トゥ・リアへの道 (HP準備用暫定ブログ)

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勝義諦と世俗諦 はまったく別のものか?

2007-10-16 03:30:37 | Weblog
どこぞですごく愚かな、愚かに極まることを言ってたので、勝義諦と世俗諦の二つを書きます。


もし仮に、「真我。またはそれのみが存在する絶対的な世界」だけしか存在しなかったならば、我々はどうなっていただろうか?

この場合、悪も罪も不幸も悲惨も(その逆のものも)発生する余地は全くない。ことになります。
何故なら、相対的な世界が存在しなければ、相対的事象(の範疇)である悪も罪も不幸も悲惨も有り得ないから。
(まあ、この段階で頭の良い人なら勝義諦と世俗諦のことにピンと来たりするものです。愚か極まる人はまだ善も悪も勝義諦と世俗諦も別々のものと思うことでしょう)

相対的な世界が存在しない場合、「絶対的な実在だけが在りて在る。世々常に在りつづける」という、人間の想像を遙かに超絶した世界だけが在ることになります。この状態では相対的な世界が無いのだから、相対的な区別すらもなく、物質的な生起すらもない。
この状態がどのようなものなのか、残念ながら人間の浅知恵で理解することは完全に不可能です。想像を絶しているので想像すらできませんw(ただし、マインドのもっとも奥底で疼くものを感じるとは思います。我々はその状態を知っていて忘れているから)

又、それを言語で正しく表現することも不可能です。但し、それについて、便宜上名称を付与することを先人たちは後につづく者たちのためにやっておいてくれました。
ヒンドゥ-教徒はこれをサンスクリットで「アカシャ」と呼び、日本を含んだ漢字文化圏の仏教徒はそのサンスクリットを訳して「虚空」と言いました。
また、中国では、万物の根源を「太極」と呼んだり「無」と呼んだりしました。

しかし、この状態だけでは満足できない「真我」は、自己の無限の深遠性と多様性を段階的に明らかにして楽しむために(密教で言う「自受法楽」カバラなどで言う、「神は自らの姿を見て自己を理解し自らの偉大さを楽しむために」)
自己を相対的な形で表現しようと意志し、「自性」としての自らの能力に基づき、自己の無限の創造力を発揮する。これにより、広大無辺にして「無自性」なる「相対的な世界」が無限に生起する。そうして絶対界と相対界の区別が生じることになる。

真我そのものである絶対的な世界は、時間と空間を超越した(人間の想像を絶した)状態で存在します。一方、相対的な世界は、時間と空間と共に有り、その限定枠の中で、一定の法則に従いながら(即ち人間の知恵の調べ得る範囲の中で)存在します。

大乗仏教では、この絶対的な世界と相対的な世界の区別を「勝義諦と世俗諦」という言葉で表現します。
勝義諦は絶対的真理(真実)を意味し、世俗諦は相対的真理(真実)を意味する言葉です。
「諦」は「真理/真実」の意味です。
仏教には「空仮中の三諦」とか「苦集滅道の四諦」などの用例が有ります。また、「勝義」の「勝」は「すべてにまさっている」ことを表し、「義」は「意義・内実」を表すので、「勝義」で「至上の意味内実」という意味。
よって、「勝義諦」とは 「最高の真理・究極の真理・絶対の真理」つまり、世俗を超越した「究極至上の真実在」を指す言葉です。実相」などの言葉と同義の言葉です。

一方、「世俗諦」の「世俗」は、説明することもなく俗界・世間の意味です。「世俗諦」は、俗界における「真理/真実」の意味になります。しかし、これでは非常に漠然としていて、その内実が掴めない。もう少し明確に概念範囲を確定する必要が有ります。
仏教・密教の中で、世俗諦という言葉の用例を見ると、最狭義から最広義まで、主に三種の意味で使用されていることが分かります。
最狭義の世俗諦は、釈迦牟尼の説法が言語化されたものを指します。具体的には「原始仏教経典」だけを「世俗諦」と言う。「勝義諦」ではありません。釈迦牟尼の言葉もまたまた「世俗諦」なのです。また、釈迦牟尼只一人の言葉に限定せず、これをもう少し広げて「諸仏・諸如来の言葉」も「真理の言葉」であるから「世俗諦」に含む、とする解釈も存在します。
このように、少し広げた意味の「世俗諦」の場合には、「原始仏典」のみならず、「大乗仏典・密教経典」も世俗諦に含まれることになります。

