広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより22年6月用(6/19開催予定)

「読む会」だより(22年6月用)文責IZ

(5月の議論)
5月の「読む会」は15日に開催されました。(説明)のはじめにチューターから、第7章で言われれていることは、(2)で触れているように、利潤率(前貸し資本総額にたいする剰余価値の大きさ)ではなくて、可変資本(賃金=支払労働)にたいする剰余価値(不払労働)の大きさである剰余価値率として測られることで、労働“力”の搾取度ははじめて正確に測られるし、また“資本の価値増殖”が、ただ必要労働時間を越える剰余労働時間の吸収によって──言い換えれば生産の客観的な条件である生産手段(不変資本部分)を、ただ他人の労働を吸収するための手段とすることによって──行なわれる、ということを明確にしうる、ということであろう。しかし第5章「労働過程と価値増殖過程」、第6章「不変資本と可変資本」、第7章「剰余価値率」、第8章「労働日」、第9章「剰余価値率と剰余価値量」、という5つの章から成る第3篇「絶対的剰余価値の生産」のなかで、あるいは資本論全体のなかで剰余価値率がどう位置付けられているのかが、もうひとつピンと来なかった。それで(1)として、第7章で問題とされているのはどのようなことだろうか、という形でまとめようとしたが、あまりうまくはいかなかった、と説明がされました。
第7章全体のまとめである(1)の説明を先にするわけにはいかない、ということで説明が(2)のほうから行なわれた戸惑いもあってか、質問や意見はあまり出ませんでした。まとめ的なものはやはり最後に置くべきという反省をチューターはしています。


(説明)第7章「剰余価値率」の2回目──第2節「生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示」、第4節「剰余生産物」

(3.生産物に含まれる価値の諸成分は、生産物の比例配分的諸部分として概念的に表示しうる。しかし、このことは生産物そのものが物質的にも価値諸成分ごとに区別されているということを意味しない。)

第2節「生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示」において、マルクスは次のように触れています。
・「ここでわれわれは、資本家がどのようにして貨幣を資本にするかをわれわれに示した例に帰ろう。彼の紡績工の必要労働時間は6時間<したがって補填されるべき労働力の日価値=3シリング>、剰余労働も6時間<すなわち剰余価値=3シリング>、したがって労働力の搾取度<すなわち剰余価値率>は100%だった。
12時間労働日の生産物は、30シリング<旧価値24+新価値(3+3)>という価値のある20ポンドの糸である。この糸の価値の8/10(24シリング)だけは、消費された生産手段の価値がただ再現しただけのもの(20ポンドの綿花が20シリング、紡錘などが4シリング)によって形成されている。すなわち、不変資本から成っている。あとに残る2/10は、紡績過程中に生じた6シリングの新価値であって、その半分は前貸しされた労働力の日価値すなわち可変資本を補填し、あとの半分は3シリングの剰余価値を形成する。こうして、20ポンドの糸の総価値は次のように構成されている。
糸価値30シリング={c}24シリング+{v}3シリング+{m}3シリング
この総価値は20ポンドの糸という総生産物で表わされるのだから、いろいろな価値要素もまた生産物<であるこの20ポンドの糸>の比例配分的諸部分で表わされることができなければならない。」(全集版、P287)

この最後の部分で言わんとしていることは、少し後でこう触れられています。
・「紡績工の12時間労働は6シリングに対象化されるのだから、30シリングという糸価値には60労働時間が対象化されている。それは20ポンドの糸となって存在するのであるが、この糸の10分の8すなわち16ポンドは、紡績過程以前に過ぎ去った48労働時間の物質化、すなわち糸の生産手段に対象化された<48労働時間の>労働の物質化であり、これにたいして、この糸の10分の2すなわち4ポンドは、紡績過程そのもので支出された12時間労働の物質化である<と見なすことができる>。
われわれが前に見たように、糸の価値は、糸の生産中に生みだされた新価値と、すでに糸の生産手段のうちに前から存在していた価値との合計に等しい。今ここで示されたのは、生産物価値のうちの機能的または概念的に違った諸生産物<岩波文庫版では「構成諸部分」>は生産物そのものの比例配分的諸部分で表わしうる、ということである。」(同、P289)

