広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより20年1月用

「読む会」だより(20年1月用)  文責IZ

 (前回の議論など)
・12月に行われた「読む会」では、流通手段としての貨幣と支払い手段としての貨幣の違いについて検討しました。
 質問として出たのは、支払い手段としての貨幣は、流通手段と違って“生身”のつまり「金」として出動しなければならないと、便り12月用で述べられている点についてでした。
 『資本論』では一般的恐慌の一段階としての貨幣恐慌に関連して、「貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から固い貨幣に一変する。それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。……恐慌の時には、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがってまた、そこでは貨幣の現象形態が何であろうと構わない。支払いに用いられるのが何であろうと、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に変わりはない」(全集版P180)等と述べられているが、支払い手段が銀行券のような価値の章標でも置き換えられるというのなら、“生身”で出動しなければならないということにならないのではないか、という質問でした。
 当日は時間切れで十分説明できませんでしたが、おおよそ以下のようなことだと思います。
 ここで言われている信用貨幣というのは、金との兌換が可能だということが想定されており、価値章標とはいっても無価値な紙幣のようなものが想定されているわけではありません。流通手段としての貨幣の場合には、継続的・連続的な商品の形態転換が想定されているので、流通が必要とする最低限度の貨幣の量は、計算貨幣=価値尺度として機能するだけでよく、したがって無価値な紙幣などで置き換えることが可能でした。しかし支払い手段としての貨幣においては、すでに譲渡された商品の対価の支払であり、連続した商品の形態転換を想定するものではないので、価値として社会的に認められた貨幣の形態つまり“生身”の金か、あるいはそれと無条件で兌換しうる銀行券等しかその役割を果たせない、ということだと思われます。(なお、今回の「世界貨幣」の所で述べられているように、つねに“生身”の金銀が要求されるのは世界貨幣としての機能の場合であって、国内の流通・支払い手段の機能においては相殺されない支払の場合です。あまり正確ではありませんでした。)
 なお、先ほどの引用のなかで、「商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う」と言われているのは、一般的過剰生産が想定されているので、一定量を越えた商品はもはや使用価値として存在せず、したがって価値(社会的必要労働)としても無価値になっており、価値として存在するのは価値形態として認められた貨幣のみだ、ということと思われます。また「商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる」と言われているのは、商品は使用価値であると同時に価値すなわち社会的総労働の一部分の対象化なのですが、すでに譲渡された商品はその使用価値が認められておりしたがって価値としてその対価である貨幣をすなわちその商品の価値形態を引き続き要求するのに対して、これから譲渡されようとする商品はすでに使用価値ではなく、したがって価値でもなく価値形態を持ちえません(言いかえればすでに商品でない)。こうした中では、貨幣とは商品が自らを価値として表現するための材料(一般的等価物)でしかなかったのに、その貨幣のみが唯一価値をもつ商品(絶対的商品)として現れるという、矛盾のことを言っているのではないかと思われます。



 (説明) 第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」ⅽ「世界貨幣」

 『資本論』の世界貨幣の部分は量的にはわずかですが、管理通貨制度や為替切り下げ競争など現代的な意義に関連しているので、本文からは少し離れたことも触れていきたいと思います。

 『資本論』では世界貨幣の意義や機能について次のように触れられています。
(1)「国内流通部面から外に出るときには、貨幣は価格の度量標準や鋳貨や補助化や価値章標という国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。@
世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。したがってまた、ここでは諸商品にたいしてそれらの独立の価値姿態も世界貨幣として相対する。世界市場ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる。」(全集版 P186)
(2)「世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般の絶対的社会的物質化として機能する。支払手段としての機能は、国際的貸借の決済のために、他の機能に優越する。それだからこそ、重商主義の標語──貿易差額! 金銀が国際的な購買手段として役だつのは、主に、諸国間の物質代謝の従来の均衡が突然かく乱されるときである。最後に、富の絶対的社会的物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく<つまり国際貿易などではなく……レポータ>、一国から他国への富の移転が行われる場合であり、しかも商品形態でのこの移転が商品市場の景気変動や所期の目的そのものによって排除されている場合である。」(同、P187)

(金地金という物質的な形態こそが貨幣の最も本源的な形態である)
 (2)で触れられているように、世界貨幣においては、国内流通と異なり貨幣は、流通手段としてではなくて、まず第一に一般的購買手段として機能します。というのは、国際流通においては、普通の商品交換(交易)が順調に進行しているかぎりでは支払には外国為替が利用され、、戦争のための武器調達とか、飢饉による食料調達といった特別の場合に、金は、無制約に商品を購買することのできる一般的購買手段として機能することになります。第二に、世界貨幣である金は国際収支の差額決済のための支払手段(金現送)およびそのための準備金(いわゆる金準備)として機能します。最後にそれは、絶対的な社会的富一般(普遍的な富)として機能し、交易における買いにも支払いにも関するところのない富の他国への一方的な移動の手段となります。戦争のための借金とか賠償金の支払い、資本投資、兌換の再開などの場合です。