以上が、割と浅い、「世俗諦」の解釈です。


普通の仏教徒は「世俗諦」をこれ以上広義に解することができないものです。何故なら、彼ら仏教徒からすると、「世俗諦」という概念自体が仏教独自のものである以上、世俗諦の概念範囲は仏教教義に限らる、つまり、他の宗教の教義などは世俗諦に含まれない、という思考にならざる得ません。
しかし、「真の菩薩としての大乗仏教徒」になると、「世俗諦」をもっと遙に広い意味に解します。
例えば、ナ-ガルジュナ(龍樹菩薩)は、その著書「中論」で「諸仏の説法は二諦に依る。即ち、勝義諦と世俗諦である」(第八偈)と説き、そうして、真理の在り方の二態様、即ち「真理の絶対的存在様式と真理の相対的存在様式」について指摘しています。

ナ-ガルジュナのこの言葉は、偏見の無い最広義の世俗諦の解釈であると思います。彼の言葉によれば、「世俗諦」という概念は「真理の相対的な存在態様の総て」を指します。
そうすると、記号による「真」なる命題表現は全部「世俗諦」ということになり、仏教のみならず、ヨーガや他の諸宗教の教義であっても、それが「真なる命題」の表現であれば、それらは総て世俗諦に含まれることになる。そればかりか、科学的・学術的発見による「真なる命題」も総て世俗諦に含まれることになります。また、宗教以外の一般的な社会的法規範の中でも、霊的法則に合致した法規は総て世俗諦に含まれることになります。
このように理解すると、「世俗諦」概念は、一気に総ての真なる「命題・言説・規範」を指すことになます。

また、「最大広義の世俗諦概念」からすると、「相対的な世界の真理/真実」は総て世俗諦概念に含まれることになります。
つまり、「相対的な世界に生起する現象」を総て「自性の無いもの」と観て、それらは「常恒ではない無常なるもの」であり、よって「仮象」に過ぎないと観想する。
すると、相対的な世界の中の「存在物や諸現象」はどれも「一種の記号」と見ることができる(これは中国のタオイズムの「全ては陰陽の複雑な帰結に過ぎない。」を思わせる。また現代的に言えば0と1との組み合わせ)
このように観ると、相対的な世界の「諸法」は、総て「相対的真実」を表す「真なる記号」であるという理解になります。
従って、「真なる記号」としての「相対界の真理/真実」は総て「世俗諦」に含まれる、ということになります(善も悪も。ゆえにこそ善も悪も無い。なぜならそれは世俗諦という真実の中の構成要素だから)

このように、「世俗諦」を「最広義」に解する場合、「諦」は「真理」の意味から「真実」の意味へと暗黙の変化しています。「諦」を「真理」よりも広義の概念である「真実」即ち「相対界のリアリティ-」として捉えているのです。
(ちなみに空海は、密教の立場から「声字実相義」で、相対的な世界の存在物と諸現象を一種の記号(=音声と文字)と見る見解を取っているので、最広義の世俗諦を認容する立場です)

なお、密教は、唯一絶対の大日如来を想定するので、如何なる真理(真実)であれ、真理(真実)であればそれは唯一絶対の大日如来の言葉(又は自己表現)と見る。よって、たとえ世俗諦を大日如来の言葉だけに限定する立場を採ったとしても、世俗諦には、全宗教・全科学・全法規範の真なる言説総てが含まれ、そればかりか相対界の存在物と「真」なる現象が総て含まれる、となるはずです。

また、チャンドラキ-ルティ(月称)も、自著「入中論」の自注で、「総てのもの(=諸法)の二種類の本質が示された。世俗(諦)と勝義(諦)である」として、壺や布切れ等の物質的存在(=諸法)は、世俗諦としての側面を持つ、と解しているので、最広義の世俗諦を認容する立場です。
その他、「学集論」「父子合集経」に「知識の対象は世俗諦と勝義諦に尽きる」とあるし、「聖説真実三昧経」に「世俗(諦)と勝義(諦)であり、第三の諦は全く無い」とある。これらの立場からは、世俗諦を最広義に解する外ないものです。