要するに、一人の労働者をとって、30シリングの価値をもつ20ポンドの糸が、彼の12時間の1労働日の生産物であるとすれば、その生産物の価値である30シリングは、一方ではその生産条件となっていた生産手段の旧価値が再現した24シリング部分と、他方では彼がそれを用いて実際に労働することによってもたらされる新価値である6シリング部分(労働力の価値の補填分3+剰余価値3)という価値成分とに区別することができました。とすれば、これと同様に、生産物である20ポンドの糸も、生産手段がもっていた旧価値部分だけを代表する24/30=8/10すなわち16ポンドの糸と、可変資本部分だけを代表する3/30=1/10すなわち2ポンドの糸、そして剰余価値だけを代表する同じく3/30すなわち2ポンドの糸という、二つの新価値部分とに概念的に区別できるし、そのように区別することが有益だというのです。というのは、

・「このように生産物──生産過程の結果──が、ただ生産手段に含まれている労働または不変資本<の価値>部分だけを表わしている生産物量と、ただ生産過程でつけ加えられた必要労働または可変資本<の価値>部分だけを表わしているもう一つの生産物量と、ただ同じ過程でつけ加えられた剰余労働または剰余価値だけを表わしている最後の生産物量とに<概念的に>分かれるということは、のちにこれが複雑で未解決な諸問題に応用されるときにわかるように、簡単なことであると同時に重要なことでもある。
これまでわれわれは総生産物を12時間労働日の既成の結果として考察した。しかし、われわれはまたこの総生産物といっしょにその成立過程をたどりながら、しかもいくつかの部分生産物を<各価値部分を表示している>機能的に区別された生産物部分として示すこともできるのである。……じっさい、それは、ただ第一の方式<「総生産物を12時間労働日の既成の結果として考察」する方法>を、生産物の諸部分ができ上がって並んでいる空間から、それらが次々にできてくる時間<での表示>に翻訳したものにすぎない。……」(同、P290)

言うまでもありませんが、生産物そのものは、たとえたとえばその糸としての性質(使用価値)が諸部分に分割しても同一であるとしても、それらに含まれている価値の成分は、すなわち生産のために前提されており生産後もその価値量を生産物のなかに不変に保持する生産手段を代表する価値(支出労働)部分と、その生産において新たに支出されることで生産物の新たな価値を創出する、労働力の価値を補填する部分や剰余価値を代表する部分とに、物質的に区別されて存在している訳ではありません。しかしながら、後の第2巻の第3篇「社会的総資本の再生産と流通」などの分析においては、総生産物を概念的に区別して、それを機能的に異なる各価値成分を表示する諸部分の合計として考察することが重要になる、というのです。
先ほど触れたように、30シリングの価値をもつ生産物である20ポンドの糸は、それに含まれている価値成分ごとに、つまり24シリングの生産手段=不変資本の価値部分を代表する16ポンドの糸部分と、3シリングの労働力の価値=賃金部分=6時間の支払労働部分を補填する2ポンドの糸部分と、さらに資本家の懐に入る3シリングの剰余価値=6時間の不払い労働部分を代表する2ポンドの糸部分という、三つの部分に区別して認識することができます。このことは、たとえば私たち労働者がその賃金を、その一部分は食費部分であり他の一部分は光熱費部分である等々と区別するように、人々が日常的に行っている一つの観念的な操作ないし手続き(種々の物を相互に比較し、計量可能なものに置き換えるための同質化の手続き)であって、同質化が可能な限りでこの観念的な操作自体に不思議があるわけではありません。
しかし、生産物をその価値成分にしたがって比例配分的な諸部分に区別し、それらの価値成分を反映した生産物諸部分の合計で生産物の総価値を表示するという方法は、理論的な分析にとってに有益だとはいえ、「この方式は非常に粗雑な考え方を伴うことがある」(同前)とマルクスは注意しています。その一例が「シーニアの『最後の1時間』」であり、彼の論点は、第3節で詳しく取り上げられます。
そこでは、シーニアの生産物の価値成分(労働時間)への分解に対する曲解を、「専門家」あるいは「分析家」ならばむしろこう述べるべきだ、という形でマルクスの自論が披瀝されています。ここは、マルクス自身がこの第3篇「絶対的剰余価値の生産」のなかで“肝心なこと”は何であるかを示唆しているだろうと思われますので、次回詳しく取り上げたいと思います。(前回5月での予定と異なりますが、了承ください。)