 ここで注意すべきことは、マルクスが貨幣の第3番目の機能と呼んだ「貨幣としての貨幣」とは、貨幣の価値尺度機能と流通手段機能とに対置されたものですが、金地金という物質的な形態こそが貨幣の最も本源的な形態であって、後2者の機能はその特殊化にすぎないということでしょう。少し長くなりますが、世界貨幣の理解にとって重要なので『批判要綱』での指摘を引用しておきましょう。
・「国際的交換手段および支払い手段として役だつという貨幣の規定は、実際には貨幣一般、一般的等価物──したがってまた蓄蔵貨幣でもあり、支払手段でもあるという規定に、さらにつけ加わる新たな規定では決してない。一般的等価という規定のなかには、貨幣が世界鋳貨<世界貨幣=金地金>として真にはじめて実現される一般的商品としての概念規定が含まれている。金と銀とが一般に貨幣として現れるのは、まず国際的支払手段および交換手段としてであり、そして金銀の一般的商品としての概念が抽象されるのは、金銀のこの現象からなのである。……尺度であり、流通手段であることは、貨幣の諸機能であるが、これらの機能の遂行にあたり、貨幣は、これらの機能が後になって独立化することによって、特殊な存在諸形態を受け取るようになる。
鋳貨をとろう、すなわち鋳貨<流通手段>は、最初は金の一定した重量部分にほかならない。スタンプがそれに重量の保証と命令者として加えられるが、まだそれで何も変化は起こらない。価値の型式すなわち告示であるスタンプは──価値の章標、象徴を独立化させるが──、流通自身の機構によって、形態に代わって実体となる。ここに国家の干渉が始まる。なぜならこうした章標は、社会の独立した権力によって、国家によって保証されていなければならないからである。だが実際には、貨幣が流通のうちで役割を演ずるのは、貨幣としてであり、金銀としてである。つまり鋳貨<流通手段>であることは、まず貨幣の単なる機能なのである。この機能において、貨幣は自己を特殊化するのであって、純粋な価値章標<紙幣等>まで自己を昇華することが可能であるが、この価値章標はそのようなものとして、法律上の、そして法律上矯正可能の認知を必要とする。
……したがって実際には、国際的交換手段<購買手段>および支払い手段としての貨幣の形態は、貨幣の何ら特殊な形態ではなくて、貨幣としての貨幣の一つの応用であるにすぎない。つまり貨幣としての、尺度と流通手段の統一としてのその簡単で同時に具体的な形態で、もっとも鮮やかに機能し、尺度としてしか、流通手段としてしか、そのどちらか一方として機能するのでないところの貨幣の諸機能であるにすぎない。それは貨幣の最も本源的な形態である。この形態は、貨幣がいわゆる国内流通で、尺度と鋳貨<流通手段>としてとることができるところの特殊化と並んだ場合にだけ、特殊なものとして現れる」(大月版、5分冊P999)

価値尺度や流通手段としての貨幣と区別される、それらの統一としての貨幣、これこそが貨幣としての貨幣であり、世界貨幣はその代表です。どのような状況においても、どのような商品であっても無制約に購買することができるということは、すなわち一般的購買手段として機能するということは、金という物質的な形態(使用価値の形態)をもち、交換価値すなわち人間労働一般の独立した存在として機能する本源的な貨幣である金であってこそ可能です。それは観念的な形態<価値尺度機能>や代理<価値章標>ではなし得ない貨幣の機能なのです。
世界市場においては、貨幣は国民的な鋳貨として仮に現れるとしても、その内実は金重量です。(1)で触れられているように、そこでは貨幣は一切の地方的、民族的な衣装を脱ぎ捨てて本来の地金形態に戻ります。貨幣の本来の形態は、その名称や形状とはかかわりのない、ただ内実だけが問題となる地金形態であって、鋳貨<流通手段>や紙幣などの価値章標はただその国民的形態、国内流通の便宜のために国家が介入することで形成された貨幣形態、派生的な形態にすぎないのです。
 この違いは、のちに触れる国内流通と国際流通の分離という問題において重要な意味をもちます。

さて、このように国際流通では、貨幣は世界貨幣として本来の地金形態に戻るのですが、その意味は、人々の労働が世界的な規模で抽象的な人間的な労働に転化したということに他なりません。世界市場では、商品はその価値を世界的に展開しなければならないのであり、したがって、世界貨幣は人間労働一般の直接に社会的な実現形態として、世界中どこでも同じ物質形態をもつ金地金形態において、その価値を展開するのですが、そのことは実際には世界中の労働者・勤労者が世界貨幣金という絆で結ばれる(直接にではなく、まだまだ物象的な形においてではあれ)ということにほかなりません。
貨幣が世界貨幣としては、民族的な特定の諸形態を脱ぎ捨て金地金に戻るということは、商品生産とそれに含まれる価値=抽象的人間労働は国境をもたないばかりでなく、絶えず国境を越えて広がっていく本性をもつことを明らかにしているのです。商品の価値は、それが互いにどんな区別も持たない、抽象的、一般的人間労働であるからこそ、世界的に展開されていくのです。国際流通の発展と世界貨幣とは、世界中の労働者・勤労者の労働が、したがって人類が本質的に区別されることのない同一の種族であって、人類の世界的な結合と統一の可能性と必然性とを教えているのです。

