一、私の青春は、恩師・戸田先生に捧げた青春であった。
19歳で恩師に巡り会い、21歳の時、恩師の会社にお世話になった。
以来、まっすぐに恩師に仕え、恩師のために生き抜いた。
戦後の混乱のなかで、戸田先生は事業に失敗され、莫大な借金を背負われた。身
も病んでおられた。絶体絶命の危機であった。
この厳しき秋霜(しゅうそう)の時代に、ただ一人、先生をお守りし、一切の逆境を跳ね返していったのが私である。
深夜であろうが、緊急の時は、隼(はやぶさ)のごとく先生のこ自宅にうかがった。
先生の病状を案じて、一晩中、待機したこともあった。
今では想像もできないと思うが、本当に峻厳な師弟であった。
ある時、先生は、うれしそうにおっしゃった。
「私には君がいる。本当の弟子がいる。だから絶対に何があっても安心しているんだ」
また、先生から「私のそばにいてくれ」と言われて、私は、夜学に通うことも断念した。
しかし、そのかわりに、先生は、残された全生命力を振り絞って、弟子の私に万般の学問を個人教授してくださった。その魂の薫陶(くんとう)は、師の命果てる寸前まで続いた。
師匠が命をかけて育てた弟子であった。
師匠を命をかけて守った弟子であった。
先生が涙ながらに語ってくださったことが忘れられない。
「君には苦労ばかりかけてしまった。病弱であるのに、死を決意してまで私のために戦ってくれた。永久に忘れないよ。君の功績は大聖人が全部、見通しておられるよ」
◆◆ 戸田大学の薫陶が私のすべて
◆◆≪戸田先生≫
どんな指導者や学者と議論しても負けない男を作っておいたよ
◆世界の識者との対談集は「50」に
一、先日、アメリカ・ソロー協会の知性との語らいをまとめた『美しき生命 地球と生きる』が発刊された(毎日新聞社刊)。世界の識者との42点目の対談集である。 さらに現在、複数の対談を継続している。そして、この秋、「東洋学術研究」誌上で連載開始となるアルゼンチンの人権活動家エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)との対談をもって、50点の対談が世に出ることになる(大拍手)。
世界の識者との対談の実質的なスタートは、約35年前のイギリスのトインビー博士との語らいが最初であった。
「人類の直面する基本的な諸問題について語り合いたい」 ── このように博士のほうから対談を希望されたのである。
語らいは、文明の未来、生命論、環境論、女性論、国際情勢、教育と宗教など多岐にわたった。
2年越し、40時間に及んだ対談が終わった時、私は、「トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」とうかがった。
トインビー博士は、にっこりとして言われた。
「私は、ミスター・イケダに最優等の『A』を差し上げます」と。
私のすべては、「戸田大学」で、約10年間、毎日のように訓練していただいたおかげである。
戸田先生は、私のいないところで、このようにも語っておられたようである。
「戸田門下生で、大作にかなう者はいない。どこに出しても恥ずかしくない。どんな指導者と議論しても、どんな学者と議論しても、負けない男をつくっておいたよ」と。ありがたい先生であった。
これまで、私は、多くの識者と語り合ってきたが、洋の東西を問わず、一流の人物の結論は、「師弟しかない」であった。
師弟のあるところに、本当の人生があり、真実の永遠性があり、究極の勝利がある。
◆正しい人生を 勇気の人生を
一、創価学会の根本の精神は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のために、命
をかけて戦い抜かれた牧口先生と戸田先生の師弟の精神である。
この師弟に流れ通う広宣流布への「不惜身命」の心がなくなったならば、今は、いかに発展しているように見えても、学会の前途は危うい。
仏法は、仏と魔との連続闘争である。決して甘いものではない。’
牧口先生、戸田先生のご精神を、今こそ、守り抜いていく時である。最高幹部は、命あるかぎり、求道心を燃やさなければならない。それが本当の学会精神である。
私は、戸田先生のために命を捨てようと決めていた。
それを先生は察知され、「俺の体をなげうってでも、大作を守る」と言われたのだ。
そして、先生から受け継いだ創価学会の発展のために私は、今日まで、動きに動き、祈りに祈り、書きに書いて、骨を粉にして働いてきた。
本当の清らかな、本当の師弟に徹した信心を、私も妻も貫き通してきた。
全世界に道を開いた。
全世界に恩師の平和の精神を宣揚した。
恩師の敵を討った。私は、戸田先生のただ一人の真正の弟子である。
先生は遺言するように語られた。
「私は何百人、何千人もの弟子を見てきたが、本当に誠実に私を支えてくれ、創価学会に尽くしてくれたのは大作が一番である」
皆さんには、いい人生を生きていただきたい。正しい人生を生きていただきたい。勇気ある人生を生きていただきたい。
