お天道様は見てござる

元創価学会員。現在は公明党が熱烈に推進し、ビルゲイツから感謝状をもらったコロナワクチンの問題について綴っています。

創価学会と依存症について

2016-10-04 06:04:43 | 日記
引っ越してからのことを書いていましたが、ちょっとまた立ち止まって、
創価学会と依存症について考えてみたいと思います。
父のアルコール依存症、母の買い物依存症の他に、私自身もこれまでさまざまな依存症を経験しました。
恋愛依存症、ニコチン依存症、オンラインゲーム依存症、アルコールの依存症もあわやというところまで行きましたが、
父の姿を見たおかげで私自身は断酒することができました。
恋愛やオンラインゲームの依存症については、環境などの変化によってやめざるを得なくなり、
やめた後に依存症だったことに気付き、今では自分からは近づかないようにしています(万が一にも再び依存症になる可能性を捨てきれないため)。
ニコチン依存症、つまりタバコについては、けっこう大変でした。
喉が辛いのと、海外旅行を控えていたのでやめようと決心したのですが、その道のりは想像以上に困難でした。
アルコール依存症と同じで、ニコチンが薬物なので精神論だけではなかなか依存をやめられないからだと思います。
最初は当時はやっていた「禁●セラピー」という本を読んで半年間の禁煙に成功しましたが、
失恋を機に再び吸い始めてしまい、禁●セラピーは二度目は効かないとされているので、
最終的にはニ●レットを使って禁煙に成功しました。
それほど苦しまず禁煙できる人もいるようなのですが、私は一度目も二度目もかなり辛かったので、
その辛さを思い出しながら、もう二度とタバコは吸わないと誓って今日にいたります。
薬物依存の怖さですよね。眠っていても数十分ではっとなって目が覚めることを繰り返したり、
胸の中にもやもやがいっぱいたまるような感覚を味わう禁断症状。本当に辛かったです。
このときの経験があるので、父のお酒の禁断症状の苦しみはかなり理解できました。
実はタバコが依存症だというのは、禁煙をしてみて初めて分かりました。
タバコを吸っている間は、これが依存症だという意識がまるでなかったように感じます。
禁●セラピーという本は、依存症の仕組みについて分かりやすく、読みやすく書かれています。
特に心に響いたのは、タバコを吸い終えた瞬間から、もう次のタバコのことを考えているといった内容の部分でした。
友達と会っていても、妹と会っていても、私の心は「次のタバコ」のことを考えているんだと思うと、
何だかものすごく申し訳ない気持ちになってしまったのです。
でも、このタバコに変わるものが実は「創価学会の功徳(を得るための、罰を得ないためのノルマ)」だということに、このときは気付いていませんでした。
創価学会の信仰も、実は依存症ではないかと私は思うのです。
創価学会のマインドコントロールから解放された今は、友達と会うとき、妹と会うとき、その場を楽しむことだけを考えます。
だけど、創価学会員だったとき「次の選挙のこといつ言おう」「新聞取ってくれるかな」「今度の会合来てもらえるかな」「仏法対話して功徳ポイント稼がないと」
と、友人や妹との時間を楽しむこと以外のことが、頭の中を占領していたのです。
そして、そのことに対して疑問や罪悪感を抱くことはありませんでした。
父がアルコール依存症を発症してからは、家族会でアルコール依存症の勉強会に参加するようになりましたが、
この勉強会で依存症の仕組みをさらに深く学ぶことができました。
そして、それは創価学会員が功徳(をもらうため、罰をもらわないためのノルマ)を何よりも優先してしまう状況とかなり酷似していることにも気付きました。
アルコールに依存症は、コントロール障害ともいわれます。
普通は「ここでやめておこう」とお酒を飲むのをやめておくことができるのですが、
アルコール依存症患者は飲酒欲求をコントロールすることができません。
これ以上飲むとやばいという状況になっても、さらに飲み続けてしまいます。
また、アルコール依存症になると、普通の人とは物事の優先順位が変わってしまいます。
世間的な常識や信用、さらには法律よりも、お酒を優先するようになってしまいます。
父の場合も依存症がすすみ、お酒を万引きするという犯罪を犯してしまいました。
万引きは犯罪です。当然、やってはいけないことなのです。それは分かっているはずです。
分かっているのに、コントロールができないのです。
創価学会員もこれと同じようなところが多々見られます。
たとえば、選挙などが分かりやすいかもしれません。
ある選挙の時、朝はいつも「出陣式」というのがあるのですが、
そこで一人の女子部員が選挙のハガキを握りしめ(当時はハガキだった)、決意発表しました。
実はその握りしめたハガキというのは、彼女の友人のものだったのです。
その女子部員は友人の母に「本人が絶対に行かないって言ってるから、代わりに行って欲しい。貴重な一票をあなたに託す」と言われたのだそうです。
女子部員は「生年月日等、間違えないようにして(当時は生年月日を聞かれた)、しっかりと自分の使命を果たしてきます!」と堂々と決意を述べました。