しかしながら、世俗諦は、狭義に解しても、広義に解しても、所詮相対的な世界に属するものです。
それ故、相対的な世界自体には「自性が無い」と洞察し、相対的な世界を生起と消滅を繰り返す無常なものと見れば「無常な相対的な世界=仮象=記号的表現世界=諸法=世俗諦」は全部『戯論』に過ぎないと一刀両断、否定する見方も可能です。
しかし、この手法を愚か者が闇雲に使うと、不必要な部分にまで手加減無しに否定否定と鉈を振り回し過ぎることになり、大いなる弊害が生じてしまうことなりかねません。



昨夜の続き


そもそも、相対的な世界はそれ自体単独で発生したものではありません(単独で発生できないのはそれは「縁起」の世界であるから。「無自性」の世界であるから。ここまで書くとオウムや日本仏教・現在の仏教界の「縁起の法」の解釈に間違いがあると気が付く人もいるのではないでしょうか?「縁」に依って成り立つ世界であるが故に単独発生不可能な世界。だから「相対的な世界」は「絶対的な世界」の存在なくして存在できません。これはサムサーラ=ニルヴァーナに繋がる根拠にもなります)

「自性の有るもの(=真我)」がそれを生起させ、それを支えているからこそ、相対的な世界は存続しているのです。
つまり、「自性の有るもの(真我)」が相対的な世界の諸法を維持することを止めたならば、それらは消滅する。それ故に、相対的な世界は総て無常である。この無常なる相対的な世界は「絶対的な世界」無しには存在できない。
つまり、相対的な世界は絶対的な世界との混成体」なのです。これが「森羅万象は真と非真の混成体」ということの意味です。
絶対的な世界(=真)と相対的な世界(=非真)の二つの世界は、密接不可分の関係にあるということです。
(絶対的な世界は「真」でしか有り得ない。これは絶対命題です。それとの対比では、相対的な世界は「非真」ということになります。すると当然、「世俗諦も非真(=戯論)」ということになってしまう。
それ故、オウムの浅知恵な成就者もどきや一部の仏教徒は「釈迦牟尼の教えの真髄は勝義諦(真理)の方に有る」と主張して、「勝義諦(真理)」だけを重視して「世俗諦を軽視する」愚を犯してしまう。
中には(世俗諦という名称の故に)「世俗からの超脱こそが仏教なり」と思い込み、「世俗諦である相対的真理」を完全に無視する愚か者の極み、即ちオウムの成就者もどきや麻原のようなキチガイが出てきてしまいます。
真の意味で道を志す者は、こうしたことに陥らないよう、智慧とバランス感覚を良く働かせて、相対的な真理(相対的真実)を「真」として認めて行く見方の重要性を肝に銘じておくべきでしょう。

ここで注意すべき点は、相対的な世界と絶対的な世界の関係を某三下師のような間違った理解をしてはいけないということです。
二つの世界の関係性を「真と非真の混成体」と表現した場合、この二分法を、「豆腐を二分する」ような切り分けで理解してはいけない。(相対的なパターンの思考しかできない場合、どうしても単純な物質的切り分けで考えに陥ってしまう)
ここで、瞑想を深く習集する者は世界の実相を深く洞察することで次のことが見えて来きます。
 
我々のこの世界(相対的な世界)の相対性には、浅深濃淡の差異が存在する(こういうのを世俗諦と言います)

つまり、絶対的な世界と相対的な世界の区分を「国境線」の如く単純に二分して線引きすることは不可能であるし、大間違いです。そんなハッキリした線引きなど見たことも無いし、存在した話を聞いたこともありません。

絶対的な界から投射され生起した相対的な世界は、希薄な相対性から明白な物質的相対性へと多層的・多重的に変移している。これが実相(世俗諦)です。
つまり、絶対的な世界に近づけば近づくほど、相対的な世界の相対性が希薄になって普遍性が増大して行き、それに比例して相対的な区別もぼやけて曖昧になって行く。というこです。
(これは宇宙物理学における「全宇宙の大統一理論」にも当て嵌まることです。その辺調べると面白いですよ)
 
