風の形が見える

専業主婦の感傷日記

弟のこと

2018-10-23 11:11:42 | 子どもの頃


また、前回の記事から一カ月以上経ってしまった。
別に、月一回の更新と決めてるわけじゃないんですよ。
ただ、いろんなことがテキパキできず、
なにも捗らないまま日々だけが過ぎて行くのです。

じゃ、今日は、私のたった一人の兄弟である弟のことなど。
二つ下の弟とは、今では、母がらみで年に数回電話で話したり、
二、三回会ったりするだけです。
自転車で十分くらいの所、つまり実家のそばに住んでるんですけどね。
これが妹だったら、もっと話したり、一緒に買い物に行ったりするんだろうか?

まあ、会いたくないんですよね、
仲悪いとかじゃなく(仲良くもないですが)、
苦手というか。
父のことを思い出すので。
姿形が父に似てるというのもあるけど、
弟に会うと、父が借金残して死んだ時の騒動を思い出すので。

父は、私には、お金のことで無理を言ってたけど、
弟には言わなかった。
親も子供のことをちゃんと見てて、
言っても無駄な子には言いません。
弟は、高校卒業して家を出て、
仕事をいろいろかわったり、
自分で商売して失敗したり、
今は落ち着いて働いてますが。
(弟は、内面的にも父に似てる。
器用で、マメで、何でもテキパキ片付けて行くところとか)

父が生きていた頃、
私は父のことを助けない弟に腹を立ててたし、
弟は弟で、父にお金を渡し続ける私に呆れてた。
仲が悪くなるはずだよ。

もっとも、子供時代も別に仲良くなかったというか。
恒例の、私、昔のことをあまり覚えてません、ということです。
子供時代にこうやって一緒に遊んでた、とか、
十代の頃は、とか、
書こうと思っても、すぐに何も浮かんでこない。
あ、小学生の時に学校が休みだと、弟は友達の家へ遊びに行ってしまう。
でも私は友達がいなくて、家で、
父や母の借金がらみのグチを聞いてなきゃならない、と、
思ってたことを思い出した。
(やっと引っ張り出した記憶がこれ)

でも、弟に関する記憶で最大のものは、やっぱり、
父の亡くなる、二、三年ほど前の家族の話し合いだなあ。
父がいよいよお金に困ったらしく、
私と弟、母も入れて四人で話し合った。
弟は父に自己破産しろと言ったんだ。
父、拒否。理由不明。
母は、借金の理由について問う。
父、言わず。
私は、父が自己破産したいと言えば、
反対はしなかったと思う。
でも、父は拒否している。
私は、今ここで自己破産するんだったら、
これまで私のしてきたこと、
つまり父にお金を渡してきたことは、
いったい何だったんだと言った。
(このあたりの心の動きが、自分でもよく……?)
弟は私のとってきた、これまでの行動を批判。
私、きれて怒鳴る。
(人に対して怒鳴ったのは、人生二回だけ)
「お前が助けてくれれば、なんとかなったかもしれないのに!」
人というのは、怒り出すとますます怒り、
怒鳴りだすと、どんどん声が大きくなるものだと、
初めて知った。
(このあたりのことは、前にも書いたと思う)

結局、父は自己破産せず、
弟は、その時に限り、
何十万というお金を出した。
私は、父のことは私が責任を持つと言い切った。
自分の、この責任を持つという言葉のおかげで、
父が借金を残して死んだ時、
親類に連絡したりの相続放棄のあれやこれや他一切を、
私は一人でやることになる。
自業自得。

今でも弟に会うと、
このあたりのことを思い出す。
なので会いたくない。
まあ、性格が正反対だということもある。
『同じことを二回言わなくていい』
がモットーの弟。
しゃべる時は、正論のみを早口で。
どんな言いにくいことも、迷わず言い放つ。
無駄を嫌い、何でも素早く処理。
自分に厳しく、他人にも厳しい。
……同じ両親を持ち、同じ環境で育ったのに、
よくこんな真逆な人間ができるなあ。
いつも寝起きみたいなテンションの私では、
弟のそばにいたら、弾き飛ばされてしまいそう。
昔は、十代位までは、こんな風じゃなかったと思うんだけど?