その根本の道が「師弟の道」である。
私も、さらに本腰を入れて、本当の学会精神を語り残しておきたいと決意している(大拍手)。
◆彼岸は大宇宙の運行の節目
一、きょうは、陰に陽に、わが創価学会を厳然と護り支えてくださっている、最も功労深き方々の代表にお越しいただいた。
常日ごろからの尊い献身に心からの感謝を込めて、「霊鷲山(りょうじゅせん)」と「彼岸(ひがん)」をテーマにスピーチを残させていただきたい(大拍手)。
まもなく、秋の彼岸である。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる通り、秋の気配が深まってきた。
文豪・夏目漱石は、大病を克服した後に書いた新聞小説に『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』という題名をつけた。
正月から連載して、“彼岸過迄”には完結させるという心情からの命名だったという。
「彼岸」が日本人の生活のリズムに、深く浸透している一つの証左といってよい。
たしかに「彼岸」は、春夏秋冬の四季の変化に富む日本において、大宇宙の運行のリズムに則った、絶妙な節目となっている。
創価学会にとっては、春の彼岸は5・3「創価学会の日」への新生のスタートであり、秋の彼岸は11・18「創価学会創立記念日」への勇躍のスタートといってよい。
一、また彼岸に当たり、逝去なされた全功労者、そして全同志・全会友の先祖代々の諸精霊の追善回向を、来る年も、来る年も、私は懇(ねんご)ろに行わせていただいている。
本日も、皆さま方のご尊家の追善回向を、私は学会本部の師弟会館に御安置され
ている常住御本尊に真剣にご祈念させていただいた。
さらに北は北海道・厚田から、南は沖縄まで、全国各地の「生命の永遠の都」たる学会の墓園は、墓参に訪れるご家族でにぎわいを見せる。美しい秋の自然のなかで、浩然の気(こうぜんのき)を養いながら、深い思い出を刻んでいただきたいと願っている。
関係の役員の方々には、お世話になります。絶対無事故の運営を、何とぞよろしくお願いします(大拍手)。
◆◆ 苦悩の世界を希望の宝土(ほうど)に
── 「成仏への修行」が彼岸の本義
── 墓園は「生命の永遠の都」
── 広布の実践こそ真の回向
◆妙法の受持こそ「彼岸に到る」道
一、「彼岸会(ひがんえ)」の意義については、これまでも論じてきたが、仏法における「彼岸」の本義を、重ねて簡潔に確認しておきたい。
「彼岸」とは「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸(しがん)」との対比で用いられる。
「此岸」は、生死の苦しみ、煩悩の迷いの世界を、「彼岸」は、解脱・涅槃・成仏の悟りの境涯を譬えたものである。
また「彼岸」は、成仏の境涯とともに、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいる。
すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。
大乗仏教では、「成仏の境涯(彼岸)」に到るための修行に、「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定(ぜんじょう)」「智慧」の六つの行を立て、これを「六波羅蜜
(ろくはらみつ)」と呼んでいる。
「波羅蜜」とは、梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳だが、これを意訳すると「到彼岸」となる。
「受持即観心」の日蓮仏法に巡りあえた私たちは、妙法を「受持」、すなわち心から信じ、自行化他の実践を貫くことによって、この.「六波羅蜜」の一つ一つを果てしなく修行する歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を経なくとも、同じ功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成仏の境涯に到達することができるのである。
これが、大聖人の偉大なる仏法の「仏力」「法力」である。そして、その力を尽きるこ
となく引き出すのは、ひとえに、私たちの「信力」「行力」である。
日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で、その法理を明快に教えてくださっている。
広宣流布への行学に徹するところ、厳然たる人間革命の実証として、「六波羅蜜」つ
まり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という、菩薩に不可欠な徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくとの御約束である。
