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聖教新聞に学ぶ

日々の聖教新聞から人間学を学ぶ

中国の大文豪  金庸氏

2006-08-28 09:04:53 | 世界との語らい
報恩こそ人間の正道 人間の証(あかし)
── 英雄は「恩」と「仇(あだ)」の二つを忘れない


 戸田城聖先生は、読書術にも卓越しておられた。
 金庸(きんよう)先生の「武侠(ぶきょう)小説」を手にされる機会があれば、にっこりと
相好を崩されたにちがいない。
 「よくできている。大した作家だ。ただし、面白おかしく読むだけではいけないそ。そ
の奥にある哲学の深さと、信念の強さを学べ」
 本に呑(の)まれてはいけない。筋書きを追うだけでは下(げ)の読み方である。書物
の背後にある作家の精神、時代、社会まで読みこなせ。眼光紙背(がんこうしはい)に
徹する、恩師の読書論が思われてならない。

◆本当の英雄とは
 「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」
 中国本土をはじめ、世界中の華僑・華人(かきょう・かじん)に読み継がれてきた。
 ストーリーの面白さは極上、飛び切りである。登場人物の多様・多彩さも比類がな
い。
 情に厚く、義に篤(あつ)い偉丈夫(いじょうふ)。あえて逆境に身を投じる孤高の剣
士。計算高いが、どこか憎めない、お調子者。
 人間の弱さ、もろさ、欠点も、ありのままに描く。読者は作中の人物に自分を映し、
手に汗を握る。
 だが、それだけではない。
 背骨(せぼね)には、揺るがぬ哲学、信念が、ぴしっと貫かれている。
 不正は絶対に許さない。
 恩には必ず報いる。
 仇なすものとは一歩も退かずに戦う。
 痛快無比。正義と不正義が紛然(ふんぜん)とする時代だからこそ、人々を魅了して
やまないのだろう。
 学会精神に通じる。いや、学会精神そのものである。
 恩と仇(あだ)。正と邪。善と悪。敢然と正していく人こそ、真の好漢(こうかん)、まこ
との英雄である。

◆巌窟王(がんくつおう)と名乗らん
 金庸先生は“東洋のデュマ”と称される。
 アレクサンドル・デュマ。名作『モンテ・クリスト伯』の作者である。日本では明治の昔、
黒岩涙香(くろいわるいこう)が翻訳した『巌窟王』の作品名で広く知られた。
 「『巌窟王』を読め!」
 恩師は厳しかった。
 冤罪(えんざい)で囚(とら)われた主人公エドモン・ダンテスが決死の脱獄を果たし、
卑劣な敵を打ち倒していくドラマである。
 恩師は「もし牢を出たならば、巌窟王と名乗って牧口先生の仇を討つ」と誓われた。
 牧口先生もまた『忠臣蔵』がお好きだった。かの赤穂浪士が主君の仇を討つ物語は
名高い。
 国賊扱いされ、殉教なされた牧口先生だったが、獄中で確信しておられたに相違な
い。私の仇は、必ず私の弟子が討つ。戸田君が必ずや討ってくれる。
 仏法に復讐はない。
 しかし ── それは不義不正(ふぎふせい)を許すことではない。まして邪悪を野放
しにすることでは断じてない。
 金庸先生の『武侠小説』。『モンテ・クリスト伯』。『忠臣蔵』。
 いずれの作品にも、同じ魂が脈打っている。
 恩を報じる。仇なす者は許さない。人間の正道である。人間の人間としての証であ
る。そこに時代も、洋の東西もない。