今も独身で、子供も欲しくないと言う弟。
子供が欲しくない理由はわからないけど、
そこだけは私と同じだ。
やっぱり弟も、自分の子供時代に何か思うことがあるんだろうか。
まあ、独身だから身軽に、母親のそばに越して来て、
実家の細々したこともしてくれてるから、そこは良いかな。
すみません、私がマメじゃないもので。
それに私は、強迫性障害で、
もともとより、ますます行動がテキパキできなくなってるしね。
弟は、私のこの病気のことをどう思ってるんだろうか。
(一応言ってある)
いや、聞かなくていいな。
聞きたく、ないかな?

それでは、このへんで。
またね。
























父のこと

2018-09-18 12:40:52 | 子どもの頃

こんにちは。
また、前回の記事から一カ月経ってしまいました。
書こう、書こうと思いながら!
では、さっそく、前回予告した通り、父のことを。
あ、でも、まあ、この記事に限ったことではないですが、
私は、悪く書いた人たちにも、親切にしてもらったり、
愛情を受けたりしてるんだよね。
だから、私だけが 悲しくて、正しいということではないので、
いちおう、それだけ。

亡き父は、中学校を卒業してすぐ外国へ行った。
時は第二次世界大戦が終わる一年半前位。
実際に戦場で戦ったわけじゃないけど、
軍隊にいたそう。
(私の父が戦争経験者というと、年数的に?かもしれないけど、
割と遅い子どもだしね)

軍隊は厳しくって、
朝起きた時から、夜寝るまで、
なんだかわからないけど、いっつも殴られてたそう。
殴られるうちに、だんだん痛みを感じなくなって、
自分の顔が、パコン、パコンていう音だけが聞こえてくるんだと言ってた。

食べる物もあんまりなくって、同じぐらいの歳の子達と、
「巻きずし食べたい、まんじゅうが食べたい。」と、
毎晩のように話してたそう。

そのうち戦争に負けて、敵に追われた父は、広大な土地を走って逃げるはめに。
父は十代で元気だから、どんどん走って逃げたけど、
女性や、子どもを連れた人はとても逃げきれない。
そういう人たちは、自ら死を選んだそうです。

でも、結局収容所?に入れられてしまう。
そこも食べるものがとぼしくて、
一個のおにぎり?を親子で奪いあっている姿を見て、
「ああ、この世には、神も仏もないんだな。」
と強く思ったそうです。
(だから、私や母の宗教に大反対だったのか?)

やっと日本に帰ってきてからは、
「日本なんて、これからどうなるかわからない。好きに生きよう。」
と思って、実際、好きに生きてたんだろうと思います。
東京に出て役者修行、また故郷に帰ってきてダンスの先生。
板前の見習い、セールスマン、溶接工……全部は知りません。
女性にもてたそうで、よく自分をめぐって女同士でケンカしてたと、
思い出を語ってましたっけ。

で、好きに一人で生きて行けば良かったのに、
なぜか、人の紹介で母と結婚。
あいかわらず、仕事をコロコロかえて、
自分で商売をやって、失敗したり。
おまけに体があちこち悪くなって入院を繰り返したりで、
我が家は貧乏一直線。
借金地獄へ突入です。
(両親とも助けてくれる親はすでになく、兄弟は頼れずで)
母も、私と弟を家に置いてパートで働いてたけど、とても無理。

助けてくれたりする人もいて、
私が中学へ入る頃には、
やっと金銭的にも落ち着いて、父も普通に働くようになって、
めでたしめでたし……
じゃないんだよ、なぜか、ずっと、
私が小学生の時ほどではないにしても、
借金があって、生活は苦しかった。
あれ?借金は片づいたはずじゃ?
女の人の影もちらつくようになり、
とにかく、いっつも家にいない、
外で何をしてるんだろう?的な父でした。

で、家にいるときはというと、
これまたじっとしてない。
お酒は飲めなかったので、
酔って暴れるということはなかったですが。
借家に住んでた時は、父が自分で建て増ししたり。
(大工じゃなかったんだけど)
家の隣の空き地で、持ち主の許可をもらって、
父自ら、家庭菜園のレベルを超えた畑を作り。
(農業の経験なかったはず)
動物が好きで、水槽に工夫して金魚を飼ったり。
ストーブなんかは、冬が終わると、父が掃除して、しまってたなあ。
ミシンなんかもかけたりして。
まあ、器用な人だったんでしょう。
で、私に向かって、
「お前は、俺の親父にそっくりだ。いっつも、黙ーって、じーっとして!」
棚ひとつ満足につけられなかった、おじいさんの不器用さを受け継いだ私というわけだ。

