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シニアつれづれ学び草

一生涯、世を知る学徒であり続けたい。書物、映画、旅行、生涯学習経験、一期一会、海外体験などから学んだことを書き記す。

学内教育実習終了ホッ!

2010-10-22 16:21:20 | 身辺雑記
 ものごとが終わってこんなに嬉しかったことは、滅多にあるものではない。それほど大変だった。ほとんど徹夜というのが2回あった。その他の日は毎日3~4時間の睡眠時間しか取れなかった。こんなことは30年ぶり以上したことがない。

 学内実習とは、日本語を習いたいという成人イギリス人に、学内に集まってもらって、その人たちを対象に行う教育実習のことである。どういうやり方で集まってもらっているかは良く分からない。この前、英語教師の養成学校の宣伝らしきものをこちらの新聞でみた。無料で勉強できるから、英語を勉強したい人、集まれ!というような宣伝である。同じようにして集めているのかもしれない。

実習のスケジュールが立て込んでいただけではない。合間合間に提出物が仰山あった。
俗に言う指導案も細かい細案というものを提出しなければならなかった。それも与えられた文型事項の研究をしないと指導案が立てられない。指導案ができたら、プリントアウトから増し刷りから、学習者にわたすハンドアウトからサマリーから宿題まで一気に作成しなければならない。加えて教材教具の自作、時間はいくらあっても足りないくらいの作業量であった。勢い寝る時間もなくなり、食事時間でさえままならなかった。

 授業が終わったら終わったで、授業中の自分の映像がわたされるから、そのレビュー反省の弁をA3二つ折りの4ページにわたって、次の日の夕方5時までに書き連ねなければならない。授業はこの2週間中に全部で4回あった。日本の学校でいう、いわゆる研究授業が2週間の間に4回あった、というのと同じである。
授業が二日にわたって引き続き行わなければならないときがあった。二日目の分は徹夜である。平行して準備できるような代物ではなかったからだ。そうして、教壇に立った自分の雲の上にいるようなフワフワの感覚、いままでに味わったことがない経験であった。直前に水を飲むのも忘れ、授業中口がカラカラだった。大事なことをスポッと抜かすなどは当然起きる事態だった。夢遊病者のような感覚と似ているのではないかと思う。そのような中で行われた実習が何を教訓にできるのか、今のところ、霧の中である。ただただ、クラスメンバー皆の気持ちに沸き起こってきたのはふつふつとしたマグマだけだ。

このような実習がかくしかじか行われる、ということのアナウンスメントも直前のことだった。そういうことがすべて信じられないような段取りの仕方だった。先生も大変、実習生も大変のスクーリング体制であった。
これから、学外の実際の学校での授業がある。中学生対象であるらしいが、これも詳細は分からない。今日知らされる。一事が万事こういう次第だ。あと1ヵ月半どうなることやら。

忙中閑あり

2010-10-14 14:20:18 | 身辺雑記
 教育実習が始まったら殺人的忙しさである。
ブログどころか、寝る暇もない。シニアのこの年で完全徹夜の日があろうとは思いもよらなかった。これが続けば、過労死するのだろうなという状況に似ていると感じている。寝ようと思っても、終わっていない仕事があると頭の中でそれがめぐる。そうすると目がさえてくる。まるで、脳が、起きて仕事をせよと命じているような錯覚がおきて、やっぱりおきてやろうと起きてしまう。

 提出物がすごい。次から次といくつも重なって取り組み、すぐ提出しなければならない感じである。
こういう状態で授業に赴くのは更に大変である。口はからから、よい調子の声など出るはずがない。
いままで、2回の実習が終わったが、レビューーのためのテープに収められた自分の授業の姿がおかしく思えるところがたくさんあって、笑えた。一例を言えば、唇が乾いているからであろう、なんどか唇をなめている。雲に乗ってふわふわしながらやっているような授業であった。同じコースのメンバーたちとおかしなところを指摘しあって、大笑いしている。自分を笑っていないとここでは神経が持たない。

