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貴志康一のヴァイオリン独奏曲「水夫の歌」

2016年06月07日 18時34分26秒 | 雑感
貴志康一は旧制甲南高校出身で、戦前に活躍した夭折の天才音楽家と言われている。

ウィキペディア参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E5%BF%97%E5%BA%B7%E4%B8%80

この程、甲南大学文化会交響楽団有志によって設立された「貴志康一楽友協会」でこの曲を一管編成の室内管弦楽団で演奏することになり、幾度かのリハーサルをしたのだが、じつに面白い。

譜面はその一部であるが、付点のリズムがブルージーなコードにのっかっている。

貴志康一氏の作品に対しては、思いのあるメンバーが多く、このリズムの扱いにはさまざまな見解が示され、議論が活発になった。

1、貴志康一氏のドイツへの傾倒(戦前、ドイツへ出向き、ベルリンフィルで自作を演奏している)を理由に、譜面通りに正しく演奏すべきとの説、

2、戦前日本の音楽界の状況(そもそも西洋楽器の演奏会が極端に少なく、プロはジャズでも演歌でもカッポレでもベートベンでも何でもやった)(道頓堀がジャズのメッカであった)を鑑み、引きずるような三連譜でやるという説。

「案ずるより産むが易し」で、リハーサルでは「とても気持ちのいいプレイ」を聴かせてくださったトロンボーンの大先輩に触発され、音楽は自然にブルージーなムードに染まっていった。

「楽譜に忠実に」というのは演奏家の努めであり、最低限のビートや、音程、リズムはもちろんきちんと合わせるべきである。

しかし、その一歩先の世界では人間の「感性」や「あいまいさ」も音楽の味付けとなると思う。

コンピューターに打ち込めばすぐに正しい音は正しい音程とリズムで演奏できるの時代になっても、演奏家という職業が必要なのがその一番の理由だ。

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