報恩こそ人間の正道 人間の証(あかし)
── 英雄は「恩」と「仇(あだ)」の二つを忘れない
戸田城聖先生は、読書術にも卓越しておられた。
金庸(きんよう)先生の「武侠(ぶきょう)小説」を手にされる機会があれば、にっこりと
相好を崩されたにちがいない。
「よくできている。大した作家だ。ただし、面白おかしく読むだけではいけないそ。そ
の奥にある哲学の深さと、信念の強さを学べ」
本に呑(の)まれてはいけない。筋書きを追うだけでは下(げ)の読み方である。書物
の背後にある作家の精神、時代、社会まで読みこなせ。眼光紙背(がんこうしはい)に
徹する、恩師の読書論が思われてならない。
◆本当の英雄とは
「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」
中国本土をはじめ、世界中の華僑・華人(かきょう・かじん)に読み継がれてきた。
ストーリーの面白さは極上、飛び切りである。登場人物の多様・多彩さも比類がな
い。
情に厚く、義に篤(あつ)い偉丈夫(いじょうふ)。あえて逆境に身を投じる孤高の剣
士。計算高いが、どこか憎めない、お調子者。
人間の弱さ、もろさ、欠点も、ありのままに描く。読者は作中の人物に自分を映し、
手に汗を握る。
だが、それだけではない。
背骨(せぼね)には、揺るがぬ哲学、信念が、ぴしっと貫かれている。
不正は絶対に許さない。
恩には必ず報いる。
仇なすものとは一歩も退かずに戦う。
痛快無比。正義と不正義が紛然(ふんぜん)とする時代だからこそ、人々を魅了して
やまないのだろう。
学会精神に通じる。いや、学会精神そのものである。
恩と仇(あだ)。正と邪。善と悪。敢然と正していく人こそ、真の好漢(こうかん)、まこ
との英雄である。
◆巌窟王(がんくつおう)と名乗らん
金庸先生は“東洋のデュマ”と称される。
アレクサンドル・デュマ。名作『モンテ・クリスト伯』の作者である。日本では明治の昔、
黒岩涙香(くろいわるいこう)が翻訳した『巌窟王』の作品名で広く知られた。
「『巌窟王』を読め!」
恩師は厳しかった。
冤罪(えんざい)で囚(とら)われた主人公エドモン・ダンテスが決死の脱獄を果たし、
卑劣な敵を打ち倒していくドラマである。
恩師は「もし牢を出たならば、巌窟王と名乗って牧口先生の仇を討つ」と誓われた。
牧口先生もまた『忠臣蔵』がお好きだった。かの赤穂浪士が主君の仇を討つ物語は
名高い。
国賊扱いされ、殉教なされた牧口先生だったが、獄中で確信しておられたに相違な
い。私の仇は、必ず私の弟子が討つ。戸田君が必ずや討ってくれる。
仏法に復讐はない。
しかし ── それは不義不正(ふぎふせい)を許すことではない。まして邪悪を野放
しにすることでは断じてない。
金庸先生の『武侠小説』。『モンテ・クリスト伯』。『忠臣蔵』。
いずれの作品にも、同じ魂が脈打っている。
恩を報じる。仇なす者は許さない。人間の正道である。人間の人間としての証であ
る。そこに時代も、洋の東西もない。
◆言論は獅子の仕事
金庸先生は、最初から作家を目指していたわけではない。もともと有力紙の新聞記
者だった。
のちに独立し、やがて香港きっての良識と謳(うた)われる日刊紙「明報(めいほう)」
を創刊した。
わずか4人からの出発だった。1、2年で廃刊だろう、と冷笑された。不安定な経営。