 ちょっとスケジュールの組み方、実習生への段取りの仕方がうまくいっているとはいえない。施設設備も不完全となれば、実習生のほうから不満が出るのも自然である。でも自分が選んできた日本語教員養成コース、ここでめげるわけにはいかないと突っ張っている。

あと2時間、学内での実習が残っているので、指導案作りやら、教材作りにすぐまたかからなければならない。その後は、普通の学校に訪問して日本語やら日本文化を教えるらしい。そのほうが楽かもしれない。よくは分からないが…。

しばらくの記入空白が続く。容赦である。


たくさんある英語の失敗・笑い話

2010-10-03 17:28:48 | 身辺雑記
 英語が通じなかった失敗や笑い話はたくさんある。
 1)文脈・状況がつかめかった失敗
 バス停の失敗も同じ停留所で道路を挟んだこちら側とあちら側の名前が違うという状況を知っていれば、もう少し気をつけ方が異なって何回も間違うことはなかったと思う。
 通常、学校にあるカフェテリアで昼食を取る。あるとき、えびのサラダと思ったメニューを頼んだ。スタッフが白か茶かと聞いてきた。「エッ、何?」と思って、ソースの名前が良く分からない記述がしてあったので、「ソースに白と茶があるのか」などとやり取りがこんがらがっていたら、ディプロマの人達が助けに入ってくれた。経緯を説明すると、その人もじっとメニューを読み、「何でしょうね、白と茶って」と分からなかった。ディプロマの人は1年以上、学校で学んでいる人なので、食事の注文ぐらいで英語使いに不足があろうはずはなかった。こうして客側で首をひねっていたので、「O.K.」とスタッフがキッチンに入って行き、両手に大きな袋を持ってきた。通じなくて業を煮やしたのだろう。実物を持ってきたのだ。「あぁ、パンの色を聞いていたんだ!」と合点して、みんなで大笑いしてしまった。それはサンドウイッチに挟む具のメニューの欄だったのだ。英語のメニューはズラッと書かれていて何がなんだか分からないことが多く、サッと全体を読めない客側の問題ではあるが、メニューの大きな枠組みを文脈として把握しなかったことから来る、失敗であった。えびのサラダをめぐって、スタッフはそれがサンドウイッチの具だという枠組みで考え、私たちは単独のえびのサラダと思いこんで話をするから、共通のコミュニケーションの土俵が作れなかったのだといえる。つくづく、文脈は大切だと思う。

 2)発音よりイントネーションと拍
 RとLなどの発音の区別をやかましく言う人が多いが、脳科学上7・8歳までに英語コミュニケーションを始めた人以外みんな苦労すると言われているので、それをくどくど正確にしようと拘ると外国語を学ぶことがいやになることが多い。
 それよりは、イントネーションに拘るほうが生産的だと考えている。
 初めのころ、ホームステイのお母さんに「学校が休みだから、ピカデリーサーカスに行ってくる」と行き先を告げて外出しようとした。これが通じなかった。私は分からないから日本風に平坦に「ピカデリーサーカス」と9拍で言ってしまった。お母さんは“Sorry?”と何回も聞き返してきた。違うイントネーションを試して何回もいう中、やっとお母さんが分かってくれて言ったのは、私にはこの世のものとは思えないイントネーションだった。最初のPiにすごく強いストレスがきて、あとはコチョコチョと3・4ぐらいにまとめる言い方だった。なかなか真似もできなかった。日本語カタカナ読みで言うと9拍が英語だと5拍ぐらいではないかと思う。約半分である。地名などは特に習うことが少ないから現地に来て耳慣れする以外にないものなので、大変である。しかし、バス停や駅名などアナウンスを一所懸命何回も聞いているうち、クリアに聞こえてきて馴染んでくるから不思議である。自分の発話は、言わないといえないので、アナウンスの後、ブツブツと隣に人がいないときだけ言ってみたりしている。「ピカデリーサーカス」は地下鉄の駅で、いつも混んでいて、アナウンスの後に言ってみる機会がなかなかない。直後に真似して言うのが一番効果的なのだが…。