言いかえるならば、人格の深まりがないならば、真に仏法を行じているとはいえないであろう。
その点、本日、お集まりの功労者の方々は、社会においても、皆、第一級の模範の
指導者であられる。
「信心即生活」「仏法即社会」の立派な勝利の現証が、私は何よりもうれしい。
◆日蓮仏法は毎日が彼岸
一、ともあれ、本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また
「成仏に到る実践」にある。
先祖供養とは関係がなかったといってよい。大聖人の御書でも、「彼岸」という言葉
を、先祖供養の意義で用いられている個所は、一つもないからだ。
そもそも、春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではない。あくまでも、日本独特の
風習である。その定着には、浄土教の影響が強かったと推察されている。
つまり、春分・秋分の日は、太陽が真西に沈む。その夕日を見ながら西方極楽浄土
(さいほうごくらくじょうど)を思う観想法(かんそうほう)が、浄土教の中で行われてい
た。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結びつき、「彼岸会」として定着して
いったという説がある。
とくに、彼岸に合わせて墓参りする習慣などは、江戸時代のいわゆる葬式仏教のも
とで根付いたものと考えられている。
日蓮仏法では、「常彼岸(じょうひがん)」、すなわち毎日の勤行・唱題が、そのまま
彼岸会の実践である。自らが日々、妙法を行じゆく功徳を、先祖や故人に「廻)めぐ
ら)(回)し向ける」のが、真の回向であり追善であると説いているのだ。
そのうえで、春、秋の彼岸を一つの機会として、故人への感謝を込め、追善を行うこ
とも、「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理の上から、当然、意義のあることといってよ
いだろう。〈「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域や時代の風習に随
うべきであるとする考え〉
善き同志とともに会館や墓地公園などに集い、清々(すがすが)しく勤行・唱題し、故
人の志を継いで広宣流布に進む決意を深めゆくことは、大聖人の御心に最も適った
追善であることを確認しておきたいのだ。
そこに、坊主が介在する必要など、元来、まったくないのである。
◆僧による法要は葬式仏教の産物
一、「僧は葬送儀礼には関わらない」というのが、釈尊の遺言であり、仏教の伝統で
あった。
僧は、葬儀などの儀式に関わらないで、あくまでも自身の修行に専念し、自己完成
を目指すべき立場であった。
ところが日本では、室町時代を経て、檀家制度が確立される江戸時代になると、い
わゆる「葬式仏教」へと堕していった。
寺院は、仏教本来の出家の精神を失い、経済的な支えを葬送儀式に見いだし、巧
妙に利用していくようになっていったのである。
さまざまな法要も、仏教の本義に由来するものではなく、他の宗教や思想を取り入
れたものであることが、歴史研究で明らかにされている。
例えば、なじみの深い「四十九日の法要」も遡(さかのぼ)れば、インドのバラモン教
に由来するという。
百箇日・一周忌・三回忌の法要は、中国の儒教を淵源として、平安時代までには日
本でも行われるようになった。
さらに時代を経て、法要が寺院にとって重要な財源となるにつれ、七、十三、十七、
二十五、五十、六十回忌等々と、次々と回忌法要がつくり出されていったのである。
大聖人の御在世には既に、四十九日をはじめ、回忌法要の風習は広く社会に浸透
していた。大聖人の門下も、亡くなった家族の四十九日や回忌法要に際し、供養をお
届けしてきたという記録がある。
大聖人は、その孝養の真心を讃えられながら、御自身も追善供養してくださってい
る。
しかし、大聖人が、そうした法要を積極的に行うよう奨励されることはなかった。
先ほども申し上げたように、「彼岸会」に関する記述も、御書には全くないのである。
日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈(きゅうくつ)さや偏狭(へんきょう)さは
ない。心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き
人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。
「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。
仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そし
て一家眷属(けんぞく)も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目(がんもく)なのである。