記者もいない。
「ならば」と自ら毎日、社説を執筆した。コラムも書いた。連載小説まで書いた。八面
六臂(はちめんろっぴ)である。
わが聖教新聞もスタートは同じであった。
1面のトップ記事。連載小説『人間革命』。コラム「寸鉄」。
あらゆる記事を、戸田先生御自身が書かれた。
編集長であり、論説委員長であり、小説家であり、コラムニストであられた。
「私が社長だ。君が副社長になれ」と託された私も、猛然とペンを執(と)った。書き
かけの原稿を「大作、後は君が書け」と手渡されたこともある。
少数精鋭。それが言論戦の原点である。
言論戦とは、獅子の戦いである。人数ではない。羊千匹より獅子一匹だ。一騎当千
の言論の闘士がいればよい。
人に頼ろうとするから力がつかない。筆が弱くなる。甘えが生じる。
大人数(おおにんずう)だから、恵まれた環境だから、優れた仕事ができるわけでは
ない。実際は逆のケースが多い。
「使命」を自覚したとき、力が出る。「責任」に徹したとき、智慧が涌く。それらすべて
が文に滲(にじ)み出るのである。
◇
金庸先生は仏法にも精通しておられる。「立正安国論」をめぐって語りあった。「すみ
やかに邪義を捨てよ! 正法を立てて国を安んぜよ」 ── 文応元年(1260年)、す
なわち746年前の今日7月16日。日蓮大聖人は時の最高権力者に対して、真の社
会変革の根本法を直言した。
その精神を現代に展開するSGI(創価学会インタナショナル)である。先生は「並大
抵の任務ではない」と讃えてくださった。
「重い荷を背負ってはるかな道を、まだまだ歩かねばなりません。しかし、一歩でも
歩みを進めれば、平和の勢力もその分、確実に増しているのです」
建設は死闘なり。まして我らの目指す広宣流布は、人類未聞(みもん)の大闘争で
ある。
◆日中友好への責務
金庸先生と私には、共通の友人が多い。
周恩来(しゅうおんらい)総理、?小平(とうしょうへい)氏、江沢民(こうたくみん)主席。
金庸先生は中国の歴代指導者にも直接会われている。
香港の宗主国(そうしゅこく)だったイギリスのサッチャー首相とも会談した。中国返
還へ向けた「香港基本法」の起草委員も務めた。
すでに文名赫々(ぶんめいかっかく)。押しも押されもせぬ名士である。
異論もあったにちがいない。
香港返還前の、この騒然とした世情にあって、何もわざわざ動くことはない。なぜ自
ら火中の栗を拾うのか。
信念があったからだ。
「私は香港生まれではないが、香港に恩恵を受けた」。大人物は恩を忘れない。
私も、中国、イギリスの指導者と意見を交わしてきた。歴代の香港総督にも幾度とな
く、お会いした。香港返還の問題も率直に語り合った。
日中の国交正常化を提言した私である。
香港の返還後の未来のためにも、できることは何でもさせていただきたい。それが、
提言した者としての責務だと信じたからである。
◇
香港は明年、早くも返還10年を迎える。
時は移る。社会は動く。だが住む人々の「生き抜く心」が強ければ、その地は伸び続
ける。この歴史を世界に示してきたのが香港の人々である。
ますますの繁栄、幸福を祈らぬ日はない。
************************************************************金庸(1924
年?)