 3)“Take out”(持ち帰りーアメリカ英語)が通じなくて“Take away”(イギリス英語)だったり、2階と言われたのが3階だったりの単純間違いは山ほどある。それにめげていては暮らせないので、少しずつ慣れていけばいい。
 昨日は、両替をしようとしたらスタッフは出したお金を触るまえに「いくら?」と聞いてきた。突然のことで、すぐには円の金額を英語で言えなかった。金額の英語の言い方は元から苦手だった。こういうことは前もって英語でいくらだと反芻しておかなければならない、と分かった。私の円は、ガラスの仕切りの下で、私が英語で言えるまで、宙に浮いていた。スタッフも私も苦笑いした。ボーっとしているとこういう失敗もある。
 道や何かに慣れてくると、聞かなくてもよくなるから英語を使う頻度が減る。日本語教育の勉強に来たのが目的だからそれでもよいが、英語の授業が終わって余計英語を使う頻度が減った。ホームステイのお母さんは仕事をしている人なので、最低限のコミュニケーションしか取っていない。何とかすべきかも知れない。
しかし、来週からいよいよ実習が始まる。担当の文型表現が発表された。二人ずつ教える時間が2時間と、一人単独で教える時間が2時間の計4時間が学内の外国人学習者に教える時間である。直接法だから英語は使わない。
 あとは、外部で7時間教えることになっている。それがどういうものか、まだガイダンスがない。学校の方針は、学生がコース全体を見通せるようにはなっていない。迫ってから準備にかかるので、その準備が忙しくて、他のことをするどころではないかもしれない。
その場合、このブログもそう簡単にはかけなくなる。乞う、容赦である。

タクシーあわや!? 談議

2010-10-02 00:40:52 | 身辺雑記
 1)登校第一日目に、代表と一献あって遅くなり、タクシーに乗って帰ったと述べた。
タイ料理屋の近くにミニキャブの会社があった。代表先生とちょうど通りがかった学校の先生方3人が私の住所を持って会社に掛け合ってくれて「7ポンド」と言われた。一人の先生は、会社の前に横付けしてある車の後ろガラスに認証ラベルが貼ってあるのを説明してくれて、「ミニキャブでもこれが貼ってあれば大丈夫」と言ってくれた。市か何かの認証票なのであろう。私はそのとき来たばかりで小銭を持っていなかった。そこで、代表が「貸す貸す」と言って5ポンド札と1ポンド硬貨を二つと、「やっぱりチップをあげたいな」と言ってもう1ポンド計8ポンドを貸してくれた。交渉してくれた他の先生方には口々に「これ以上絶対に払わないでくださいネ」と念を押された。おかげで、無事にホームステイの家に帰りついた。しかし、後で振り返ると、大の大人が4人で1人のシニアをタクシー1台に乗せるのに必死に庇護してくれた様子を思い描き、申し訳ないやら、大仰過ぎてクスッとしてしまうやらの感覚だったが、遠く海外に来たのだなとも実感した。借りたお金は、次の日、カフェテリアで昼食を食べてお金を崩し、代表にお返しした。

 2)後日、PCワールドというパソコン店でプリペード式のT-mobileというインターネットモバイルを買い、セットアップを頼んで学校に行き、夕方遅く取りに行った。でも、まだ6時前であった。帰りのバス停で時間を見ると私の乗るバスが電子掲示板にぜんぜん表示されない。10路線ぐらいあるバスのうち、最後のバスが20分後ぐらいなのに、私の161番バスは表示されない。これは30分以上待つのかなと心配になった。寒いし、暗くなるし、ホームステイのお母さんには遅くなると言ってこなかったし、と考えるうち、そうだ、「第1日目の夜に乗ったタクシー会社が歩いても7・8分のところだ」と思って、タクシーで帰ることに決めた。例のミニキャブの会社だ。事務所に入って行き先の住所を告げると、2人いたうちの一人が「9ポンド9ポンド」と言っているのが聞こえた。よく自然に言葉が出たなぁと自分でもびっくりしたのだが、すぐに“When I used your taxi before…”と口から出た。続けるつもりだった「7ポンドだった」と言う言葉を言い終わらないうちに、途中で別の事務員が「6ポンドでどうだ」と言った。
O.K.と言って交渉成立である。無事早く帰りついた。1ポンドチップで7ポンド渡すとドライバーの若者はにっこり笑った。
 先生方が大勢で交渉してくれたときが「7ポンド」で、私一人のときが「6ポンド」だったと言うものもクスッとするエピソードではある。タクシー会社が「欲張った」ことで墓穴を掘ったともいえる。