19歳で恩師に巡り会い、21歳の時、恩師の会社にお世話になった。
以来、まっすぐに恩師に仕え、恩師のために生き抜いた。
戦後の混乱のなかで、戸田先生は事業に失敗され、莫大な借金を背負われた。身
も病んでおられた。絶体絶命の危機であった。
この厳しき秋霜(しゅうそう)の時代に、ただ一人、先生をお守りし、一切の逆境を跳ね返していったのが私である。
深夜であろうが、緊急の時は、隼(はやぶさ)のごとく先生のこ自宅にうかがった。
先生の病状を案じて、一晩中、待機したこともあった。
今では想像もできないと思うが、本当に峻厳な師弟であった。
ある時、先生は、うれしそうにおっしゃった。
「私には君がいる。本当の弟子がいる。だから絶対に何があっても安心しているんだ」
また、先生から「私のそばにいてくれ」と言われて、私は、夜学に通うことも断念した。
しかし、そのかわりに、先生は、残された全生命力を振り絞って、弟子の私に万般の学問を個人教授してくださった。その魂の薫陶(くんとう)は、師の命果てる寸前まで続いた。
師匠が命をかけて育てた弟子であった。
師匠を命をかけて守った弟子であった。
先生が涙ながらに語ってくださったことが忘れられない。
「君には苦労ばかりかけてしまった。病弱であるのに、死を決意してまで私のために戦ってくれた。永久に忘れないよ。君の功績は大聖人が全部、見通しておられるよ」
◆◆ 戸田大学の薫陶が私のすべて
◆◆≪戸田先生≫
どんな指導者や学者と議論しても負けない男を作っておいたよ
◆世界の識者との対談集は「50」に
一、先日、アメリカ・ソロー協会の知性との語らいをまとめた『美しき生命 地球と生きる』が発刊された(毎日新聞社刊)。世界の識者との42点目の対談集である。 さらに現在、複数の対談を継続している。そして、この秋、「東洋学術研究」誌上で連載開始となるアルゼンチンの人権活動家エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)との対談をもって、50点の対談が世に出ることになる(大拍手)。
世界の識者との対談の実質的なスタートは、約35年前のイギリスのトインビー博士との語らいが最初であった。
「人類の直面する基本的な諸問題について語り合いたい」 ── このように博士のほうから対談を希望されたのである。
語らいは、文明の未来、生命論、環境論、女性論、国際情勢、教育と宗教など多岐にわたった。
2年越し、40時間に及んだ対談が終わった時、私は、「トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」とうかがった。
トインビー博士は、にっこりとして言われた。
「私は、ミスター・イケダに最優等の『A』を差し上げます」と。
私のすべては、「戸田大学」で、約10年間、毎日のように訓練していただいたおかげである。
戸田先生は、私のいないところで、このようにも語っておられたようである。
「戸田門下生で、大作にかなう者はいない。どこに出しても恥ずかしくない。どんな指導者と議論しても、どんな学者と議論しても、負けない男をつくっておいたよ」と。ありがたい先生であった。
これまで、私は、多くの識者と語り合ってきたが、洋の東西を問わず、一流の人物の結論は、「師弟しかない」であった。
師弟のあるところに、本当の人生があり、真実の永遠性があり、究極の勝利がある。
◆正しい人生を 勇気の人生を
一、創価学会の根本の精神は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のために、命
をかけて戦い抜かれた牧口先生と戸田先生の師弟の精神である。
この師弟に流れ通う広宣流布への「不惜身命」の心がなくなったならば、今は、いかに発展しているように見えても、学会の前途は危うい。
仏法は、仏と魔との連続闘争である。決して甘いものではない。’
牧口先生、戸田先生のご精神を、今こそ、守り抜いていく時である。最高幹部は、命あるかぎり、求道心を燃やさなければならない。それが本当の学会精神である。
私は、戸田先生のために命を捨てようと決めていた。
それを先生は察知され、「俺の体をなげうってでも、大作を守る」と言われたのだ。
そして、先生から受け継いだ創価学会の発展のために私は、今日まで、動きに動き、祈りに祈り、書きに書いて、骨を粉にして働いてきた。
本当の清らかな、本当の師弟に徹した信心を、私も妻も貫き通してきた。
全世界に道を開いた。
全世界に恩師の平和の精神を宣揚した。
恩師の敵を討った。私は、戸田先生のただ一人の真正の弟子である。
先生は遺言するように語られた。
「私は何百人、何千人もの弟子を見てきたが、本当に誠実に私を支えてくれ、創価学会に尽くしてくれたのは大作が一番である」
皆さんには、いい人生を生きていただきたい。正しい人生を生きていただきたい。勇気ある人生を生きていただきたい。