中国・浙江省海寧県の出身。重慶の中央政治学校に学んだが、他の学生の不正を
抗議し退学に。第2次世界大戦後、当時の代表的新聞「大公報」に採用され、香港に
勤務する。1955年、同紙の系列新聞に武侠小説『書剣恩仇録』を発表。59年、独立
して日刊紙「明報」を創刊。72年に筆を置くまで、著作は全てベストセラーに。世界中
で幅広い読者を持ち、発刊部数は1億部とも。武侠小説とは、武術で強きをくじき、弱
きを助け、正義のために行動する人物をつづる物語。深い見識と歴史背景に基づく
金庸氏の作品によって、文学としての地位が築かれた。北京の青年学術者が編纂し
た『20世紀の中国文学大家文庫』では、魯迅、沈従文、巴金に次ぐ4番目に列せられ
た。香港の中国返還が決まると、香港基本法の起草委員に就任。現在は研究活動の
かたわら、小説の改訂に取り組む。
池田名誉会長とは95年11月16日、香港の自宅で初会談。計5回、会見を重ね、
対談集『旭日の世紀を求めて』(潮出版社)を発刊している。
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── 英雄は「恩」と「仇(あだ)」の二つを忘れない
戸田城聖先生は、読書術にも卓越しておられた。
金庸(きんよう)先生の「武侠(ぶきょう)小説」を手にされる機会があれば、にっこりと
相好を崩されたにちがいない。
「よくできている。大した作家だ。ただし、面白おかしく読むだけではいけないそ。そ
の奥にある哲学の深さと、信念の強さを学べ」
本に呑(の)まれてはいけない。筋書きを追うだけでは下(げ)の読み方である。書物
の背後にある作家の精神、時代、社会まで読みこなせ。眼光紙背(がんこうしはい)に
徹する、恩師の読書論が思われてならない。
◆本当の英雄とは
「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」
中国本土をはじめ、世界中の華僑・華人(かきょう・かじん)に読み継がれてきた。
ストーリーの面白さは極上、飛び切りである。登場人物の多様・多彩さも比類がな
い。
情に厚く、義に篤(あつ)い偉丈夫(いじょうふ)。あえて逆境に身を投じる孤高の剣
士。計算高いが、どこか憎めない、お調子者。
人間の弱さ、もろさ、欠点も、ありのままに描く。読者は作中の人物に自分を映し、
手に汗を握る。
だが、それだけではない。
背骨(せぼね)には、揺るがぬ哲学、信念が、ぴしっと貫かれている。
不正は絶対に許さない。
恩には必ず報いる。
仇なすものとは一歩も退かずに戦う。
痛快無比。正義と不正義が紛然(ふんぜん)とする時代だからこそ、人々を魅了して
やまないのだろう。
学会精神に通じる。いや、学会精神そのものである。
恩と仇(あだ)。正と邪。善と悪。敢然と正していく人こそ、真の好漢(こうかん)、まこ
との英雄である。
◆巌窟王(がんくつおう)と名乗らん
金庸先生は“東洋のデュマ”と称される。
アレクサンドル・デュマ。名作『モンテ・クリスト伯』の作者である。日本では明治の昔、
黒岩涙香(くろいわるいこう)が翻訳した『巌窟王』の作品名で広く知られた。
「『巌窟王』を読め!」
恩師は厳しかった。
冤罪(えんざい)で囚(とら)われた主人公エドモン・ダンテスが決死の脱獄を果たし、
卑劣な敵を打ち倒していくドラマである。
恩師は「もし牢を出たならば、巌窟王と名乗って牧口先生の仇を討つ」と誓われた。
牧口先生もまた『忠臣蔵』がお好きだった。かの赤穂浪士が主君の仇を討つ物語は
名高い。
国賊扱いされ、殉教なされた牧口先生だったが、獄中で確信しておられたに相違な
い。私の仇は、必ず私の弟子が討つ。戸田君が必ずや討ってくれる。
仏法に復讐はない。
しかし ── それは不義不正(ふぎふせい)を許すことではない。まして邪悪を野放
しにすることでは断じてない。
金庸先生の『武侠小説』。『モンテ・クリスト伯』。『忠臣蔵』。
いずれの作品にも、同じ魂が脈打っている。
恩を報じる。仇なす者は許さない。人間の正道である。人間の人間としての証であ
る。そこに時代も、洋の東西もない。
◆言論は獅子の仕事
金庸先生は、最初から作家を目指していたわけではない。もともと有力紙の新聞記
者だった。
のちに独立し、やがて香港きっての良識と謳(うた)われる日刊紙「明報(めいほう)」
を創刊した。
わずか4人からの出発だった。1、2年で廃刊だろう、と冷笑された。不安定な経営。
