goo blog サービス終了のお知らせ 

Snobist blog

Snobist Clubのブログエリアです。

ふつうの品格

2005-09-13 14:46:09 | Weblog
さすがにここまで放っておくと誰もアクセスしなくなるねヒヒヒ。とりあえず静かに書き込むことにしよう。ここしばらくの体調不良の付けか昨晩は下痢に悩まされる。ようよう起き上がって勝負をかける。昼から取材。帰りがけ、虎の子の某銀行の預金を引き出し(涙)証券に預ける。これも自己防衛の第一歩。数ヶ月の練習期間を経て勝負することにしよう。飯田橋に某手続きに出向く。蒸し暑いせいだろういつもガラガラのドトールが満席でやむを得ずファーストキッチンへ。この端末を開いて書き始めるが、隣の隣の席のおし三人が絶叫して五月蝿く、思わず注意したら反撃的な眼差しを向けられた。「おし」の変換がMS-IMEでは出てこない。唖、ですね。こういうことを書くと差別的といわれるのかもしれないが、この憤りは先日新宿高島屋の喫茶店でさして問題があるとは思えない店員さんの素行を論って己のアイデンティティを満喫していた汚れたおばさんたちへの憤りと変わらない。親戚には唖の従兄がいて奥さんも同様だが、公衆の面前で騒ぎ立てるような品のないことはせずに普通に生活を送っている。障害は差別の元とはならないが人間の品格は別問題だ。もっとも障害を持った人から品格を奪うような社会的風潮が往々にしてあることもこれまた事実であり、そこに注意を払われなければなるまい。仕事は一向に進まない。

5月15日の日記

2005-05-15 23:39:10 | Weblog
 5月もあっという間に半分が過ぎてしまう。まだ年度末に済ませておかなければならないことが済んでいなかったりするのだが、誰にも突っ込まれないのを良いことに放置したままで…(汗)。

 昨日は大相撲の本場所を見に行っていて、帰りに寄った両国駅前の居酒屋で居合わせたおじさんたちと相撲談義に花を咲かせた。その余波で、今日は朝から身体が重かった。昼過ぎに起きて、御徒町でラーメンを食べたのだがどうも身体のバランスが悪く、寝ても寝ても調子が出ない。

 おまけに、昼過ぎには天候も悪くなった。東京では2000年以来の雹が降ったり、代々木公園では落雷の余波でおじいさんが怪我をしたりしたらしいが、その天気のせいもあるのだろう、退潮が上向かない。上向かないままに、一日を終えつつある。

 実にテンションが下がっているなあ。仕事をやめて、大学に戻って勉強したいと思っている今日この頃。もっと若いうちに思い切って留学くらいしておくのだった。

ポスト核家族時代についてのメモ

2005-04-14 01:17:43 | Weblog
 核家族自体は遥か彼方の出来事だが、いまではその核家族から子どもが抜け、爺婆の高齢夫婦ばかりが残るようになってしまった。残された高齢夫婦も長い老後を過ごすために金がかかるし、子どものほうは容易に結婚しようとしない。かくして、往年の大家族制度時代にはあったに違いない、「家族生活から自然に学んでしまうライフビジョン」というものが、核家族で育った高齢夫婦からも子どもからも欠落してしまっている時代なのではないか、ということだ。

 例えば人が死んだとき、どう葬式をするか、そういう技術が核家族にはない。経済的な手続きや私的な手続き、例えば、通帳や保険証書が家のどこに保管されているのか誰も知らないということがありうる。親戚が集まった形見分けなどにしても、大家族であれば、それぞれの形見の品についての情報を知っている人がいるから、それなりに適正な分配が行われるわけだが、核家族であれば、まず親戚一同を呼んで、取材する(この着物はいつごろ着ていてそのとき母が何を話した等々の情報)ことから始めないといけない。

 もちろん核家族は大家族や共同体に所属していることに比して(本人の主観的な幸福度は別として)、失業や疾病といった事態に対するセーフティネットの意味合いでも脆弱だ。だから父権主義的な大家族制に戻すべしということではないが、このまま、核家族が核分裂を起こす事態が進行すれば、けっこうどこも大混乱に陥るのではないか、と思う。

 思索的には、家の中で誕生や老いを見なくなってしまったことが核家族の特質だと思っている。そのことによって、将来にわたる人生の見通しを持たない人が多くなってしまったのではないか。自分自身への反省もあるが、自分が歳をとったとは、体力的なことを除けばなかなか思えない。自分の人生の残り時間が減りつつあるという実感もいまいちだ。

 かつての大家族や共同体には自然に共有されていたそうした認識の仕方、知恵というものを回復する必要があるだろう、と思う。大家族の復活ということではなく、日常的に付き合う弁護士や税理士、あるいは金融関係のファイナンシャル・プランナーなどと契約しつつ、その役割を任せていくことになるのだろう。

 先日もここに書いたが、人がまあそれなりに頑張って生きていれば大過なく一生を終えられるためにはそういうことが必要になってくる。そういうのは面倒くさいからその日その日が楽しけりゃいいじゃん、という刹那的な考え方もありだけど、ちょっと僕は苦手だ。