その根本の道が「師弟の道」である。
私も、さらに本腰を入れて、本当の学会精神を語り残しておきたいと決意している(大拍手)。
◆彼岸は大宇宙の運行の節目
一、きょうは、陰に陽に、わが創価学会を厳然と護り支えてくださっている、最も功労深き方々の代表にお越しいただいた。
常日ごろからの尊い献身に心からの感謝を込めて、「霊鷲山(りょうじゅせん)」と「彼岸(ひがん)」をテーマにスピーチを残させていただきたい(大拍手)。
まもなく、秋の彼岸である。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる通り、秋の気配が深まってきた。
文豪・夏目漱石は、大病を克服した後に書いた新聞小説に『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』という題名をつけた。
正月から連載して、“彼岸過迄”には完結させるという心情からの命名だったという。
「彼岸」が日本人の生活のリズムに、深く浸透している一つの証左といってよい。
たしかに「彼岸」は、春夏秋冬の四季の変化に富む日本において、大宇宙の運行のリズムに則った、絶妙な節目となっている。
創価学会にとっては、春の彼岸は5・3「創価学会の日」への新生のスタートであり、秋の彼岸は11・18「創価学会創立記念日」への勇躍のスタートといってよい。
一、また彼岸に当たり、逝去なされた全功労者、そして全同志・全会友の先祖代々の諸精霊の追善回向を、来る年も、来る年も、私は懇(ねんご)ろに行わせていただいている。
本日も、皆さま方のご尊家の追善回向を、私は学会本部の師弟会館に御安置され
ている常住御本尊に真剣にご祈念させていただいた。
さらに北は北海道・厚田から、南は沖縄まで、全国各地の「生命の永遠の都」たる学会の墓園は、墓参に訪れるご家族でにぎわいを見せる。美しい秋の自然のなかで、浩然の気(こうぜんのき)を養いながら、深い思い出を刻んでいただきたいと願っている。
関係の役員の方々には、お世話になります。絶対無事故の運営を、何とぞよろしくお願いします(大拍手)。
◆◆ 苦悩の世界を希望の宝土(ほうど)に
── 「成仏への修行」が彼岸の本義
── 墓園は「生命の永遠の都」
── 広布の実践こそ真の回向
◆妙法の受持こそ「彼岸に到る」道
一、「彼岸会(ひがんえ)」の意義については、これまでも論じてきたが、仏法における「彼岸」の本義を、重ねて簡潔に確認しておきたい。
「彼岸」とは「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸(しがん)」との対比で用いられる。
「此岸」は、生死の苦しみ、煩悩の迷いの世界を、「彼岸」は、解脱・涅槃・成仏の悟りの境涯を譬えたものである。
また「彼岸」は、成仏の境涯とともに、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいる。
すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。
大乗仏教では、「成仏の境涯(彼岸)」に到るための修行に、「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定(ぜんじょう)」「智慧」の六つの行を立て、これを「六波羅蜜
(ろくはらみつ)」と呼んでいる。
「波羅蜜」とは、梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳だが、これを意訳すると「到彼岸」となる。
「受持即観心」の日蓮仏法に巡りあえた私たちは、妙法を「受持」、すなわち心から信じ、自行化他の実践を貫くことによって、この.「六波羅蜜」の一つ一つを果てしなく修行する歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を経なくとも、同じ功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成仏の境涯に到達することができるのである。
これが、大聖人の偉大なる仏法の「仏力」「法力」である。そして、その力を尽きるこ
となく引き出すのは、ひとえに、私たちの「信力」「行力」である。
日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で、その法理を明快に教えてくださっている。
広宣流布への行学に徹するところ、厳然たる人間革命の実証として、「六波羅蜜」つ
まり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という、菩薩に不可欠な徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくとの御約束である。
言いかえるならば、人格の深まりがないならば、真に仏法を行じているとはいえないであろう。