(国内流通において貨幣が鋳貨や価値章標へ進化するにつれて、国家の介入と国際流通からの分離が生ずる)

国内流通と国際流通とは、相対的な独立性を保ちつつ手を携えて発展、深化してきたように、それらは事実上一体であり、ますます一体化しつつあります。しかしながらやはり、国際流通と国内流通とは概念的にも現実的にも別であることも見ておかなくてはなりません。
貨幣の国民的制服である鋳貨についてはすでに(1)で触れられていますが、国内流通と国際流通との分離について、『経済学批判』ではより詳しく次のように述べています。
・「価格の度量標準または鋳貨価格の単なる技術的発達と、さらに金地金の金鋳貨への外面的な変形とは、それだけで国家の干渉を招き、それによって国内流通が一般的商品流通からはっきり分離したのであるが、この分離は、鋳貨の価値標章への発展によって完成される。貨幣は、一般にただ国内流通の領域においてのみ独立しうるにすぎない。」(岩波文庫、P149)

国内において貨幣が鋳貨へと進化するにつれて、国家の介入が必然化し、このことによって国内流通と国際流通とのあいだに一定の分離をもたらすというのです。
貨幣は、本来地金として貨幣なのであって、国家がつけた名称や刻印によって貨幣なのではありません。だからこそ世界市場では貨幣は地金形態に復帰するのですが、貨幣が国家の介入によって鋳貨の形態をとるとともに国内流通は一般的国際的流通から分離し、この分離は価値章標(紙幣や紙幣化する信用貨幣)において「完成」されるというのです。
しかし、世界市場においては、貨幣は鋳貨としては現れず、反対に各国の鋳貨はその金重量すなわち金地金に戻ることによってはじめて貨幣として機能することになります。というのも世界国家という権力をもたない無政府的な世界市場では、価値の展開にたいする諸国家の介入はその限りで排除されるほかないからです。そこで、国家の干渉が、紙幣や紙幣化する信用貨幣の発行といった価値の章標、象徴の独立化にまで進み、各国がインフレや為替操作を可能とする手段を得るのなら、世界市場ではそれらの独立化した動きに干渉しうる権力は存在しないために、国家間の干渉は干渉を呼び、国家間の利害の対立、矛盾は拡大していくほかはありません。ここに現代資本主義ならびに管理通貨制度のもつ大きな矛盾があります。
言いかえれば資本が民族国家として総括されているかぎり、世界資本主義はあっても世界国家はありえません。資本主義は世界的であるとともに民族的であり、その階級支配とともに民族的限界を突破できないのです。

(世界貨幣の価値尺度機能について)
 さて最後に、現代の管理通貨制度や国家間の経済的な対立の問題を考えるうえで、世界貨幣の価値尺度機能とはどのようなものであるのかという理論的な問題が残っています。というのは、国際流通に現れる商品は、その価値を世界貨幣である金地金によって金何グラムといったように直接に表現しているわけではありません。例えば、まず円という民族的な価格形態で現れ、次いでそれがドルに価格換算されているにすぎないのです。金生産国を除けば、世界貨幣である金地金が諸商品にたいして価値尺度機能を果たすのは、ただ各国の鋳貨の換算を通じてであり、この媒介によってです。国際流通に現れる商品は、それが生産された国内においてすでに価格をもっており、その価格が輸出される国の価格に換算されるだけなのですから、それはただ計算貨幣として機能しています。しかし外国為替について触れたように、国内流通と違って世界貨幣である金地金は、計算貨幣であるための価値尺度としての条件を、すなわち一般的交換手段として流通のなかを歩き回るという条件を欠いているのです。ここには解決されるべき理論的な問題があるのですが、チューターにはまだ手に負えない問題です。


(おわりに) 世界貨幣としての貨幣は、現代の資本主義にあっては直接には流通のなかには現れません。現代の資本主義は1971年のニクソンショック以来、金と通貨との交換を停止した異常な状態が続いているのです。しかし触れてきたように、世界貨幣を欠くということは、世界資本主義がその統一性の要石を欠いているということですから、私たちが目の当たりにしているように、そこでは世界のあらゆる経済関係が不安定となり、統一性を失い、国家間の矛盾対立が激化していくことだけは間違いありません。
(資料として別紙に金準備の大きさの歴史的な推移と、各国の保有量を挙げています。なお、金の用途別割合は08年現在およそ以下の通りです。貴金属宝石類 52%、中央銀行等準備 18%、投資目的 16%、産業用 12%等)

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