4月13日の日記

2005-04-13 23:15:05 | Weblog
 昨晩、寝付いたのは午前3時ごろだったような気がするのですが、今日は6時起床。

 本庄早稲田まで行ってきました。それどこ?新幹線の、熊谷と高崎の間にある、在来線ともつながっていない淋しい駅でした。仕事がなければ、一生ここに行くことはなかったでしょう。何でも、凡そ一年前にできた新しい駅のようですが、ここに駅を誘致した地元団体が解散して駅舎建設予算も満足に出ていないのだそうなそりゃあ淋しいはずだわ。

 東京まで新幹線で50分という立地条件を生かして宅地・工場を分譲する計画もいまだ中途半端みたいで。ご愁傷様。悪くないアイデアで、僕だってこの当たりに週末用セカンドハウスがあったりしたらいいなあと思うのですが。そのまえに、結婚して家族計画を立てることですな。

 電車の中でニーチェを読んでいたら、昨日の混乱から少し脱した気分。それもどうかと。

帰りは、会社が経費節減の折新幹線代を出してくれないので何と熊谷から湘南新宿ラインで帰京。渋谷まで帰り着き、午後は虎ノ門で打ち合わせ。

 寒い上州に行ってきたからかもしれないが、身体が火照っていて少し風邪気味。

 帰宅後、仕事をしながら、将棋の名人戦ならびに野球を見る。そのあとのトリビアの泉は一匹狼の話で、なかなか面白かった。

国際舞台音痴アジア

2005-04-13 11:56:15 | Weblog
 ここ数日の、中韓の暴れっぷりは一応目にして。

 あのバス送迎つきデモはなあとか、これでたいしたことしない日本人は本当に偉いなあ、などといった右翼雑誌的な適当な感嘆はさて措く。気になることをちょっとだけ。

 革命エリートだった毛沢東、華国鋒、周恩来、小平、そしてその二世だった江沢民と違い、下町育ちで苦労人、西蔵への下放も経験し、今ではおそらく太子党(中共革命エリートの二世たち)の羨望と嫉妬の上で際どく現在の地位を保つほどの実力者・胡錦涛現国家主席が、安易に対日関係を悪化させるようなデモを扇動したとは思われないのである。ボンボン育ちの強みか欠点か、嫌日感を言葉の端々に漂わせていた江沢民と彼を同じに考えてはまずいだろう。

 同様に、明白に日本を見下していた唐家旋と、現在の外交部もちょっと違う。外交部は日本との関係を悪化させる政治的なアジテーションが必ずしも効果的でないことをわかっている。今回、町村外相に呼び出された王大使の「このようなことは目にしたくない」という発言は多分彼としてはギリギリである。何せ本国では「責任は全的に日本にある」と言っているのだから。賠償・保証を求める強気な態度は当然ながら、腹芸ではある程度の妥協を探ったほうがよい。

 外交とはそういうものである。多分。

 先日、盧大統領が日本に対して「外交的戦争」を布告したときも、ソウルの外交通商部は寝耳に水でひっくり返ったんだそうな。外交担当としては困ったことだろう。国内的には軟弱だといわれつつも、交渉を続けるのが外交官の務めであるが、それだけではない。

 ここで韓国が過激に反日手段に打って出てみても、国内的にはいいかもしれないが、国際的には幼稚園児が砂場で暴れているようにしか見えないことを、外交担当者はわかっているのではないか。中国もそれがわかっているから、必死になってデモの映像配信を食い止めている。あんな国で、まともな国際大会なんか開けるわけがない、と世界から見られることを避けようとしている。

 アジアの課題は、そこなのである。僕の感覚としても、おそらく実際としても、欧米人の多くはアジアのことなんて関心もなければ知識もない。アメリカの国会議員の半分以上はパスポートを持っていない、すなわち、アメリカの外に出たことがないのは極端な例だが、大方そんなところだ。経済的要因がなければ、アジアでオリンピックやワールドカップが開かれることもないのである。

 そんなところでアジアの国家が暴れても、「こいつら変」と思われるのが関の山だ。権力と情報を持っている欧米人に日常的に接触しているアジアの外交官たちはそれが分かっているはずだ。僕は日本が国連の常任理事国になるべきだ、とはあまり気が向かない話なのだが、その理由はおそらく、日本がそれなりの国際的地位を占めたいと思っているというよりは、そうした権力や情報の中枢に近づきたいのだろうし、中国としてはそれを防ぎたいのだろう。

 しかしそれが分からない連中が騒ぐとややこしい。中国で暴れている若者はほとんど外国に出たことがないだろうし、韓国に至っては、大統領が就任以前に一度も日本にきたことがないという極端な国際感覚の欠如を危惧させるものだった。

 そのアジアの立場を前提としてものを考えないといけあい。極端な言い方だが、日本も中国も韓国も、まだまだ現在の国際社会のなかでいっちょ前の国ではないのである。