でもね、私は思うのだ。
私はぼーっとした人間で、必要なこともしないけど、
そのかわり、余分なこともしない。
父は、何でも器用にこなすけど、しなくていいこともする。
まめな人というのは良いようで、トラブルも呼び込むのだ、と。
ああ、父が生きてる時に言ってやればよかった。
それと、どうして一生、借金と縁がきれなかったのかも、
追求すればよかった。白状しなかったと思うけど。
私は、父親がずっと恐かったもので、
そういう話も、戦争の話も、あまりしなかった。

親戚付き合いというものがほとんどない家だったけど、
一回、父の兄のお通夜の時に、父の弟たちが、
「(私の父は)外国へ行ってから、どうしようもなくなった。」
と言ってるのを聞いたことがある。
でも、戦争に行った人はたくさんいるもの。
それでも、戦後まじめに、堅実に生きてる人はたくさんいるもの。
でも、やっぱり、戦争は父を変えたんだろうか?

私は働きだしてから、ずっと家を、というか、
父を、金銭的に助けていたわけだけど、
ある時から父は、一緒に外国でいた人たちとの同窓会を仕切るようになった。
父は、自分の中の戦争に区切りをつけたかったのか、と、今はそう思う。
まあ、悪いことではない。
同窓会メンバーで行く旅先の下見に行ったり。
ただ、どうしてそれを、私が働いたお金でするんだ!?
どうしていつも、借金を抱えてるの?
母も私も働いて、弟は家を出て自立してるのに。
私は何も父に言わなかった。
こういうのも洗脳?とかいうんだろうか。
黙って、言われるがまま、お金を渡してた。
それは私が結婚してからも続いていた。
でも、私はどこかで信じてた。
きっと、いつか、父が、
「お前のおかげで、借金が全部返し終わったよ。」
と、言ってくれる日が来るだろうと。

結局、父から感謝される日は来ないまま、
父は逝ってしまった。
病院のベッドで、もうだいぶ意識がもうろうとしてきた父に、
「すまなかったのう……」
と言われた、でもこれは、
感謝じゃないでしょう?
余分なことはしないが、私の自負だったのに、
もしかしたら、父にお金を渡してきたことが、
もっとも余分なことだったのかも。
私が突っぱねていれば、父は早く立ち直れていたのかもしれない。

これだけ書いてきて思うんだけど、
私は父に似ていない。
ほんとに親子か?と思うほど。
(顔は似てると周囲に言われてたけど)
ただ、 ずいぶん前に、父が、
自分の若い頃の写真を集めたアルバムの一ページ目に、
書いてた文章を読んだことがある。
詳しくは覚えてないけど、最後の部分に、
《おお、我が青春……!》
とあって、やっぱり親子かも、と思ったことはある。
こういう所だけ似るんだなあ。

長くなってしまいましたが、今日はこれで終わりです。
またね。























母のこと

2018-04-19 14:18:23 | 子どもの頃


「何かあったら心配だから、毎朝電話してね。」
と、一人暮らしの母に言われ、毎朝電話しているこの頃。
もう八十過ぎたからね。
週一か二回ぐらいで、お弁当買ってきたりして一緒にお昼ごはん食べたり。
お菓子食べて、お茶飲んだり。
昔から、お母さんとは仲良しだったし、
私は、お母さん大好きな子で。
「今から来て。」の電話一本で、駆けつける私です。
そう、本当に、混じりけなしにこうだったら良かったのに。
亡くなった父さえ、ちゃんとしていたら、
私とお母さんには、今みたいな、楽しい思い出しかないはずだったのに。

父が、借金ばかりつくる人で、外で何やってるかは隠す人で。
お酒が飲めなかったので、酔って暴れるということはなかったけど。
身体がわりと弱くて、たまに入院したり。
こういう人に限って、入院したら一日いくらという医療保険に入ってないし。
掛け金を惜しんだとと思われる。

だから、お母さんがイライラして、
いつもぼんやりしてる私に、時々あたっても仕方なかったとは思うんだけど。
あたられてたんだということに思い至ったのも、ここ一、二年程なんだけど。
父がちゃんとしてたら、お母さんがちゃんと幸せだったら、
お母さんは、本来のお母さんでいられて、
いつも私にやさしくしてくれたはずだったのに!
私とお母さんの間には、いい思い出しかないはずだったのに!!

お母さんは、子供の頃から本当にかわいそうな人で。
小さい頃に母親を、十代で父親を亡くして。
頼れる親せきとかもいなくて、住みこみで働いたりして。
中学校にも行けなくて。
かわいそうな人。
だから結婚したら、幸せになれるはずだったのに!