 3)さてこのミニキャブであるが、ロンドンタクシーの名物といわれるオースティンのブラックキャブと違って、一般の乗用車で営業している無線タクシーのことだと旅行ガイドに書いてある。ブラックキャブにはちゃんとした料金メーターが搭載してあるので、安心だがミニキャブにはない。それできっとトラブルも多く、事前に乗車賃を交渉するわけであろう。事務所で交渉するときは、コンピューターで住所を確認し、距離を測った上で料金を算出するのだと思うが、それは客には見えないので、「9ポンドだ」「6ポンドだ」と人を見ながら値段を言うのだと考えられる。私があの時黙っていれば、「9ポンド」取られるところだったというわけだ。

 こういう危険を避けるように心配してくれて、娘の知り合いの立派なご夫婦が「ミニキャブではなくブラックキャブを利用したほうがいいですよ」とアドバイスしてくれた。でももうそのときはこのことを経験してしまっていた。ホテルが呼んでくれたものがミニキャブだったら、仕方がなく、みんな誰でも乗ってしまうだろうな、と思った。実は、ヒールロー空港からホームステイの家に来たときも、ミニキャブでおかしなことがあった。でもそれはあわや!?の可能性があったかもしれないことで、書くとみんなに心配をかけそうである。今は無事に英国生活を送っていることを感謝しておく。

イギリス渡航準備・教材の収集は面白かった

2010-09-04 08:22:44 | 身辺雑記
 1)指導案をいくつか前もって作成しておこうというのは、計画倒れになった。しかし、授業になりそうなモノだけは、いろいろ用意した。フライト中、授業のイメージだけでも固めておこうと思う。
 歯医者に行ったり、英会話に行ったり、日用品の買い出しなど日常生活をしながら、寒いというからユニクロでヒートテックの肌着まで購入し、おまけに新しい靴の履き慣らしをかねて、文具店・おもちゃ屋・和風みやげ店など歩きまわって教材の調達をした。日本の習俗や様子を伝えるための教材・教具になるものの購入収集、デジカメ撮影、チラシやメニューの収集、モデル会話用の人形集め、子どもたちが喜びそうなマンガのキャラクター集めをした。
 誰もがやる浴衣の着付けなど教えたくなかったから、代わりにお祭りのコスチューム一揃いを購入してしまった。普段の仕事着でお祭りに参加するというのが昔からのあのスタイルなのだそうだ。買ったおかげで、紺色のよだれかけのような胸エプロンは「どんぶり」と呼び、大きなポケットは大工道具入れであり、且つお財布で、釣り銭など細かく数えないで手で掴んだけ渡すことから「どんぶり勘定」という風習がうまれたというような語源も聞けた。

 具体的には、食べ物を模した面白消しゴム、新聞紙でカブトを作り、その前の方に糊付けする派手な色の家紋などの飾り(バサラに関連させる)、吊り旗、色の指導のためのものの輪郭をくりぬいた紙、その下敷きにする色紙、ペープサートになりそうな小さめのうちわ、それに貼りつけるキャラクターの絵、ドラえもんやゲゲゲの鬼太郎のキャラクター人形、指人形、お手玉、手ぬぐい、風呂敷、歌舞伎絵や武者絵の和風トランプ、紙風船などなどである。パッキングで無理となりはずすものもあったが、揃えるだけ揃えたのである。