以上のように、(絶対的な世界・相対的な世界)二つの世界を「相対性に濃淡の有る(玉葱の皮のような)多層構造」だと観る「中観」の視点からすると、当然、「勝義諦と世俗諦」という仏教の二分法も、国境線を引くような単純な物質的二分法で理解してはならないことになります。
つまり「世俗諦」である「諸法」の「相対性」が希薄になって行くその極北に「勝義諦」が有るので、「世俗諦と勝義諦」は繋がっていて不可分である。また、それ故に、世俗諦は勝義諦の「相対的表現」であるということです。そして、このように認識する者は、「世俗諦」を軽視する愚か極まるかのオウム系成就者もどきの如き混乱思考に陥ることはありません。
 
 

草稿中

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7 コメント

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わかり易い。 (篠澤教授に三千点)
2007-10-16 10:12:32
理治さんの書き込みよりずっと。
友達だけど、理治さん。
返信する
読み応えあり (白龍)
2007-10-16 11:48:04
勝義諦と世俗諦に関するお話は、なかなか読み応えがあり勉強になります。^^

私は、ヒンドゥー的な世界観が好きなせいか、

>『しかし、この状態だけでは満足できない「真我」は、自己の無限の深遠性と多様性を段階的に明らかにして楽しむために(密教で言う「自受法楽」カバラなどで言う、「神は自らの姿を見て自己を理解し自らの偉大さを楽しむために」)
自己を相対的な形で表現しようと意志し、「自性」としての自らの能力に基づき、自己の無限の創造力を発揮する。これにより、広大無辺にして「無自性」なる「相対的な世界」が無限に生起する。そうして絶対界と相対界の区別が生じることになる。』

このような、壮大な世界観が好きですね。
検証は、解脱という形でしか出来ないところが難点ですけど・・。
返信する
あそこでは、 (yasu)
2007-10-16 13:05:52
>どこぞですごく愚かな、
>愚かに極まることを言ってたので、
>勝義諦と世俗諦の二つを書きます。


オンフルール板常連では、書いているのは、
あべるさん(=不悪口言うさん)と、
篠澤教授に三千点さんと、
わたし(=お金が貯まっているぞ)だけになってしまいましたね。


返信する
白龍さん (シヴァの喜びだった者)
2007-10-20 04:19:55
>検証は、解脱という形でしか出来ないところが難点ですけど・・。


確かに。
でも、瞑想をある程度進めているとこの辺りは解脱しなくてもある程度理解が生じてきますよ。
返信する
シヴァの喜びだった者さん (白龍)
2007-11-04 23:27:38
亀レスで失礼します。^^

>でも、瞑想をある程度進めているとこの辺りは解脱し>なくてもある程度理解が生じてきますよ。

そういうものなんですか・・。

そこで、久々に質問させていただきます。

絶対的な状態にある真我が、何故にその状態に満足しないで、
相対世界を現出させるのだろうかという疑問があります。

シヴァの喜びだった者さんの説明だと、
「自己の無限の深遠性と多様性を段階的に明らかにして楽しむため」
ということになりますが、
これは、よく言われるリーラというものなのでしょうか?

リーラだとしても、絶対的状態から、
相対を現出させるエネルギーとは、何なのでしょう?

いわゆる「大いなる意思」みたいなものなのでしょうか?
まあこの場合、「大いなる意思」=「自性の意思」ということになるのだと思いますが。

例えば、サマディで、外界意識も自意識もなくしている状態から、
現象世界へ意識を戻す時は、なんらかの意思が作用しているものなのでしょうか?
返信する
Unknown (シヴァの喜びだった者)
2007-11-05 23:57:11
>そういうものなんですか・・。


叡智の世界とのコネクトが強まってきたら理解ができるようになります^^



>絶対的な状態にある真我が、何故にその状態に満足しないで、
相対世界を現出させるのだろうかという疑問があります。

>シヴァの喜びだった者さんの説明だと、
「自己の無限の深遠性と多様性を段階的に明らかにして楽しむため」
ということになりますが、
これは、よく言われるリーラというものなのでしょうか?


リーラだと思いますし、仏教的には「無知」と表現されているものだと思います。

真我自身も自分の絶対状態を確認するために(楽しむために)は「そうではない状態」を創り出さなくてはなりません。
絶対状態の中にいる間は絶対ですから、「確認」も「楽しむ」こともできません。それらは「そうでない状態」を知っているから、あるいはそこにいるから観察できることなのです。
つまり、満足の(そうであることを確認する)ために非満足状態を擬似的に作り上げる必要があるのです(といっても真我はそれ自体が絶対的状態なので実は非満足状態にはなれない。それに為るためには「自らが絶対状態であること」を忘れないといけない。つまり、「無知」のエネルギーを活用して「積極的に忘れ」ているわけです。しかも、「忘れていることを忘れている」状態。これが生きとし生けるものの現状です。


>リーラだとしても、絶対的状態から、
相対を現出させるエネルギーとは、何なのでしょう?

