終戦後から、ソ連の治世下で中学校などの授業が始まりました。私の居た
豊原工業学校も授業が始まりました。私は豊原を離れて、泊居に居たので、泊居商工学校に委託生として、そこで1年ほど授業を受けて、翌年の3月末に豊原の本校から先生が来て卒業証書を交付してくれました。それで私は豊原工業学校を卒業したことになりました。
卒寿後、直ぐに旧王子製紙工場に勤務しました。そこは、昔は日本の王子製紙工場でしたが,戦時中に製塩工場に作り替える途中でした。それを元の製紙工場に作り替えることになりました。工場長など幹部はソ連の人でしたが大部分の日本の幹部がその下で仕事をしました。
私は営繕部と言うところに勤めました。そこで製紙工場に作り変えるためにいろんな作業をしました。
ソ連の方針でしょうか,働かざるもの食うべからずと言う考えなのでしょうか,工場の日本の幹部の課長や係長たちの奥さんも、皆工場で働きました。仕事はいろいろありました。
営繕部では、1人の職長に私など仕事に慣れてない人が323人ついて1組でいろんな仕事をやりました。例えば3本煙突の真ん中にエレベーターを作ったりもしました。その煙突の上に登って下を見るのは、高所恐怖症の私にはとても怖かったが、それでも腹這いになって下を見たりしました。
営繕部の職場にもロシア人が23人来て私たちと一緒に仕事をしました。1人は溶接工で優秀で日本人も一目置いておりましたが,もう1人はちょっとちゃらんぽらんなところがあって,日本人の職長に支持されたことをうまくやらないで腹を立てた日本人が、丸太ん棒で追いかけたりして居りました。その職人が2〜3日休んだので、理由を聞いたら、チョロに入って居たそうです。ロシヤの一般人とチヨロマは、気安い関係な様です。チヨロマは牢屋の事です。
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