 キティちゃんの顔の財布状のものが売っていたので、何だと思ってみたら、ジッパーを開けて広げるとエコバッグになるというものを見つけた。「~になります」(キティちゃんがエコバッグになります・なりました)表現を教えるのに丁度よいと勘が働き、三つも買ってしまった。そしたら、店員さんが不思議だと思ったらしく、引き出しから大きなドラえもんとドラミちゃんが描いてあるビニール袋に入れてくれた。その時はまだドラえもんの人形を入手していなかったので、「アラ嬉しい!」と大げさに喜んだら、さらに二枚余分にくれた。何かを集めていると察してくれたようだ。こういうことは老いの原因にはならない。喜び楽しんでいるからである。

 問題は、教科書などの書籍類とパソコンおよび周辺機器関係である。重量に一番関係する。フィンランドでパソコンや国際携帯電話の準備が失敗したので、今回は何度もドコモショップや知り合いのSEに教示してもらった。こういう準備も含んでいるので、頭の中はにわか仕込みの知識で破裂しそうである。学校からノートPCを持参するようにとのお達しなどもあったのでやむを得ない。重量の関係で、今回は、趣味の書籍関係が一冊も持てなかった。

 2)その合間に日本や日本文化というものを概括的にとらえる書物の読破である。持参できないから、頭に詰め込んでおこうという作戦である。世界や歴史の中で日本の位置というものを相対化して認識できるものを読んでいきたかった。やっぱり網野善彦のものが多くなった。教科書的な知識のものは物尽くし的に並べてあるだけだから、伝えるのにも面白くない。意気が上がらないのである。他に伝えるためには、特に英語で伝えるときには、伝える事柄を自分なりに概括しておかなければならない。たとえば「明治維新とは何か」を一言で伝えるとしたら、何というかなどである。

 急いで知っとかなくてはと思うものは、インターネットを活用した。日本と西欧の思考様式の違いは、知や社会の捉え方に違いがありそうである。前回記入で触れた「社会構成主義」という言葉をフィンランド教育参観でも何度も聞いた。教育の仕方に違いが生まれるのは、これだなと思うので、インターネットでザッと調べた。「社会構成主義」は、知の「相対主義」である。だから子どもたちに「知の構成(=みんなで創る)」のための「学び方」を身に付けてもらう。教師はそれを「支援する」というスタンスを採る。

 「本質主義」=客観(ものも知も)というものが人間の主体から離れて厳然とある、「絶対的な知」というものがあるとする社会では、教師は正しい「絶対的な知」に子どもを向かわせようと「教える」スタンスをとる。西欧近代科学の方法は最初これだった。
西欧は、近年「本質主義」から「構成主義」に主流のパラダイムを変えている。西欧を追いかけている日本の主流はまだまだ「本質主義」である。西欧の「知」の流れをただ真似する一部の学者等の人々が状況の変革に貢献しないまま、「最新潮流」などとして「社会構成主義」をスポット的に日本に持ち込むから混乱を招く。

 前に受けた日本語教育においても「絶対教えてはいけません」というピアラーニング「作文指導」教育実習があった。実習生は混乱の極みだった。指導者の卵としての実習生が何のために教場にいて、何をすればいいか分からなかった。たとえば私の場合、その方法では「悲しみを分・か・ち・合・う」ということばを「教えるな」と言われたため、指導できなかった。学生は自分自身ではそのことばに到達できず、最後まで、作文にその言葉を使えなかったのである。そのことが今でもトラウマになっている。サイレントウエイなどはその極致の教授法であると思われる。(音声を学ぶべき)ことばの教育で「サイレントウエイ(無音声法?)」とはこれいかに!の根本疑問を持つ。

 学ぶ人と教えるまたは支援する人とが共通に「学びの風土」を共感していない状況下では、いずれを採用するにしても難しい問題を含むとフィンランド行のところで記入した。「ゆとり教育」は、状況としての子どもが「自ら学ぶ風土」への転換もできていないのに、無理に西洋風の社会構成主義を採用しようとした。教育現場では遊びに堕し、失敗した。

