない。ただ誠実と熱意によるのである」
社会の変革といい、平和の創造といっても、一切は、この一対一の友情の対話から
始まる。来る日も来る日も、わが同志が、その一波また一波を、たゆみなく起こし続
けてきたのが、創価の七十六年であった。堅実な拡大ほど、強いものはない。
それは、今や、人類史に輝く世界百九十カ国・地域の人間共和のスクラムとなっ
た。
現在、私が対談を重ねているハーバード大学のハービー・コックス教授は、開かれ
た宗教は「友情」を好み、「対話」を好むと洞察されている。
そして、SGI(創価学会インタナショナル)が、「友情の対話」の宗教の最先端を
進み、従来の「固定化した儀式」の宗教から「普遍的な友情を結ぶ」宗教へと、大転
換を進めてきたことを、高く深く評価してくださっているのである。

戸田先生は、大河小説『永遠の都』などを通して、同志の友情は、一生涯、絶対に
裏切ってはならぬと峻厳に打ち込まれた。
「友人を裏切ってまで利益を望む者は、たとえ欲するものを手に入れたとしても、
その物質上の利益は、けっして精神上の喪失を償うには足りない」とは、近代中国の
民主革命の旗手・孫文博士の達観であった。
いわんや、悪知識に紛動されて、信仰の最良の同志を裏切ることは、永遠に取り返
しのつかない福運の喪失であり、末代まで消えぬ汚名を残してしまうのだ。
法華経の譬喩品第三には、「悪知識を捨てて菩友に親近せよ」と厳しく戒められて
いる。
ともあれ、御書に示されているように、濁悪の末法は、家族の間にさえ争いが絶え
ない「闘諍堅固」の時代である。いずこにも、嫉妬や憎悪や反目の不協和音が渦巻い
ている。
だからこそ、家庭に、地域に、社会に、仲良き友情と和楽の名曲を奏でゆく創価の
女性のスクラムが、いやまして光っている。
また高齢社会にあって、円熟の「心の長者」であられる多宝の方々の励ましと信頼
の対話が、どれほど貴重であることか。
「声仏事を為す」(708㌻)である。
人の心を開く第一歩も、さわやかなあいさつの声から始まる。
若き日、戸田先生の会社で奮闘していた時、よく朝食を食べにいった食堂があっ
た。お店に入る時、私は「おはようございます!」と清々しい第一声を心がけた。
その時の店の方も、のちに入会された。二十年後に、山形県で嬉しい再会をしたこ
とも懐かしい。当時の私のあいさつを覚えておられて、「希望を運ぶ朝風のようだっ
た」と語ってくださった。
今、心の垣根を取り払い、生き生きと伸び伸びと、社会に聡明な友情を広げゆくヤ
ング青年部の活躍も、頼もしい限りだ。

大自然に生きるライオンには、〝友呼び″とも言われる習性があると聞いた。
すなわち、一頭が勇壮に咆哮する時、他のライオンも、それに応じて吼え、大地に
響きわたる大合唱になるというのである。
創価学会は、何ものをも恐れぬ仏意仏勅の師子の陣列である。
勇気ある「師子吼」を轟かせながら、楽しく朗らかに、新しい一日も、そして新しい
一年も、栄光と勝利の「わが人生の交友録」を共々に綴り残していきたいものだ。

友情も
不滅の君と
戦わむ
正義の我らは
世界を舞台に