花ざかりの廃園

If you celebrate it,  it's art.  if you don't,  it isn't. 

通りすがり ー 仕草

2017年01月20日 | 美術


何かを思う。そして後に、過去において誰かがすでに言葉にしているということを知る。ぼくはそれを改めて見つけているだけだと気づく。
あるいは、すべてなにごとも、すでにあったこと、みんな一度は知っていたことだけれど、それを忘れていて、あるとき何かのきっかけで、ただ単に ”思い出して” いるだけかもしれないとおもう。

  ”地上に新しきことなし、とソロモンは言った。プラトンは、あらゆる知識は追憶に他ならない、と考えたが、同じようにソロモンは、新奇なものはすべて忘却にほかならない、といった。” (F・ベーコン「エッセイ」LⅧ )
                 
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”もし、描写が本当の意味で音楽的であるなら、即ち言葉だけでなく、心も内容も、思想も語調も、着想全体も音楽的であるなら、それは詩であると言えるだろう。もしこの条件にかなっていなければ、それは詩とは言えない。「音楽的」とは何と含蓄の多い言葉だろう! 音楽的な思想というのは、事物の核心に入り込み、事物の最も奥深い神秘、即ち事物の中に隠されているメロディーを発見した精神が語る思想なのだ。そのメロディーは事物の魂である緊密な内的調和であり、そのおかげをもってこそ事物は存在し、この世界に存在する権利をもつのだ。真の意味で内的な事物はすべてメロディーに富み、その表現はおのずと「歌」となる。「歌」の意味するものは深い。
したがって、我々は「詩」を「音楽的思想」と呼ぶことにしよう。”(T・カーライル)

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”僕は詩の作り方を知らない。自分を詩人だと思わない。僕は詩歌の中に特に詩を見出すことはない。こんなことを言うのは僕が最初ではないのだ。詩は、それを恍惚境と呼ぼうが、発明、音楽と呼ぼうが、常に、どんなジャンルにも見つかる予測不能なものであり、忽然たる世界の拡大である。詩の密度は、一幅の絵、一枚の写真、一軒のあばら家において、一層濃密なことだってあるのだ。詩歌で腹立たしく不愉快なのは、自己陶酔と瞑想三昧(という二つの袋小路)、あの退屈な自己憐憫、そして最後に一番たちの悪いのがわざとらしさである。そもそも詩は自然の賜り物、恩寵であって、仕事ではない。詩歌を作ろうとする野心だけで、詩歌を殺すに充分なのだ。”(H・ミショー)
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この世界においてただ単にその通りすがりに、事物のメロディーを見逃さず、世界を拡大すること! とぼくは、思う。

言葉は、ベールのかかったぼやけた自分を再教育してくれる気がする。ぼくは自分について、あとどれだけ思い出すことができるだろうか。


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