 「ことばの教育」で社会構成主義がどうなるかは、ことのほか難しい。ソシュールによればことばは「恣意的なもの」(偶然その社会で成り立ってきたもの=これぞまさしく社会構成的な成り立ちをもつもの)である。よその国で偶然成り立ったものを、子どもがいくら自主的に論理的に考えて学ぼうとしてもその知や技能へは到達はできない。そこにやはり「知っているものが“教える”要素」あるいは「技能的に使える方法を熟知しているものがその技を“伝える”要素」の教授学習過程が含まれてくる。「後半段階の学習プロセスは子どもや学生自身の問題」であるにしても、そこに達するまでは「教えて支援する」「支援するように教える」過程の必要性がどうしても残るような気がする。なぜこうした中庸をとれないのか。このことを学びに行く。

イギリスで記入が思うようにできるかどうか不明である。できなければ帰国後のアップになる。それで立て続けの記入となった。その場合、しばらくはおさらばである。


イギリス渡航準備で老ける思い②後顧の憂いをなくす

2010-09-03 13:44:26 | 身辺雑記
 1)7月半ばから8月末にかけて、一日も出掛けない日はなかった。諸手続き以外に、気になることは渡航前に全部済ませておきたいと思うものだから、あれやこれや毎日用事があった。後顧の憂いをなくすという側面である。

 しばらくお墓参りもできなくなるので、実家の寺と婚家の寺と両方に行った。両方とも禅宗の曹洞宗である。実家の寺では故人の今後の供養の仕方について悩みがあったので、少しの時間だったけどお寺さんと話した。いろいろ知らないことも多く、ためになったばかりでなく、すっきりした。お寺さんは現代でも人々の避難場所かもしれない。その上、ちゃっかり英文の寺院由来書とイラストと英文付きの座禅の仕方の説明書をもらってきた。学童疎開で自分の住区の子どもたちがずいぶん世話になったことも書かれていた。お地蔵さんにも縁の深いお寺だ。だから学童疎開も引き受けたにちがいない。

 婚家のお寺には節ごとに墓参をする習慣だが、今回、渡航のため彼岸の墓参にも法事にも出られないため墓参した。その日も暑く、墓石も何もかもカラカラだった。水をたっぷりかけてきた。東京のど真ん中・東京タワーの下にある。近くには増上寺がある。言わずと知れた徳川家の寺である。三つ葉葵が燦然とそこここに刻印してある。浄土宗法然の本院である。来年が800年祭だそうである。そこでもちゃっかり英文の寺院縁起をもらった。
今年の夏の暑さは尋常ではなかったので、毎日出掛けて、よく熱中症にかからなかったと思う。ベトナム行が訓練になったのかもしれぬ。何が幸いするか分からぬものだ。

 姉の介護は詰めて行ってはきたが、なにしろ遠方に住んでいるため、通常も憂いをなくすというには程遠い訪問しかできなかったので、渡航の間一番心残りのする問題である。

2)後顧の憂いをなくす問題かどうか、今年が1910年の100年後の2010年ということで、韓国併合関係のことも概略を知っておきたかった。そういう意識を持っていたら、安重根(アン・ジュングン)の人柄に触れ、その刑死5分前に遺墨をもらい大切に守り、供養していたという日本人看守千葉十七の墓と、安重根+千葉十七関連の石碑が宮城県にあるという情報にめぐり合った。
 急きょ飛んで行って手を合わせてきた。いつもの5・6年分の働きをこの1・2カ月でしてしまった感じである。12月にしか帰れないので、2010年の内にお参りしておきたかったのだ。
 安重根が刑死したのはちょうど100年前だ。千葉十七は、軍人として日本の元勲(伊藤博文)を暗殺した安重根の鎮魂の気持ちを表ざたにできず、自分の菩提寺には供養を依頼する訳にはいかなかっただろう、と友人がガイドしてくれた。亡き後、奥さんも十七の心情を受け継ぎ、自分の菩提寺に供養を依頼した。大林寺という。遺墨(「為国献身軍人本分」)は安重根生誕100年の時、韓国に返還された。韓国はそれを非常に感謝し、国宝にしたという。宮城県知事がそれを知って顕彰するため碑を建てた。その後、それを知った千葉十七の菩提寺が碑を建てた。埋もれていた20世紀の歴史が、こうして21世紀になって広く顕わになるということがあるのだ。

