お天道様は見てござる

元創価学会員。現在は公明党が熱烈に推進し、ビルゲイツから感謝状をもらったコロナワクチンの問題について綴っています。

結論:母の葬儀は創価学会の友人葬でなくても大丈夫だった!

2018-12-26 04:04:17 | 日記
母の死や葬儀についての説明をしてきましたが、結論から言うと、母の葬儀は学会の友人葬でなくても大丈夫でした。
ずっと母の葬儀をどうしようかということは頭にあったのですが、その死が突然だったっこともあり、結果的に学会葬ではなく無宗教での見送りとなりました。
しかし、それでも何の問題もありませんでした。
それは、母が意識不明の間に、何度も「友人葬ではできません、ごめんね」ということを言い続けたことで、
母と(人は亡くなる直前まで耳が聞こえているそうです)、自分の気持ちの折り合いがついたのかなという気もします。

そして、葬儀後の話なのですが……。

母の葬儀を終えると、学会員の人が実家にやって来たようです。
「香典」があるからということだったそうですが、これ以上創価学会との関わりを持ちたくなかった妹は香典を断りました。
香典の他に池田大作さんからの弔電があるということだったようで、それに関しては亡き母が望むかもしれないということで受け取ることにしたそうです。

その際に母の役職の2ランクアップ(?)の任命のようなことも行われたそうで、妹は面食らったといいます(笑)
「なんか警察で殉職した人の階級がアップするあれみたいだった……」と妹は感想を言いました。
私はその話を聞き、思わず「自分もかつてそうだったわけなんだけど……創価学会の人って、ちょろいよね……」と呟いてしまいました。

役職のランクアップなんて、表彰状みたいな紙切れ一枚で数百円程度の出費でしょう。
そして、亡くなった母には何の意味もないものですが、おそらく熱心な創価学会員の家族であれば、
その数百円の演出に感激して、また新聞啓蒙やら選挙やらに頑張るのでしょう。
本当につくづく、創価学会員は「ちょろいな」と、私は自戒を込めてそう思いました。

その後、来年の選挙のためでしょうが、創価学会の人がちょくちょく実家に来るようになったと言います。
おそらく、役職特進の効果が家族に普及してると見込んでやって来たのでしょう(そう考える幹部もちょろすぎる……)。
妹は「寝起きなんで」「体調が悪いんで」「今忙しいので」などといい、持ってきた書類なども「郵便受けに入れて置いてください」と塩対応しているそうです(笑)。

葬儀を終えて思ったのは、改めて創価学会員は、まるで安物のおもちゃのように「ちょろいな」ということでした。
それはもちろん、かつての自分に対しての気持ちでもあります。

母の葬儀を終えて思ったことは、やはり危篤状態になるまで会わなくて良かったと言うことです。
母との交流を断絶しようと決めたときには、母が死んだ時に後悔するかもしれないという不安がありました。
それに、自分自身が辛い思いをしたくないための逃げではないかとも考えたこともありました。

しかし、母の葬儀を終えてみると、すべては仕方のないことでした。
母と関われば、否が応でも創価学会と関わらなくてはならなくなりますし、創価学会の話になります。
そのたびに喧嘩をし、精神が不安定な母はもっと激しい行動に出ていたかもしれません。
お互いに相容れることなど、できなかったのです。
そして、お互いのために、距離を取ることが最良の道でした。

母が創価学会員でなければ、もっと優しくしてあげられらたのに、一緒にご飯も食べに行けたのに……という気持ちが、まったくないわけではありません。
でも、50年以上もの間、創価学会に洗脳され続けてきた母の洗脳を解くのは不可能です。
そして、洗脳されたままの母と私が仲良くすることも不可能です。
何もかも望んだとおりにといかないのが人生です。
ですので、私が選んだ母との距離を取り、交流を絶つという選択肢は、
私に与えられたものの中では最良のものだったと今では思います。
その代わりに、私は寂しさを受け入れました。
ですが、今はとてもすっきりとした気分です。

創価学会員の家族のことで悩んでおられる方の境遇は、本当に千差万別だと思います。
親が大幹部などの場合は、なおさらでしょう。
ですので、私のやり方がすべての人に当てはまるとは限らないと思います。

ただ、こういうパターンもあるよというのをお伝えできればと思い、2年以上ぶりにブログを更新させていただきました。
我慢して、耐えるだけが道ではないと思いますし、別の方向を見たときに、今の苦しみを解決する方法があるかもしれません。
それには私が寂しさを受け入れたように、何らかのリスクや犠牲が必要な時もあるでしょう。
でも、そういう道を選んでも、今の私はとてもすっきりした気持ちでいられます。
逆に、母との距離をとっていたからこそ、母が亡くなった時には、これまでのすべての思いを昇華して、母に感謝することもできました。
古い昭和歌謡の中に「にくみあわないその前に私は消えてゆくの」という歌詞があります。
憎み合わないうちに、距離を取るということも、ひとつの選択肢としてありだと思います。

今は母に対するわだかまり、憎しみ、すべてありません。
もしもこれが距離を取らずに、最後まで私が耐えしのんでいたならば、こんな気持ちになれた自信はありません。

どうかそれぞれにとって、最良の道を考え、選んでいただければと思います。

※あと少しだけ、ブログの更新を続けます。


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