これは完全に選挙違反の行為です。
女子部員にハガキを渡した婦人部も、替え玉投票に行こうとしてた女子部員も、双方ともに法律違反の犯罪を犯しているわけです。
そして、双方共に犯罪行為を犯すことに対する罪悪感はまったくありません。
「功徳」のために(もしくは罰を受けないために)、女子部員も婦人部員も法律を守るというコントロールができず、選挙違反に及ぼうとしたのです。
結局、このときはその時同席していた幹部が「さすがにそれは選挙違反だから」と止め(幹部ばかりでなく、新入会のメンバーもいたからだと思う)、
おそらく女子部員は替え玉投票はしなかったのだろうと思いますが、本当のところは分かりません。
また、アルコール依存症者が家族などが心配してお酒をやめるように言ったりすると、お酒を奪われるかもしれないという恐怖心に陥り、
お酒を隠そうとしたり、隠れて飲むようになったり、それでも無理にやめさせようとするとますますお酒に固執してしまったり、
お酒に関する苦言だけが耳を素通りしてしまうようになるのも、「創価シャッター」と仕組は同じことだと思います。
また、アルコール依存症患者の特徴として「自己評価が非常に高い」ということもあげられています。
「お酒?やめられるよ、大丈夫」と、家族たちには「いや、無理でしょ」と思えるようなことをびっくりするほど自信満々で言うのです。
これも「大言をはきはするものの現実がついてこない」という創価学会員に共通する点ではないでしょうか。
アルコール依存症の場合はお酒を飲み続けて病気になりますが、
創価学会の場合は、幹部指導などによって「活動すれば功徳がある、しなければ罰がある」ということを、
さまざまな事例や出所不明の体験報告、日蓮さんの教えなどを使い、繰り返し頭の中に注ぎ込まれ続けます。
そして、何か悩みがあれば幹部に相談するということを繰り返しているうちに、
「それは功徳よ」「それも功徳よ」「それは守られたわ」「今度も守られるわよ」と励まされていくうちに「悩みは解決した」と思い、
「幹部に相談すれば大丈夫」「信心をしている限りは大丈夫」という依存症に陥っていくのだと思います。
幹部の種類も、何かあったらすぐに相談できる(もしくは向こうから悩みを聞きに来てくれる)地区リーダーから、
大きな会館へ行けば聖教新聞に載るような全国幹部レベルの指導のプロに指導を受けることまでできます(もちろん無料です)。
近年アルコール依存症者が増えているのは、アルコールが安価になったり、コンビニなどで手に入りやすくなったことが原因とされています。
そして、いつでもどこでも簡単に手軽に手に入れるこができる幹部指導。
このいつでもどこでも簡単に手に入る幹部指導を、創価学会員であった頃はありがたく思い、創価学会員であることの特権だと思っていました。
でも、これが創価依存症を完成させる薬物を注入されるような行為だったのですよね。
「悩みができたら自分で判断はせず、まず幹部に指導を受けること」というのは、
活動家になったときにまず言われることです。
自分の頭で判断すると間違いを犯す可能性があるので、何事も自分の頭で判断してはいけないと教えられます。
仏法の教えにのっとって、考えなければいけないそうです。我見に陥るらしいです。だからこそ幹部指導を受ける必要があるのだそうです。
そして、「もし幹部の指導に納得できなければ、別の幹部に指導を受ける。自分が納得できるまで指導を受け続けること」とも言われます。
だいたい二人目に指導を受けるときには、一人目の幹部でどうして納得できなかったかを言うので(すでに答え合わせができている状態)、
これまでの数多くの指導経験を踏まえ、指導のプロである幹部はその人が納得できるように上手く(褒めたりそやしたりしながら)指導するのは簡単なことです。
そして、創価学会依存症が完成するのだと思います。
創価学会の会合に出続けていなければ不安になり、悩みを幹部に相談せず自分で考えていればさらに状況は悪くなると不安になり、
ノルマを達成しなければ罰が当たるかもとまた不安になる。エンドレスな不安との戦い。
実は創価学会員であったとき、私はいつも不安だらけでした。
常に不安がつきまとい続けたのは、依存症だったからなのだと思います。
依存症ならば、回復や治療の方法はあるかもと思って今回の記事を書いてみたのですが、
どの依存症も、まず本人の「自分は依存症」だという自覚は必要になります。
ただ、アルコール依存症も「否認の病気」と言われるように、自分が病気だと自覚することがまずとても難しいのです。
だから、自分で痛い目にあって頭を打つなりしないと、自覚することができないと言われています。
創価学会も結局は同じで、やっぱり自分で頭を打って痛い目にあって学ばなければ依存症に陥っている自分に気付くことはできないのかもしれません。
難しいですね……。


PVアクセスランキング にほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「創価シャッター」というもの | トップ | 彼氏彼女は格好の折伏のター... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事