 日本語を勉強したいという韓国の学生は多い。日本語教師は、そういうことにも自分の歴史的スタンスを決めておかなければ学生と対峙できない。日本の元勲を暗殺した人をなぜということもあるが、前段に、日本は朝鮮李王朝妃を惨殺凌辱し、韓国併合・植民地化を決定し、結局、李王朝をつぶしてしまったということもある。安重根も日清戦争までは本当に朝鮮を解放してくれるのだと、日本に感謝の念を有していたらしい。日露戦争で真実はそうじゃないと分かり、反日に転じたという。安重根による伊藤博文暗殺の理由15カ条を自分なりに調べ、それぞれにスタンスを決めれば、全体のスタンスもおのずと方向が決まり、実際にこうした史跡に足を運んで自分の最後の気持ちを定めるのも方法である。
 後顧の憂いをなくすといっても、こうした社会や歴史や世界と関わっている問題はいつまでも引きずっていく重いものである。憂いはなくならない。

3)自分を含めて、私たちは関係の深い東アジアの国々の歴史をあまりにも知らない。
近い国のことを足蹴にして遠い西洋から学んだのが近現代の日本のやり方である。そのひずみがあちこちにむき出しになっきているのが現在の状況だと考える。

 それで何で今イギリス行なのか、疑問の向きもあろう。日本語教育が一つの外国語教育として、ほぼ100%外国語教育としての英語教育法の引き写しだからである。欧米では、教育一般にもことば教育にも社会構成主義(知の相対主義:教師の指導よりも学習者の自主的学習が強調される)が採りいれられている。

 欧米が船首を変えると日本も真似して変えたがる。なぜ日本独自の船首の据え方がないのか、船首をその方向に決めても、船体は急には曲がらない時、どうするのか、疑問だらけで渡航するので、斜に構えていくような感じになっている。スクーリング中にいっぱい質問しようと思う。学校の教授陣に嫌われるかもしれない、と思いつつ渡航する。何をそんなに気負うのか、と自分でも思うが、性分である。老いの原因の一つかもしれぬ。


イギリス渡航準備で老ける思い(1)手続き書類の煩雑さ

2010-09-02 08:54:02 | 身辺雑記
 三日後の9月5日から日本語教員養成コースのスクーリングと教育実習のため、イギリスに行く。教育実習が長くとれて充実してそうなので、申し込んだコースである。まだ先だ、まだ先だ、と思っていたが、日限は必ず来る。そして来てしまった。
 本当に充実できる教育実習になるかは、行ってみないことには分からない。
 行く間際になって、手続きの雑用が多いのに参った。もう十分老けているのにさらに老けが来たような感じにおそわれる。

 3カ月を超える期間の学生ビザ渡航であることが手続き煩雑・雑用増加の原因になっている。
 ①入学許可証
 ②学校からの手紙
 ③授業料納入済みの証明
 ④行き帰りのチケット予約証明などのほか
 ⑤預金の月次報告証明書または預金通帳(要するに留学するに足る財産があるかどうかの調査書)
 ⑥滞在先住所の証明など
を入国手続きの際、提示してビザ発行してもらうらしい。

 ①②⑥は学校が発行してくれたからそれを揃えればよい。③は振込票でよいと言われたが、2年前のことで紛失してしまった。①に納入済みの記述があるから良いと学校スタッフの説明である。④はチケット購入代理店の発行である。