(4.資本の下では、剰余生産物は、総生産物の残余として存在する自立化した富(使用価値)ではなくて、資本が生み出す剰余価値が一時的に身にまとういわば仮の姿でしかない。したがって資本の下での富の大きさは、総生産物から生産者が消費してしまう部分を差し引いた残余の生産物(使用価値)の絶対量で計られるのでなくて、生産者=労働者の必要労働部分を越える剰余労働部分の大きさという剰余価値の相対量によって計られる。言い換えれば、ここでは剰余生産物は社会的生産の直接の目的としてではなくて、ただ流通を介して剰余価値を取得することで資本が価値増殖するための手段として存在する。)

第4節「剰余生産物」は、以下に全文を示すように、注釈を除けば僅か二つのパラグラフしかありません。

・「生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では20ポンドの糸の1/10、すなわち2ポンドの糸)をわれわれは剰余生産物と呼ぶ。@
剰余価値率が、資本の総額に対する剰余価値の比率によってではなく、資本の可変的成分に対する剰余価値の比率によって規定されるように、剰余生産物の高さは、総生産物の残余に対するそれ<剰余生産物>の比率によってではなく、必要労働を表わしている生産物分に対する剰余生産物の比率によって規定される。@
剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、<資本主義にあっては>生産物の絶対量によってではなく剰余生産物の相対量によって富の高さは計られるのである(※注釈)。
必要労働と剰余労働との合計、すなわち労働者が自分の労働力の補填価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ──1労働日──をなしている。」(同、P299)

二つ目のパラグラフはこの章と、次の第8章との関連を示すいわゆる「移行規定」に当たりますので、事実上この節ではたった一つのことが言われているだけということになります。
資本主義の下では、剰余生産物といっても、それは従来の社会のように自立的な富としてそれの取得を社会的な生産の直接の目的や動機とするようなもの──全生産物のなかから生産者の消費する生産物を除いた残余の生産物によって非生産者を養い、社会が生み出せる余剰の物や時間を非生産者に集中するによって剰余生産物を直接に社会の発展のための元本とする──ではありません。ここでの剰余生産物は、あくまでそれを流通を介して剰余価値に転換し、再び資本価値として自らに再結合することを目的とし動機としている“主体”である資本価値の、一部分でありその過程的な一形態でしかないのです。以前から触れてきたように、資本主義における富は、単なる使用価値ではなくて同質な人間労働の対象化としての交換価値であって、この富の大きさ(高さ)は、その交換可能性の大きさという“量”的な違いにのみ依存します。だからこそそれは社会が必要とする使用価値の絶対量とは無縁な永遠の渇望として、必要労働の大きさを越える剰余労働の増大をひたすら追い求め、増進していくことを目的とも動機ともしていくほかありません。しかしながら、それと同時に、この富の大きさは、労働日の絶対的限界という独特な限界をもっているのであり、このために剰余労働部分の拡大ならびに必要労働部分の縮小という二つの方法──前者が絶対的剰余価値の取得方法であり、後者が資本主義に特有である相対的剰余価値の取得方法となる──においてこの目的を遂げていくことになる、と言われているのだと思われます。

ここでは注釈の部分は省略しますが、資本の下でもその富は諸使用価値である剰余生産物そのものだとすることは、こうした資本主義の歴史的な特性を無視することに他なりません。このために注釈のなかでは、ヤングの主張が「剰余生産物の狂信者」として非難されることになるように思われます。
なお、全集版の注釈「54への補足」でのトマス・ホプキンスの引用は、なぜか翻訳が分かりにくいものになっています。全集版で読まれる方への参考として、岩波文庫版でのこの注釈の翻訳を挙げておきます。
「『純所得を、それが労働階級に労働の可能性を与えるという理由から、労働階級にとって有利であると主張する強い傾向』があるのは奇妙である。『しかし、それが労働の可能性を与えるとしても、それが純所得であるからではないことは明らかである。』(……)」
(なお、なぜ第4節では、たった二つだけのパラグラフが一つの節として取り上げられているのか、は一つの謎ではあります。上述したようにそれは多分、剰余生産物といっても、資本主義の下では剰余価値の一形態としてのみ意義をもつからということのように思われます。)

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