◆言論は獅子の仕事
 金庸先生は、最初から作家を目指していたわけではない。もともと有力紙の新聞記
者だった。
 のちに独立し、やがて香港きっての良識と謳(うた)われる日刊紙「明報(めいほう)」
を創刊した。
 わずか4人からの出発だった。1、2年で廃刊だろう、と冷笑された。不安定な経営。
記者もいない。
 「ならば」と自ら毎日、社説を執筆した。コラムも書いた。連載小説まで書いた。八面
六臂(はちめんろっぴ)である。
 わが聖教新聞もスタートは同じであった。
 1面のトップ記事。連載小説『人間革命』。コラム「寸鉄」。
 あらゆる記事を、戸田先生御自身が書かれた。
 編集長であり、論説委員長であり、小説家であり、コラムニストであられた。
 「私が社長だ。君が副社長になれ」と託された私も、猛然とペンを執(と)った。書き
かけの原稿を「大作、後は君が書け」と手渡されたこともある。
 少数精鋭。それが言論戦の原点である。
 言論戦とは、獅子の戦いである。人数ではない。羊千匹より獅子一匹だ。一騎当千
の言論の闘士がいればよい。
 人に頼ろうとするから力がつかない。筆が弱くなる。甘えが生じる。
 大人数(おおにんずう)だから、恵まれた環境だから、優れた仕事ができるわけでは
ない。実際は逆のケースが多い。
 「使命」を自覚したとき、力が出る。「責任」に徹したとき、智慧が涌く。それらすべて
が文に滲(にじ)み出るのである。
             ◇
 金庸先生は仏法にも精通しておられる。「立正安国論」をめぐって語りあった。「すみ
やかに邪義を捨てよ! 正法を立てて国を安んぜよ」 ── 文応元年(1260年)、す
なわち746年前の今日7月16日。日蓮大聖人は時の最高権力者に対して、真の社
会変革の根本法を直言した。
 その精神を現代に展開するSGI(創価学会インタナショナル)である。先生は「並大
抵の任務ではない」と讃えてくださった。
 「重い荷を背負ってはるかな道を、まだまだ歩かねばなりません。しかし、一歩でも
歩みを進めれば、平和の勢力もその分、確実に増しているのです」
 建設は死闘なり。まして我らの目指す広宣流布は、人類未聞(みもん)の大闘争で
ある。

◆日中友好への責務
 金庸先生と私には、共通の友人が多い。
 周恩来(しゅうおんらい)総理、?小平(とうしょうへい)氏、江沢民(こうたくみん)主席。
金庸先生は中国の歴代指導者にも直接会われている。
 香港の宗主国(そうしゅこく)だったイギリスのサッチャー首相とも会談した。中国返
還へ向けた「香港基本法」の起草委員も務めた。
 すでに文名赫々(ぶんめいかっかく)。押しも押されもせぬ名士である。
 異論もあったにちがいない。
 香港返還前の、この騒然とした世情にあって、何もわざわざ動くことはない。なぜ自
ら火中の栗を拾うのか。
 信念があったからだ。
 「私は香港生まれではないが、香港に恩恵を受けた」。大人物は恩を忘れない。
 私も、中国、イギリスの指導者と意見を交わしてきた。歴代の香港総督にも幾度とな
く、お会いした。香港返還の問題も率直に語り合った。
 日中の国交正常化を提言した私である。
 香港の返還後の未来のためにも、できることは何でもさせていただきたい。それが、
提言した者としての責務だと信じたからである。
               ◇
 香港は明年、早くも返還10年を迎える。
 時は移る。社会は動く。だが住む人々の「生き抜く心」が強ければ、その地は伸び続
ける。この歴史を世界に示してきたのが香港の人々である。
 ますますの繁栄、幸福を祈らぬ日はない。


************************************************************金庸(1924
年?)
 中国・浙江省海寧県の出身。重慶の中央政治学校に学んだが、他の学生の不正を
抗議し退学に。第2次世界大戦後、当時の代表的新聞「大公報」に採用され、香港に
勤務する。1955年、同紙の系列新聞に武侠小説『書剣恩仇録』を発表。59年、独立
して日刊紙「明報」を創刊。72年に筆を置くまで、著作は全てベストセラーに。世界中
で幅広い読者を持ち、発刊部数は1億部とも。武侠小説とは、武術で強きをくじき、弱
きを助け、正義のために行動する人物をつづる物語。深い見識と歴史背景に基づく
金庸氏の作品によって、文学としての地位が築かれた。北京の青年学術者が編纂し
た『20世紀の中国文学大家文庫』では、魯迅、沈従文、巴金に次ぐ4番目に列せられ
た。香港の中国返還が決まると、香港基本法の起草委員に就任。現在は研究活動の
かたわら、小説の改訂に取り組む。
 池田名誉会長とは95年11月16日、香港の自宅で初会談。計5回、会見を重ね、
対談集『旭日の世紀を求めて』(潮出版社)を発刊している。
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