 往生したのは⑤である。通帳など持って行きたくないから、取引のある銀行マンに頼んでみた。会社等であれば残高証明書といったものにはなじみがある。これなら銀行も英文で発行してくれると言っていた。が、残高証明書は駄目なのだそうである。
 学校事務局に月次報告書とは何なのかを聞いてみると、1ヶ月間の通帳の出入りが記入されているもので、英文に翻訳され、その翻訳証明書なるものも付けた形で用意するものらしかった。残高証明書はなぜダメかというと、残高の総額の証明だけだからである。証明書発行の直前に借金をして入金(収入)を装い、証明書の発行直後に借金を返すために引き下ろしてしまう可能性があり、それを避けるためだという。あくまでも人間性悪説に立つ書類の要求である。特に学生と偽って仕事を求めてくる移民を排除したいイギリスは厳しいのだそうである。6か月以上の留学生はもっといろいろ書類が要求されるようである。
 銀行ではこの月次報告書は英文では発行してくれない。邦文で発行してもらって、それを翻訳会社に頼んで英文にしてもらった。翻訳会社には翻訳料を払わなければならず、銀行にも手数料をとられた。
 そういう手続きのプロセスが、経験知にはなるけれども、いちいち厄介で、一気に老いてしまった感じがする。あぁ、留学なんぞ若いうちにするもんだとこういう時に思ってしまう。

ブログ記入を休んだ日々のアリバイ

2010-03-13 13:20:07 | 身辺雑記
 ブログ記入をほぼ9ヶ月間休んだ。その間のできごとを記入しておこう。このごろ、とみに物忘れする。それでも生きていたのだというアリバイは証明しておかないといけない。
1)一番時間を取られていたのは、本の執筆である。約6ヶ月かかった。特殊なフィールドなので、ここでは説明はしないでおこう。
そのあいだ、ブログには向かえなかった。どうも一つのことしかできない性格らしい。

 2)次に、日本語教師資格取得の420時間コースが修了した。少し不満が残った。どう指導したらいいのかという実践面でのことが不十分に終わった。模擬授業は3回行なった。教育実習というのも、4日間の海外実習というのと、ピアラーニングというグループ指導に7回係るというものをとった。もう少し、本物の教壇指導の参観などが許されていれば違ったと思うが、そういうことはできなかった。だから、日本語教育の資格がありますよと言われてもやれる気がしない。いままで日本語を、母語として聞いたり話したり、読んだり書いたりを自在に使ってきたと思っているが、それを外国人に「聞き話せるように指導し、読み書きができるように指導する」こととは別のことだということが分かっただけだ。もう一段の実践的な指導経験を踏む必要があるという課題が残された、と感じている。

 3)英語学習も再度はじめた。外国語をネイティブ並に使いこなせるようになるのは容易なことではない。学習を遅く始めた場合には、そうなるのはほとんど不可能である。だから子どものうちから早く始めるのがいいと説きまわっている。だからといってここでやめたのでは、化石化(ことば教育の中で言われている。ことば習得が完成の域に達しないまま、頓挫し、無駄になること)が進む。続けていれば、歩みは遅くとも少しは前に進むし、拙くともコミュニケーションの楽しみで脳の活性化は得られる。現在の私の課題は、10人内外のグループの話の流れに沿って入り、思いつきでない意見を言うことである。なかなかこれが難しい。話の筋を見極めながら、タイミングよく話の流れに割り込んで意見を言うのは、母語でも難しいのだから、英語ではなおさらである。しかし、それも場数である。経験を踏めばできるようになる。そう信じてトライしている。

 4)そして、このフィンランド行きである。突然、自分の身に起きた。どんな「エッ、そうなの?!」という予想外のできごとや考え方に出会うか楽しみである。昨夜、事前宅配を頼み、大きな荷物は空港までの運送を頼んだ。手荷物のパッキングも終わった。明日出発するだけである。寒いのが苦手なので、衣料の荷物が一杯になり、重くなってしまった。フィンランド関係の書物は持参を諦めた。わが事ながら、旅の無事を祈ろう。