>いわゆる「大いなる意思」みたいなものなのでしょうか?
まあこの場合、「大いなる意思」=「自性の意思」ということになるのだと思いますが。


真我こそは全ての第一原因とヨーガは教えます。
これこそは宇宙そのもので神そのものなので、彼が「私は自身を経験したい。自身の神性を経験したい。そのために○○が必要だ」と考えた瞬間に相対世界が生じました。
即ち、

相対が生じ(A(私)からB(他)という2点。あるは複数点。)そこを移動するために時間と空間という経験のツールが生じ、そこから全ては発生しています。
つまり、彼が望むものの全てがこの世にはあるということです。
非真実からしか真実は生まれない。
泥の中にしか黄金はない。
無からしか有は生じない(何もない空間なんて実は存在しません。ヨーガ的には全宇宙に絶対者ブラフマン=真我が浸透しているから)


>例えば、サマディで、外界意識も自意識もなくしている状態から、
現象世界へ意識を戻す時は、なんらかの意思が作用しているものなのでしょうか?


そこはサマディを経験するしかないですね^^
返信する
シヴァの喜びだった者さん (白龍)
2007-11-06 01:48:35
回答ありがとうございます。

>『絶対状態の中にいる間は絶対ですから、「確認」も「楽しむ」こともできません。それらは「そうでない状態」を知っているから、あるいはそこにいるから観察できることなのです。
つまり、満足の(そうであることを確認する)ために非満足状態を擬似的に作り上げる必要があるのです(といっても真我はそれ自体が絶対的状態なので実は非満足状態にはなれない。それに為るためには「自らが絶対状態であること」を忘れないといけない。つまり、「無知」のエネルギーを活用して「積極的に忘れ」ているわけです。しかも、「忘れていることを忘れている」状態。これが生きとし生けるものの現状です。』

なるほどねえ。
我々は、自ら無知のエネルギーを用いて、
本来の自分を忘れさせている状態なんだ。
そして、その忘れさせたことも、忘れている状態なのか・・。
う~ん、なんか久々に胸落ちさせられる回答ですな。^^

この場合、無知のエネルギー=タマスのエネルギーということで良いですか?

オウムでも、真我に関して、このような回答をしてくれれば、
疑問が残らなかったんですけどね。^^

オウムの教義では、真我に3グナが干渉し、
そのダイナミックなエネルギーに巻き込まれて、
この宇宙が、創造されるということだったと思いますが、
なぜ、完全な状態の真我が、3グナの干渉に巻き込まれるのか、ずっと疑問でした。

オウムの教義を学んでいると、
3グナのエネルギーは、外部に存在し、
真我に干渉するというようなイメージを持ってしまいますが、
3グナのエネルギーは、元々真我に属するエネルギーということになるのでしょうか?

>『真我こそは全ての第一原因とヨーガは教えます。
これこそは宇宙そのもので神そのものなので、彼が「私は自身を経験したい。自身の神性を経験したい。そのために○○が必要だ」と考えた瞬間に相対世界が生じました。』

ビックバーンとともに、世界が瞬時に出来上がったという感じですかね。

>非真実からしか真実は生まれない。
>泥の中にしか黄金はない。

ちょっとこの意味が良く分からないのですが・・。
我々は、相対世界を通してしか、絶対世界を見出すことが出来ないということを言いたいのでしょうか?

しかし、相対世界をさまよい続けるだけでも、
絶対世界に触れることはできないという側面もありますよね?

本来の絶対存在を知り、楽しむのことが真我の目的だとすれば、
我々は、自らの魂の深い意識の中に、
絶対に向かうようなプログラムを、刻み込んでおり、
時が至れば、そのような方向へと、導かれるということになるんでしょうかね?

>無からしか有は生じない(何もない空間なんて実は存在しません。ヨーガ的には全宇宙に絶対者ブラフマン=真我が浸透しているから)

これは理解できます。
返信する