記者もいない。
「ならば」と自ら毎日、社説を執筆した。コラムも書いた。連載小説まで書いた。八面
六臂(はちめんろっぴ)である。
わが聖教新聞もスタートは同じであった。
1面のトップ記事。連載小説『人間革命』。コラム「寸鉄」。
あらゆる記事を、戸田先生御自身が書かれた。
編集長であり、論説委員長であり、小説家であり、コラムニストであられた。
「私が社長だ。君が副社長になれ」と託された私も、猛然とペンを執(と)った。書き
かけの原稿を「大作、後は君が書け」と手渡されたこともある。
少数精鋭。それが言論戦の原点である。
言論戦とは、獅子の戦いである。人数ではない。羊千匹より獅子一匹だ。一騎当千
の言論の闘士がいればよい。
人に頼ろうとするから力がつかない。筆が弱くなる。甘えが生じる。
大人数(おおにんずう)だから、恵まれた環境だから、優れた仕事ができるわけでは
ない。実際は逆のケースが多い。
「使命」を自覚したとき、力が出る。「責任」に徹したとき、智慧が涌く。それらすべて
が文に滲(にじ)み出るのである。
◇
金庸先生は仏法にも精通しておられる。「立正安国論」をめぐって語りあった。「すみ
やかに邪義を捨てよ! 正法を立てて国を安んぜよ」 ── 文応元年(1260年)、す
なわち746年前の今日7月16日。日蓮大聖人は時の最高権力者に対して、真の社
会変革の根本法を直言した。
その精神を現代に展開するSGI(創価学会インタナショナル)である。先生は「並大
抵の任務ではない」と讃えてくださった。
「重い荷を背負ってはるかな道を、まだまだ歩かねばなりません。しかし、一歩でも
歩みを進めれば、平和の勢力もその分、確実に増しているのです」
建設は死闘なり。まして我らの目指す広宣流布は、人類未聞(みもん)の大闘争で
ある。
◆日中友好への責務
金庸先生と私には、共通の友人が多い。
周恩来(しゅうおんらい)総理、?小平(とうしょうへい)氏、江沢民(こうたくみん)主席。
金庸先生は中国の歴代指導者にも直接会われている。
香港の宗主国(そうしゅこく)だったイギリスのサッチャー首相とも会談した。中国返
還へ向けた「香港基本法」の起草委員も務めた。
すでに文名赫々(ぶんめいかっかく)。押しも押されもせぬ名士である。
異論もあったにちがいない。
香港返還前の、この騒然とした世情にあって、何もわざわざ動くことはない。なぜ自
ら火中の栗を拾うのか。
信念があったからだ。
「私は香港生まれではないが、香港に恩恵を受けた」。大人物は恩を忘れない。
私も、中国、イギリスの指導者と意見を交わしてきた。歴代の香港総督にも幾度とな
く、お会いした。香港返還の問題も率直に語り合った。
日中の国交正常化を提言した私である。
香港の返還後の未来のためにも、できることは何でもさせていただきたい。それが、
提言した者としての責務だと信じたからである。
◇
香港は明年、早くも返還10年を迎える。
時は移る。社会は動く。だが住む人々の「生き抜く心」が強ければ、その地は伸び続
ける。この歴史を世界に示してきたのが香港の人々である。
ますますの繁栄、幸福を祈らぬ日はない。
************************************************************金庸(1924
年?)
中国・浙江省海寧県の出身。重慶の中央政治学校に学んだが、他の学生の不正を
抗議し退学に。第2次世界大戦後、当時の代表的新聞「大公報」に採用され、香港に
勤務する。1955年、同紙の系列新聞に武侠小説『書剣恩仇録』を発表。59年、独立
して日刊紙「明報」を創刊。72年に筆を置くまで、著作は全てベストセラーに。世界中
で幅広い読者を持ち、発刊部数は1億部とも。武侠小説とは、武術で強きをくじき、弱
きを助け、正義のために行動する人物をつづる物語。深い見識と歴史背景に基づく
金庸氏の作品によって、文学としての地位が築かれた。北京の青年学術者が編纂し
た『20世紀の中国文学大家文庫』では、魯迅、沈従文、巴金に次ぐ4番目に列せられ
た。香港の中国返還が決まると、香港基本法の起草委員に就任。現在は研究活動の
かたわら、小説の改訂に取り組む。
池田名誉会長とは95年11月16日、香港の自宅で初会談。計5回、会見を重ね、
対談集『旭日の世紀を求めて』(潮出版社)を発刊している。
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