その点、本日、お集まりの功労者の方々は、社会においても、皆、第一級の模範の
指導者であられる。
「信心即生活」「仏法即社会」の立派な勝利の現証が、私は何よりもうれしい。
◆日蓮仏法は毎日が彼岸
一、ともあれ、本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また
「成仏に到る実践」にある。
先祖供養とは関係がなかったといってよい。大聖人の御書でも、「彼岸」という言葉
を、先祖供養の意義で用いられている個所は、一つもないからだ。
そもそも、春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではない。あくまでも、日本独特の
風習である。その定着には、浄土教の影響が強かったと推察されている。
つまり、春分・秋分の日は、太陽が真西に沈む。その夕日を見ながら西方極楽浄土
(さいほうごくらくじょうど)を思う観想法(かんそうほう)が、浄土教の中で行われてい
た。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結びつき、「彼岸会」として定着して
いったという説がある。
とくに、彼岸に合わせて墓参りする習慣などは、江戸時代のいわゆる葬式仏教のも
とで根付いたものと考えられている。
日蓮仏法では、「常彼岸(じょうひがん)」、すなわち毎日の勤行・唱題が、そのまま
彼岸会の実践である。自らが日々、妙法を行じゆく功徳を、先祖や故人に「廻)めぐ
ら)(回)し向ける」のが、真の回向であり追善であると説いているのだ。
そのうえで、春、秋の彼岸を一つの機会として、故人への感謝を込め、追善を行うこ
とも、「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理の上から、当然、意義のあることといってよ
いだろう。〈「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域や時代の風習に随
うべきであるとする考え〉
善き同志とともに会館や墓地公園などに集い、清々(すがすが)しく勤行・唱題し、故
人の志を継いで広宣流布に進む決意を深めゆくことは、大聖人の御心に最も適った
追善であることを確認しておきたいのだ。
そこに、坊主が介在する必要など、元来、まったくないのである。
◆僧による法要は葬式仏教の産物
一、「僧は葬送儀礼には関わらない」というのが、釈尊の遺言であり、仏教の伝統で
あった。
僧は、葬儀などの儀式に関わらないで、あくまでも自身の修行に専念し、自己完成
を目指すべき立場であった。
ところが日本では、室町時代を経て、檀家制度が確立される江戸時代になると、い
わゆる「葬式仏教」へと堕していった。
寺院は、仏教本来の出家の精神を失い、経済的な支えを葬送儀式に見いだし、巧
妙に利用していくようになっていったのである。
さまざまな法要も、仏教の本義に由来するものではなく、他の宗教や思想を取り入
れたものであることが、歴史研究で明らかにされている。
例えば、なじみの深い「四十九日の法要」も遡(さかのぼ)れば、インドのバラモン教
に由来するという。
百箇日・一周忌・三回忌の法要は、中国の儒教を淵源として、平安時代までには日
本でも行われるようになった。
さらに時代を経て、法要が寺院にとって重要な財源となるにつれ、七、十三、十七、
二十五、五十、六十回忌等々と、次々と回忌法要がつくり出されていったのである。
大聖人の御在世には既に、四十九日をはじめ、回忌法要の風習は広く社会に浸透
していた。大聖人の門下も、亡くなった家族の四十九日や回忌法要に際し、供養をお
届けしてきたという記録がある。
大聖人は、その孝養の真心を讃えられながら、御自身も追善供養してくださってい
る。
しかし、大聖人が、そうした法要を積極的に行うよう奨励されることはなかった。
先ほども申し上げたように、「彼岸会」に関する記述も、御書には全くないのである。
日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈(きゅうくつ)さや偏狭(へんきょう)さは
ない。心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き
人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。
「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。
仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そし
て一家眷属(けんぞく)も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目(がんもく)なのである。