お母さんにいろいろ言われたこともあったけど、
でも、私、怒ってないよ。
お母さんは、ほとんどの場合、やさしかったよね。
小さい頃から苦労して来たんだもの、
のんびりしててよ。
私も、弟も近くにいるよ。

このブログで、他の記事で、母のことを書いているものもあるけど。
読んだ人の、母に対する印象が悪かったら困るなと思って。
お母さんは悪くない。
たとえ少し悪かったとしても、それは過去の苦労で帳消しになるのです。

それでは、また。





小公女

2017-11-04 17:35:36 | 子どもの頃


昨日はいいお天気で暖かかったのに、今日は雲が多くて寒い日でしたね。
こうして冬になって行くんだなあ。

さて、こんな十一月の曇った日というと、
思い出すのが『小公女』の本。
テレビアニメ化もされた、少女セーラの物語ですね。
小学校の図書室から借りてきて、
初めて読んだ時(小学校の三年生位?)、
なんだか心がざわざわして、落ち着いて座っていられなくて、
当時住んでいた家の庭に出て、曇った空をじっと見ていた私。
十一月の土曜日の、曇った午後だったと思います。
(いつも子供時代の記憶があいまい)

いったい、このフシギな気持ちは何だろう?
当時の私には、それが感動というものだとわからなくて。
ただ、それから、セーラは私の憧れになりました。
大金持ちのお嬢様から貧しい使用人になって、周囲からいじめられても、
気高い心を失わなかったセーラ。

自分がどれほど空腹でも、もっと飢えている子供に、
自分のブドウパンをほとんど与えるセーラ。
本を読んだ時から何十年も経つのに、
いまだに干しブドウの入ったパンを食べるたびに、
やさしいセーラを思い出す私です。
(セーラのブドウパンと、私が食べているブドウパンは違うかもしれないけれど)

小学生の私は思いました。
私も、美しい心を持とう。
セーラは貧しくとも、あんなに心がきれいなんだもの。
ただ、セーラは元は大金持ちのお嬢様だったけど、
私は生まれてからずっと貧乏、でも負けない!

まあ、結果的に、私はセーラのように、
美しく気高い心の持ち主になることもなく、
加えて、セーラのように頭が賢くなることもなく……
更に、物語の最後に、また大金持ちになるセーラのように、
お金持ちになることもなく。

いいんです、ちょっと思い出話をしただけ。
子供の頃の数少ない、いい思い出を。

それでは、またね。


















借り物

2017-07-23 19:44:55 | 子どもの頃


私は、他人から物を借りるのが嫌いだ。
(お金は言うまでもなく)

もしかしたら、これが原因?と思うような事が、子どもの頃にあった。
小学校の五年生だったと思うんだけど、
学校で手芸クラブに入った。
放課後活動する部活動じゃなく、
授業で全員参加のもの。

それで、クラブで、ハンカチに好きなものを刺繍しようとなって。
で、近所に住んでいた母親の知り合いに、
母と、刺繍の仕方を教えてもらいに行った。
その時、刺繍枠を借りた。
丸い枠の中に布を張って、刺繍しやすくするもの。

それで、その刺繍枠の金具を、
学校で失くすという失敗を私がしてしまう。
金具がないと、もう使えないし。

親に怒られた記憶はない。
というか、親に伝えた時の記憶がない。
結局、新品を買って返したんだよね。
最初から自分で買えば良かった。
その後、自分用の刺繍枠を買った記憶がないから、
ないまま刺繍したんだっけか?
なくても刺繍できるからね。

はーっ。
何かを借りるって大変だよ。
失くしてもいけないし、
汚しても、
壊しても大変だし。

刺繍枠のことにしたって、
お金がないから借りたんだろうけど、
ああいうことになったし。

だから、振り返ってみても、他人に何かを借りたっていうことが、
今思い出そうとしてもない。

それと、借りるのが嫌いなのと同じ位、
他人に何か貸すのも嫌い。
そういうことを頼んでくる人とは、
親しくなりたくない。
ケチで言ってるんじゃない。
貸すぐらいなら、あげます。

加えて、何かにつけて、
ちょっとしたものをプレゼントしてくれる人も、
好きではない。
自分もそういうことをしないし。
何かのお祝いだとかいうなら別ですが。

なんか、難しい人だね、私って。

では、またね。